[scudelia:cinema] Magical Mystery Tour
treasure hunter 〜写楽の絵に隠された謎を解き明かせ!〜 |
second adventure
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これがふたつめの地図だ。 |
おお!そうだ!ひとつめの地図が「あすたむらんど」だったのだから県営観光施設つながりでこれは「渦の道」に違いない。きっとそうだ。そう考えて一路、鳴門公園を目指して愛馬(ワゴンR)を走らせる。 小高い鳴門公園へ向けて坂道を上っていると道端に壁画(附近図の立て看板 ) を発見した。こんな物をいったい、何時、誰が、何のために、、、謎は深まるばかりだ。 きっとこれに何かヒントになるような物があるのではなかろうかと車を停める。なんと、この附近図の地図の形は写 楽の残した地図の形にそっくりだ。間違いない、この近くに探し求めるふたつめの宝箱があるに違いない。そう確信した。トレジャーハンターの勘ってやつさ。 しかし“お茶”というのはなんだ?喫茶店か?お茶の自動販売機か?まさか茶畑?っと考えていると、地図上に「お茶園休憩所」という場所を発見!!! こっ、これだ〜〜。 |
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千畳敷まで車で行こうと思ったら、案の定有料駐車場に誘導された。ちょっとおいちゃん、通
りすがりのトレジャーハンターから銭取ろうなんざふてぇ考えだぜ。ちょっとUターンして路肩に車を停められるところまで引き返して歩いて登ることにする。 登山で鍛えて(ないっつーの!)いるタケダにとっちゃ、これしきの坂道なんてことないぜ(、、、、いや、なんてことありました、すみません)。なんてわけの分からないワビを入れつつ地図で見たお茶園休憩所を探す。さっきまで小降りになっていた雨がまた強くなってきた。やはり写 楽の呪いは存在するのか。僕を宝に近づけまいとしているのか。観光客らしいカップルがカメラのシャッターを押してくれと頼んできた。油断できない、これは罠かもしれない。額に汗がつたう。 |
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雨にけぶる鳴門海峡。鉛色の雲が空を覆い尽くす。なにやら怪しい雰囲気だ。 そうこうするうちに「お茶園展望台」を発見。いままで何度か来たことのある展望台だったが、ここが「お茶園展望台」という名前だったとは知らなかった。 かつて阿波藩主であった蜂須賀侯がお茶屋を設けて観潮したことからここが「お茶屋」と名付けられ、それが今ではお茶園として伝わっているのだとか。ふむふむ、なるほど。地域文化研究家の血が騒ぐ。 |
さぁ、写楽の宝箱を探すとしようか、、、「あったー!(家内の声)」 うっ、また先に見つけられてしまったか。まぁ、仕方がない、、どれどれ、ふたつめのキーワードはっと。『道の入り口にあり』か、、、。 |
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かつて大鳴門橋が建設された当時、いずれこの橋の橋梁部分に電車を走らせようと設けられていたスペースが存在する。しかしながら結局橋の下に鉄道は通
らず、計画は鳴門海峡の泡と消えた。 |
最後の宝箱の下にはこうも書かれている。 徳島県観光協会設置・管理運営【発見おめでとうございます】※発見された方は渦の道受付で地図を渡して景品を受け取って下さい。忘れず赤い鳥ホームページで抽選用の発見登録をして下さい。www.akai-tori.com■宝探し専門サイト『赤い鳥』 |
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指示通り、渦の道の受付に行き、これまでの大冒険を証明する地図を職員に見せる。するとこともあろうにその職員はタケダが今日半日、危険をかえりみずに冒険をしてきた証である地図を回収してしまった。そうか、きっと後世にこの地図を悪用する輩がいるかもしれないので処分するというのだな。よかろう、冒険の証はしかとこの胸に焼き付けてある。 |
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実をいうと、これでタケダの冒険は終わりではない。もう一ヶ所行かねばならない場所がある。
徳島県には東洲斉写楽のものと伝わる墓が存在するのをご存知か。寺町の東光寺にその墓はある。 写楽は謎の多い浮世絵師として知られている。江戸時代後期、大衆文化の花開いた時代に写 楽は突然現れ、わずか十ヶ月の内に百数十点の作品を残したまま忽然と姿を消すのである。彼が活動したとされる十ヶ月の前にも後にも写 楽と思わしき人物は登場しないのだ。それだけではない、わずかな活動期間の間に次々とその画風が変化していくのだ。それがまるで別 人が描いたとしか思われないほどの変貌ぶりなので、一段と写楽の謎を深めているのである。 この写楽論議において、概ねふたつの説が存在する。そのひとつが写楽とは江戸時代の阿波藩のお抱え絵師「斉藤十郎兵衛」であるという説。写 楽論議において決定的な説が存在していなかったため、数年前まではこの写楽=斉藤十郎兵衛説が(徳島県においてのみ)有力視されてきた。 |
今回、フィクションとはいえ縁あって写楽の謎を追う旅をしてきたわけだ。この旅の途中、はたして写
楽とはいかなる人物であったのか、写楽とはずばり斉藤十郎兵衛その人であったのだろうかとい問いかけについて考え続けていた。 現地点でのタケダの答えはこの説にNOと言わざるをえない。やはりもうひとつの説を推す。 写楽についてのふたつめの説はオムニバスペンネーム説だ。つまり、複数の絵師が共同で使ったペンネームであるという説。しかし何故そのようなことをする必要があったのかという疑問点によっていままでこの説は有力視されなかった。 しかし、ここ数年の研究によって再度オムニバスペンネーム説が注目されているのである。 江戸時代の浮世絵師はいずれも版屋に所属し自分の絵を世に送り出すしくみになっていた。今で言う出版会社と契約するライターのような関係が存在した。ところがとある有力出版会社が倒産の憂き目にあい、これを救済しようと専属ライター達が描き上げた一連の浮世絵群に用いた共同のペンネームが“東洲斉写 楽”だったというのだ。 |
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僕が後者の説を推す理由はまったく直感でしかない。しかしながら、その直感にかなりの自信を持っている。 画家が生涯をかけて絵を描き続けたとして、少なからずその画風には変化が生じる。それは画家の人生観の変化であったり、理想像の変化の現れであったりする。しかし、写 楽の絵はこの類の変貌ではありえない。学術的にどうこうではなく、絵を描く人間のひとりとしてそれを感覚的に受け入れられないのだ。それを無理矢理理解しようとすると胸の中に有耶無耶がつっかえてしまう。これの有耶無耶をキレイさっぱり消化してしまうのがこの説なのだ。きっとこれは絵を描かない学者達がいくら論じてもらちがあかないだろう。決して学会では発表出来ないような“絵を描く人間の直感”でしかこの謎の真の答えは解き明かせないのではないだろうか。とタケダは考えている。 |
お し ま い
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