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当八剣神社の随身門は、切妻造り、瓦葺きの八脚門である。小村には不相応なものとして不思議がられているが、文久二年(1862)七月に、社役、荻原官太夫氏信が発起し、予算の銀十二貫目を松平頼格をはじめ、郡内各村の有信者が寄進し、明治元年(1868)四月上棟、同四年三月完成した。
惣棟梁は富田中村谷、萩原永次郎で、大工棟梁は富田東村北地、嘉次郎(朝倉氏)である。特に、彫刻師は塩飽本島、官五郎、千代蔵及び塩飽広島の嘉三郎が施工し、両脇士は富田東村北地、瓦焼師伸太郎(大山氏)の作である。その後、現在旧道の相地線が境内中央部を南北に横断開通したため、西方馬場端にあったこの表門を現在地に移転した。
因みに、讃岐国名勝図絵では、八剣神社は「往古この地に剣八口を発掘したので、里人これを神剣として祠を建て、これを御霊代として祀り、八剣大明神といった。」という。当社は、古墳のあとへ建立したらしく、現在も社殿の南側に横穴石室がある。

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