夕陽のシナリオ

ホーム プロフィール フォトギャラリー 四国88ヶ所歩き遍路
徒然なるままに リンク集




徒然なるままに

極めて個人的なページ


 2006年12月27日(水)   年の瀬
12月に入って色づき始めたモミジだが、昨日の雨ですっかり落ちてしまった。それでも土を朱に染めて、きれいだよ、ありがとう。
 
1月3日までの、15日連続の勤務の真っ最中。毎日2時間から3時間の残業が続く郵便局の仕事。
それでも仕事が済んだ後の充足感はなんとも素晴らしいものがある。快感でさえある。本務の時の38年間のうち半分近く、貯金と保険の仕事に携わったが、新規契約を得ても、そんな気持ちにはなれなかった。
 
疲れた身体を風呂の湯に浸けると一日の出来事が走馬灯のように。それを打ち消すかのように、フーーッとため息を吐き、一日が終る。その一息で終ってしまう。

 2006年12月22日(金)   季節感
今年はカボチャを食べましたが、ユズの風呂ではなかった。妻が忘れた、らしい・・。
これから暮れも押し迫ると、炊事場、風呂場、トイレなどに重ね餅としめ縄が飾られる。
年末のあわただしい仕事で疲れた身体を湯に浸け、重ね餅を見つけると、「あぁ、もうこんな時期か」と感じたり、今年も大掃除は手伝うことが出来ないな、とも思ったり。
私の母には、例えば七草粥とか、季節折々の食べ物や行事の記憶がないが、戦後も落ち着いたとはいえ、物資窮乏(笑)の時期、責める気はもうとうない。
 
だからなんでもないことに、妻に感謝、こそすれ、ユズで責めたりはしないよ。(笑)

 2006年12月16日(土)   私のルーツ探し
サハリン(旧樺太)の搭路町、大正11年生まれの父は光昭という。祖父は善吉、祖母はツヤという名。樺太から出るときは、恵栖取(えすとり)町から船に乗ったことや、中学は「内地」の釧路中学(現・湖陵高校)に通い、柔道部に所属。下宿をしながら通っていた。その下宿先は児玉さんという郵便局勤めの父と、洋裁店(生徒が10人ほど居た)を営む母、そして同中学に通う一学年下の好(よしみ)さんの家庭教師をしていたらしい。
私の祖父は牧場を持っていた。後妻さんの子供(私からすれば叔母さん)も居て、慶子という名だったらしい。戦後のドサクサで離れ離れになって以来逢うことが無く、現在に至っている。
酒を飲んで機嫌の良いときしか話さない父の過去、それでも話しながら涙ぐむ時もあった。私にも断片的にしか記憶がなく、つなぎ合わせることが出来ないパズルを持っている。
今は年老いた父だが、時には母に怒鳴り散らす昔の姿を思い出すと、そうした過去を背負った、どうにも出来ない心の奥底の、例えようも無い辛さがあったんだろうと思う。
歩くこともままならない父を、「記憶の地」に連れて行ってあげることは出来ないけど、今しか聞けない、私しか聞いてやれない、ことを私が歳を重ねた今になって痛いほど知った。私が「私の血」のルーツを子供に伝えなければ誰が伝える。最近、そう感じるようになった。
 
残された時間には限りがある。今の父の姿を見ていて、そう思う。いつまでも居ると思うな、と。

 2006年11月26日(日)   土佐二十四万石博
高知市といの町との境の咥内坂を後ろ向き牽引で登るSL。
「土佐二十四万石博」のイベントの一環として、高知駅と須崎駅の間を、11月23日から26日までの間、一日一往復走った。
いくらNHK「功名ヶ辻」といえ、「一豊&千代号」とは・・。そうじゃなければ「竜馬号」か「アンパンマン号」って名前をつけたかな。
ありきたりのイベントや、莫大な宣伝費を使って、それでも観光客が集まれば、「土佐、高知」がメイジャーになれば良い、か?
多くの他県の人が言っているように、高知の素晴らしさはいくらでも落ちているではないか。
 
官製の、なんでもかんでも、の、言い換えれば一発芸人並の「貧しい」頭の中身が見えそうな「一豊&千代号」と思ってしまった。

 2006年11月13日(月)   人の死
「人の死」なんて大上段で構えて論じられるほど、自分は利口ではないが、これしか思い浮かばない。
 
友達の母が亡くなった。亡くなるまでの2ヶ月間は家族も大変だったろう。ベッドで暴れるので縛り付けたら、「まだ死んじゃぁせん。棺桶に入れんといて。」と叫んだそうである。死ぬ間際まで意識があったらしかったが、「川の向こうでお父さん(亡くなった夫)が呼びゆう」とかも言ったそうである。「死にとうない」とかも叫んだらしい。歳を取れば死ぬことに納得するのかな、とか、ボケれば死について麻痺するからいいかな、とも思ったりしたこともあった。でも、いくつになっても死は恐ろしいんだと。
生きたい、と望む人に死が来て、死にたいと思う人には死に切れない矛盾。自らの手で死に急ぐ人も居る。
こんな私でさえ(笑)、なんど死にたいと思ったことか。でも、今となれば何故死にたいと思ったか、そのことすら忘れている。時間が経てば悲しみも苦しみも全て、それと同時に残念なことに喜びも感激すら全て忘れ去る、そういうもんだ、と。
 
92歳が来ようとしている友達の母だが、15日がお葬式。
いくつになったとしても、死にたくない人に「たくさん生きたから充分だよ」なんてとても言えない。

 2006年11月8日(水)   パチンコ
スーパーに入るのに、隣のパチンコ店の駐車場内を通る。あぁ、今日もたくさんの車が入っている。中にはとんでもない位置にも止めている。今日は久しぶりに打ってみようかな、なんて思っても結局は入らない。
パチンコはおろかマージャン、競輪、競馬・・賭け事にはまったく興味が無い。
別にだからといって善人ぶるわけではない。そのお金があればジャズのCDを一枚でも買った方が、なんて思ってしまうだけの話。
それでも数年に一度は行くが、店を出ると「しもうた、しなきゃ良かった」などと悔しがる自分が居る。
マージャンも若い頃、キャバレーのバンドで音楽の「勉強」(笑)を兼ねて吹いていた頃、舞台の合間に教えてもらい、勝たせてもらったが、それっきり。競輪、競馬にも興味が無い。
ゴルフはちょっとそれらとは種類が違うが、10年ほど前に仕事の同僚と2度ほど行ったきり。どこが面白いといって全然面白くもない。(笑)芝生の上を歩くのが健康のため、だとか理由をつけるが、山道を歩くほうがよっぽど楽しいよ。
 
そのバンドの「勉強」をしていた時、前であられもない格好(笑)でダンスをしている女性に見とれて、フッと譜面に目を移すと、どこを行っているのやら、解らずに恥をかいたときもあった若い頃。
パチンコをするお金ももったいないと思うが、時間も。
ジャラジャラという音に、大切な耳までやられそうだよ。

