夕陽のシナリオ

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極めて個人的なページ


 2005年12月28日(水)   ごめん
診断書を持って、勤め先に行く。
職場はもうすっかり年末繁忙の真っ最中。
事務室内の様子が、一変している。課長に謝り、診断書を渡す。
一番迷惑を掛けた班のみんなにもリポビタンを渡し、「すまない、すまない」と謝り続ける。
 
右手が上がらなければ仕事をしようにもどうしようもない。
今年は病院の関係で30日の午前中に一時退院し、4日の朝には再び病院に入る。
2年前、年の瀬に義父が亡くなったときでも、早く切り上げて年末に間に合ったが、今の職種は、30数年間のうちの20年働いて、初めての年末年始の「休暇」となった。
それも(多分)最後の勤めの年に、だ。
あわててもどうしようもない、ゆっくり治療するしかない。

 2005年12月24日(土)   思わぬケガを・・
布石は朝刊を取りに行ったときから始まっていた。
「おはよう、寒いのにごくろうさん」と声を掛けると、
「今日は暖かいから・・」の配達員の返事。
そうだな、今日は幾分暖かいな、って思った。
仕事に出かけるときにバイクを出したときも、道路を見ても濡れている程度、雨天仕様の走行でスピードさえ出さなければ大丈夫だと。
自宅から3分ほど走ったところ、いつもは直進なのに、右の近道の信号が青になったのに気付き、ブレーキを踏むと、スッテンコロリと右肩から横転してしまった。(ようだ)
丁度その部分には薄く氷が張っていたのに気付いたのはすでに遅い事故後。
そこに車が通りかからなかったのが幸い。バイクを倒したまま、横の歩道で右肩を抑えていた。落ち着いてから職場に連絡、肩が痛くてバイクを起こせないので、妻に電話を入れる。その妻も同じ所で滑りそうになっていた。
近くの整形外科に行くと右肩の筋の一部が延びているか、切れているらしい。それで右腕が上がらなくなるという。首も痛めているという。
右肩と腕が痛くて、脇につけたままでまったく上がらないし、右肩から上半身に包帯を巻いた状態になり、利き腕の右手が使えない。26日にはMRIを撮って、精密検査をする予定だが、完治が3週間半(?)で、入院は2週間程度だという。この年末に仕事が出来なくて、皆んなに迷惑を掛けてしまった。
暖かい日だし、道路は濡れているだけ、と思い込んでしまった結果。
 
自損事故の布石は、朝刊を取りに行ったときから始まっていた。
(写真は携帯のカメラで撮る。マヌケな私です)

 2005年12月22日(木)   くじけるな!
最後の年末繁忙に入る。
状況を考えて、時としてくじけそうにもなるが、フッと我に返り、「くじけるな、精一杯頑張れ!」と叱りつける自分が居る。
考えてみれば、視力が落ちたことが始まりだった。
老化の症状は、どうしようもないな。
経験と年齢が辛うじて「威厳」を保っているが、腹の中はオロオロし通し。
泣いても必ず時間は襲ってくる。
いずれ与えられた時間が解決してくれる。
 
明日も頑張って寒い中、奮い立つつもりで仕事に出かけるだろう。
何度か葛藤があったとしても、元旦には笑っていたい。

 2005年12月12日(月)   果たせた約束
遍路で歩いていた去年の7月、1順目の最後の結願寺、大窪寺の門前で出会った若者。
もうすぐ結婚すると言っていたし、その後は「お礼参り」で一番札所霊山寺に向かうとも言っていた。写真を撮って、納め札を交換して別れたが、手紙を送っても、走り書きの住所だったので一度は還付されてきた。
最近になり住所がわかり、今度は写真を同封の上送ることにした。
遍路の途中にはいろんな出会いがあるが、お寺の息子さんという彼はすがすがしい若者で、好青年だった。
 
大窪寺からはバスに乗って帰る間、彼との出会いで、新鮮な空気を吸ったような気持ちが続き、一巡目の結願寺をあとにしことだった。

 2005年12月3日(土)   バンドネオンに生きたい
バンドネオン(アコーディオンより小さめの楽器)の魅力にとり衝かれて、ブエノスアイレス行きの夢を果たそうとする女性の言葉。
 
スタッカート気味の激しいリズムを刻むバックの交響楽団に、負けじと細い身体全体で演奏する姿。必死で演奏する姿のすごいパワーと迫力に、自分もあのようなときがあったな、と涙が溢れて、不覚にも泣いてしまった。
その彼女、感想を聞かれ、緊張した、と言うかと思えば「楽しかったです」。
好むジャンルは違っても、感動するには充分な音楽だった。
 
