B.こんぴら山下まち歩き


こんぴらさんのお膝元、琴平町内には歴史的な見所満載!!
  全国からの参拝者が絶えないこんぴらさん、その門前町として栄えた琴平町には歴史的価値の高い見所がたくさん残っています。
  天然記念物指定の日本一の大せんだん、 日本一高い高燈籠、屋根付きの奇橋鞘橋など、狭い琴平の町をゆっくりとめぐります。
  まち歩きのコースとしてご好評いただいている定番のコースです。 4月15日には通行可能な鞘橋をご覧いただけます。
  「ちょっとこ場」スタート、赤線がコースになります。町の南の方から北へとぐるり一周します。


1. ------ 並び燈籠 ------

嘉永3年(1850)江戸火消四十八組から寄進のことが決まり,近郷からも町内からも多人数が出て働きました。この年前後のものと思われる浪華牧野宗弥筆「象頭山之図」で見ると燈籠は道の西側だけにあって東側にはありません。工事に前後があったのでしょうか。また後々の図や写真で見ると、燈籠は幅の広い石垣の上に建っていますが、この図では地面に直接建っていて背後に玉垣が見えます。「古老伝」には「玉垣井に石燈籠数々相建申候儀云々」とあるので、この図が当時の様子を正確に伝えているのかも知れません。最終的に東西34基ずつ、計68基整然と並んで見事なものでした。当時は町内は言うまでもなく、近郷村々よりの見物客が毎日のように押し寄せたと書かれています。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が金毘羅まいりに来たのは明治27年(1894)です。その時の手紙に「あの石燈籠が両側にある道を下りました」と印象深く書かれています。 もともとは「横町」という町で、その後「富士見の馬場」と言われました。今よりも広い区画を占めていたのでしょう、燈籠の間に植えられた桜の下で弁当を広げ、ここで花見を楽しむ大勢の人の姿が見られたと言います。
終戦後、外地より引き揚げてきた人々の住宅を建てるため、この並び燈籠の大半が移転されました。今は西側に7基、東側に18基の25基が残っています。残ったすべてが重要民俗文化財に指定されています。北から南へ順にデータを掲載します。

NO. 献納地 献納者
1 京都 鍵屋平兵衛、栗田彦次郎、竹屋平兵衛
2 泉州 大亀(模様)伊勢屋市兵衛
3 泉州 大亀(模様)伊勢屋市兵衛
4 京都 神氏
5 今田村48人講
6 備前 吉田屋鹿蔵
7 反保利助
8 江戸 越前屋勘兵衛、定御火消十ヶ所
9 外神田 越前屋萬蔵、妻と茂、忰萬太郎、小差鳶中
10 江都 山田性
11 江都 山田性
12 江戸 小紅屋千太郎、母きの
13 江戸 小紅屋千太郎、母きの
14 五代目市川鰕十郎、妻いと、伜猿之助
15 江戸 八幡屋庄五郎、尾張屋計伊、山口屋榮七
16 江戸 手廻部屋頭 常吉他4名
17 江戸 越前屋勘兵衛、定御火消十ヶ所
18 江戸 手廻人宿 米澤吉右衛門、又右衛門
19 江戸 萬屋傳七 鉄五郎他6名、土州3名
20 江戸 萬屋傳七 岩次郎他6名、延岡2名
21 備州 荻野材治郎、壽吉
22 江戸 志んば 藤七他4名
23 江戸 志んば 卯之助他4名
24 外神田 越前屋萬蔵、妻と茂、忰萬太郎、小差鳶中
25 備中 魚屋久右衛門

この燈籠の中で特に目につくのは「五代目市川鰕十郎」です。側面には「妻いと、倅猿之助」と家族の名前も見えます。鰕十郎は上方の歌舞伎役者で嘉永6年(1853)に金毘羅大芝居を興行しています。

2. ------ 大せんだん ------

琴平町には国指定の天然記念物が二つあります。象頭山とこの「大センダン」です。
栴檀がその漢字名です。ともとも書き、「あふち」とか「あうち」と読みます。鳥類によって容易に種子が散布され、香川県では決して珍しいものではありませんが、東日本では珍重されるそうです。平成11年に琴平町教育委員会が説明版を設置しています。
ことわざの栴檀せんだん二葉ふたばよりかんばし』と言う栴檀せんだん白檀びゃくだんの事で、本当の栴檀ではありません。

