7章 36節 〜 8章 3節

町中の人にうしろゆびをさされる女の人が、町の名士の家の宴会に入ってくることは、彼女にとってとても抵抗あることだと思うのですが、彼女はイエスさまへの感謝を表わすためにやって来ました。

足をぬぐえるほどの涙ってどんなだろう、その有様は常軌を逸していたといえるほどだったのではないかと思ってしまいますが、でも、ゲストに迎えておきながらちっとも礼を尽くそうとしないパリサイ人とは、とても対照的な行為だといえます。

パリサイ人が見ていたのは、この女の人の罪の大きさでした。しかしそれは、イエスさまのたとえ話をかりるならば、50デナリの借金人が、500デナリの借金人をさばくようなものです。ふたりとも神の前には同様に借金を返せないのです。

と同時に、ふたりとも借金をゆるされたように、神に愛され、ゆるされているという点でも、人はだれも同じです。

イエスさまが見ていたのは、この女の人の罪の大きさではなく、神の愛とゆるしに対する感謝と愛の大きさでした。

この 「罪の女」 も、マグダラのマリヤをはじめとして、自分の持ち物でイエスさまの一行に奉仕した多くの婦人たちも、イエスさまに対する感謝と愛を表わしたのでした。

「私につまずかない者はさいわいである」 とイエスさまは言われました。

 

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