[scudelia:cinema] Magical Mystery Tour
八百萬神々之國
date:2005/05/03 to 06
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□□□いざ旅立ちのあした□□□
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□ひとくちに旅といっても人それぞれのスタイルがあるものだ。タケダの場合、概ね今回のような車で寝泊まりの旅か、さもなくばオートバイにテントを積んでのキャンプツーリングかのふた通 りになる。オートバイならば積載できる荷物に限界があるので所持する着替えや小道具の類を厳選する必要がある。そうしたところから旅はすでに始まっているのだ。一般 的に旅は荷物を極力減らして、、というのが世間のセオリーなのかもしれないが、車の旅となると状況は変わってくる。タケダはこの春の車の旅に出る場合、必要であろうと無かろうと出来るだけ多くの荷物を持っていく事にしている。着替えや靴はシュチュエイションに会わせて幾通 りも用意する、そして自炊時のための折り畳み式テーブルや椅子(それも安易なものではない)、そして保存食や食器の類に飲料水まで目一杯の荷物を積んでいく。それでいて“日常”だけは置いていく。 |
そこまで言っておいてなんなのだが、旅に出るときに絶対に必要なものというのは、実はそれほど無いのではないかと常々考えている。それは荷物やノウハウの事だけではない、時間やお金の準備すら本当は必要ない。ナビゲーションシステムなどはもってのほかだ。『心の旅路にナビはなし』とは誰かの格言。反対に何も準備がなければこそ、その旅が冒険に変わるのではないだろうか。
□写真は出発直前の愛車(ワゴンR:通称、ダヤンダヤン号)後部に見える丸い筒はシュラフ(寝袋)と暗幕。後部座席には毛布とか着替えとか諸々。後部座席の足元には飲料水やクーラーバックが置かれ食料庫になっている。 フロントガラスに差し込む朝日がまぶしい。 |
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宇野港行き四国フェリー
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船上にて、前方に直島
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何故に土佐の湯?
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□この旅立ちを祝福するかのような青空の下、ダヤンダヤン号は一路、香川県高松市へ向かっている。岡山へ渡るためのフェリーに乗るためだ。今時のことなので香川−岡山間の移動といえば瀬戸大橋を利用するのが一般 的なのかもしれないが、今回は船を使う。実はこの宇野へ渡る四国フェリーの料金は瀬戸大橋よりも格段に安いのが魅力。そのうえ四国パスポート(四国4県の観光課が毎年発行する小冊子。四国内の主立った観光地、宿泊施設、交通 機関で割引が受けられ、その範囲は極めて膨大。しかしながらあまりメジャーではない。)を利用してさらに割引が受けられる。そしてちょっとした船の旅というのも、なかなか風情があって非常によろしい。 □高松港を出て片道1時間、船上の旅人となる。船に揺られるといっても瀬戸内の海の穏やかなこと。甲板を渡る風が心地良い。季節がら鯉幟が船上にたなびいていた。う〜ん、究極の五月晴れ〜!っと背伸びをしながら海風を胸一杯に吸い込む。 |
□□□ときには夢二のように□□□
□フェリーが宇野に着いたのが午前10時ごろ。ダヤンダヤン号は一路、岡山県瀬戸内市を目指して国道をひた走る。瀬戸内市にある竹久夢二の生家、及びそこに再現された夢二のアトリエ兼住宅の少年山荘を訪れる為だ。 竹久夢二は明治から昭和にかけての近代芸術家の代表格。どことなくはかなげな面 長の女性像が特徴的でこれが夢二スタイルとも言える。一般的に夢二というと大正ロマンの代名詞になっている感があるのだが、タケダ的にはジャパニーズ・アールヌーボーと捉えている。 |
![]() 竹久夢二の生家 |
□何年か前に岡山を訪れた際に、岡山市にある夢二郷土美術館を訪れたことがある。その頃から同じ岡山県内に彼がアトリエ兼住宅として夢二自らが設計したといわれる東京の『少年山荘』が復元されていることは知っていた。その時は時間の都合で足を運ぶことができなく残念に思っていた。
夢二の生家が未だ当時の形のまま残っていることは驚きだが、画壇に登場してまもなく一世を風靡した夢二のことだ、彼の生前から保存の動きはあったのだろう。現在、この建物は一般 に公開され、いくらかの夢二作品の展示もしている。それでも当時のままの形が残され、公開のための手直しも極力抑えられている。これはとても良いことだ。鉄筋コンクリートで出来た大阪城天守閣は史跡とは呼びがたいからなぁ。 生家を出ると門前に夢二の散歩道とかかれた看板が立っている。美しい山河に囲まれたこの土地で過ごした夢二が少年期に目にしたものはどんなだっただろうと興味を引かれて矢印の示す方向に足を運んでみる。 |
、、、運んだことに、、後悔した。獣道のような細い山道をどんどん奥に入っていく。足元は悪いし、上からは何か変な虫が降ってくるしちょっとキツイ。そのうえサンダルだし。そうこうするうちに夢二の眠る場所が見えてきた。覆い被さるような緑の木漏れ日の下、夢二の墓は思いの外立派なものだった。僕らの他にももうひと組若者が訪れていた。夢二のファンには若者が多い。夢二は若者の感性に響きやすい。タケダも夢二と出会ったのは十代の頃で徳島に個展がまわってきたときなどには見に行ったものだ。その頃のタケダは今でもちゃんと胸の中にいるわけで、だからこそあれから十年以上たったけれどもこうしてまた夢二を訪ね歩いているのだろう。
この後も山道を歩き続けることとなり駐車場に戻ってきたときにはちょっとダウンしてしまっていた。 |
![]() 夢二の墓石 |
![]() 緑の中にひっそりと佇む少年山荘 |
□少年山荘は大正13年に東京府松沢村松原(現世田谷区松原)に夢二自らの設計により立てられたアトリエ。夢二の次男不二彦氏の協力を得て、この地に復元したものだ。「山静かにして太古に似たり。日の長きこと少年の如し」との詩から少年山荘は名付けられたという。 夢二ゆかりの地でタケダがもっとも行ってみたかったのがこの少年山荘だった。夢二を語るとき、ふたりの女性の名をなくしては語れない。まずは奥さんである“たまき”、そして夢二にとって永遠の女性“彦乃”。胸の病で彦乃を失い夢二は号泣狂乱する。この少年山荘に初めて立ち、ここは夢二にとって生きながらにして眠る墓所であったのではないだろうかと、、そう感じた。 |