本島町笠島(ほんじまちょう かさしま)の町並み
江戸から大正の名残をとどめる笠島
国選定「重要伝統的建造物群保存地区」の笠島集落は、本島の北東端にある小さな港町で、北面に天然の良港が開け、三方は丘陵に囲まれています。笠島は、またの名を城根と呼ばれ、集落の東にある城山には土塁、堀切、見張台跡なども残されており、塩飽水軍・塩飽廻船の根拠地でした。
集落内には、狭い道路が網の目のように通り、このうち集落の東寄りを南北に走る東小路と、これと直交して弓なりに通るマツチョ通りはやや道路幅が広くなっています。この通りに面して正面を千本格子の窓をあしらい、本瓦葺きで土壁を厚く塗った町屋形式の住宅がひしめき、それらが端正な美しさを演出しています。このほか、狭い通路沿いには農家風の住宅も見られ、また集落周辺の山際には往年の繁栄を示す多くの寺社が点在していました。
現在、江戸後期の建物が13棟、明治時代のものが20棟ほど残っており、どの家にも随所に心憎いばかりの工夫の姿が見られます。漠然と雰囲気を味わっていただくも良し、じっくりと細部を見極めていただくのも良しです。
かさしまっぷ、ほんじまっぷ
笠島地区の地図(Google) ▶
本島の地図(Google) ▶
笠島の文化財 (番号は地図上の場所を示します)
1. 長徳寺 長徳寺のページをご覧下さい ▶
2. 専称寺
建永2(1207)年、法然上人が75才の高齢で讃岐へ流罪になった時に、地頭高階保遠が庵を建てて島びとに専修念仏の教えを説いた場所。国宝「法然上人絵伝」でも塩飽の庄として描かれた重要な場面で浄土宗(知恩院)の聖地。現在の建物は昭和5年築、彫刻は近藤泰山。
3. 尾上神社
尾上神社本殿
尾上(おのえ、おのうえ)神社本殿は、1712正徳2年に地元の藤井仁右衛門、渡辺貞七によって建てられた大変古い文化財である。もとは現、荒神宮のあたりにあったが、大正5年頃現在地に移設された。装飾彫刻がほとんど無いのは古さの証である。
尾上神社拝殿
尾上神社拝殿は、1922大正11年に地元の名工妹尾幸平の指導の下、本島にあった塩飽工業学校の生徒たちが実業教育(実習)で建築した。中学生位の年齢で建てたとは思えない本格的な造作である。木鼻(きばな)の獅子や蟇股(かえるまた)の龍の彫刻も本格的である。塩飽工業学校は多度津工業学校(現、多度津高校)の創立へつながり、さらに高松工藝学校(現、高松工藝高等学校)へとつながっている。
この神社には、1873明治6年に地元の高宮為造、高宮金造、藤井政吉が棟梁で建てた本格的な芝居小屋「尾上座」があったが、昭和45年頃に取り壊され石垣と礎石を一部残すのみである。
4. 阿弥陀堂
笠島集落の中ノ浦西北端にある阿弥陀堂の本尊阿弥陀如来は鎌倉時代前期の優作で市有形文化財である。阿弥陀さまは往生を願う人々を極楽浄土へ導いて下さる。
5. 年寄・吉田彦右衛門の墓
塩飽は1590天正18年に豊臣秀吉から船方650人に1250石を与えるという朱印状を得た。徳川家康も同等の朱印状を出した。平民でありながら塩飽の島々と海域を領知できたのである。大名という呼称に対し、誇りを込めて人名(にんみょう)と自称し、4人の年寄を中心に自治した。その一人が吉田彦右衛門で、旧道脇に1627寛永4年に建てられた御影石の位牌型の墓は高さが3.3メートルもあり、権威を象徴している。
6. 石切り場跡
雀小島(後方が江戸城の石を切り出した向島)
屋釜集落の石切り場からは、江戸時代初期の1621元和7年~8年に小倉藩細川家による大規模な工事で、大坂城石垣の石を採石した。予備石が49個見つかっているが山中に埋もれてしまい、屋釜から泊集落への峠道に建つ市指定史跡の碑がわずかに名残をとどめている。笠島集落前の向島(むかいじま)からは、福岡藩黒田家によって江戸城の石が切り出され、30トンもある大石が海路はるばる紀伊半島、伊豆半島を回って江戸まで運ばれた。今も江戸城二ノ門に残っている。
石切場跡は、2019年5月20日、文化庁の「日本遺産」に、「知ってる!? 悠久の時が流れる石の島
~海を越え、日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」の一つとして認定された。
7. 両墓制墓地
塩飽諸島には両墓制と呼ばれる民俗文化が昭和40年代まで残っていた。土葬の時代、遺骸を埋めた墓を埋め墓といい、小さな自然石を置き、時には小屋掛けした。一方石塔は寺院の敷地など別の場所に建てられて参り墓と呼ばれ、魂はそこにあるとされた。笠島集落では今でも、両方の墓にお参りしている。
笠島集落の東側にある小高い丘は中世の城跡で県指定史跡。峰は三つからなり、北側には墓石が露出した古墳がある。中央は郭で、空堀と土塀跡が残る。南側は館跡で、1207建永2年に浄土宗の開祖法然上人が流されて来たときには、関白九条家の家臣である地頭高階保遠の居城だった。
笠島港は南側三方を丘陵に、北側は向島に囲まれた天然の良港だった。平安期にはすでに塩飽の玄関港として、江戸時代には北前船の拠点として栄えた。戦国期には西の村上、東の塩飽と謳われ瀬戸内海を牛耳ったが、村上水軍が武闘集団であったのに対し、塩飽は武器を持たず造船と操船の技術で貢献した。ここには造船所があって、干満差を利用した千石船手入れの技術は、1826文政9年、オランダの医師シーボルトの江戸参府紀行に、驚きをもって記されている。
尾上神社脇の登山道から15分で登頂できる標高100メートルほどの遠見山は、瀬戸大橋の全長13kmを真横から見渡せる唯一の場所で、絶景を楽しむことができる。遠くには大槌島、直島、小豆島まで見渡せる。真夏の朝日はちょうど瀬戸大橋方向から昇る。
笠島集落から島の周回道路を北西方向へ岬を回ると屋釜集落がある。江戸時代初めに大坂城の石垣用の大石が切り出されたところである。国によって整備されて快適なのに、交通の便が悪いためお客さまが少なく、「まるでプライベートビーチ」である。
数千キロの渡りをする唯一の蝶として、近年全国的にたいへん人気のあるアサギマダラ。春にはスナビキソウ等を伝って青森まで北上し、秋には秋の七草・フジバカマ等を伝って沖縄、台湾までも南下する。いずれも瀬戸内上空を飛び、本島にも10月初旬から11月初旬の1ヶ月ほど立ち寄ってくれる。場所は、本島港から笠島集落への道すがら、甲生集落への分岐点、コスモス畑の隣である。この蝶を見ることができた人はラッキー。これを見るためだけでも本島へ来ていただく価値がある。