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雨滝城主、安富氏は足利氏の随身となり、播州三ヶ月郷を領有していたが、応永(1368〜75)の頃、細川頼之に従って讃岐に入り三木郡平木の城主となった。長禄年間(1457〜59)山城守盛長のとき、寒川氏より寒川郡の一部を分割され、雨滝城を築いて本城とした。天正六年(1578)阿讃の国境を越えて讃岐侵略を狙っていた長宗我部元親が、同十一年引田城を落し入れると雨滝城の攻略にかかった。城を守っていた六車宗旦も大軍の前に抗しきれず、五月に落城した。
雨滝城跡は、大川町の北方にそびえる標高253メートルの雨滝山の山頂にあり、瀬戸内海を見渡せる好位置にある。城の遺構は、昭和四十四年・五十七年調査した結果、本丸跡を中心に三方へ派生する尾根上に形成された各郭から建物群が確認された。この調査の結果、本丸跡をはじめ各郭からは建物礎石や生活用品・武具などを検出した。出土物では、鉄製品、銅製品、中国の(主に北宋銭)の銭貨、貝殻、石製品、土器類、陶器、瓦破片、焼けた壁土等が多数あった。
また、 各郭の連絡路としての「犬走り」も発見できた。この城は、天然の地形をうまく取り入れ、並置された典型的な連郭式中世山城であることが確認できた

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