3. ------ 南神苑と阿波街道 ------

この場所の名称は「金刀比羅宮南神苑」です。主として金刀比羅宮の例大祭の時のお旅所として使われております。北と南に金刀比羅宮の神苑がありますが、琴平の町の人が「じんじば」と言えばこの場所の事です。万治年間(1658〜61)に描かれた「象頭山十二景」の一つとして「石淵新浴」として描かれています。もう一つの「萬農曲流」も横を流れる金倉川を讃えたものです。和歌や漢詩にも多く歌われています。例大祭の賑わい時以外は、昔の雰囲気を残した貴重な場所です。また、例大祭の時のお旅所として以外に、歴史的な文物の保存場所でもあります。入口には鳥居が建ち、その前には並び燈籠が設置されています。この並び燈籠の一部は、昭和22年(1947)富士見の馬場にあった江戸火消四十八組寄進の燈籠です。

南神苑の前の道は、箸倉寺を通る二軒茶屋越えの阿波街道の金毘羅口でした。阿波町はその名の通り 阿波の国の人達との商売のための町として栄え、 鍛冶屋、鋸屋を始めとした職人の町でもありました。金毘羅には鳥居が奉納され、大勢の阿波の国の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れましたが、明治23年(1890)の四国新道の開通により徐々に人波も減少、戦前まではそれでもかなりの繁昌振りでしたが、今はその面影はありません。昔通りの狭い道や建ち並ぶ家並に盛んだった頃の名残を見ることが出来ます。
鳥居は交通量の増大により昭和34年頃裏参道口に移転、その後一時別の場所に仮移転、そして漸く現在地である金刀比羅宮学芸館前に移設されました。昭和54年に重要民俗文化財の指定を受けています。

4. ------ 鞘橋 ------

最初は、今の「一之橋」の所に金毘羅参詣の本道に架かる橋として寛永元年(1624)時の別当宥?ゆうげんの手によって架橋されました。(注)?は目へん+見の文字です。
架橋以来幾度となく災害にあい、天明の大改造を経、明治2年(1869)に現在の姿通りに建築され、明治38年(1905)日露戦争勝利報告陸軍行進で戦車が通行できないため現在地に移設されました。
昔は誰でも通行出来ましたが、大正11年(1922)に一般の通行を禁止、今では金刀比羅宮の神事以外は通行が禁じられています。
平成10年に国の有形文化財に登録されております。

5. ------ 松里庵 ------

江戸時代末期、琴平の勤皇家日柳燕石が常用した料亭として知られています。燕石は勤皇家であると共に博徒の親分としての顔も持ち、数々の勤皇浪士とは随分違った働き方をしています。 薩長土(薩摩、長州、土佐)の三藩のうち、特に長州との縁が深く、高杉晋作、桂小五郎など、名の知れた長州藩士が彼の許を訪れています。残念ながら 吉田松陰は金毘羅大権現には参詣しましたが、その時には燕石と会っていないようです。
吉田松陰が燕石の詩文を愛重した事は事実で、燕石29歳の作「楠公聖人五絶」が長州志士に愛誦されていました。現在でも、よく詩吟の会で詠じられています。特に高杉晋作については、彼の逃亡補助という罪で牢獄に入れられます。幕府が高杉晋作を逮捕に来た時、高杉晋作はこの松里庵に居たと伝わっております。宴会をする座敷には、予め逃亡を容易にする為の抜け穴が用意され、高杉晋作はその穴から燕石の子分に案内されて長州まで無事に脱出したと言う事です。
高杉晋作が長州の仲間に知らせた手紙には、燕石には子分が1000人も居ると書いてあります。晋作は燕石を大変尊敬していたようです。

燕石には情愛に満ちた詩もあり、詩吟などで聴く機会もあると思います。
逮捕から4年して燕石は釈放されます。その後すぐに官軍に加入、伊藤博文と共に晋作の墓参に訪れ、有名な漢詩を残しております。

故人為鬼美人尼 故人こじんおにとなり、美人びじんあまとなる。
浮世変遷眞可悲 浮世うきよ変遷へんせんしんかなしむべし。
惨日凄風吉田駅 惨日さんじつ凄風せいふう吉田よしだえき
涙痕如雨灑苔碑 涙痕るいこんあめごと苔碑たいひそそぐ。

燕石については、お話できる別の機会があればと思います。
松里庵は、その後も営業を続けていましたが、平成始めに廃業しております。140年前の抜け穴も、座敷もそのまま残っております。香川県指定文化財の指定を受けていましたが、現在はその指定を解除しています。