素人が交響楽団と共演する「あなたのステージ あなたが主役」BS放送でのこと。

 2005年12月1日(木)   「もしもし・・・」
「もしもし・・・。もう今年いっぱいで辞めるかも、なんて言っていろいろ心配かけたけど、「勧奨」とそうでないのとでは、お金の違いがずいぶん大きいらしい。その差が小さいなら、今すぐにでも辞めたかったけど、来年3月までは頑張ってやるよ。
もういちど頑張って、最後のひと踏ん張りをするから。
30数年頑張ってきたんだから、残り4ヶ月ぐらいのどうってことないはずだよ。
ただ、脳の血管がいつ切れるか解らないから、そのときは面倒もヨロシク(笑)」
 
老いた自分の能力の限界を感じて、最も不安な、そして最後の年末繁忙を迎えるに当たって、妻への電話。

 2005年11月30日(水)   ある出会い
数年前に何度目かに訪れた双海町(愛媛県)「夕日が立ち止まる町」の海辺。
まださほど有名でもなくて、静かな雰囲気が残っていた頃。
イスに腰掛けて夕日を待っていると、隣にお年寄りとその娘、彼女の友達と夫の4人のグループも腰掛けた。「よろしいですか?」との声まで掛けていただいた。
夫婦揃っての「人見知りをしない性格」が幸いして、話に花が咲き、住所まで交し合って別れたが、その後は時々のお手紙と、旅行のついでに土産を持って今治まで逢いに行ったことぐらい。
お遍路のときもそうであるが、わずかな確率で生みだす偶然(時間と場所)と必然(お互いの性格)は、どこにどんな出会いが待っているかわからない。
その後、あの上品なおばあさんは亡くなられたと伝え聞く。
 
そろそろ師走。
あの人、この人を思い出しながら、年賀状で「元気ですよ」の便りを届ける。

 2005年11月28日(月)   体重が・・
落ちている。
夏前から6〜7sも落ちている。
多分、水分の補給にお茶を飲んだセイだろう。
夏場は日中だけでも一日に2g以上飲んでいたし、今でも喉の渇きにはお茶を。
いくら努力しても落ちなかったのに、ほとんど努力もなしに落ちてしまうときもあるもんだ。
 
ただ、もうひとつ思い当たるフシもある。
毎夜飲んでいるビールの量も半分に減ったこと。
ホントの原因はこれだったかも。
 
昨夜は久しぶりに「仲間」と大酒を食らった。
案の定、1kg.増えているよ。

 2005年11月21日(月)   来年は・・
なんて年末を越す前に、もう来年のことを考えている。
仕事を辞めるにしても、続けるにしても。
来年に入れば、ハローワークを当たってみようと思う。
どれほど「世間」が厳しいのか、それとも楽しいのか。
 
「4月になれば」(あー、そういえばビリーボーン楽団のそんな名の曲があったな)、どんな自分が出来上がっていることやら。
 

 2005年11月12日(土)   昨日の雨の日は・・・
昨日は雨の中、この日も昼の休憩も取らず火の出るような頑張りを続けました。
「これが何で公務員なんだ」という怒りを感じたこともあって。(^_^;)
長靴を履くと、仕事がはかどらないので、普通の靴で頑張ったよ。
だから靴も靴下もグジョグジョで、靴下を抜くと、足が「おじいさん」のようなシワシワになってた。
(もうホントのおじいさん、だ)
んで、庁舎に帰りついたのが外も真っ暗な5時半。
今更、昼の分の食事も取れないよーー。
その後、やっと半時間だけ休憩を取ってまた7時まで庁舎内の内務の残業。
家に帰るとぐったりしたけど、すぐ風呂に入りたかったのだけど、妻と孫が入っていて、・・・。
「だから7時半に帰ってくると言ったろがや」と
ちょっと語気が荒くなってしまった。
足だけでも洗おうと、洗面所で靴下を脱いで洗って足を上げると、、バタンって転げてしまった。
これってどういうこと?(笑)
手を衝いたので、肩がいまだに痛くて。(涙)
夕食(夕ビールも・・)のあとはリビングで眠りこけていました。
眠っている間、妻が足の爪を切っているのが解ったけど、
「ヤメテケレー」って言うことが出来なくて、・・。
んで、「ごめん、深爪したぁ」って声で痛さを感じ目が覚めたけど、
また眠ってしまいました。
 
ハイ、今朝、確かに深爪をされた形跡がありました。

 2005年11月2日(水)   「ビルの火事で・・・
「ビルの火事で、自分は3階に居る。火の手が迫り、身体が熱く焼けそう。飛び降りたいがケガをするか、ひょっとして死んでしまうかもしれない。それが解っていても、火の熱さに耐えられずに・・・」
 