 2006年11月2日(木)   知事選挙
昔自分がビデオカメラで撮ったのを見ていて、1991年の知事選挙があった。
橋本知事誕生の初めての選挙。がんじがらめのしがらみに鉄杭を打とうと、私も意気揚々としていた。
自宅近くに選挙カーが来るというので、前の家との間に「熱烈歓迎 ここは枝川知事通り」という大きな垂れ幕を掛けた。背広に着替えて来る人や、化粧をし直して来る人には笑ってしまったが、近くの人も20人を超える人たちが集まった。それに町内の演説会を企画した。後援会の人の勧める「小さな会場を満杯」案をケンカをしてでも断り、「守りの選挙をするな」と無謀にも町内一広い体育館での開催を企画。その際、まだ知事でもない人を壇上に上げる必要もなく、身近で見てもらうため、壇上からは当然降りてもらった。そうすることで広い会場も幾分埋まる。友達の農家からミカン箱のコンテナをたくさん集めて、その上に白い布を敷き、橋本候補はその上での演説となった。まさに手作り演説会。地元の「実力者」の演説よりも普通のおばさんの演説に私はこだわったが、それは吹ききれなかった。聴衆者の腰掛けも、放射線状に並べ、他の候補者のスパイ(笑)が見ても人数も数え切れないようにした。演説会の開会に4人でファンファーレもやった。当然私はTROMBONEを吹いた。そんな、どんどんアイディアを出した頃、15年前。
その知事選挙の前年から友達とやむなく政治に絡んで、名前だけの「実力者」といわれる頭の硬い人たちをハチャメチャな「理屈じゃない」行動をとり、反発された。若造に何が出来る、と言われた16年前。そうした人は、若い人のアイディアをなかなか受け入れようとはしないし、かえって潰そうとさえしているように。
 
若い人たちの考えを理解しないし、「力」で潰そうとすらした、その人たちの年齢に自分もなっている。
気をつけなければ、と。

 2006年10月26日(木)   うどん UDON'
映画「UDON」で、高松のうどんが評判。
有名な「谷川米穀店」で11時前に大盛りを2杯。
その足で、「宮武」にも行った。
ここではいつも、うどんにネギと自分でおろしたショウガを乗せ、しょうゆを掛けただけのうどんを食べるのだが、初めてひやひやうどんの大盛りを食べる。
12時前には食べ終わったよ。
うんうん、やっぱり美味しいよ。
でももう一口、しょうゆうどんを食べたかったのが、心残り、かな・・。
(写真は宮武の「ひやひや」です)
詳しくは
http://www.shikoku-np.co.jp/udon/

 2006年10月25日(水)   判決
「保育園に行って友達と遊びたい」
喉の障害で入園を拒否された子供と親からの訴えが、裁判で認められた。
自治体は入園拒否の理由として「看護士一人を付けたりの費用で年間800万円も必要になる。」なんだと。
たった、たった800万円、お金の問題でその子が入園できるなら、自治体は認めるべきで、全ての子供に公平に、均等に機会を与えるべきは、自治体の当然の義務だと思っている。
判決を受けて、自治体首長は控訴しないとのコメントは、賢明な判断。
私にも水頭症の孫がいる。小さい身体にこれからも何度かメスを入れられるだろうけど、今は「普通の」子供として、手に負えないヤンチャに育っている。
 
判決前の子供を見る裁判官の温かい目や、判決後の記者会見の子供の無邪気な様子に、うれしくて素直に心から「良かった」と。
(なお、その子供は今年の春から仮入園し、通っているという。)

 2006年10月18日(水)   柿の木
私が小さい頃に住んでいた家には柿の木が数本在った。ほとんどは渋柿だが、一本だけ甘柿の木が鉄砲ユリに囲まれて在った。春は新緑の葉が生い茂り、他のどれよりも色鮮やかさを誇っていたし、秋が近くなると陽のあたる実が黄色くなって、その部分だけをかじっては怒られたものだ。渋柿も業者に売っていた。多分焼酎付けにして渋を抜き、売るんだろう。それに納屋に積み上げたワラの中にも何個も突っ込んで、甘くなってから食べたりも。家の屋根よりも背の高い渋柿の木はもっぱら私の遊び場所だった。登ってはユサユサ揺らせて楽しんだり、普段と違う目の高さ、遠くまで見渡せることに驚嘆したものだ。
でもいつも不思議に思うことがあった。たくさんの柿の実を取っても、高い位置にある最後の一個は残してあるのだ。小さい頃には「こうすれば来年は柿の実が良く付く」と教えてもらっていたが、そうではないだろうことは早くに知っていた。
 
秋本番でアチコチの柿の実が熟れだした。
だれもかじったりする人は居ないし、木に登る子供も見かけない。
甘いものは他にもたくさんあるし、そんな危ない遊びをしなくても簡単で手ごろ、子供の興味を引く遊びはたくさんあるんだろう。
・・それにしてもなぁ。

 2006年10月16日(月)   秋深し
仕事をしている毎日が楽しいよ。
「生き生きとしている」って上司に言われたが、間違いなくそうだろうと思う。
職場は自転車で走っても40分までの距離。通勤には丁度かな。
不幸なことに帰りの時刻は真っ暗で、自転車で走るには危ないが、仁淀川の土手で自転車を止め月を見ていると、うーんこれもいいな、って。
最近はコスモスもアチコチと咲いているし、好きじゃないセイタカアワダチソウも黄色がワーッと揃えばこれはこれできれい。ススキにとって変わって「秋の色」と認知される日も近いことだろう。
うーーん、自転車通勤も目の保養も兼ねているみたい。
 
もうすぐ年末の繁忙に入る。
去年は事故で怪我をしてみんなに迷惑を掛けた。
今年は違う職場だが、ひと踏ん張りして頑張ってみよう。
(写真は仁淀川水系、宇治川沿い。枝川駅の近く)

 2006年10月11日(水)   もったいない
先日、精米所へ行くと、たくさんのお米がコンクリートの上に一升ほど大盛りで、そのままに捨ててあった。多分、なんかの手違いで落ち、そのままにしたんだと思う。もったいないなぁ、と上前をすくった分だけビニールに入れ、持ち帰った。
 
田舎暮らしで育った自分は、田植えから稲刈りまで小さい頃に手伝った、というより手伝わされた。だから春と夏はいやな季節だった。春は泥臭くなり爪の中まで真っ黒、夏は首筋から体中がハシカクなって居ても立っても居られない。何よりもなれない作業でしんどい。勤め始めても休暇を取り、手伝うことも。
またワラで編んだゴザにこびりついた籾付きの米を一粒ずつ拾っている、そうした祖母や両親の姿を見てきた。だからご飯の食べ残しには「もったいない」と異常に反応する。
 
今は機械化が進み、田植えも稲刈りも機械が中心。楽になった分捨たる米も多くなった。水を張った田んぼに、ヤマを幾筋も張り、それに沿って植えていく(ところによって前植えと後ろ植えがあるらしいが)、また鎌を持ち稲の根に近いところを握り、ザクザクと刈る、・・そんな風景も見られなくなったが、小さい頃に植えつけられた「もったいない」の精神は、私の血になっている。
 
その精米所の「もったいない」お米を少しずつ自宅の門扉の上に置くとスズメの親子が食べに来る。
パンの切れ端ばかりでなくたまにはお米も美味しいな、と喜んでいるだろうか。

