6章 1〜11節

安息日というきまりは、もともと人がいのちに導かれるようにと定められたものでした。その日は日常の労働をしないで、神さまのことを覚える特別な日とされたのです。

ところが、ここに登場するパリサイ人たちは、いつのまにかこの安息日というきまりばかりを優先させて、このきまりを守っていないといのちに至らない、きまりを守るものだけが救われるのだ、と考えていたようです。このようなまちがいは今でも起こることです。

例えば、現在は日曜日が聖日と呼ばれ、クリスチャンにとっては神さまを覚える特別な日とされています。

ところが、もしもクリスチャンが、このきまりばかりを優先させて、聖日を守らないといのちに至らない、聖日を守るものだけが救われるのだと考えるようになると、これはこのパリサイ人たちと同じまちがいに陥っていることになります。

イエスさまはマルコによる福音書 2:27で 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」 と言いました。

人を罪から救い、いのちにいたらせようとして来られたイエスさまが 「安息日の主」 なのですから、安息日は人を救い、いのちに至らせる日とされるべきなのです。

 

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