夕陽のシナリオ

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 2007年10月8日(月)   著作権
最近はJAZZのCDも驚きの安さで買えるようになった。私は最近のJAZZはもちろん、1950年代のJAZZもけっこう名盤(名演奏)が多く、良く聴いている。昔のLPレコードでも安くても1500円だったのに、今では1100円のCDも出ているくらい。これほど安くなっているのは、50年間という音楽著作権がなくなったせいでこの値段に設定できるんだろう。
JAZZのフルバンドで演っている当時、コンサートも良くやっていた。県内の管楽器を中心としたバンド(JAZZには限らない)のグループがあり、そのコンサートを企画したことがあった。演奏会後に著作権協会から私の元に郵便が届いた。コンサートで使った曲、その曲目を書け、そして著作権を払え、というものだ。
バンドの名前はそのまま使ったが、曲目は全て、クラシック曲を書いた。それをJAZZにアレンジ、ラテンにアレンジ、・・などと書いて送り返した。20代の若い頃、1975年当時だと、1925年以前に作られた曲に著作権は無いから、そう書いたが、以後は協会からの「請求」は来なかった。

 2007年10月6日(土)   美味しいコーヒー
旧窪川町、現在は四万十町、四国八十八ヶ所の37番岩本寺の入り口に「淳」という喫茶店がある。仕事仲間の同僚に教えられて、夫婦で飲みに行った。古い建物にツタが絡んで、いかにも長い間続いている店という感じ。帰りに豆を買って帰る。
亡くなった父に連れられて、中学生か高校生のときに帯屋町の純喫茶、多分「園」に入ったような記憶がある。店外まで漂うコーヒーの香りをいまだに覚えている。
あの香りを探してアチコチの喫茶店を探すが、いまだに見つからない。しかししばらくはこの「淳」の美味しいコーヒーで毎朝は楽しいだろう。ホントに美味しいのだ。

 2007年10月5日(金)   工石山
長期の連休が取れて、お遍路に行く予定をしていたが、父の死と宗教の問題も心に引っかかったし、イマイチ気が乗らなかった。石鎚山に目標を定め、天候の良い日を待ったが、それも果たせなかった。仕方がない、と近場の工石山に変更。
ここは結婚後の妻の両親と家族との6人で、そして一人で行き、今回も一人での3回目となる。秋の山を楽しむには早すぎたが、それでも風はもう秋の気配を感じた。
最初の登山から義父が亡くなり、そして二人の子供が結婚。あれから30年近くの年月が経つ。
自分もあの時の義父の年齢に達しようとしている。身体もそろそろ息苦しさを覚えている。これからの山登りは、この山はこれが最後の「歩き」と念じつつ、歩くのが良いかも知れない。

 2007年10月2日(火)   ねずみ講
「講」の言葉を聴かれなくなって久しい。だが似たような詐欺行為は依然巧妙に存在している。
20代の若い頃、バンドの仲間に連れられてある「講座」に行った。部屋の中は万国旗や異常に飾り立てられ、部屋の外と中はテンションの違う違和感があったのを覚えている。自分はその時点でもう逆に冷めてしまったのだが、・・。ある洗剤を購入し、お金を払う、そして次の仲間を募集し、・・。なんかちょと違うな、という不信感と違和感が残ったのを覚えている。そして妻に「今売り出し中のこんな洗剤を知っているか?」と聞いても、知らないという。当時はねずみ講などという言葉さえ知らなかった時代の話。
現在、「円天」という詐欺行為に多くの騙された人が。ボロイ「儲け話」には必ず「裏」がある。「オレオレ詐欺」にしてもそうだ。
ちょっと立ち止まり、考えることが大切。

 2007年9月28日(金)   柔道
私が中学校入学時、父の影響で柔道部に入った。当時の「荒れて」いた最悪の中学校で、「身を守る」術を自分も持ちたかった。しかし入部一日目、柔道着を着るとすぐ練習「台」にさせられ、二日目もそれが続いた。夕食時、父との話の中でそのことを話したが、父は次の日、柔道部の先生に会って「受身の練習もさせず、・・」と抗議をしている。柔道の最初の基本は「受け身」であることは、今では私も知っているが、それをせずして、頭を打つようなことをしていたら大変なことでもあっただろう(もう少し利口になってたと言うな)。当時の父には感謝している。柔道部は一年間続け、黒帯(初段以上)を取り辞めた。
若干17歳で、練習という名の「シゴキ」を受け亡くなった序の口の時太山事件。この問題を大きくさせているのは、時津風親方の証拠隠滅を画策し私がいつも言っている「決定的な間違い」を犯したこと。いまだに「精神修養」「根性」「」という名の「暴力」がまかり通り、日本人特有の悪しき「シゴキ」が残っているのか、と思う。今回は完全な「傷害致死」事件ではないか。
司直の捜査が入るのを願っている。

 2007年9月16日(日)   冤罪
DVDで映画「それでも私はやってない」を見た。満員電車内で痴漢と間違われ、裁判までするが、最後は有罪となる。
鹿児島の選挙違反で捕まった支持者の10数人が無罪、痴漢行為で裁判に掛けられ、3年に及ぶ様々な困難に打ち勝って勝ち得た人、そして無実の罪を着せられ、刑に服した後で真犯人が解った人、・・。こうした冤罪が多すぎる。常軌を逸した強引な取調べが招いた結果。
現在の裁判制ではいろいろな問題を含んでいることが、映画の中で出てきていたが、いつ自分が法廷に連れて行かれるかもしれない危うさが日常の中にもある。
 
私の叔父に兵庫県内の警察の署長までした人がいる。満員の電車に乗るときは、常に吊革を両手で握っているそうである。

 2007年9月11日(火)   秋近し
暑い仕事の合間に、ひと段落着くといつもお茶を飲む境内がある。
あれほど木にへばり付いて鳴いていた蝉の鳴き声が聴こえない。それに替わって、虫の鳴き声が。あたりは風が通ると葉のこすれる音が走る。
もうすぐ秋が来る。間違いなく今年も。

 2007年9月9日(日)   新聞投稿
昨日の高知新聞夕刊「読者テレホン」で、「よさこい祭りのマナー」についての「50歳男」の電話投稿記事があった。
踊り子のマナーの悪さについての記事への反論です。でも再反論したい。
たくさんの人込みの中でチリを回収するのは無理、チリの回収者がケガをする、とか、万々地区商店街での踊りの期間中は、定期便バスを通さないで、と言っている。
しかしゴミ箱について、少なくても自分のチームの踊り子には、チリは出さずに持って帰ることを呼びかけるのが正論だろう。それにバスを通すのはここだけでなく、愛宕商店街も。彼はここで踊ってないから知らないのか。踊る場所(競演場)は「治外法権」ではない。祭りの前後を入れて4日間は、踊りが全てを奪い去り、そのための4日間でもない。踊り子の2万人の頭の中は「祭り一色」かもしれないが、それら以外の大多数の人は日常生活をしている人あり、主体は一般市民の生活であることを知るべき。
彼の電話内容を読んでいると、全ての中心が「よさこい祭り」であり、期間中は何をしても許されるかのような「治外法権」的な錯覚をしている。
私もチームの代表として数回会参加させていただいた。観光に協力している、踊ってやっている、という感覚は持つな、と言いたい。ほとんどの人はただただ祭りが好きなだけ、それ他の人は単なる自己顕示欲で踊っているだけのこと。踊りに「立派」な理由なんて無いのさ。