 2006年10月7日(土)   あの夏〜60年目の恋文〜
いつかの夜のテレビ番組で、「あの夏〜60年目の恋文〜」というのをやってた。
昭和19年の戦争末期のとき、小学生の男子が、教生の女先生に淡い恋心を抱いたが、その後間もなく先生は結婚し退職。彼女の夫は特攻隊に入るが、終戦で助かる。その後の二人は逢うことも無く60年経った。
現在。男の子は東京に住む72歳の男性、先生は82歳の女性、この二人が主人公。
ある日その男子(もうおじいさんになっている)がテレビを見ていると、夫の特攻隊への出撃を短歌に歌った人の紹介で、その先生が出ていたのを偶然見る。
その日以来、二人の文通が始まり、数ヶ月の後会った・・というもの。
先生の孫が教生で教えているのとダブらせて、話は進んでいくが、これは物語じゃなくて実際の話で、淡い恋のまま終らず、その後の二人の行く末、いかにも私の好きそうな話です。
NHKには、再放送が殺到しているという。
 
恋の話はいくらでもあるけど、「その後」というのが好き。
♪汽車を待つ君の横で僕は 時計を気にしてる 季節外れの雪が降ってる♪と「なごり雪」の歌に唄われた駅のホームで別れた二人はその後はどうなったのか。幸いこの歌は三浦友一主演で映画になった。
どこかで「木綿のハンカチーフ」も映画になるという話を聞いたけど、どうなったのかな。田舎暮らしの二人が、男は都会に、女性はそのまま田舎に、都会の派手な暮らしになれた男性が彼女に涙を拭く「木綿のハンカチーフ」を贈ったのかどうか、
その後の二人は別々の人と結婚して、それぞれの人生を歩んだだろうけど、どうなったのか、・・・。二度と会うことが無かったとは思わない。きっといつか、どこかで逢ったはず・・。
面白そうだね、そう思わない?

 2006年9月23日(土)   新聞記事
アメリカでのこと。妻は元ナチスの収容所の看守だったが、それを40年間もユダヤ人の夫には隠し通した。その収容所では9万人のユダヤ女性が犠牲になった。夫は妻のそういう過去を知らずに結婚。夫の死後、彼女の過去が判明し、彼女は国外退去となった。今でもアメリカは世界中からナチスのリストを集めているという。
いまだに中国、朝鮮などが、日本の右傾化に神経質なのはわかるような気がする。
「そこまで」とか「戦後61年も経っているから」とかの言い訳は、多分加害者側の言い分だろう。
 
結局「痛み」をホントに解るものは被害者でしかない。
万象、世の中の「全てのこと」において、なんだと思った。
それにしても彼女も長い年月、辛かったのでは。
一人の被害者なんだと思った。

 2006年9月19日(火)   コーヒーとタバコと新聞と・・
毎朝の日課。
まずはカーテンと窓を開け、昨日の新聞を片付けて、コーヒーポットで湯を沸かす。湯が沸く間に玄関の外の指定席に座り、コーヒー豆を挽く。外に出るのは豆の粉が飛び散るからだが、早朝のこのガリガリ挽く音は近所迷惑なんだろうな。手間隙を掛けて挽いた豆に、湯を掛ける瞬間がたまらなく好き。
普通のコーヒーカップ2杯分は入るであろう自前のカップに、琥珀色の暖かいコーヒーが入る。
さぁ、朝の柔らかい日差しを背中に、新聞を広げ、ゆっくりと飲もうか。
タバコにもおもむろに火を点ける。
うーん、毎朝6時前後、出勤前のなんとも言えないくつろいだ時間。
快感!
 
そうそう、忘れてたよ。新聞を読むのに老眼メガネが・・、だよぉ。

 2006年9月12日(火)   映画「蝉しぐれ」
   一筆申し上げ候
 我が子千代丸、縁深き御家の跡継ぎとして、養子縁組相整い、安堵いたしおり候。
 さて、大殿様一周忌を控え、浮世の思い煩いを断ち切るべく、わたくしこの秋白蓮院に入り、尼になることとあい決め申し候。
 さりながら、今生の未練とそうらへども、あなたさまに一度お会いいたしたく、本日箕浦に罷り越し候。
 もし御目文字叶い候らわば、無上の喜びにてそうらへとも、決してご無理申す義にては、これ無く候。
 万が一つの幸いを頼みに、この文参らせ候。
     ふく
文四郎様参
 
(映画の言葉から、文字におこしたもので、実際の手紙とは字句が違うかも)
いかにも日本的できれいな文と、唸ってしまった。
運命に裂かれた小さいころの二人の淡い心。
「忘れようと 忘れ果てようとしても 忘れられるものではございません」
遠藤周平原作の映画「蝉しぐれ」の、なんともやるせない物語だったが・・。
 
たくさんの言葉を発しても、伝わらない思いあり、
言葉に発しなくても、伝わる思いあり、
なんだと思った。
「蝉しぐれ」公式サイト
http://www.semishigure.jp/html/links.html

 2006年9月6日(水)   オイオイちょっと待てよ!
新聞記事に「ちょっと待てよ」って言いたいよ。
紀子様にもうすぐ子供が産まれるらしい。しかしこの異常な熱気ぶりはどうだ。今日はテレビも一日中この話だろう。でもさ、ちょっと待てよ、って言いたいよ。
同じ人間なのにどうして特別扱いされるのか。今は「天皇主君」の戦時中か?「天は人の上に・・」の精神は?今も部落差別、性差別、黒人差別、民族差別、障害者差別・・・ありとあらゆる差別が厳然として存在しているが、憲法に守られた天皇から観た「国民差別」はおかしいと思う。まずはこの差別から撤廃すべきじゃないのか。人間は産まれながらにして平等で、不利益や不平等や迫害を受けることは無いはずと思う。
タクシー料金の値上げが1997年以来の申請がされている。ちょっとまてよ、って言いたい。
その年から9年経ち、ガソリンが上がったからと言ってもたかだかリットル50円止まりなのに、タクシーの初乗り料金が1.5qが110円も値上げ。普通車ならリットル10km.は走るだろうに。ましてやタクシーはガソリンを使ってない。仮にリットル10km.しか走らないタクシーとしても、10km.走った時点で50円の値上げなら理解できるが、これは先を見越しての利益先取りの完全な便乗値上げじゃないのか。
博多湾転落で3人の子供を水死させた、福岡市職員の男。
飲酒の上の事故、この時点で最良の方法をとっていれば、まだまだ本人にも救われる気持ちはあったろうに。いつも思うことだが、「決定的な間違い」はその後の逃走しようとしたことと、大量の水を飲んで飲酒を隠そうとしたことだ。
 
いろいろ考える休日の雨の日の朝。

 2006年9月3日(日)   好きな季節
そろそろと音も無く夜が明けた。
何故かこんな静かな夜明けの雰囲気を楽しむのが好きだ。
特に冬の寒い朝、窓を開け放し、暖かい毛布を身体に巻きつけて、首までトップリとくるまって、夜が白々と明けていくのを観るのが好きだ。
遠くの山々の稜線がくっきりと浮かび上がり、山肌がだんだんと色づいてくる。
これに熱いコーヒーがあれば言うこと無し、だね。
また秋から冬に掛けて、人肌の体温が暖かさが夏のようにうっとうしくない程度の、そういう寒さがなんとなく好き。
そんな日は年の数日しかないけどね。
 
熱いコーヒーは誰が入れるの。それに住宅街では無理な話だけど、今朝はなんかそんなことも書いてみたくなったよ。(笑)