もう少し若いときに「上手」に立ち回っておけばよかった、などと反省しても後の祭り。毎日の享楽に明け暮れた結果が今の自分。
もし今から若い時代に戻れるとしても、「上手」に立ち回れるかどうかも自信が無い。
現場の仕事が好きだ、というのは、上手に立ち回れない自分の性格をごまかしているのかも。
身体の衰えが、性格まで変えてしまっているようだ。ずいぶん弱気になっているようだ。
 
定年まで数年残して、勧奨退職に掛かるかどうか。
ビルから飛び降りるかどうかはまだ解らない。
来年の3月末のこと。

 2005年10月9日(日)   はい、もうすぐ・・・・
狭くてもいい
一すじであれ
どこまでも
掘りさげてゆけ
天の一角を
見つめろ
いじけるな
あるがままに
おのれの道を
素直に
一途に
歩け
坂村真民の詩より
 
数年前の苦しかったとき、助けられた詩。
それでも幼かった自分が成長した期間であったかも。
出来ないけれど、「人間の條件」の梶のように、
生きてみたい。
 
歩け、か。「はい、もうすぐ一人でトボトボと歩き始めます。」
遍路に行ってきます。

 2005年10月6日(木)   区切りうちの「行」にでかけます
2巡目、2回目の歩き遍路が、徳島駅09時44分着から始まる。
自分を振り返り、見直し、自分につながる人たちの幸せを考え、これからの生きていく道を考えてきます。辛い修行も自分に課せられた試練と思い、極めて人間的に正直に、最後まで歩いてきます。
 
なんてウソウソ。
強制された行動でないし、辛ければ木陰で休めばよいし、急ぐ足を緩めることもできる、とした遍路はこの上ない悦楽の時間。
それよりも毎日の生活のほうがよっぽど苦痛。
「修行=苦痛を能動的に受諾」とするなら、日常の中にこそ、修行があるのではないかとさえ思っている。わざわざ遍路に行かなくても、その試練はいくらでも散らばっているではないか。
幾分涼しくなったこの頃でも、仕事をしているとそれでも昼ごろには顔や腕がザラザラして、小さく光る塩が浮き出ている。肉体的に精進するのはこんな汗をかく毎日、体内の血が入れ替わる思い。
他人との付き合い、仕事でのトラブル、言いたいことも言えず・・・ストレスを伴いながらでも精神的に研磨する材料は、日常の中にいくらでも散らばっている。
「歩くのは何故か」の問いに、あくまで毎日の生活から離れ、非日常の中に自分を置き、一時しのぎのリフレッシュ感を味わうため、と間断なく答えたい。
「試練」「鍛錬」・・・なんて私にとってはとてもおこがましい。
あえて言うとすれば、何故か妻にも他人にも感謝をし、優しくなろう、と考えたりする自分を見つけること。それは妻に世話をかけているな、って感じること。でもね、自分ひとりで、身の回りのこと何もかもしなければならないわずらわしさからの、裏返しかも。ズルイよね。
 
だけど基本は、ただ「遍路マーク」を見失わないよう、黙々と歩くこと。
そこに自分の「楽しみ」を見つけたり。

 2005年9月28日(水)   “愛とはけっして後悔しないこと”
・・というのは「ある愛の詩」の有名な言葉だけど、結婚する前に妻と観た映画の印象は、恥ずかしくもあり、ちょっと違和感も覚えたような記憶が。
それまでに観た悲しくもはかない愛を扱った映画は、「性」は抜きだったから。
この映画は、婚前交渉(笑)を当たり前のようにしていたし、知り合うきっかけも現在の夜の街的なキャッチセールスとなんら変わりが無い。
「愛と性」は表裏一体という感覚の人種と、「愛と性は相容れない」とする人種との違いかな、と当時は。
「愛」は観念的で、その成就のための「性」は唯物的であり、現実的な行為。
今の私が再び観てもなんら違和感がなくなっていたのには、良くも悪くも「経験」と「歳」の成せる業か・・。
 
しかしねぇ、50ウン歳のオンチャンの書くテーマか、なんてね。

 2005年9月15日(木)   ウォーーーウォーーーー!
まっこと腹立たしいよ。
「郵政民営化推進」(以下、「民」と書く)の議員が大多数を占めたよ。
大都市では、50パーセントの得票率で92パーセントの議席を得て、南関東では51パーセントの得票率で82パーセントの議席を占めた。これっておかしいよ。高知でも、3選挙区で、「民」よりも反民営化(以下「反」と書く)の得票が多いのにも関わらず、「民」の3人が当選。日本全体で「郵政」一本に絞ったとしても、得票率は「反」が多いのではないか。
それでも議席を得たほうが「長いもの」。
小選挙区制が比較第一党に有利であることには違いない。しかし、その立法を通したのは、今の民主党が自民党から分裂する前だから、文句も言えないね。
それにしても「郵政」になんらかのウラミでもあるのかな、小泉さんは。
郵政職員の給与とかには税金が一円も使われてないし、公社から国に対しては税金という名目でなくても、国庫負担金も納めてもいるのに。
要するに、大多数の国民は公務員が憎いんだよ。でもね、一言喋らせてよ。自分が公務員になったとき、民間は倍以上の給料をもらってた。結婚しても妻のほうがしばらく上で、肩身の狭い思いをしたね。(涙)そのとき、「可哀想だから公務員の給料を上げてやって」って誰か言った?
チクショー、悔しい、って言いたいね。
だけど、負け犬の遠吠えにしかなんないからね。
だからウォーーー・・・・って。(涙)