 2007年9月3日(月)   ビデオカメラ
ハイビジョンビデオカメラが10万円台前半で買える時代になった。ビデオが出て、カメラが出るとすぐ買った私。長女が小学3年生、長男が保育園年長組のときの30年前のこと。デッキ、カメラ、チューナーを合わせると70万円ほどして高価だったが、「そのとき」を記録に残せるのはその時しかない、と妻を口説いた。以後は家族の記録として撮りまくった。カメラを何度も買い替え、業務用の高価なものも購入した。
次第に撮り慣れや度胸もついて、なんと祖母や妻のおばさんの葬式までも撮った。親戚が集まると時々見ると、「このとき」だけしか写ってない人も。よくぞ撮ったもんだと今更ながら感心する。「葬式まで撮って」という後ずさりしたいほどの感覚と、冷たい視線はあったが、撮れたのは亡くなった義父が勧めてくれた、ということもあっただろう。義父も写真と8mmフィルムの愛好家だったし、そういう感覚を省くのに幸いしたし、また「その時」の重要さを解ってくれたんだろう。
 
しかし、いずれは子供達の小さい頃を結婚披露宴の会場に流して、という淡い期待は強烈な反対にあい、ボツになったのは悲しい事実。今は撮ることも少なくなった。もっぱらデシカメで間に合っている。

 2007年8月28日(火)   昔の結婚
父の死亡に際してとった戸籍抄本だが、両親の結婚日は、私が生まれてからとなっている。私が生まれたのが12月19日、結婚(入籍)したのが、12月21日となっている。どうして?と思ったが、妻の義両親もそうらしい。
昔は皆んなそうだった、とか。

 2007年8月26日(日)   頻発する殺人事件
凶悪な殺人が頻発している。一人の殺人でも死刑はあり得て当然じゃないかと思う。
ただ歩いている女性を3人の男が拉致、車の中で殺してしまう事件が起きた。殺されるまでの女性の恐怖を考えると、一人でも死刑だ、と。自首しても死ぬまで刑務所の中に。
人間の生命は尊いと思うのが当然のこと。しかしその尊さが解らない人、そうした人の生命は尊ぶ必要がない、と言うのは激しすぎか?

 2007年8月25日(土)   法要
49日の法要を行った。
なんとか僅かな情報を集めて、父の足跡を探している。
父の死亡に際して、戸籍抄本をとった。
大正12年11月9日、樺太恵須取郡搭路町大字搭路字北(比?)一線5番地で出生 父善吉届出 同月12日受付入籍
その下に 父 亡 善吉 母 亡 ツヤ 長男
父の若い頃でも、行きたくなかったんだろうか、釧路に。行けなかったんだろうか、樺太に。
 
戦争のツケを永遠に払ってもらうこともなく逝った父。息子の私でさえ悔しくてたまらない。

 2007年8月20日(月)   今年も頑張っているぞ!
暑い中、仕事に頑張っている。
シャワーを浴びる前にシャツを脱ぐと、ムッとする汗の匂い、そして身体を見ると制服とTシャツを通して、日焼けの跡が入っている。ふーん、陽の強さはシャツ2枚も通すの、って。それでも同じ仕事をしている仲間の中で、熱中症で倒れたという話を聞かない。
想像を絶する(笑)強い日差しを浴びて仕事をしているが、心は軽い。身体は全く辛くない。活き活きと仕事を楽しんでいる。
夏は暑くて当然こと。

 2007年8月17日(金)   猛暑?
日本列島が近年になく猛暑に包まれていると言う。しかしここ数年は寝苦しいということは一度もなく、極北のDNAを持つ私でさえエアコンなしにスウスウ眠ることが出来る。毎年のように「今年は特に暑い」と言うが、私にとっては「今年も涼しい」である。
ひねくれているんだろうか。

 2007年8月15日(水)   「ココシリ」と「祖国」の2つの映画
「ココシリ」
チベット最後の秘境の地、ココシリ。ここに生息するチベットカモシカは、毛皮目当ての密猟者たちによる乱獲のせいで数が激減。このため、地元では有志による山岳パトロール隊が結成され、密猟者たちを取り締まる命懸けの活動を繰り広げていた。そんなある日、隊員の1人が密猟者に殺害される事件が発生。その事件を調査すべく北京から派遣された青年記者のガイは、パトロール隊のリーダー、リータイに取材を申し込み、密猟者たちを追うパトロール隊の旅に同行することとなる。しかしそこには、ガイの想像を遥かに超える過酷で厳しい現実が待ち受けていたのだった…。
 
彼らは給料ももらえず、様々な経費は自分達でまかなっている。最後は捕まえた密猟者から取り上げた毛皮を売って、ガソリン代まで。矛盾する行為に、密猟者を捕まえるにはこれしかない、と。映画の中で「チベットの巡礼僧は、服も汚れているが、その気持ちは高貴である」、との例え話も。
チベットの壮大な山々の美しさは素晴らしいし、それに事実を元に映画化しているというのも、私の胸を打つ。
「祖国」
出張で、ある南の島を訪れた商社マン・小野寺が出会った現地人パイロット・レオ。3ヶ月後、小野寺を訪ねて来日したレオは能登へ行くと言い残し、姿を消してしまう。 レオとはどんな過去を持つ人物なのか。
先日WOWOWで再放送されたが、原作と監督が山田洋次。この映画を見るならオフィシャル・サイトは絶対に見ないほうが良い。

 2007年8月11日(土)   よさこい祭りの自主規制を
祭りに参加するチームは、商工会議所からの参加要綱を元に、音楽、踊り、地方車などを作る。特に地方車(じかたしゃと読む 音響設備を積み込んだトラック)は道路使用許可願いを地元警察署と、帯屋町商店街の通行許可を受け持つ高知署に提出している。トラックへの飾り付けをした状態で、高さ(3.8m.)と車幅制限が決められているし、特に高さについては、煽り(掛け声)を言う人が居ればその人が立った状態での制限で、その全体の見取り図を警察署に提出する。音楽と踊りは「よさこい」のメロディーを必ずどこかには入れること、鳴子を持つこと、踊りが前に進まないとか後戻りはしない、などなど。
それが昨日は、地方車の移動中にも道路の高さ制限バーに頭をぶつける事故が起きたが、今回の事故はとうとうやったか、の感がぬぐえない。あの追手筋の本部競演場においても、地方車の土台が3.8mで、その上でマイクを持った人が立ち、踊り子に煽りを言っている状態。完全に道交法違反。それに他のチームのことを考えない、前に進まないチームの多いこと。特にそんなチームがかつての私達のチームの前を踊っていると、こちらのチームの前後が詰まってどうにもならなくなることが再々。もうひとつ踊り子のマナーにはホトホトあきれてしまう。待ち時間の間にタバコを吸うのも良いが、そのまま路上に捨てる、飲んだジュースの空き缶も他人の玄関の前に。それに踊り子のメダルについても、メダルをもらった人が次の日にわざとメダルを掛けないで踊ると、その人は再び掛けてもらうことになる。チームのスタッフはなるべく全員にメダルが行き渡るように腐心しているのに、結局2つも3つも首にぶら下げて悦に入って喜んでいる人も居る。
 