 2006年9月1日(金)   さわやかな一日
一転して晴れの今日。
遠くにはまだ雲がたなびいているが、空気が乾燥しているようだ。
心なしか空の色も、薄い青色に見える。
ふーん、雨が上がって秋の気配かな、って。
仕事で心地よい汗をかきながら、バイクで走ると半袖の間に涼しい風が入ってくる。
いよいよ外務に最適の季節となりつつある。
素晴らしい日々をおくっているし、仕事上の軽いストレスは自分を奮い立たせるため、かえって心地よい。
 
去年の今頃、どうしてたんだろう・・、なんて考えたりもする。
毎日が戦争のような精神状態だったな、
明日一日なんとか頑張って、って考えながらの日々。
その後の勧奨退職届、事故、退職、・・。
思い切って退職したのが良かったかな。
それからの日々は思った以上に好転している。
すくなくとも今のところは。
とりあえずは、心配することもなさそうだ。
 
今日の天気と同じようにさわやかな気分で行こう。

 2006年8月24日(木)   大好きなラーメン
位置は高知市大津駅前で、レストラン「Hera」のまん前に「駅拉麺」がある。知り合いのタクシーの運転手に教えてもらったのが、もう20年以上も前のこと。近くであれば週に一度は行くのに、仕方がないけど、高速道路代片道400円を使ってでも、月に一度は食べに行く。
以前はおばさんが作っていたし、その当時は岡豊高校生だった娘さんが店内のポスターを書いていた。今は結婚(多分)した彼女が店内をきりもみしている。
 
そう、もう長いこと通うもんな。
あのおばさんは元気だろうか。最近は見かけない。
(写真のラーメンは「大盛り」です。お間違えの無いように。)

 2006年8月15日(火)   二つの観たくない映画
火垂るの墓」は野坂昭如の自叙伝的な小説に、スタジオジブリがアニメ化したもの。戦争末期から終戦に掛けての、戦争に翻弄された兄と妹の悲しい物語。この物語に「悪人」は出てこない。それに妹の声優、普通は大人が子供の声色を使ってしゃべるのだが、これは子供がしゃべっている。その子供、節子役は当時なんと5歳の声優だという。
今日BS放送で放映していた高峰秀子主演の「二十四の瞳」もいわずと知れた名作。冒頭の、丘の上で大石先生が子供を引き連れて歌いながら列車の遊びをするところ、こんな映像でも涙が出てきて、10分と観る事が出来なかった。
二つの「観たくない映画」は出来が良すぎて、私は多分二度目を見ることが無いだろう。
どちらも静かに、そして強く反戦を訴える映画。
 
おりしも今日は終戦記念日。
「観たくない映画」は「観られない映画」と訂正する。

 2006年8月10日(木)   楽しい仕事
疲れてはいるんだろうけど、意識はハッキリしているよ。(笑)
今日も頑張っていたよ。
ヘルメットの間から滴り落ちる汗を、こんな季節か、なんて余裕を感じるほどでした。
でもね、楽しくてしょうがないよ。
辛くて辛くて・・・って、感じてた数ヶ月前と、同じ仕事がどうしてこんなにも感じ方が違うのか。
今の自分は積極的に頑張っているな、って誉めてあげたいよ。
おいおい、老体にムチ打って、なんて言うなよ。
辛いなんてこれっぽっちも思ってない自分が不思議。
でもね、身体は正直で、食後にリビングで横になっていると、足はソファーに上げている。
足には知らず知らずに疲れがたまっているんだと思う。
けど、声をドンドン出して、夏の暑さにも負けずに、明日も頑張って行けるよ。

 2006年8月3日(木)   露天風呂
念願の露天風呂が我が家にも・・。
てなことをいっても、子供用の1.5m.四方のビニールプールをベランダに置いただけのこと。
もちろんタテズで周りを覆い、どこからも見えないようにして、スッポンポンで浸かっている。
うーーん、これは日中の焼けた身体をクールダウンするには最高です!
そして真横になって寝転がりどっぷり浸かるとまだ青い空が見える。
 
ホントの露天風呂は我が家に造る事が出来なかったけど、なんとか間に合わせでも気分は露天。
3度目に家を建てるときは小高い丘の上に家を建て、絶対に露天風呂を造るぞ、と思ってみても、もうどだい無理な話。
今度生まれ変っても、やっぱり露天風呂は造れない一生を送るのかな、なんて考えたりもする。
んで、やっぱり「今回」と似たような一生を送るとしたら・・・。
でも、露天風呂は無理としても、やっぱり「今回」と同じ人とのつながりは欲しいな、あの人、この人、・・「次回」もどこかで逢えるかな、逢いたいな、なんて考えたりもする。
 
真横になって寝転がり、ドップリ浸かり、まだ青い空を見ながらそんなことを考えたりする変な私・・。

 2006年7月29日(土)   お遍路
抜けるような青空に入道雲が湧き出ている。
すっかり高知は夏の色。
今の仕事をしている町の中に札所があり、時折見かける。
この暑い中でも、お遍路さんは黙々と歩いている。
重たいだろうリヤカーを引いて、汗だくのお遍路さんも見かけた。
それに今日も遍路道からはずれたお遍路さんがいて、教えてあげる。
皆んな菅笠の真っ黒い顔に光る汗と笑顔が爽やかだった。
今度から時間があれば魔法ピン(古い言い方^_^;)に氷を入れた冷たいお茶を、一杯だけ差し上げよう。
でもね、「気をつけて」とは言っても「ご苦労さん」とは決して言わないよ。
暑くても寒くても、歩いているお遍路さんは幸せ者と知っているから。
無事結願されることを祈るばかり。

 2006年7月27日(木)   年輪
昨日は梅雨明け宣言の日。
朝早くから目覚め、庭の整理をしているとジッと汗ばんでくる。間もなく朝一番のセミも鳴きだした。うーん、夏の音楽かな。
こうして冬と夏の繰り返しで、大樹の年輪が刻み込まれるんだな。
とまれ。私の人生の夏と冬はいつかな、って考えると、仕事を辞める前のここ数年は冬だったのかもしれないな。
すると今は?その同じ仕事が楽しくてしょうがない今は夏かも。年輪で言えば白い部分かも。
いくつ年輪が重ねられるか解らないが、こんな私にも樹木と同じように年輪が刻み込まれ、いつかは年老いて朽ちていくんだよ。
 
朝が明けると、抜けるような青い空が見え出したよ。

 2006年7月19日(水)   楽しい毎日
11日からユウメイトで、以前に2年ほど勤めていた小さな郵便局勤めをしている。
責任のある退職前の自分と違って、気分も楽。仕事の辛さは屁みたいなもの。大局より、一人の力が生きる、こんなに小さな局が私にはピッタリ。
良い仲間で、私も「仕事は楽しく、声は大きく」の地で一生懸命仕事をしている。
 
今日は休みだが、外は雨。

 2006年7月18日(火)   危惧すること
「(日本が)被害を受けるまで何もしないわけにはいかない」(麻生太郎外相)発言や、額賀防衛庁長官の「敵基地攻撃」発言には唖然とする。本音が続々出てきたな。
旧日本軍は、自国を守る、という名目で朝鮮、中国に侵攻した。日本が起こした戦争であることは論を待たない。他国を侵略する戦争を起こす、などとは言わず、自衛のためという理由で始まった。危機感をあおり「やられる前にやっつけてしまえ!」論が全ての意見を抹殺してしまう。危ない歴史は再び繰り返されるのか危惧する。
日本には「憲法九条」があっても自衛のための軍備まで否定されてないという。しかし「自衛」隊、防衛隊、国防隊、・・どんなに名前を変えようとしても現在の自衛隊が、武器で武装された軍隊であることは間違いも無い事実。警察予備隊から今日まで、コンセンサスを得られないままどこまで危なくなっていくのか。
ヨーロッパ各地で、戦争で犠牲になった国民とともにヒットラー、ムッソリーニなどが祀られているとしたら、他国は納得できるだろうか。ドイツやイタリア国の元首がそこに参るとしたら、「二度と戦争を起こさない」といくら口で言ってみても、その戦争で犠牲になった他国や国民は納得できるだろうか。
 
