3章 7〜14節

イスラエル人は 「アブラハムの子ら」 なのですが、その人たちにむかってバプテスマのヨハネは 「まむしの子らよ」 と語りかけます。ヨハネは、血のつながりではなく、悔い改めにふさわしい実を結ぶかどうかを問題にしています。

それでは 「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」 とはどういうことなのでしょう? ヨハネは 「自分に必要な分で満足せよ」 と言います。余分な下着や食物は分けてやりなさい、決まっている分で満足し、余分な金をだまし取ってはいけない、と言います。

考えてみると、昔も今も人間は自分の必要な分では満足しないで、余分なものまで求めています。決まっている以上に取りたて、人をおどかし、だまして余分なものをむさぼりつづけています。

この 「むさぼり」 が 「まむしの子ら」 なのです。しかし人間は、昔も今もそれがあたりまえで、そうしないものは変人であり、聖人君子とあざけられます。そういう 「まむしの子ら」 には、神さまの救いが見えないのです。

というのは、神さまが救い主としたイエスさまは、人間たちを愛してその罪を肩代わりするために命まで投げ出した、という方だからです。こんなことは、「まむしの子ら」 にとっては、ばかげた夢物語か、良くても困ったときの宗教的なぐさめくらいにしかなりません。

悔い改めてむさぼる心を捨て、身を低くする者だけが、飼い葉おけをそのしるしとした救い主を見分けることができるのです。そして、そういう人たちを準備することが、バプテスマのヨハネの役目だったのです。

 

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