「自由」がよさこいをここまで発展させてきたが、チームのスタッフはそのあたりを考えなければ。いずれ自分達で自分達の首を絞めることになるんじゃないかと。
「よさこい」発祥の地で、私が常々思っていること。

 2007年8月2日(木)   食事時
昼の昼食(笑)をレストランで食べていると、隣の席に座っていた人がクチャクチャ鳴らして食べている。
こちらは静かに本を見ながら食後のコーヒーを飲んでいるのに、イライラしてくる音だ。気にすると余計気に障る音。
小さい頃の彼のシツケが出来てなかったんだろうな、とか、誰か知り合いから彼に注意もしないのか、とも思ったする。
お返しに、とこちらもコーヒーを飲むのに聞こえよがしに熱くもないのにズーズー鳴らして飲んだが、心に残るのは何もない。彼と同じ「土俵」に上っただけで、むなしさが・・。

 2007年7月13日(金)   ごあいさつ
足元の悪い中、また公私共にお忙しい中、父、光昭の葬儀に参列いただきまして、ありがとうございます。
父、光昭は大正12年11月9日、樺太、現在のサハリンで生まれ、父は善吉、母はツヤの子供として産まれ、早くして亡くなった兄と妹との3人兄弟として育ちました。
この時代の人はそうであるように、父も戦争に人生を翻弄され、家族ともドサクサで離れ離れになってしまいました。
そして高知に来たのはひとりででしたが、今は12人の姓を名乗る家族まで増え、この地にしっかりと根付いています。
父の生前よりの希望は「簡素な葬式」でしたので新聞にも掲載せず、また自宅から送り出してやりたいという家族の気持ちから、何かと皆様にはご不便をお掛けしました。
話が後先になりましたが、父が生前受けたご厚情に感謝いたしますと同時に、残された家族への変わらぬご厚情をお願いいたします。
本日はありがとうございました。
 
強い雨の降る日、そして体格の良かった父が小さな骨壷に納まった日。
(写真は葬儀の日の朝、父の棺を抱くようにして「すまんすまん」と話しかける母)

 2007年7月11日(水)   父の死
朝1時39分、父が逝く。
面会時間やいろんな制約がある集中治療室(ICU)から、一縷の望みも無くなり、一般病棟に移される。ここではもういつ死んでもおかしくない、ただ「そのとき」を待つための部屋。それでもいつも父の側にいてあげることが出来ると、妹と話し合った結果。
パンパン腫れた手、足の裏には黒ずんだ斑点が出来だした。心臓から遠い場所から「死の兆候」が出るというのは本当のことだろうな。それでも死ぬことは無いだろう、と希望を抱いていた母に、「何故一般病棟の個室に移ったか」の説明も、「そんな話は聞きたくない」と叫ぶ母に、最後はうやむやにしか話が出来なかった。血圧32〜13ぐらいのとき、そしてまだ時間はあると感じ真夜中に一時帰宅、朝になると妹と母と交代する予定が、帰ってからの耳元に置いた携帯電話が鳴っても気が付かず。気付いたとしても父の臨終に間に合わなかった。
 
父の死後、あわただしく過ぎる多くの時間は、お葬式の準備の時間に費やされる。それは遺族の悲しみに満ちた気持ちとはまったく関係なくてどんどん進む。

 2007年7月9日(月)   容態の急変
父の様態は、徐々にではあるが回復に向かっていると信じていた。様態が急変したのはこの日だった。
母と妹は、ベッドで意識も無く横たわる父の耳元に向かって、頑張って、もう一度話がしたい、・・などと30分間の面会制限時間に呼び続けている。私としては、悲しいけれど、一ヵ月半も頑張ったんだし、もうゆっくり休んで、と言ってやりたいが、言葉に出来ない。父の生まれたサハリン(樺太)のことから始まって、釧路のこと、・・全てのことを訊いてみたい。息子としてその勤めを果たせずに父が逝ってしまうのだろうか。でも、仮に今の父が元気になっていくら時間が在ったとしても、話が尽きるということは無いだろう。それならもうそのままそっとしてあげたいと。
人工透析の装置もはずされても、父と寄り添うことも許されず、病院の待合室で夜通しで待つ身は、何を待っているんだろうか。こうして重苦しい時間を費やしながら、心の中に父の死を受け入れる準備をしているのかもしれない。
血圧と体温が低い。先生から、一両日がヤマだと聞いた。

 2007年7月6日(金)   ネットでCD
来た来た!待ってましたよ、このCD。ネットでやっと見つけたジャズのCDは「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンド」の「ロード・タイム」と笠井紀美子とマル・ウォルドロンとの共演の「ONE FOR LADY」です。
ジャズのLPレコードを買いあさっていた頃のお気に入りの盤なんです。特に「ロード・タイム」の冒頭の「チューニング・アップ」は何度も聴きましたよ。そしてレコードコピーをして、自分のフルバンド(16人編成)の譜面にして、コンサートにも使いました。今はプロの書いた楽譜も揃う時代だけど、30年前当時はどこかで調達しなければならなかった。どうしてもやりたい曲はそういう写譜でしのぐしかなかったな。頑張ってどんどん譜面を書いていた時代、若かりし頃の自分を思い出す。
そういえばLPレコードで買ったものを、やっぱりCDでもたくさん買い揃えているのです。

 2007年7月5日(木)   父のその後
父は喉の切開手術をして、一ヶ月も喉に通していたチューブをやっと外した。その後の経過は良いようである。それでも薬で眠り続けている父に話しかけても反応が無い。
相変わらずICU治療室から出られないで居るが、一般病棟の話も先生から出たし、徐々に、徐々に良くなるのなら、待つしかない。

 2007年7月4日(水)   父親の子供3人殺し
京都市の民家で2日早朝、兄姉3人が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された父親で無職の容疑者(42)が「6月分の現金を母親からもらっておらず、妻に渡していない」と供述していることが、調べで分かった。容疑者は妻には働いていると偽り、これまでは母親からもらった現金を給料と偽り妻に渡していた。 容疑者は、6月末に妻から「今月(の給料)は?」と聞かれ、「週明けに渡す」と答えていた、という。府警は、妻に渡す現金のめどがたたなくなり、家族に無職がばれるのと将来の生活不安から、子ども3人の殺害を決意したのではないかとみて、容疑者を追及している。 (時事)
家庭だけがゆっくり気の休まる場所だと思っている自分は、あからさまに心の中まで「露出気味」。家庭ではケツの毛まで見られているような「裸状態」といえる。男が家庭で「裸」になれなくて、どこで「裸」になるんだと思う。
深い原因がどこにあるのかまだ明らかにはなってないが、家庭を「演じなければならない場所」としている男と女は、不幸な長い時間を過ごすことになる。