 2005年9月10日(土)   おい、広瀬!
は「指名手配中」の言い方(^_^;)だから、「おーい、広瀬よぉ」、って。
 
「元気か。もうしばらく逢ってないな。20年は経っているぞ。
今日、母校の近くを通るとな、文化祭をやってたよ。そう、文化祭だよ。お前が必死になって頑張ったおかげで、後輩達も文化祭が出来るようになったしなぁ。俺達がやらなくても、多分誰かが復活を成し遂げたんだろうけど、それでもあのときの頑張りはすごかったな。今日はちょうど高知は雨だったけど、たくさんの車が並んでたよ。良かったなぁ。
今はどうしているか、離婚したあと音信不通になって、「あちこちウロウロ」していると聞いたけど、ホントか?食事はちゃんととれているのか?
俺がお前を思い出すように、お前も高知の仲間を思い出すことも一度や二度ではないだろうに。
お前が人生に失敗したとは思わないけど、それでも今の状況はちょっとサビシイなぁ。
あのときの頑張りをもう一度出さないか?とにかく一度みんなと逢って、酒でも飲まないか?積もった話もあるだろうに。」
 
「セピア色のその一年」の友達に。
しかし「連絡不通」になった友達に。

 2005年8月29日(月)   痛快!
『(略)そんな中、なぜ「ユーセーミンエーカ」だけが強調されるのだろう。確かに郵政は争点のひとつかもしれない。しかし、決してそれが最大ではない。
ある大学教授が面白い比喩をしていた。
<タイタニツク号が沈もうとしているとき、乗客たちが晩のメニューでもめている。・・>
(略)「沈没を知らせないため、船長がわざと奇抜な晩ご飯のメニューを持ち出して乗客の耳目を集めた」と。耳目が晩ご飯に集中すれば、沈没から目をそらすことが出来る。(略)
実は今、争点隠しという言葉が頭から離れない。(略)』
 
高知新聞の夕刊の「話題」にこんな痛快な文が載っていた。そうだろうな、第2次大戦の前もそうだった。国民の目を毎日のどん詰まりの生活から外に向けさせて、国民には「ガマン」を強いる。今までの為政者が繰り返してきたおろかなパターン。
歴史は繰り返される、・・・か。

 2005年8月12日(金)   「よさこい」だぁーーA
今日は「よさこい」の後夜祭と全国大会。優秀チームと県外のチームが踊り締めをする。
悲しいかな、自分達のチームは一度として「優秀」なチームではなかった。ただし、この町を広く世間に知らしめる大義名分はあったし、気の合う仲間と楽しい時間を過ごした。
総予算は100〜150万円。踊り子の移動に使うバスが、2台×2日で30万円。PA(パワーアンプの略)代が、MDと予備のカセット、マイク3本、照明(踊り子のアップ)などで40万円。地方車(じかたしゃ と読む トラック)が飾り付けの日数などで一週間借り、ガソリン代も含めて10万円。その他、夕食代や馬鹿にならないのがジュース代。地方車の飾り付けや踊りの振り付け、音楽アレンジは自前でやっても、それくらいは掛かる。
バス代にしても、一年目は近くのバス会社に頼むと、「よさこい料金だから」と言われ、50万円以上掛かった。2年目にひょっとして、と郡部の会社に頼むと、30万円弱で治まった。高知市内の近くでなければ、道路に不案内、と一抹の不安があったが、関係なし。いろいろ勉強した一年目だった。
弱小チームの妬みから言いたい。お金を掛けると良いチームが出来るとは限らないが、その大切な要素を占めていることは間違いない。数百万円掛けるチームもあるくらい。音楽も振り付けも衣装も、全てプロの手によれば、確かにひと皮もふた皮も剥けて「さすがぁ」と唸らせるし、洗練されている。
 
大金を払ったチームも、そうでないチームも、本番2日間、前後を入れて4日間の祭りの喧騒は、明日には跡形も無く姿を消している。

 2005年8月10日(水)   「よさこい」だぁーー
風と共に流れてくるどこかのチームの音楽を苦々しい思いで聴いている。治外法権的な各競演場近辺の雰囲気と渋滞は、祭りに参加しない者たちにとっては、迷惑この上ない(^_^;)
 
