千町庵の由緒は、もと与田寺末寺で平等山観音寺と称していたが、のちに、西教寺末寺となった。与田寺末寺退転記録に「富田村観音寺退転年月相知れ申さず、元禄六年八月藁葺の小庵建立致し道信者居り申す」とある。その後宝永二年(1705)増根が地区の日々との助力を得て観音堂を建てた。
この厨子に「讃州寒川郡富田中村平等山観音寺 宝永二年九月十八日当住明善坊増根造進之」とある。なお西教寺の過去帳では明善坊は延享元年(1744)没になっている。
この十一面観音は、九州筑前国穂浪郡内野村宗見村(光晋和尚)にあったものを大宰府戒壇院運照比丘が志度浦常慶の乞を入れ、当庵に安置したもので、三尺の木像立像で漆箔のあとがある
この本尊観音寺菩薩については、志度寺の観音と姉妹であるという言い伝えがある。二つの観音さんは、同じ木で刻んだものといわれ、だから千町(天の森)庵へ参ると志度寺へ参らなくてもよいということである。

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