 2007年6月30日(土)   「雨の物語」
化粧する君の その背中がとても
小さく見えて 仕方ないから
僕はまだ君を 愛しているんだろう
そんなこと ふと 思いながら
 
窓の外は雨 雨が降ってる
物語の終りに こんな雨の日
似合い 過ぎてる
 
雨が降り続くと、こんな歌も聴いてみたくなって。
「雨の日」の物語もいろいろあって・・。

 2007年6月16日(土)   梅雨の合間
カラッとした梅雨の晴れ間の日。すがすがしい仕事の時間を。
一昨年は「三世代の父の日」を味わい余韻が残ったが、今年は無理だな。
ほとんど毎日のように病院には通っても、まだまだベッドで眠り続ける父。自分たちの思いとは裏腹に、喉からチューブを通され、依然として麻酔で眠り続ける父の姿は変わらない。
 
一人でベッドで頑張っている父、明日の「父の日」を祝ってあげられなくてごめん。
明日は雨だろうか。

 2007年6月15日(金)   今年も鉄砲ユリが
今年も咲いてくれましたね。玄関脇のモミジの横に、鉄砲ユリは咲いてくれました。あまりの美しさのため、切り取るのが惜しく、そのまま朽ち果てるまで咲かせませう。(笑)
出勤前、その香りを嗅いで頑張ってきますよ。帰宅後は花弁に鼻をつけてその香り嗅いで、玄関から「ただいま!」です。
なんか、ホトホト好きだと言うことがわかりましたよ、鉄砲ユリ。
感謝していますよ。

 2007年6月12日(火)   借り乳
私の仕事をしている町に、ヤギを飼っている家がある。そのヤギを見るたびに思い出す。そう、自分も祖母が飼っていたヤギの乳を飲んで育ったな、と。そのまま連想してもっと小さい頃は、近所の川上のおばさんの乳を飲んでいたそうだ。いわゆる(笑)「借り乳」。私がもの心がついた頃は、でっぷりと太ったお婆さんだった。もう一人で住んでいたから、旦那さんは昔に亡くなられたんだろうな。
私の血の中には、川上のおばさんとヤギの血が流れていて、多くの動物と野菜の生命を奪って今の自分が生きられているんだな、と。
それと同時に多くの人の優しさに囲まれて生きているんだな、と。
 
ヤギを見ただけで、そこまで連想してしまう。

 2007年6月8日(金)   漫画というには
漫画はほとんど見ないが、この「ビッグコミック・オリジナル」(月2回発行)だけは、喫茶店にあれば見ている。
ナンセンスを絵に描いたような「玄人のひとりごと」、そして少しは考えさせてくれる「弁護士くず」と「黄昏流星群」。
今回の「弁護士・・」の冒頭、こんな話が。
愛し合う若い夫婦、妻が夫にプレゼントをしようと考え、夫が大切にしている懐中時計、その鎖を買おうと思い、自分の長い髪を切って売り、その鎖を買う。夫も、妻に何かをプレゼントしたいと思い、夫は妻のキレイな長い髪に挿す、きれいな櫛をと、大切にしていた懐中時計を売り、櫛を買い求める・・。なんか好きですね、こんなホンワカとした話は。
「黄昏・・」は、女性オペラ歌手の演奏会に、場違いな仕事着で聴きに行っている老人、彼は一人身で70歳の退職前。しかもガンの告知をされている。彼の仕事の仲間が、退職のプレゼントをしようということになり、彼がファンであるその歌手を呼ぶ小さな演奏会を催す。その歌手は、まだ売れっ子でもなくて、有名な指揮者との会食を断って、見ず知らずの小さな演奏会に出席する予定・・。
というもので、この先が面白そうだ。
漫画というにはいろいろ考えさせられて・・。

 2007年6月6日(水)   父の姿
仕事が済んだ後、病院にほとんど毎日行っている。私が若い頃の元気な父の姿は見る影もなく、喉に通されたチューブが痛々しい。麻酔を掛けられ、意識が無く、眠り続ける父の姿を、手を握ったり眺めたり、集中治療室(ICU)の面会時間30分が真空状態のように静かに過ぎるだけ。
他人といるときは涙も出ないが、一人になると無性に泣きたくなる。
治るならあれをするから、これもするから、どうぞ、と屈折した変な願いも結局は自答の空虚、むなしさだけが取り残る。
せめてもう一度元気になって欲しい。そうすれば話したいことが山ほどある。したいことが山ほどある。

 2007年5月28日(月)   悲しみは突然に
つたない足取りを見て、そろそろ「覚悟」をする時期かも、と感じていたが、・・。
 
昨日、入院している母の様態を見る前に、実家に寄ってみた。いつもの通り酒を飲んでいる父の側に、フッと気付くと、両親の若いときのアルバムがあった。
その後の、何時になく母の入院している病院に行く、と言う父。父の車椅子と横になったままの母は病院で逢う。父からの「不自由はしてないか」「欲しいものはないか」「早く帰って来いよ」の話掛けに、母は何故か泣くばかり。そっと二人だけにして、病室を離れた。そして実家から帰ろうとする私達を何時になく止める父。もっと話をしたかったのかも。思い返せば、「いつもと違う」状況があった。
その日の夜、父は倒れた。妹が発見して救急車で病院に。
今日は少しは元気になって病室に移動かも、という淡い期待を裏切られ、集中治療室で喉に酸素のチューブを入れられ、意識の無いままの父を観た。
 
病院からの帰り道、重苦しい気分のまま食事をしていると、テレビでは島田伸介がバカを言っているのが神経に障る自分。
3年ほど前、同居していた義父が亡くなったとき、妻はどれほど嘆き悲しんだだろうか、たずねてみたい。
「その時」が来れば、妻の膝の上で泣くだろうか、自分に聞いてみたい。

 2007年5月26日(土)   「かつお祭り」その後
今日は休みの妻から携帯に電話が入る。
中土佐町役場の「かつお祭実行委員会」からの手紙と共に、「純平」というお酒が送られてきた、と。
 
2日前、役場に電話を入れたのは、腹立ちまぎれではなく、「来年のこと」もあるし、「その関係者」からも電話を入れるように勧められた経緯もあったから。でも住所と名前を聞かれたときには迷ったが、単なる忠告でなく、それを明かす事によっての「ひやかし」でもないことを伝えたかったから。
手紙は手書きの丁寧な文面で、その後の私の体調まで気遣ってくれていた。そして反省と今後の対応、来年の「かつお祭り」へのお誘いも。
 
今夜の食卓には、アサヒビールではなく、この酒を常温で飲む。カラッとした少し甘めの、飲みやすい酒だった。
友達を募って来年も行きますよ。役場の対応は、「危なさそう」なのに食べた私が却って恐縮する、今回のてん末でした。
それに近い日に大正市場に行き、かつおを買ってきて、自宅でタタキを作って食べますよ。

 2007年5月20日(日)   かつお祭り
中土佐町(もちろん高知県)の「かつお祭り」に友達とワイワイ行ってきた。あの狭いところに17000人が集ったという。
それにしても・・。
みんなのかつおの刺身はそうでもなかったが、どうも私の刺身はチョット、だった。てきめん一時間ほどたつとお腹が叫びだした。そういってもどこのトイレも長蛇の列。会場から遠く離れたトイレは幾分空いていたが、いざ、と入るとなんと「小」しかない。女性の列に並ぶわけにも行かない。この期に及んでもなお、理性が働いていたすご〜い自分に驚嘆!ガマンできない状態がいよいよ近づいてきた。歩く足もおぼつかない状態で喫茶店を見つけて入る。しかし運悪く誰かが入っている。・・・ガァーーーン!
 
