自  問

神学校で私は、毎年一回発行する機関誌の編集委員をやっていました。神学生たちに原稿を依頼していたのですが、印刷に出す直前になってもまだ原稿が足りませんでした。

しかたなく、自分で原稿を書いたのですが、時間的にも精神的にもせっぱ詰まっていたので、体裁をとり繕う余裕もなく、こんな文章になってしまいました・・・

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キリスト者は、人間としてのほんとうの生き方を知る者ではないのか? 神と交わり、また人と交わるとき、そこに人格と人格、魂と魂の火花を散らすようなぶつかりあいがあるのではないのか?

高校時代、真実の道、ほんとうのやさしさ、ほんとうに人を生かし、一時的、表面的意味ではなくほんとうに人のためになること、人を尊重することを求めた、あの想いはどこへ行ったのか?

心を尽くすこと、善意、生の実感、義憤、熱い涙、全身をつきぬける悲しみ、喜び、良心の葛藤、心の痛みや悲しみをわかってあげること・・・

今の私の祈り、聖書、奉仕はなんと表面的で形式的なのだろう。私は神の前になんと手のかからない、いい子ちゃんなのだろう。叱られることも、おねだりすることも、泣きわめくこともない。でも、そんな子どもは、生きてはいないのだ。

さばくに早い醒めすぎた目、人を殺す軽々しい言葉、真剣な問いかけのない会話、あたりさわりのない交わり・・・

悪を憎み、偽善を罵倒し、どうしようもない罪人取税人を価値ある者として見、はらわたをえぐられるようなあわれみの心をもつイエスさまが、「あなたの隣人を愛せよ」 と言うとき、そこにどれほどの意味、重さがあるのか?

私は子どもや病人や障害者のうちに、いや、親しい友人や求道者やキリスト者のうちにさえ、ほんとうに神の愛される人格としての尊厳を見ているだろうか?

キリスト者の語る福音が、ただ頭や口先だけのものでなく、自分の存在のすべて、生きていることのすべてをかけた、つまり、いのちがけのことばでないなら、聞く人をほんとうに生かすことができるのだろうか?

 

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