繁藤災害のときに中止した以外は、歴史ある高知の「よさこい」は今年で52回を迎える。
 
チームを率いで祭りに参加していた去年までの6年間と違って、静かな今年の「この時期」は、切なくもあり、悲しくも過ぎ去る。神経をすり減らすことも無い代わり、刺激や楽しみも無い。
 
高知市内は「よさこい祭り」一色。
明日は父の退院で忙しいだろう。悲しいかな、どこかの競演場で見る時間もなさそう。
久しぶりに落ち着いた雰囲気の、盛夏を過ごす自分が居る。

 2005年8月5日(金)   古い写真
父の病室を訪れる。
今回はネットで仕入れた釧路市内の古い写真と、旧制・釧路中学校の模型を写真にしたものを持って。
会話を促すが、乗ってこない。「これはお父さんが通っていた頃の校舎だと思うで。」と言うと、ゆっくりとした動作を起こし、見入っていた。
「ここに運動場があって、兵隊の号令が轟いた」などと少しずつ思い出している。「学校に登る出世坂、お父さんが通っていた頃は地獄坂と言われてたみたいけど、今はなだらかな坂になっているらしいで」と。
幣舞橋を「へいまいばし」と言うと、「ぬさまいばし」と。「あぁ、そうそう。そういえばお父さんからよく聞いた名前だった」
 
もう父の脳裏には、サハリンはおろか釧路のことさえ封印された記憶なんだろうか。思い出すことさえおっくうな様子。
 
一夜掛かって仕上げた写真や解説も、わずか数分の会話のネタにしかならなかった。

 2005年8月1日(月)   夏の昼下がり
今日も暑かったね。
でもね、すばらしい時間が在ったよ。
小学校の塀沿いの木陰で一服していると、夏休み中の校舎からピアノの音が聴こえてきたんだよ。
時々間違って変な音も聴こえたけど、懐かしい童謡だったよ。
思わず口ずさんだね。
んで、セミは鳴くし、すぐ前の堤防沿いを帽子のひさしを後ろにしてザッザッと走る人、日傘をさしてコッコッと歩く人、・・。
私に影を与えてくれている木の葉がサワサワと乾いた音を立てて。
「へぇーー、いかにもいかにも、だよなぁ」って。
夏の暑さがこんなにも柔らかく、音楽的だったとは。
 
でもね、夜は涼しいくらいだから、幾日かの熱帯夜も「よさこい」が済むまではムシムシもガマン、だね。

 2005年7月17日(日)   暑中お見舞い申し上げます。
お元気でしょうか。
 
そうです、この休暇を利用していく石鎚山は楽しみにしています。
自宅を車で出るのが真夜中の2時ごろで、4時には登り口に着きます。
そこでちょっとした弁当を食べて、うっすら明るくなれば登り始めます。
登っている途中に瓶ヶ森とか遠くの山々が白々と明けて来る様は最高ですよ。
頂上で晴れているのは時々しかないけれど、ロケーションが最高ですよ。
運がよければ、今治の町並みや瀬戸内海も見られます。
その後は石の間に身体を預け、寝転がってうたた寝をします。
でもね、最近頂上のロッジが改装になって、それ以来行ってません。この前はそのロッジの改装中で、ヘリコプターで資材を運んでいるときでしたので、工事の音で眠れませんでした。
ロッジでビールを飲んだり、インスタントラーメンを食べたりして眠ったのは、もう数年前になります。
そうそう、真夜中に車で走る旧本川村からの1時間は、道も狭くダム湖横の道も、少々気味が悪いし、時々はウサギやタヌキがライトに照らし出されますよ。
 
頂上では携帯も通じますので、チャンスがあれば話したいですね。
これから暑い日が続きますが、バテないように頑張ってください。
(「フォトギャラリー」を参照)

 2005年7月15日(金)   困ったな
来週の月曜日(18日)から遍路に出かける準備をしていたが、台風が迫っている。
暑さ、寒さ、雨にはまったく困らないが、台風となると自宅が心配。自分だけ、好き勝手に歩くわけに行かない。
せっかくの一週間の休暇がフイになるかも。
 
無理することはない、またのチャンスはある。
 

 2005年7月8日(金)   ある約束
40年以上前の、当時小学6年生の私と二人の友達が約束をした。小学校近くの町の中心地のバス停で、2000年1月1日の正午に会う、というもの。
 
元日の日は仕事でまったく身動きが取れない。どうしたもんかな、って考える間もなく、気が付いたのは元日の2時を廻っていた。
友達の一人は電気屋の息子で、借金に追われたというウワサを聞いた。その店のあった場所は当然無くなっている。もう一人は誰だったのかも思い出せない。
 