なんとか最悪(笑)は免れた。おそらく一万数千食は作っている勘定だから、ひとつや二つそんなのがあっても仕方が・・・とはあとから考えること。
それを食した人は、絶対在ってはならないこと、と心底から、悲痛な叫び(笑)として思ったりもする。
(こんな話題で失礼しました!)(@_@;)
 
こいのぼりは、鯉でなく、かつおが大空に泳いでいた。

 2007年5月13日(日)   宇高連絡線のうどん
映画「UDON`」のDVDを借りて観た。妻といっしょに観ていると「ホラホラ、あそこだ」って行ったことのあるうどん店がいくつも出てきて楽しませてくれた。
配役の中で、宇高連絡船のうどんにこだわる人が居たが、あれには多いに納得する。
ずいぶん昔の話、いつかだったか旅行の帰り道の寒い夜、高松に連絡船が着くと、一目散で坂道を駆け下り、高松駅構内のうどんを食べた。連絡の列車に乗るまでの短い時間、フーフーしながら食べたが、とても美味しかった。そして新婚旅行の四国を出るときの連絡船内のうどん。冷たい風が吹きすさぶ甲板で夫婦で食べた。長い髪を風に乱して、それでも笑顔で食べる写真もあるが、あのうどんも美味しかったなぁ。
 
いろいろ個人の趣向もあるし一概には言えないが、あの時のうどんは、味だけの好みでは片付けられない美味しさだろうと思う。

 2007年5月11日(金)   宇高連絡線
52年前(1955年、昭和30年)の5月11日はあの紫雲丸が瀬戸内海で沈没し、南海中学校の生徒が28名無くなった日。
52年前の今日の午前7時前、高松港を出航した宇高連絡線「紫雲丸」が、深い霧の中、別の連絡線と衝突し沈没した。犠牲者は修学旅行中の南海中学校生徒28人を含む168人。あの当時「もはや戦後ではない」といわれた時代。戦争の傷跡がやっと癒え、それでもみんなが裕福ではなく、知人に借りた旅行カバンなどを提げて旅行に行った生徒が多く、衝突後にそのカバンやお金などを船室に取りに戻り、亡くなった者が多かったと伝え聞いた。
同じ中学校に通った私は、毎年のこの日の慰霊祭に在学中には参加した。記念碑には亡くなった生徒全員の名前が刻み込まれている。
私が中学生になった頃、まだまだ事故の記憶が新しかった。四国から瀬戸内海を渡る修学旅行に行くとき、両親から口酸っぱく言われた言葉。「もしそういうことになっても、土産とかカバン、お金などは放って、自分が助かることだけを考えろ」と。
我が子を亡くした親の立場になれば、何年経っても悲しさは癒えないだろう。年老いた列席者の親の顔は、いまだに涙で濡れている。
 
宇高連絡船・・岡山県の野と香川県の松を結ぶ連絡船。瀬戸大橋が出来て航路の廃止となった。
写真は南海中学校校門付近にある「紫雲丸遭難記念碑」。

 2007年4月29日(日)   名曲に「名」編曲
またしても音楽の話。
いつか、知り合いのバンドの練習に「遊び」に行ったとき、ラテンの曲の楽譜を渡された。ラテンの名曲、「マイアミ・ビーチ・ルンバ」と「ある恋の物語」だ。でも楽譜を見て、んん?
こりゃ私が30年以上前に書いた譜面ではないか。しかも兵庫県の自衛隊か警察かなんかの音楽隊のネーム判を押してある。どうして?
このアレンジは私がジャズのバンドを作る前、若い20歳そこそこの頃にラテン専門のバンドに参加していたときに書いた曲。当時の自分の悩んだ部分もそっくりそのままだ。自分の書いた譜面は忘れようとしても忘れることが出来ない。もちろんまったく同じ。
この2曲は当時の私にとっての名編曲だったし・・。多分どこかで誰かが私のアレンジをコピー(昔は手書き写し、写譜してた)したものが、アチコチのバンドを廻りまわって再び自分の元に帰ってきたものらしい。
ふーん、自分の書いた譜面が兵庫県まで行ってたの、っていうカンジ。どんなバンド、どんな人たちが演奏していたんだろう。ジャズの曲も含め100曲以上の編曲をした。それら全てが今は私の手元に無いが、いまだにコピーが出回って、アチコチで演奏しているんだろうか。兵庫県からまだ遠くにも行っているだろうか。
でも、こうして巡り巡って再び手元に戻ってくるのは、懐かしい友人に出会ったような感激だね。今の私なら、の手直ししたい部分もあるが、今はそっとこのままで・・。

 2007年4月22日(日)   賑わいの「高知」
最近のニュースで賑わい(笑)を見せる高知県。
「ポンバル飛行機」
前車輪の出ない飛行機機の、高知竜馬空港胴体着陸。だから、だから、くどいが「だから」飛行機はイヤなんだよ。
「東洋町」
高レベル放射性廃棄物最終処分施設問題は、東洋町長が独断で文献調査を受け入れた。こういう大切な問題を何故町長の独断で決めるのか、また決められるのか。
最初に高知県知事の、東洋町長への撤回の申し入れ、徳島県知事や近隣の市町村の議会までも反対の意思表示を次々と行っている。高知県議会も、住民と議会の理解が得られていない現状での文献調査は「開始すべきでない」とする決議案を取りまとめた。それに高知大学教授が「処分地には不適」との指摘。多くの人の反対を無視し、町長がかたくなに推し進める理由は、「お金」だけの問題ではなくひょっとしたら他にあるかも知れない。東洋町議会の、平成19年度当初予算の否決、二度にわたる町長辞職勧告決議、そして町長のリコール運動まで発展したが、これに対抗して町長は辞職し、選挙となった。
最近も古くからもあったが、電力会社はもともと原発事故隠しの体質は持っていた。そうなると最終的には人為的行為(ミスじゃない)が「安全」を脅かしているのではないか、確信犯ではないか。いったい安全とはなんなのか、と不信感を抱かせるには充分なニュースが多すぎた。
私達の生活に電気は必要不可欠。現在の電気の需要に対して原子力も必要かもしれないが、あえて危険と隣り合わせ原子力を使い続け、将来にわたっての「負」を残す原子力は「必要悪」と言い切ることが出来ない。仮に私の家庭が風力発電から得た電力のみを選ぼうにもその選択肢は無い。
夏も暑いのをガマンする、テレビも観られる時間帯制限を設けても良い、そういう多少の不便は覚悟するから、子孫代々に重い「宿題」を残したくないと思っているが・・。
 