危ないなぁ、と感じる最近の世相。
しかしここに書くこと自体危ないと感じる世の中にはしたくない。

 2006年7月14日(金)   「百年の孤独」
九州の焼酎を飲みながら、食を楽しむ「九州焼酎紀行」という番組がBSであった。
宮崎県には「百年の孤独」という焼酎がある。ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの小説からとったネーミングも斬新だが、アルコール度40度でかな〜りきつい。
番組に出てくる工場は、手作業と機械化が同居してこじんまりとしていた。焼酎というイメージではなくて、出荷されるまでは樫樽で貯蔵し、じっくりと年月をかけ熟成され、得も言われぬ琥珀色をして、ウィスキーの味わいをしている。
少々のことでは買えないプレミアム物で、わずか720ml.で今は1万円前後の値段が付いているが、「あの当時」は7千円ぐらいで買えんじゃなかったかと。湯水のごとくオンザロックで飲んでいたが、もう少し落ち着いて味わって飲みたかったな。うーーん、当時の私は性格的に「飲み急いだ」ようだ。
その焼酎で炭火で焼く宮崎地鶏は食べると格別だろうな、美味しいだろうな。
それにしてもその焼酎名であれこれ思い出すことが多々あり・・・。
http://www.favgoods.com/sake/mugi/s_0010.html

 2006年7月7日(金)   またしても「人間の條件」
「人生の書」と書いたが、この本(五味川純平書)にまつわる話。
小学生か中学生の頃だったか、父にこの話を何日かに渡って聴いた記憶。
物語の最後を聴いたその日は冬の寒い夜だった。父と向かい合って火鉢を囲んでいた。
主人公の梶が、厳寒の地、ロシアの捕虜収容所から逃げて、遠い地に居る妻の元に帰ろうとする。盗んで、叩かれても、たったひとつの小さいパンを離さず、妻に持って帰ろうとする。そのうち雪が降り続け、人の寝た形の小さい雪の山ができた・・・。
目からポタポタと涙がこぼれ落ちた。
子供の頃だったから、物語の本質の何がしは理解は出来なかっただろうが、その夜の涙が溢れるのを、父に悟られるのが照れくさく、隠すようにうつむいた。でもあとからあとから出てくる涙は隠しようも無く、赤く焼けた炭に数滴落ちて、ジュっと音を立てた。
何部だか映画も一度観たな。ただ、縄に縛られて拷問を受けている場面しか記憶が無い。たぶん、特殊工人の処刑を梶が止め、憲兵に「アカ」の疑いを掛けられ、拷問を受ける場面ではなかろうかと思う。
高校生の頃にこの本を読んでみた。まだよくわからない。社会人になり、再び読んだ。初恋の人にもこの本を贈ったけど、なんて色気の無いことをしたもんだと今更ながら・・。堀詰の南側に在った「松竹」映画館で、この映画の一部から六部までの9時間半にわたる一挙上映があるというので、初日に観た。そして再び最終日にも見た。
本は何度読んだことかわからない。
いつだったか、この本の作者五味川純平氏が亡くなったという記事を、新聞の片隅で観た。彼の自叙伝ともいわれている。
今はビデオでもDVDでも、いつでも見られる状態。
 
それほどほれ込んだこの物語だが、出来すぎで潔癖な主人公であり、とても「消化」することは出来ないが、私にとっては間違いなく「人生の書」でもある。
近々、また観てみよう。忘れていた自分を思い出すために。

 2006年7月1日(土)   月を観た夜
今夜は梅雨時の合間、ふと外に出ると雲も多かったが、月が出ていた。
そうだなぁ、月を見ると思い出すことがある。
 
満月のきれいな静かな夜、妹と二人、父の踏む自転車に乗って、気持ちの悪い墓場を抜けて浜の堤防の上に出た。
父にすれば風流な満月を見ながらの食事だったかも。リンゴを持って来て居た父が、ナイフを忘れたからと近くの家に借りてくると言う。
妹と二人で待つのは、墓が怖いからイヤだ、と言うが、すぐ帰ってくるからと、父は墓場の中に消えた。しばらく待ったが、なかなか帰ってこない。
だんだん怖くなって、居ても経ってもいられず、妹と「ワーーー」と声をだし、走りながら墓場を抜けると、父が帰ってきた。
父の胸の中、泣き叫んだような思い出。
多分、私が小学生の頃だったかも。
 
何気ない今夜の月を観て、思い出す小さい頃の思い出。
その父は老いて、今夜は三日月だった。

 2006年6月27日(火)   梅雨の合間
まだ明けない梅雨の中休み、晴れ間の一日だった。
やっぱり仕事をした後の、シャワーとエアコンの効いた部屋は最高です。
今日は私の10年来のファンであるDIANE SCHUUR(ダイアン・シュアー 1953年生まれ 盲目の女性ジャス歌手)が、MAYNARD FERGUSON(メイナード・ファーガソン)のフルバンドとの競演を聴いている。
ヒットするハイトーンと大きくドライブするスィング感は、彼女とフルバンドとの競演ならではのもの。
日によって、軽いジャズを聴く日と、こうしたガンガン鳴らしながら聴く日のジャズ。
 
どちらの日も、こうして与えてくれる安堵感は、仕事の後にだけ得られるご褒美かも。

 2006年6月19日(月)   「決定的な間違い」
私の人生の書、五味川純平著の「人間の條件」にこんな一節が有るのを思い出した。
(細かな部分での違いはあるかも)
劣悪な環境の中、強制労働を強いられる中国人「捕虜」は「物」と扱われて、その彼等の労務管理担当の主人公の梶。
明日の朝は、いわれの無い罪に、憲兵の日本刀の試し切りをされる数人の中国人「捕虜」。
その梶を前に、「捕虜」が言う。
「梶さん、人間は誰しも間違いを犯す。それは訂正すればすむが、人間の尊厳に関わる決定的な間違いは取り返しが付かない」と。
次の日の朝、「捕虜」の処刑を憲兵が決行するが、一人、二人と日本刀での試し切りに、梶は足が震えて止めることが出来ない。
梶は、「取り返しのつかない決定的な間違い犯している」と自分を責める。
何人かの処刑の後、やっと梶は重い足取りで一歩を踏み出して言う。「待て!」と。
梶は、もともと左翼的だと睨まれていたし、特に今回のことをきっかけに運命が大きく変わっていく。
時々思うことがある。
飲酒事故をしても、仮に一瞬の腹立ちに罪を犯したとしても、フッと我に返った時点で全てを認めること。
それを隠そうとしたり、逃げようとすれば罪に罪を重ね、取り返しが付かない決定的な間違いとなる。
 
