1章 46〜56節

このマリヤさんの言葉は、今ではマグニフィカトと呼ばれる有名な詩です。歴史に名を残すような作曲家たちも、この詩に曲をつけています。

マリヤさんはここで、喜びにあふれるように神さまを賛美していますが、それまでのマリヤさんはどうだったでしょうか?

天使が現われたとき、「ひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと思いめぐらしていた」(1:29) し、男の子が生まれると言われたときも、「どうしてそんな事があり得ましょう」(1:34) と、びっくりしています。

もちろん、最後には 「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」(1:38) と、すばらしい信仰告白をしていますが、それでもおおいに不安だっただろうし、自分の身におこった事を素直に喜べるような気持ちではなかったと思います。

39節にマリヤさんが、“大急ぎ” でエリサベツさんのところに行った、とありますが、マリヤさんの言いようのない不安な気持ちがわかるような気がします。

ところがエリサベツさんに会って、聖霊に満たされた彼女の力強い確信のある喜びの言葉と様子にふれて、ついにマリヤさんも自分の身におこったことを心の底から喜べるようになったのでしょう。

神さまが自分にしてくれたことを心底喜んで、それに従うことのできる人だけが、こういうすばらしい神さまを賛美する詩をつくれるのかもしれません。

 

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