今日はその東洋町民の審判が下る日。

 2007年4月21日(土)   新車が到着
5年半乗っていたウィンダムを下取りに、カローラフィルダーに乗り換えた。契約、注文してから工場発注となり、半月経った今朝、その新車が届く。排気量はウィンダムの3000ccから1800ccに落としたし、車の色も初めて黒にした。
思い返せば、バンドに熱中し、オーディオに熱中し、自動車免許を取るのにも皆んなよりはるかに遅れ、20代の後半に入っていた。
その後すぐ中古で買ったカローラ1200cc、そして中古のカローラレビン1600cc、以後新車のブルーバード1800cc、カローラ1500ccはサンルーフだったな、FRに乗りたくて年甲斐もなく買ったシルビア2000cc、その後のウィンダムと続く。
このウィンダムにはあれこれ思い出も多く、乗り続けていたかったのだが、税金、ガソリン、その他のもろもろのことを考え、今の自分には贅沢で無駄な車だと思うようになった。
公務員の時は、月賦の借金をしてもいつでも返せる、湯水のように溢れ出るように思っていた給料も、今の身分では節約が必須。そろそろ根底から考えを変えなくては、とも思ったりもする。ひょっとして今回の新車もその贅沢な部分かもしれないが・・。
たくさんの思い出をありがとう。
(写真はウィンダム。「別れの朝」に写真にパチリ!)

 2007年4月10日(火)   山にでっかいブロッコリーが!
最近特に一番鮮やかな柿の葉は、まさしく春の色をかもし出している。遠くの山々も、冬の重い緑から淡い色に脱皮、変化するこの頃。最近はこんな変化でさえ、可愛くさえ感じる。うーーん、なんて表現したら良いのかな、この山々の変化は、なんて毎年のこの時期はいつも思っていた。それが今日は急に、何故か思いついた。
そうだ、ブロッコリーの色なんだ。
大きなブロッコリーをアチコチに植えた山々のような変化なんだな、と思った。それだけのこと。

 2007年4月8日(日)   今年の花見
グルグル山で、桜を愛でながら酒を飲む。
丁度一斉に行われた地方選挙のウンチクを肴にして。
私達がこの町に引っ越してから、30年ほどの付き合いをする仲良し3人組夫婦。男同士ではクセがありすぎて長続きをしなかっただろうと確信を持って言える。夫婦で付き合ってきたからこその長続きだよ。
マラソン、選挙、よさこい、・・。
 
そうだなぁ、話せば長い。いろいろあったな。

 2007年4月5日(木)   休日の桜
庭のボケの花が咲き、雪柳が咲き、あちこちと色鮮やかな色彩を放つ頃、遠くの山も深い緑から、黄色が強くなり、そして白粉を塗ったような柔らかさが巡ってくる。そうすると待ちに待ってた桜の開花。
非番休日の昼過ぎ、誰も来ない近くの通称グルグル山(マイマイ山とも言う)に登る。ハラハラともう散り始めた桜を眺めながら、シートの上でノンビリとした。もちろん妻の作ってくれた弁当とビールを提げて。
昨日からちょっと肌寒いが、防寒着を着るとそれでも背中がポカポカと。
寝転がると青い空に映える桜か、いいなぁ、春爛漫だなぁ。
時おり吹き付ける強い風に、たまらず散り急ぐ桜の花びらを目で追いかけていたりすると、酔いのためかウトウトと少しの時間眠っていたようだ。
フッと気付くとヨダレを垂らしたみっともないオンチャンが、満開の桜の花の下で目覚めた。

 2007年3月9日(金)   同僚
勤めたのも、研修所も、そした退職したのも同じ日の同僚が居る。彼は去年の4月からは仕事をせずにノンビリしていたが、今日から私と同じ職場に復帰した。辞めたときも、今の立場も同じ。
今しばらくは、内勤の雑多な仕事を手伝っているが、そのうち外に出るだろう。彼も早く外に出たいと言っている。
 
彼も、これほど仕事が楽しいということを知るだろう、これほど身が軽くなるんだ、ということを知るだろう。
そしてその後、私のように生きていることにも感謝、・・するだろうか。

 2007年3月8日(木)   高知の恥・・
「サビきった機械」
女性を「産む機械」などと発言した現職の厚生大臣が居たが、その話を踏まえ、「社民党首は機械のさびきった、子供の産めないおばさん連中を引き連れて、『大臣辞めろ』と言っている」発言をした、とんでもない現職の市議会議員が居た。橋本知事も「いまどきまだこういう考えの人がいるかと思い、少々あぜんとした」と言っている。彼は市議会の辞職勧告を無視。市民の税金で食べている議員で居続ける神経を疑う。
「婦女強姦」
香川、愛媛、高知の女性6人に乱暴した高知市の男が、有期刑の最高の30年の判決を受けた。今は47歳だから、30年後は77歳になる。きっちり30年刑務所から出すな、と言いたい。それでもこういう男は出てきても再犯を繰り返す。性癖は治らないだろう。
 
この二つの件は、女性を「物」としてしか観られない男達の、根っこは同じ事件。

 2007年2月24日(土)   大腸ガン
って書けば驚くが、そうではない、・・と思う。ここ3週間ほど下痢が続く。それも昼過ぎに、だ。
 
数年前、同じ状態で心配になり病院に行ったことがある。そうするとあられもない格好をさせられ、触診といってアソコに指を突っ込まれた。オカマでもないのに初体験の辱めを受けた。
そういえば、新婚の若い頃、差し込むようなお腹の痛みと脂汗、立ってもいられない、横にもなれない痛みに、病院に行った。そうするとスッポンポンにさせられ、女性(当然だ!)のお産の格好をさせられた。いわゆる(笑)大股開き状態。それなのに看護士は近くをウロウロする。おいお、ちょっとは遠慮をしろよ、とは言えなかった。先生はチンコを握り、先からカメラを入れた。おいおい、そこは入れるところと違う、出すところだ、とも言えない。痛いし、恥ずかしいし、・・。結局、膀胱結石との診断。原因はストレスがあるかも、とのこと。その当時はバンドのことで悩んで(笑)いたから、それが一因かも。その後の一週間のオシッコには痛みが伴う。チンコの根元から先までの茎の中には、外に向けてのヒダがあるとのことだが、カメラを逆に入れたことによって、正常に戻るまでの間は痛いのだ。そんなとても恥ずかしい、そしてとても痛い思いを泌尿結石と合わせ3度味わった。
 
