あかぎまんって誰だ?

1958年生まれの、日本人男性です。

キリスト教とはほぼ無縁の生活をしていましたが、高校3年生の頃、恋愛や進路の問題で行き詰まり、何か頼れるもの、揺るぎないものを求めて聖書を読み、キリスト教会にも通い始めました。

自分で自分のことが決められなかった私にとって、「神を第一とする」 「みこころに従う」 という教えは、とても都合のいいものでした。 自分で決めたり、責任をとったりしなくてもいい、ただ神の言われる通りにすればいいのだと、私は受け取ったのです。

しかもそれが、自分にとっても他人にとっても最善だというのですから、万々歳です。 ただしそれは、「自分を神に100%委ねたら」 という条件付きでした。

私は、お祈りや伝道は苦手でしたが、聖書研究や賛美や交わりは理屈抜きに楽しくて、浪人の一年間、大学の四年間と、教会に入りびたりました。

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しかし、はっきりとした神の導きの声とか、みこころが示されるとかいうようなことは、浪人の時に与えられた献身のみことば(エレミヤ書 1章7,8節)以外には何もなく、また、信じる者に与えられるという天的な喜びや平安や力というものも、ほとんど実感できないでいました。

そしてそれは、「100%委ねる」 ということができていないからだと考え、ますますキリスト教に力を入れました。 ですから、大学卒業後、神学校に進んだのは、私にとっては当然の成り行きだったといえます。

しかし、神学生としての生活は、お気楽な大学時代とは違って、私にとってとてもきびしいものでした。 そしてそれを感謝できないということが問題でした。 みこころと信じて献身したのになぜ?・・・ 私は徐々に行き詰まり、何度も神に問いかけましたが、応答はありませんでした。

当時の混乱した思いは、神学校の機関誌に掲載された、「自問」 という文章に表れています。 私は十ヶ月で神学校をやめました。

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さて、神学校をやめた私は、自分がどうしたらいいのか、またわからなくなりましたが、「やり直すつもりがあるなら手助けしよう」 と言ってくれる牧師がいて、私はその教会に通い始めました。

その教会で私は、クリスチャンとして神や教会のために生きるのではなく、人として自分のために生きるということを学びました。 それは、私にとってはまず、自分の力で生きる、自分で決め、責任をとるということでした。

といっても実際にやったことといえば、一人暮らしをし、自分の稼いだお金で生活をするという、ごく当たり前のことでした。 教会も離れ、私はただのにいちゃんとして普通の生活をしました。

その中で、私は、「クリスチャンなんかより、普通のおっちゃんおばちゃんの方が、活き活きと生きている」 と言ったこの牧師の言葉がわかるようになりました。 クリスチャンは何も特別なものではないのです。

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あるとき、会社の同僚に誘われて、ある宗教の集会にのこのこ出かけていきました。 それはキリスト教にとても批判的な宗教でしたが、私の見る限り、その言動は、クリスチャンたちのそれと似通っていて、大した違いはないようでした。

以前、私の父親が、「宗教は何をやっても同じ」 と言っていたのを思い出しました。 そして、そのこととは相反するようですが、私は同時に、この宗教に対する何ともいいようのない強烈な違和感に、胸騒ぎがしてどうしようもありませんでした。

それは、なんというか、「私にキリスト教がこびり付いている」 とでもいうようなことで、これは、教会を離れ、聖書も読まず、お祈りもしない、というようなことではとても拭いきれないもので、要するに私は、普通のにいちゃんになってなどいなかったのです。

私は、自分がのめり込み、自分にこびり付いている、このキリスト教というものに決着をつけなければならないと思うようになりました。

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そこで私は、「はだかの王さま」 という小冊子を作り、当時友だちだと思っていたクリスチャンたちに送りつけました。 文章にすること、そしてそれを公表することで、私はなんとか自分の中の混沌を整理しようとしたのです。

忘れよう、離れ去ろうとしていたキリスト教への疑問、教会への文句などを、考え直さなければならないのですから、とても自分一人で閉じ籠もってやっていては、身がもちません。

まあ、はけ口にされた友人たちには何とも迷惑な話だったと思いますが、友だちなんだから何とか赦してくれるだろう、また、ひょっとしたら何かいいヒントをくれるかもしれない、という甘い期待もありました。

「はだかの王さま」 は第6号まで発刊しましたが、第6号の特集記事、「あのザアカイさんはホントウに極悪非道の人非人だったか!?(前編)」 は、後に書く小説 「ザアカイさんの味方」 の前半部分と、表現方法は違いますが、同じ内容のものです。

言い換えれば、「ザアカイさんの味方」 の後半部分は、発刊されなかった第7号であり、第6号の問題提起に答えたものです。

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だいたいどんな事柄でも、その間違いを指摘する、文句を言うということなら、けっこうたやすいことでしょう。 しかし、では本物は何なのか、真実は何か、それに答えていくのはなかなか難しいことです。

私は自分が提起した問題に答えるのに約十年を要しました。 私はほかの教会に通ったり、ほかの宗教の人と話したり、いろいろ本を読んだりしましたが、そのとき、私の考えを進めるのに最も役立ったのが、「きまぐれつうしん」 でした。

これは、ある教会の中高科の分級のために作った通信紙です。 この教会は、これまでの教団教派とは全く異なるところでしたので、私のことを知る人は誰もいませんでした。

ここで私は、自分の内外からのプレッシャーから離れて、初心に返ってキリスト教を見つめ直そうとしました。 私の心はこの教会で、徐々に落ち着きを取り戻しました。

「きまぐれつうしん」 は、中高生に語りかけたメッセージであると同時に、私が新たなキリスト教を築き上げていく過程ともなったものです。

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私にはキリスト教について、わからないことや疑問に思うことがたくさんあります。 そしてそれを、借り物の言葉ではなく、自分の頭で考え、自分のこの胸で納得した言葉で語りたいのです。

そうです、私は自分のキリスト教といえるものを求めているのです。 縁あって、このホームページに足を踏み入れた方々、どうか私と一緒にこのことを考えてみてください。

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