九州の山間、小さな村での軽トラと自転車に乗った子供が出会い頭の交通事故を。その時点で病院に運ぶなりすれば単なる人身事故ですむものを。
重症の子供をわざわざ山中にまで運び、自転車も隠す行為は殺人行為ですらある。その犯人が捕まってよかったし、子供も病院を退院し、元気になってよかったと思う。
話が飛びすぎかも・・(@_@)

 2006年6月14日(水)   子供の受難の時代に
立て続けに子供の事件が起きている。
犯人あるいは被疑者が、弱い子供を狙う弁解の余地はないし、当然のこととして厳罰に処せられて当然。
それを前提として。
それにしても、それにしても、だ。
捕まる前のまだ「一般人」が「撮らないでください」と言っているのに、執拗に追い掛け回すカメラと取材陣。被疑者と目される人を前に、報道陣の「知る権利」「報道人としての義務感」等を振りかざして、「正義面」している人たち。
私にすれば公然と「魔女狩り」が行われている様相でもある。
被害者のお葬式まで延々と放送し、親族の気持ちの中に土足で入り込むような取材、には何をか言わんや、である。
 
もっともっと報道する立場の人には、大きな「悪」への挑戦を試みてもらいたい。
「悪いやつほど良く眠る」のはゴメンだ。

 2006年6月6日(火)   再出発
・・・といえば大ゲサか。
辞めた郵便局に再びユウメイトとして仕事をすることになった。
まだ今日は仕事をしたという感じではないが、それでも帰り着くとホッとする。
まだ明るいうちに孫と共に庭の草花に水を与える穏やかな時間を過ごし、自室に入り安富祖貴子のCDを聴くと、安堵感と充実感が全身を。
 
そうだな、鉄砲ユリも今日から咲き始め、さすがにとなりのモミジも色あせて見えるよ。
やっぱり再出発だな。

 2006年6月4日(日)   JAZZのCD
AV(アダルトビデオじゃなくて、オーディオ・ビジュアルの略)の宣伝につられて、電気店を訪れたが、買ったのはJAZZのCD。
たまたま聴いた視聴盤の一曲に聞きほれた。
(CON)/TAKAKO AFUSO(安富祖貴子)」の中の「I'M A FOOL TO WANT YOU」
うーーん、ホントに泣かせるねぇ。
それにしても綾戸智絵を初めて聴いたときも、すごい歌手が現れたと驚いたもんだった。安富祖貴子も間違いなく有名になるだろう。それにしても日本人でもここまでJAZZを歌えるようになったのか、と感心する。
自分の持っているイメージを変えなきゃ。
 
次のサイトでちょっとだけ聴けるよ。
http://www.mandi-records.com/4_jjazz/artists_jjazz/jjazz_01_a/jjazz_01_a.html

 2006年5月29日(月)   手紙
この一ヶ月の間に、三通の信書を受け取った。
いずれも前回の遍路の途中でお会いした人たちばかりで、撮った写真をお送りしたしたお礼の返事。。
一人は徳島の牟岐警察署前のお接待所で、私がお接待をしていただいた松本さん、そしてもう二人は、高知で有名な赤野のお接待所のおばさんと、そこでへ偶然出会った西内さん。
みんな達筆で、どうしてこんなに上手なんだろ、と感心してしまう。
亡くなった義父も上手だった。
歳を取ると上手になるのか、とも思うことがあるが、自分は今を持ってまったく字がヘタだからそれは当たっていない。
若い頃から字がヘタで、それでワープロを覚えた。まだカセットに文書を保存していた時代からだから、何年になるんだろう。
だからパソコンにも違和感無く入れたかも知れないけど、逃げていてはいつまで経っても上手にはならないだろうな。
だから、今からでも書道を勉強、・・・、しても、ダメだろうな。
もうあきらめるしかないな。
 
それにしても賞を取る書道の芸術さは、メチャクチャな字に見えて、極めて絵画に似て美しいと感じる。
この私でも、だ。
そう感じた「高知市展」でのこと。

 2006年5月18日(木)   「春夏秋冬そして春」
WOWOWで録り溜めしていた韓国映画を観た。
深い森の中の湖に浮かぶ小さい寺が舞台で、老人と子供の成長と共に物語が進む。
舞台はほとんどそこからは動かないが、5つの季節をバックに、5つのエピソードを織り込みながら物語りは進む。
韓国ではなく、ヨーロッパでヒットしたというのがうなづける。
一時、中国映画に凝り、「おばあちゃんの家」「あのこを探して」「山の郵便配達」「鬼が来た」などを観て、中国の底力はすごいな、って感心したことだったが、これからは韓国映画も見逃せないな。
(「春夏秋冬そして春」の公式サイト)
http://www.kimki-duk.jp/spring/mainframe.html

 2006年5月12日(金)   自作スピーカーとメーカースピーカー
今まではオンキョーの「D-303」とヤマハの「MX−10MX」を同じ能率なので並列でつなぎ、、フロントに置き、JAZZと映画、それに5.1サラウンドとDTSを楽しんでいた。
今回初めて近くの電気店よりはるかに安いネットで注文、今日無事に我が家に届いたのはJBLのスピーカー「4312D」
多分、これでスピーカー遍歴は最後になるだろう。
若い頃、名機といわれるJBL「505J」のスピーカーを、サンスイ「AU9500」(製品番号を言えば、解る人には解る)のハイパワーでJAZZを鳴らして以来、止むことなくいろいろ買ったり、自作のスピーカーのあれこれ数組作ってきた。
特に自作スピーカー片側2発のバックロードホーンは最高、まさにJAZZ向きだった。
今は4月から無職の素浪人生活。傘貼りもしてない。
再就職しても今までのように買ったり出来ないことはわかっている。
年金受給の65歳までの10年ほど、もうしばらくは心も身体も頑張らなければならないよ。 

 2006年4月21日(金)   お遍路に
ただいまから出かけます。
今日は日和佐で。明日から歩き始めます。
(「四国88ヶ所」を参照)
夢だった桜の咲く季節には歩けなかったけど、それでも野や山は春の色。
退職後の様々な用事もとりあえずはひと段落して、肩の力も抜けて歩けるだろうか。
室戸岬まではほとんどが海と山に挟まれた遍路道。
そういえば私の今までの人生も、「道標」のあるいくぶんヤワな「道中」だったな。
これからはそういうわけにも行かないことぐらい、わかっているつもりだよ。
 
とりあえずは「歩いてきます」、だな。
「ただいま 遍路中です。四国の春を満喫中」だな。

 2006年4月9日(日)   淡い日差し
義父が亡くなって、2年と4ヶ月になろうとしている。
その義父が大切にしていたサツキやツツジの花の世話をするものは居ない。
きれいに鉢植えしていたものが、そのまま直植えとなっている。
しかし毎年この時期になると、世話もしないのに伸びきった葉先から可愛い花が目を楽しませてくれる。
義父は亡くなっても、花は咲き続けるんだ、って。
私が大切にしているモミジを見て、死んだあと私を想像する子供はいるだろうか、鉄砲ユリは咲き続けるんだろうか。
 
それにしても早朝から庭を眺める時間の多くなったこと。
淡い日差しの中、ただぼんやりと・・・。

 2006年4月8日(土)   一人で飲む酒
昨夜の妻は送別会で町へ飲みに行っていたので、刺身と朝鮮漬けと、自分で作ったハムともやしの炒め物をビールの肴に。
義母も2階に上がって居ないし、テレビを見ながら一人寂しく飲んだよ。
妻が先に死んだらこんな状態が一生続くんだろうな。
亡くなった義父や二人の子供が居るときは、にぎやかだった食事、今は3人の生活に。
 