下痢が続いてもガンではない、と信じている。病院には行かない。

 2007年2月22日(木)   楽譜
そう、本格的に書いていたのはいつの間にかもう20年ほど前になるなぁ。久々に曲のアレンジをしようかと、ペンをとったのは良いが、うーーむ、進まない。
ジャズが好きで、神経をすり減らしてまでバンドの練習に掛けた青春。ムチャクチャペンが進むときは、朝まで寝ずに書くのはいつものこと。一つの曲に16人分の譜が必要でも、うん、いくつになっても楽譜なんかいつでも書ける、曲からのコピーもすぐ出来る、・・なんて考えていたのがおろかだった。
 
あれから20年も経てば・・な。
でも苦労しても良いや、この楽譜を演奏することを思うと、他人では味わえない喜びがあるからな。

 2007年2月21日(水)   52番太山寺
先日の読売新聞の記事。
太山寺への坂道に元遍路宿の布袋屋があり、その庭に「ねじり竹」と呼ばれる、約20本の竹が1mの範囲にひしめくように生えている。それぞれ2,3本ずつ根元や先端部でねじれ、絡み合っている。
 
そこにはこんな話が伝わっている。
昔々、布袋屋を訪れた男女二人のお遍路が杖を玄関に置いて、部屋に入ろうとしたのをお坊さんが見て注意した。「杖はお大師様の化身、自分の足を洗う前に杖を洗うもの」
二人はその教えに従い、杖を洗い場に持って行こうとしたが、不思議なことに二本の杖がねじれあって離れない。
実は、二人は不義の仲だった。事情を知ったお坊さんは、「心を新たにして、二人別々に遍路を廻れば、大師様も許してくださるだろう」と諭し、その青竹の杖を庭に挿した。
 
というもの。以来、お遍路さんの杖は、青竹を使わなくなったという。

 2007年2月18日(日)   ミーハー
日曜日の朝のノンビリした食事時。テレビのスポーツニュースでは、先日の長嶋茂雄さんがふらつく足取りで宮崎の球場の土を踏んでいる映像を写していた。
 
何を隠そう、この私「長嶋命」のミーハーなのだ(笑)
90番の監督時代、ナイターの中継が9時半に打ち切られても、どこかでやっているラジオ放送を、時々放送が途切れるラジオに耳をくっ付けて聞いたものだった。
涙が出るほど悔しい思いをした監督解任劇、以降の12年間はアンチ巨人で通した。私にとっては暗い時期だった。一時期「大洋ホェールズ(現・横浜ベイスターズ)の監督に就任か」とウワサが流れたときは、大洋の缶詰めを大量に買ってきて、これまた長嶋さんのファンである叔父と酒盛りをしたものだった。
33番の監督時代、開幕戦は私にとってはお祭り。放送の始まる前には風呂にも入り、ビールも用意、嬉々としてテレビの前に座っていた。毎年の宮崎のキャンプには、夫婦で旅行を兼ねて行った。お陰で九州は行ってないところがないほどだが、2月中旬の九州ばかり、というのが難かも。それに親戚に頼み込んで、プラチナペーパーと呼ばれる甲子園の阪神戦入場券も手に入れて、毎年見せてもらった。
2000年は背番号を33番から3番に変えた年だ。「3番の初お披露目はいつか」なんてニュースでも流れていた。その年も球場に足を運んだが、黒っぽいウィンドブレーカーの下の3番は見ることが出来なかった。3番の背番号を見たのは、次の日の福岡でのホテルでのニュースだった。運のなさの悔しさにへたり込んでいた。
その後のオリンピックの前の病気、不自由な手で書いた日の丸の「3」の文字、あの旗、100万円までなら買いたいな、とも。
 
その久々に姿を見せた長嶋さんのニュース、まだまだ元気というには程遠いが、背筋をピンと伸ばしたスキのない姿はまぎれもなく、あの長嶋さんだ。私は口の中に入れた朝食を噛みながら、ガマン出来ずにうれしさで涙が溢れていた。しかしそんなみっともない姿をしっかりと妻に見られてしまった。

 2007年2月5日(月)   毎朝のこと
そろそろ夜が明ける。
エアコンはもう稼動していて、少しは暖かさを感じるリビング。石油ストーブに火を入れる。コーヒーポットはガスの強火で。昨日の新聞を片付けて、今朝の新聞を取りに行き、メダカにもエサを・・。コーヒー豆を挽いてペーパーフィルターの中に。待ちかねたポットがわずかに泡立ち始めた頃に静かに下ろし、静かに静かにペーパーに湯を注ぐ。あたりにコーヒーの香りが漂い始めた頃、一日の始まりです。
こうして今日も一日が始まりますよ。
今日も、せめて今日一日は楽しく頑張って! って。

 2007年2月1日(木)   散髪
私は以前、しばらくのこと散髪に行かなかったことがある。
散髪に行かなくなったのは特別な理由はないが、強いてあげれば、カットの後の洗髪がイヤだし、いかにも散髪しましたというあれこれ匂い付きの整髪料もイヤなのだ。洗髪のときは、頭に掛ける湯はいいが、その湯が首筋に掛かるときにはゾクゾクするような感覚が起きる。自分でシャンプーするのはなんでもないのに、他人に首筋に湯を掛けられると、アーーたまらない、っていう感覚。それじゃ単なるカットだけで良いんだ、、と思い以後20年ほどは妻がカットをしてくれた。01年5月には事情があり、やむなく散髪に行ったが、それ以来2ヶ月に一度の散髪屋通いを続けている。しかしいまだにあのシャンプーの感覚だけは慣れないでいる。困ったもんだよ。
それがどうした、と聞かれても、これも返答に困ってしまう話でした。

 2007年1月29日(月)   なんとかなるものさ
逢うたびに「しんどい、仕事がきつい、辞めたい」と漏らす同僚がいる。「そんなに辞めたければ辞めたら?」と言ってやる。すると必ずの決まり文句「出来ればそうしたいけど、借金があるし子供も片付いてない(結婚してない)」と言う。
後のことは考えなくて良いよ。思ったよりもなんとかなるものさ。まともに仕事をしてない連中でも、世の中皆んななんとなく食っているじゃない。なのに30数年勤めた自分たちが、飯も食えずに路頭に迷うなんて在るはずがない。
身体の健康よりも精神の健康を考えなよ。今のままの精神では病人状態だし、絶対に不健康だよ。そっちのことを考えたら?
 