5年以上も前の一瞬のことを、時々フッと思い出すときがあり、やるせない気分になる。
その約束が本当だったのか、本当だとしても友達は40年以上も記憶しているのか、友達はあの時刻にこの場所に来たのか、・・。
定かでない記憶だとしても、なんとも取り返しの付かない一瞬を、失くしてしまったような。
 
この先、何度も思い出すだろうか。

 2005年7月3日(日)   思い出のホテル
昭和天皇が泊まられた事は知っていた。しかしヘレン・ケラー、アイン・シュタイン、中国最後の皇帝溥儀も宿泊したことは、知らなかった。
若い頃にここに宿泊したが、美術館並の絵画を楽しむ余裕もなく、淡い光に包まれた部屋の中、赤いジュウタンの廊下、明治42年の創業、総ヒノキの重厚な造りにさえ、その頃の自分は興味を示さなかったし、価値さえわからなかったことだろう。
もったいないことを。
 
毎週日曜日の民放衛星の番組、「ホテル・ノスタルジア」は、新婚旅行での宿泊した「奈良ホテル」だった。妻と共に忘れた思い出を引き出しつつ観たことだった。
(写真は番組を撮ったもの)

 2005年7月1日(金)   セピア色の「その一年」
高校3年生のとき、2年生のときの一年を振り返ってガリ版で本を作った。
124ページに渡って、「その一年」を書いてある。400字詰め原稿用紙に換算すれば、350枚にも及ぶ「大作」(笑)で。
「その一年」もそれなりに頑張ったけど、それをガリで刷った自分も大変な作業をしたもんだな。
30部ほど作った記憶。「関係者」18名に配ったが、37年でセピア色に変色し、折り目も破れそう。
 
37年後の自分が再び熱い思い(笑)を抱きながらワードに残そうとは。
たかが、高校2年生の前期と後期の生徒会物語、なんだけどな。
 
それにしても、みんなどうしているかなぁ。
(写真は19名の寄せ書きのガリ刷り)

 2005年6月19日(日)   二つの「父の日」
350mlのビールをそっと忍ばせて、病室に入ると、大きく開け放たれた窓の外を見る元気そうな父の顔があった。
4人部屋の病室には、二人しか居なかった。聞けば、先ほど退院したという。グッドタイミング。軽くカーテンを引き、「今日は父の日だから」とビールを出すと、ニコッとした。小さくて青いプラスティックのコップに入った飲みかけのお茶を捨て、それにビールを注ぐ。それを父は一気にグーッと飲み、最後の残りの泡の一滴まで美味しそうに飲み干した。「もう一杯だけ」と言うと、これで充分だという。まだまだ退院は先になるらしい父、「時間はたっぷりあるからゆっくり養生をしたらいい」と。
 
子供達の夫婦が来て、夕方からはリビングが孫を含めて9人、騒々しかった。私へのプレゼントの、沖縄の泡盛と各種のビールの詰め合わせを、食事のときにみんなで飲んだ。その子供達も母や父となり、あと少しで子供に祝ってもらえる日が来るだろう。
 
3世代の「父の日」を見た一日。

 2005年6月18日(土)   トシかなぁ
休日の午後のひと時。
自室で何をするでもなくくつろいでいると、通る人の「きれいな百合やねェ」って声が。
今年は私の背丈より伸びて、「オイオイ」と思っていたけれど、思わぬたくさんの花を咲かせてくれました。いつの間にか散って、気付かないままの年もあったけれど、成長、蕾、開花、そして匂いと、水やりやゆっくり観察する心の余裕も今年はあった。
それに庭の花を誉められてうれしい、そんな歳になったのかも。
 
ありがとう、きれいだった今年の百合。

 2005年6月15日(水)   懐かしい人からの手紙
03年11月24日、横峰寺を含む歩き遍路から帰りの列車内で知り合った女性。
 
その日、そこそこ列車内は込んでいた。
幾分汚い格好で、歩き遍路の風体の彼は、大きな荷を手押し台車に積んでフラフラと人ごみのあとから車内に入ってきた。私は衆知の目を気にしながら、立ち上がって手伝おうか、と思っていると、迷いも無くスクッと立ち上がり手伝うその彼女が居た。
「看護の国家試験を目指して学校に通っている」と言っていた。
知り合うのはどんなきっかけか解らない。
彼女とはその後何度かの携帯メールや会話のやり取りをしていたし、コンサートで高知に来た折には一緒に飲んだことも。その後、私のアドレスを変えたことを連絡してなく、音信不通に。
 
小豆島出身の彼女、若いという年齢でもなく、それでも手紙には「看護師国家試験も合格しまして、現在高齢者ディサービスで働いて」いるらしい。
そういう頑張りと、凛とした信念の強さは会話から読み取れるが、逆におっとりした話し方とのギャップが、会話に苦慮する楽しくてなんか不思議な彼女。
 