こうして一人で食べるときは、いつもに増してただっぴろく感じるリビングで、テレビの音と食べる音が部屋の中を木霊(こだま)しているような・・。
いつの間にか眠っていたよ。

 2006年4月7日(金)   退職金
そんなものをいただく歳になったんだなぁってあらためて感じる。
今日、多分振り込まれているだろうが、アチコチへの支払いも10日以降にしよう。
それでも借金は残るけど、それもいいだろう。もともと家賃を払うならそのお金で家を、って買ったんだもの。さしてお金に対しての執着心はない。
 
退職金をドンドン吐き出して、遍路で歩くときは、道端に落ちている「暖かさ」をドンドン拾って歩こう。それらを自分なりに紡いで、また頑張ろう。
とりあえず、もう少し休ませて、って。

 2006年4月1日(土)   花の宴
満開の桜の下で、仲の良い友達と花の宴を。
こちらに転居してからだから、もう30年近くの家族共々の付き合いになる。お互いの欠点も長所と認め合う仲。
いつも例外なく夫婦で飲んでいる。
だから大ゲンカをしても続いてきたんだろうと、皆それで納得している。
 
ホントに良い友達だ。
私が主役の、私の人生になくてはならない人たち。
色即是空 空即是色
うたかたの人生に、こじゃんとキレイな彩りをありがとう、と心の中でそっと友に感謝を。
(写真は一昨年のグルグル山にて。私は写っていない。)

 2006年3月31日(金)   退職の日
風呂に入り、着慣れない背広で気分も新たに、通いなれた道をバイクで局に向かう。
10時からの局長室で辞令と、永年表彰も。
38年が、こんなものかな、って過ぎ去る時間に違和感が。
 
退職金は4月中旬の振り込み。全てを支払って遍路に行くことにした。
お世話になった人にもお礼参りを。
全ての用事を済ませて心置きなく歩きたい。
 
退職の今日は桜も満開でありがとう。
明日は友達と桜の宴を。

 2006年3月24日(金)   春うらら、かな
久しぶりの洗車は、暖かい日差しの中、裸足で水遊びのよう。
ひと段落して、庭に腰掛けを出して一服すると、スズメのチュンチュン。
雪柳も散り出し、ボケの花もそろそろ精彩を欠いている。
でも小さなスミレは細い茎の背を伸ばし花をヒョコッと覗いているよう、鉄砲ユリもズンズン茎を伸びている。小さな庭にも、ここかしこに春が訪れている。
 
時間があるようで無いような、退職前の穏やかな、ある一日もこうして・・。
(庭の白いスミレはめずらしいとのこと)

 2006年3月20日(月)   38年間
今日は退職前の最後の仕事を。
たんたんと業務をこなし、特別にというわけでもない一日だったような気がする。
 
帰り着くと「お疲れ様」の言葉と共に、玄関に妻の出迎えを。
いつもの風景だが、今日は何故かテレてしまう。
 
ここ数年はきびしかった仕事。
もう一年、もう一年と頑張ってこられたのは、自分に家族があったからこそだろうし、自分にとっては、「糧」だったかも。
 
自室に入ると、花瓶に挿された花束と共に、妻の「おつかれさま」の手紙が添えられてあった。
いえいえ、こちらこそ38年間ありがとう、ですよ。
読んで振り返れば、妻のニコッとした笑顔がそこに。

 2006年3月7日(火)   忘れな草
休日の一日は暖かかった、
心までホンワカと春めいてきたこの頃は、庭に何かを植えたくて、妻を迎えに行った帰り道、ホームセンターになんとなく寄ってみた。
あれこれ花木を見ているうち忘れな草を5株買った。
「忘れな草」か・・・うーーん、いい名前だね。
♪別れても 別れても 心の奥に
 いつまでも いつまでも おぼえておいて欲しいから
 幸せ祈る 言葉にかえて
 忘れな草を あなたに あなたに・・・・・
いくつになっても、どんな人も、心の奥底に秘めていたい思い出の一つや二つはあるだろう。
それを彷彿とさせてくれる花の名。
たずねたりはしないが、おそらく妻もそうなんだろうな。
どうも花を見て喜ぶよりも、花の名で買ったようだ。
 
「庭に植えてよ」って呼んでくれてありがとう。
それに、いい花の名前をつけてもらって良かったね。
(花を咲かせた忘れな草 4月8日撮る)

 2006年3月4日(土)   誕生日
先日の新聞で親子4世代が同じ誕生日で、ギネスに認定された、と載っていた。
こちらは一日違いで3世代。
自分は12月19日、長女が20日、長男の子供は帝王切開だが21日でつながっている。22日生まれのひ孫が出来たら、ギネスに出してみよう。(笑)
 
それにしても時間とは不思議な感覚だ。
時間の単位を決めたのは人間で、人間にしか通用しない単位。
それも一年を最大単位に繰り返しやってくる。1月1日も「誕生日」も365日後やってくるし、確かに四季も繰り返されているようだ。
しかし時間に繰り返しというものが本当にあるだろうか。否、と思っている。
森羅万象、生あるものは死に、形あるものは崩れ、色付くものはあせ、・・・。
どんな物事の現象でも、全てが過ぎ去っていくものであって、繰り返しは無い。
2度と無い。
 
今日は長女の子供の2歳の誕生日・・。
んん?^_^;

 2006年2月21日(火)   確率の問題です
サイコロが2個あります。
各々のサイコロのます目には、○を3ヶ所、□を2ヶ所、△を1ヶ所、書いています。
2個のサイコロを振って出る目の確立は?
○○か、○□か、○△か、□□か、□△か、△△か。この6通りのどれが出る確率が多いでしょう?
 
めずらしく小学6年生用の教育テレビ番組を見てて、ふーーん、って感心したことだった。
答えは後日、ということで(笑)
 
答えは
〇〇の組み合わせの確率が36通りのうち9で、〇□が12、〇△が6、□□が4、□△が4、△△が1、となり一番多いのは〇□でした。一瞬〇〇が一番多いように感じるけどね。

 2006年2月20日(月)   仏は心の中に
昨夜、録り溜めしていた番組を見る。
宗教の番組ではあったが、堅い話でもなかった。
私が生まれた頃、訳があって歩いて托鉢をしながら北国まで行ったこともある父、
その父がいつも言っている言葉。
墓参りをしなくても、仏前に頭を下げなくても、心の中で手を合わせたら、それで充分だ、と。
実際そうじゃないかと思っている。
仏は心の中に、鬼も心の中に。
それを思う自分の中に。
 となふれば 仏もわれも
 なかりけり 南無阿弥陀仏
 なむあみだぶつ (一遍上人)
 
ただ、苦しいときは「ご先祖様、お守りください」と何度と無く唱える自分・・。
なんとご都合な無宗教の私だこと。

 2006年2月14日(火)   二人の墓参り
二人の同級生は30年ほど前に亡くなって、その当時に墓参りに行ったきりだった。
最近何故か気がかりになっていたが、思い立ったときに行って良かった。
幸雄君は22歳で逝った。自分の病名を隠して、婚約者に別れを言ったという。
初美さんは27歳だった。彼女の産んだ女の子は大きくなって高知市内に住んで子供まで出来ていると聞く。
二人の思い出は、生徒会室のあの当時の高校生の顔からまったく老けず、時間が止まったまま。
二人の死から30年ほどの長〜い時間が経つ。
一人でお参りをさせていただき、一服しながら話しかけるひと時は、30年分を話すには短すぎて。
逢えてよかった。
 