彼にはいくら言っても解りっこないだろうな。退職後の私がいかに毎日を楽しんでいるかが。同じ仕事をしていても、だ。

 2007年1月23日(火)   あれから?今は?これから?どう?
心が純で 真っ直ぐで キラキラ光る瞳(目)をしてた
はにかみながら語る 夢 大きい
 
きみもおれも 昔はそんな子だった
遠いころの お互いに 乾杯
 
涙は熱く とめどなく 愛するゆえに流してた
傷つきながら抱いた 恋 切ない
 
昨日 今日と 二日も 同じ夢見た
笑い 泣いた あのころに乾杯
 
きみも おれも あれから どこで 何した
めぐり逢いの しあわせに乾杯
 
「あれから」歌・小林旭 作詞・阿久悠
 
そりゃあ、オレだって、たまには演歌を聴くときもあるよ。
男も女も、いろいろ思い出す人、あの人、この人・・、ありき、だな。

 2007年1月22日(月)   知事選挙
宮崎県ではそのまんま東が知事になったね。
政党主導の選挙は、もう随分以前から凋落しているのにね。
古くは北海道の横峰知事(現在は民主党の国会議員)の「勝手連」あたりからだよ。要するに政党の感覚がこのあたりからずれているんだよね。
どうして横山ノックや青島幸男が知事になれたか考えたことがあるのかな。一般の人の目線、感覚から政治を見て欲しい、ってあれほど選挙結果が出ているのに。
長野県の田中知事は破れたけど、彼が言っていた言葉、「それまでの(利益をむさぼっていた人たちの)既得権を破ることが出来るかどうか。難しいことだが、それがそのまんま東知事のこれからの最大の手腕の見せ所だと思う。」が正しい解説だろう。
橋本知事は長いこと知事をやっているけど、長いから悪いのじゃなくて、長くやっていると業者との癒着がうまれたり、県民を忘れた馴れ合いの行政が横行するんだよ。それに行政の「言い訳」が先んじて、民意を無視する姿勢も。でもしかし、高知県は古くから溝渕、中内知事の長期の弊害があった。彼はそれを打ち破るのに、知事になった当時は苦労したと思うよ。いろいろ問題もあるけれど、橋本知事には続けて欲しいと願っているよ。まだまだ一般の人の目線、感覚で彼は行政を遂行してくれていると思っている。
 
テレビ司会者のみのもんたが何故あれほど受けるか。やっぱり一般の人の目線、感覚から政治を見て欲しい、がこれからも選挙の大勢を占めると思うよ。

 2007年1月19日(金)   休日の日
冬でも陽光暖かな日、最近になく身体がうずいてて、最近出来た「COCOS」までゆっくり(道草をしながら)歩く。片道小一時間ほどの距離。いろんなことを考えながら歩くことの心地よさ。
道端の花はすっかり姿を隠して、枯れた色をしているが、春に備えて根っこに生気を蓄えているんだろうな。どっこい、冬でも花を咲かす前向きの植物もいる。
映画「スイングガール」から、最近は吹奏楽の番組が人気。衛星放送ではジャズ奏者の北村英治が中学生に教える番組もあった。自分にも他人には真似の出来ない素晴らしい「才能」(笑)があるのに、若いときのガムシャラさが無くなっているな。再び「音合わせ」の好きな仲間を集めて、思いっきり吹きたいな。何故自分は素直になれないんだろうな。
なんて考えながら歩くとすぐ着いたよ。ここでタバコとコーヒーを。ひと時を過ごすと再び歩いて、近くにあるラーメン屋に。ここでビールとギョーザ、その後にラーメンを。うーーん、自分の知っている追手筋の屋台のギョーザ、大津駅前のラーメン店に比べると少し落ちるな。でもいいや、窓から入る明るい陽を浴びて飲むって最高だったから。
 
自分の歩きは、身体の健康のためではなく、多分に心の健康のためらしい。心の中までポッカポカ。
(庭の鉄砲ユリも、ポカポカ陽気に誘われて芽を出したぞ)


 2007年1月11日(木)   鉛筆削り
知り合いのホームページを観ていて、この「鉛筆削り」がテーマになっていた。
今のような切れ味が良いカッターでは無いナイフ、それでも父は出来るだけ切れ味の良いのを与えてくれた。これも危険と隣り合わせのひとつの勉強だったんだな。今でも左手の人差し指には傷痕がいくつか残っているが、手を傷つけなきゃ痛さは解らない、血が出ることも解らないだろう。
出来るだけ危険なものは周りに置かない今と違って、ホントに危険な遊びもしていたな、って思う。
 
小学校高学年になった頃には、その切れるナイフでわずか6回の切り込みで、木の部分はおろか芯までもキレイに揃えることが出来るようになった。手回しの「鉛筆削り機」が出来る前のこと。

 2007年1月10日(水)   この一年を振り返り
去年は30数年間勤めた郵便局を定年まで数年残しての退職を決意した。私にとっては転機の年だった、かな?
一日を過ごすのがやっとの退職前の自分だったが、今は同じ仕事をけっこう「楽しく」有意義に過ごしている。
「バカか、退職して」と言う輩もいるが、「退職」が最良の方法とはいえないまでも、「良」以上の結果を産んでいるようだ。
不満をいえばキリがない、上を見ても、欲をいってもキリがない。自分で選んだ「道」だもの。与えられた条件の中で、頑張っていくだけのこと。そう考えられるようになったのも「お遍路」のお陰かな、とも。
まだまだ守ってやりたい家族が居るから、心身ともに健康で居たいと思う。
「仕事は楽しく、声は大きく」を再び実行している。

 2007年1月7日(日)   成人式
世間ではいろいろ問題のある成人式。夕張市では、新成人自身が企画して、逆境の中、自分たちで式をあげた。拍手を贈りたい。
振り返って、自分は成人式には参加しなかった。当日は「神田川」のような安アパートで、眠りこけていた。「あんなものに参加しても・・」なんて粋がっていたようだ。成人式の日が来る度に、そのときの自分の姿が浮かんでくる。そして重ね合わせたりもする。
あれから30数年後のこの日、妻と二人で美味しい食事でも、と久しぶりに日曜市と町をブラリと歩くと、艶やかな和服姿の新成人がアーケード内を大名よろしく行列をなしている。すでに成人式をとうの昔に終えたであろう年配者は、恐れをなして隅っこを歩く。立ち飲み的なコーヒー店でも、数人寄ればあの和服姿はそれだけ場所を取る。艶やかな服装と、アレコレ騒いでいる様子に、思わず顔がほころんでくる。
「何を笑いゆうが?」って妻に訊かれても、「この顔は産まれたときからじゃき、ほっちょいて」って答えるしかない。

 2007年1月4日(木)   年末・年始 
元日を明け、4日になってやっと仕事の休暇。自分に届いた年賀状もゆっくり見ることが出来る。
前日まで15日間の連続勤務だった。おまけに夜の11時まで仕事をした日も。大局だと絶対にこういうこともなく、いくら遅くても労働協約の関係で9時には終えるだろうが、一人の力が生きる小局ではこんなこともあるだろう。とにかく元旦の午前中に年賀状を届けるのが何を置いてもの大命題だから。
元日は7時半には出勤、8時からの出発式、午前中にはたいしたことも無く、無事終了。
残業も7時に終え、自宅に帰り着いても、もう「お客さん」は帰った後。残り物の皿鉢料理でビールを飲むなんともわびしい元日の夜。
それにしても午前11時ごろに賀状を配っていると、車でわざわざ追いかけてきて、「もっと早く配ってもらいたい。こんなに遅い時間になるのなら、真夜中から仕事をしろ」って苦言を言われた同僚も居た。もう何をかいわんや、だ。
 
肩の荷も少ない年末年始は、楽しくない程度の疲れを覚えて、こうして、もうすでに遠くなりつつある。


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