知り合うのは一瞬という「時」。その知り合うまでどんな長い時間を経てきたのか。
ダラダラといたずらに時間の浪費を続ける自分と、目的を持って幸せをつかもうとする彼女との「時」の差。
この先も知り合っていたい女性の一人。
 
久しぶりに聞いた彼女の声は、明るかった。

 2005年6月13日(月)   真夏の楽しみ
焼け付くような暑い日、仕事が済んで帰り着くとシャワーを浴びる。タイルにトップリと腰から座り(いざり)込んで、シャワーの温度を徐々に下げる。限界まで下げると、ジーッとして体が冷えるのを待つ。
サッパリするとエアコンの効いた自室に入り、軽いジャズを流しながら、ソファーに身体を預ける。
トロトロして脱力感が身体を征服すると、眠っているのか、目覚めているのか、自分でも判別が付かない。
暑い日には一日頑張った自分の身体に、せめてものごほうび。
 
今日はまだまだ「焼け付く」には程遠い一日だったが。

 2005年6月4日(土)   「夢の後片付け」のひとつを
今夜、終える。
「よさこい」のチーム参加の申し込み先(高知市商工会)から一昨日電話をいただいた。「まだ申し込みをされていませんが、・・」って。
チームを組んで参加を始めたのは40代。もう50代も半ばに来た。数ヶ月前から準備をして、なんてもう出来ないし、MIDIで作っていたよさこいのアレンジも祭りに参加する前からアチコチに、だから、20曲近くアレンジし、もうマンネリ、・・。
それにしても、自分のワガママを周りのみんなが手伝ってくれた、頭が下がるほどいい仲間だよ。
申し込みは昨日で締め切った。
7回目の参加は無くなった。
今夜はスタッフの解散会、だ。
 
趣味は多いのに、それでも次から次へと自分で「用事」を作るけど、今度は三度目のジャズバンドを組んでしまう。
どこまでのめり込むだろうか、この先、自分は・・。

 2005年5月28日(土)   残念ながら
以前の勤務していた職場の同僚からの電話は「どう、元気?」って。
 
同級達の再入院や退職、死・・・。
職場も厳しい転機の時期、自分にも確実に転機が訪れていることは確か。
でも、あと一年は、次の一年も頑張ってやると決め、踏ん切りもついている。
辛くないといえばウソになるけど、一日一日頑張っていく気力と体力は充分ありますよ。
 
残念ながら、転機はまだ先のようです。
「そちらこそ大丈夫ですか。」

 2005年5月22日(日)   ど素人の・・・
 春風に 押されて グッと 杖握り
 
 アジサイに 川の音 鈴の音 杖響き
 
一巡目の遍路のおり、30番から36番を打つときに浮かんだ。
最初は暑い日、31番竹林寺に向かう田園風景の中、木陰で休んでいるとたった一本の電話に元気が出て。
次は34番種間寺を目指して、春野町アジサイ街道を歩いているとき。
ヘタな俳句でもそのときの情景が浮かんでくるから不思議。
俳句も勉強してみようかな、なんて。
 
庭のアジサイにとっては、冷たい雨が今日は降っている。

 2005年5月20日(金)   父の入院
若い頃、事情があり極寒の地(旧・樺太 現・サハリン)から南国に来て、まったくの身寄りが無い父。その父がヤケドが元で、長期入院になって、好きな酒も飲めないとボヤく。
いつの頃からだろうか、父を見る目が威厳から、助けてあげなければ、と思うようになったのは。
まだ元気な頃、父が中学時代に通っていた学校(旧制釧路中学→新制湖陵高校)をPCで検索し、見せたときは、目を細めて見入っていた。あぁではない、こうではない、と独り言のように呟いたり。
もう今となっては、その生まれた地、育った地に連れて行ってあげることは出来ないけれど、でもね、だんだんと貴方の血と姓がこの地に根付いていますよ。
それに今度の「父の日」には、内緒でソッとお酒を持って行きますよ。
だから再々の手術もガマンして頑張って下さい。

 2005年5月19日(木)   列車の案内で
5月7日の遍路から帰る日、JR列車内ではいつもの調子の車掌の声で「○時○分に阿波池田駅に到着します」と。
「到着予定です」でも無ければ、「○分頃に」でもなくて、到着します、と言い切る。
「慌てなくてもいいのに」とつぶやくが、私の時計では到着が1分遅れていた。
「アレ、大丈夫かな」なんて心配すると、次の駅からはスピードがイヤに速いような気がする。車内に居るとそう感じるのか、実際に早いのか。そう思うとよりいっそうスピードを上げたような気にもなってくる。
次には、この列車の連結は前のほうかな、後ろなのかな、なんて心配まで。
 
