5章 12〜26節
当時らい病人は宗教的に汚れた者とみなされていたため、他人にふれたりできないばかりか、人を見かけたら、「私は汚れている」 と叫んで知らせなければならなかったのです。
大評判のイエスさまの周囲に人々がいないチャンスなどあったのでしょうか。でもイエスさまがだれにも話さないようにと言い聞かせているところを見ると、周囲には誰もいなかったのでしょう。
このらい病患者は、何とかしてイエスさまにお願いしようとチャンスをうかがっていたのだろうと想像できます。どうしてもイエスさまに会いたかったのでしょう。中風の人を運んできた人たちも、そういう人たちです。常識やぶりのムチャをしてでも、イエスさまに治していただこうとしたのです。
そういうひたすらな信仰を見て、イエスさまは 「罪のゆるし」 を宣言します。
イエスさまは罪を赦す権威も、罪をさばく権威も持っています。もしもイエスさまがパリサイ人たちと同じように人の罪を指摘してさばいたとしたら、だれひとりイエスさまの前に立っていられる人はいません。
しかしイエスさまは、罪をさばく方としてではなく、罪を赦す方として来て下さったのです。ああ、よかった、と思いません?