 2006年2月11日(土)   ♪春よ来い♪
この冬、風呂を沸かすときから風呂蓋を開けている。裸になって入るときに少しでも暖かいように。
でも、亡くなった義父が生きているときにはそんなことは少しも考えなかった。
いくら相手の立場に立って考えてやろう、って気を遣ったとしても、その年代にならないとわからないことも多いんだ、ってわかった。
男と女も同じじゃないかな、って。
 
その義父が同居する際に持ってきた雪柳は、細い枝先いっぱいに芽を吹いている。
うーーん、庭にも春が近づいているな。

 2006年2月9日(木)   クラシック
・・と呼ばれる曲にはほとんど無縁だが、315円のCDという驚きの安さに買ってしまった。
ほとんどONECHORDで、今から言えばテンションの積み重ねで出来た「ボレロ」。曲の最後に一ヶ所だけいきなりのMAJORCHORDで終る。ピアニシシモから始まり、フォルテシシモ(sfz)で終る。この曲を聴いていて、「ペルシャの市場にて」を思い出した。キャラバンが遠くから近づいてきて再び遠ざかるを、小さい音から最大音、そして再び小さい音に変化する。小さい頃に「フーーン、音で情景を表現する手法もあるもんだ」などと感心した。それにアラビアンモードも雰囲気を出しているな、っと。
「運命」はJazzのレコードばかり集めていた若い頃でも、この曲は買った。冒頭の「運命はこうして開かれる」という3連譜は、繰り返し巻き返し第一楽章に出て、第二楽章でも後半にいきなりホルンが第一楽章のフレーズを奏でる。先日テレビで、「ペートーペンは他の作曲家と比べて、作曲能力が低い」という発言があったが、そうではないと思う。ひとつのパターンをありとあらゆる手法で「長持ち」(笑)させる能力はすごいな、と今でも思っている。
 
たまにはこうしてクラシックの端っこに触れてみるのもいいもんだな。

 2006年2月7日(火)   娘と孫
赤ちゃんと言ってもおかしくないほどの子供の世話をする親は、大変だろうな、って。
昨夜も娘と孫は来て居たが、疲れているのか、娘はコタツで眠りだした。小さい子供が居るうちは眠れないこともあるだろうし、自由な時間も無いだろう。水疱瘡のクスリを顔中に塗られた孫は、勝手に遊んでいたが、眠っている母を見て、「ねんねん」と言いながら無邪気に母の背中を叩いていた。
 
今更ながら共働きの妻にもそんな時があったな、ってしみじみ感謝しきり。

 2006年2月6日(月)   雨の日に
妻と一緒にスーパーへ。
駐車場に停めて待っていると、店の出入り口に停める車が居る。出入り口なので、子供が出てきても車の陰で見えないし、障害者が入るのも妨げる。おまけに今日のような雨の日には、私のように同乗者を出来るだけ濡らさないように入り口で降ろしたりする人も居る。注意しに行こうか、などと思ったりもするが、腹を立てては血圧が上がる。
以前は道に捨てられていた二つの黒いチリ袋を開けて、中に入っていた手紙の住所を調べ、一時間掛けて車で走り、ある町のふとどき者の家に放り投げたことがある。そういうことも一度や二度ならず。
「お父さん、そのうち殺される」って娘に忠告されるほどのこともしてきた。
変なところに薄っぺらの正義感が頭をもたげて、腹を立てる自分だが、最近はもう言うことも行動することも少ない。
 
最近はハッタリだけでは通用しない歳だから、腹が立ってもガマンをしている。
身の安全を、って思ったり。

 2006年2月5日(日)   今更
退職後には遍路に行けそう。
退職後は、種々の手続きで忙しいとは思うが、なんとか23番薬王寺から高知市内近くまではたどり着く時間が欲しい。
今から4月からの仕事を決めると、遍路に行けなくなる。探すのは遍路後でも良いだろうし、それでも仕方がないや、って。
今更もうジタバタする必要もない、って。
30数年間曲がりなりにも勤め上げたから、肩の力を抜いてボケる時間が欲しいよな。
 
大きな借金は残ったけど、それでも財産の中。自分も家族もみんなが幸せを感じたなら、言うことなし。
それ以上も望まず。

 2006年1月29日(日)   小旅行
結婚記念日を兼ねて、旅行した。
何度も食べ損ねた念願の「がもう」のうどんを食べ、屋島の闘いの義経を勉強(笑)し、小学校の修学旅行で泊まった「甚五郎」(閉店している)にもまた立ち寄り、徳島で一泊。
わざわざ室戸周りで帰路に着いたのは、先日遍路で歩いた徳島の道を車で走りたかったし、何よりも遍路を通じて知り合った山口さんにいただいた水彩画に描かれている「夫婦岩」を訪れたかったから。山口さんはどこで描いたんだろか、などと思ったり、日和佐から室戸までの遠い道のりを推し量ったり。
この夫婦岩まで来れば、あと3つ目の岬の上に24番最御崎寺がある。
車で走っても遠いこの距離を、たった一歩の踏み出しから歩く遍路。
 
たった一歩の短い時間を積み重ねて、経験と学習と、老いを得る。
(「フォトギャラリー」を参照のこと)


 2006年1月20日(金)   退職
所属の上司に、勧奨退職の申し出をした。
退職日は3月31日付け。その10日あまり手前から、休暇の処理で休みに入るだろう。途中の取り下げは原則できないから、間違いなく退職となる。
「経営効率化勧奨退職調整額支給」の名の下に、50歳以上の職員がたくさんの申し出があるだろうと思う。
来年の3月にはもっと申し出があるのじゃないか、その年には団塊の世代がたくさん辞めることが予想もされる。
 
数年残して一足早い退職が、自分にとってどういう運命になるか、誰も知らない。

 2006年1月3日(火)   明けたけど
腕が動かなければどうにもならない事は解っていても、焦燥感はどうしようもない。
それでも年末は「今頃は戦争の真っ最中で、ひょっとして怒号が飛び交っているかな」などと、心配してみたりもする。
一時退院して自宅でのんびり過ごす自分には、罪悪感さえ沸いてくる。
 
正月の2日3日は初めて「箱根大学駅伝」を通して見ている。
30代の若い頃、「高新駅伝」に出た自分は、その日身体も軽くて調子が良すぎ、前半飛ばしに飛ばして後半つぶれた経験を持つ。
追い抜く快感よりも、追い抜かれる悔しさが勝るあの駅伝、その苦しさは走ったものでしか解らないだろうな、と思ったりもする。
たとえ「箱根」とは比べるまでもなく、レベルが違いすぎるとしても。
 
去年の夏から体重が落ちているが、この喉の渇きはどうだ。ひょっとして糖尿病の再発かもしれない。せっかく平常値に戻っても、その後の不摂生のセイだろう。血糖値も上がっているし、ヘモグロビンA1cも倍になっている。
正月が落ち着いたら、病院に行くが良いだろう。
 
昨年積み残した「宿題」がたくさんある。ほとんどは「趣味」の世界だが、今年は捌かすことが出来るだろうか。
兎にも角にも、ハローワークで仕事を探すのが今年の一番の「務め」だと。


BackIndexNext