新聞記事によると、列車のスピードオーバーは日常化しているという。責任者はしかし、「とんでもないこと」だと否定した。待てよ、そういう時刻、路線を組んだのは誰なんだ。
危険を冒してまで、そうしなければならない運転手の追い込まれた気持ちが、今の私には残念ながらわかる。
 
JR尼崎列車脱線事故後の原因がだんだん明らかになるにつれて。

 2005年5月3日(火)   2度目の遍路(区切り打ち)に
今から出ます。
「へんろみち保存協力会」の道標を見失わない程度に、いろいろ考えてきます。
「行くも地獄、戻るも・・」のような自分たちの世代。そう思うようになって3年。今日辞める、明日辞めると思いながら3年も。今の飽食を享受するのには、柳になってガマンするか、頭が破裂する前に辞めるか。
降格して定年まで気楽にやり過ごす、退職する、一年ガマンをする、・・・。
 
自分のことだけ考えれば良いという歳でも無かろうに。
考えるか、一時忘れるか。
とにかく歩いてきます。

 2005年4月25日(月)   そうなのかな
遍路に行くにあたり、
結局は、「日常」から逃げたいのかも知れない。
それでもいいか。
次の日からまた頑張れば。
そう思うように・・・。

 2005年4月23日(土)   ヤティ
ヤティとは雪男のこと。民放衛星で、東部ブータンの高山に挑み雪男を探すチームを放送していた。
「雪男は必ず居る」と信じ、目撃者と共に2ヶ月に及ぶ捜索を続ける。結局、番組内では痕跡しか見つけられなかった。「雪男は居る」と信じた男たち(女性も居た)の、過酷な条件の中で頑張る姿の映像。
若い頃、バンドを始めて県下一になる、妻と結婚して幸せになる、・・・。みんな自分を信じて、「信じている自分は正しい」と信じて行動する。
時として不幸な結果に終るかもしれないが、幸せになれると信じて生き続けている自分の最終結果が得られるのは・・・。
今のところ、最高の人生をしているのは間違いない。

 2005年4月9日(土)   一日が終わり
年齢的にはチト早いが、仕事もそろそろ辞めようかな、っていう日々のわずか今日一日が終る。
 
退職すればいろいろと・・・したいことが多すぎるかな。
桜がどこも満開。桜前線を追いかけて北上したいな。
あちこちで遍路姿を。念願の通し打ちをしたいな。
それに、あれもこれも・・・・。
やろうと思えば実現できる「夢」がたくさん目の前に。
しかしその前に、心置きなく区切り打ちをするために、今まで実現させた夢の後片付けを今月中には。
区切り打ちから帰るとバンドを。そろそろ楽譜も。
あぁ、明日は友達と桜の下で。だからビニールシートを準備しなきゃ。
明日の天候は?ネットで調べなきゃ。
 
夢と楽しさははるか遠くから明日の話に逆走してきて、今日一日が少なくなった。

 2005年3月18日(金)   もうすぐ
衛星Hiで関口知宏の「列島横断鉄道20000km」をやっていた。
そうか、徳島の板東駅や霊山寺にも立ち寄ってたのか。
一瞬映った駅と寺には、懐かしいっていう気持ちに。
2年ほど前にあの駅に降りた時、まだ自分は私服だった。
一番霊山寺で必需品を買い、着込んで、少々照れくさい気持ちで歩き始めたんだった。
もう一ヶ月半で、再びあの駅に立つ自分は、どんな気持ちで一歩を踏み出すのだろうか。
迷いも無く、新たな気持ちで、山門に向かいたいものだ。

 2005年3月15日(火)   PCが・・・
スパイなんとかというので、PCがおかしくなっていた。
フォーマットして、再び立ち上げたのは良かったけど、
友人のアドレスや、送信済み、このページなどのデータがすべて・・・。
この一週間、休みが多かったのだが、セットアップに時間がとられて。(涙)
んで、このホームページも最初から作り上げることに。

 2005年3月9日(水)   身辺整理?
親戚が心筋梗塞で倒れた。妻が「あなたの保険はあそこにある?」って聞く。
この自室には、小学に入学時に買ってもらった木製の机を置いてあり、その古い机の「引き出しにある」。結構丈夫で、引き出しには書類、上にはアレコレ乱雑。半世紀近く使っている計算だ。
机はこれからの半世紀も大丈夫だろう。でも私の10年先をほぼ予測できても、♪曇りガラスを手で拭いて・・も、明日の自分は見えない。
そろそろ身辺整理をしておかなくては、って思ったりもする。
 
これ以上、悪い夫、悪い父になりたくない自分が居て。

 2005年2月17日(木)   ホームページの立ち上げ
とうとうというか、やっとというか、とにもかくにも念願の自分のページを持つ事が出来ました。
これからもヨロシク、です。


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