6. ------ 三亭地蔵 ------

その昔、今の丸亀市中津万象園(旧京極家別邸)の西隅に地蔵菩薩が祭られていて、近隣の漁師、農民達が苦を石に書いてこの苦を除き、福を仰ぐために納めていたところから別名苦投地蔵又は石投地蔵とも称して信仰しておりました。ところが天保年間寅年の大洪水に、この地蔵菩薩が海に流失して仕舞いました。さいわいその年十月多度津町在住の漁師木助ととう人が出漁中、漁網に御仏体を拾得し、これは御仏のお告げだとして当時の丸亀藩御舟奉行職船江金兵衛に相談して、その指示により金光院(現琴平町松尾寺)御領小松郷(現在地)に安置したものです。初めは「三亭の地蔵」と云って、天・地・仁の意を表わしていたとされ、その後「三点の地蔵」とも云われ、町方、農夫、漁夫の三者が苦を払い福を祈願したと伝えられています。後に「三亭地蔵」と呼ばれて現在に至っています。 現在安置されている場所から北に望んだとき、元の安住地である中津の浜が一望出来たところから「北向地蔵」と異名をつけられたそうです。当時は今のように建物もなく空澄み渡り、春ともなれば鶯が鳴き、緑、紅、四季それぞれの風物が美をかもしていたものです。そして西に道後の石手地蔵、東にこんぴらの三亭地蔵(苦楽地蔵)と東、西相対し、数多くの信者が崇敬してきたところです。

琴平町最古の石燈籠がすぐ左に設置されています。承応3年(1654)里村法眼玄陳外三名による寄進です。里村法眼(1632−1682)は京都の連歌師です。里村南家六代目として幕府に連歌の先生として仕えた家柄の人です。承応3年(1654)と言えば、四代将軍徳川家綱の時代、関が原の戦いから50年余、徳川幕府が安定期に入った頃です。

後の祠は元「キサトさん」と呼ばれ、通町の路地裏にありましたが、燈籠と一緒に昭和58年頃現在地に移設されました。

7. ------ 公会堂 ------

   建物の説明

公会堂は昭和9年に建造された木造の日本建築物で有形文化財に登録(平成10年4月)されております。象頭山を見上げる金刀比羅宮参道に程近いところ、美しい緑の山を借景に荘厳な佇まいを見せています。春には、庭園の桜の木々が一斉に咲き乱れ、あでやかな風景が広がります。毎春のこんぴら歌舞伎の頃には、花見を楽しむ人が多く、164個の提燈の下で盛り上がっています。又、現在でも各種催しや集会などに使用されていますが、全国的な旅行ブームの時には、旅館の館主が演劇を行ってお客様をもてなしていた事もありました。

   古い燈籠など

公会堂には古い史跡が移設されています。石段を登ってすぐ左にありますこの燈籠は元禄7年(1694)建立の燈籠です。当時は苗田村にあったと記録にありますが、苗田のどこかは分かりません。300年以上前ですが、元々の場所が不明ということで、史跡の指定からは外れています。その右の 燈籠は明和4年(1767)建立の燈籠です。町内横町(現在は富士見町)講中の寄進物です。富士見町から移設されました。玄関左前の燈籠は天明7年(1787)建立の燈籠です。榎井延商問屋の寄進物です。高松街道榎井六条から移設されました。当時の榎井商人の財力がうかがえる燈籠です。
与謝蕪村の句碑があります。「象の目の笑ひかけたり 山桜」。与謝蕪村は明和3年(1768)から2年間琴平に滞在したという記録が残っています。

8. ------ 灸まん ------

内町は旅館街として繁栄しました。現在はその面影がありません。「灸まん」も元々は旅籠でした。
「敷島館」は有形文化財に登録されております。江戸時代末期の歴史学者であり、書の達人としても知られた頼山陽らいさんようの泊まった宿として有名です。頼山陽は当時唯一の歴史家であり、勤皇倒幕運動の理論上の指導者でした。「芳橘楼ほうきつろう」の名前は頼山陽命名とも言われております。現在は新築のホテル用地で、玄関の古い様式はどこかに残すと聞いております。

「こんぴらうどん参道店(旧櫻屋旅館)」も有形文化財に登録されております。とら屋と並び称された旅館で、俳人合田丁字路の経営していた宿でしたが、現在はうどんやとなっております。

「とら屋」は江戸時代から続いた旅館でしたが、現在はうどんやとなっております。当時の店構えはそのまま残っております。隣の別棟と前には別館があり、天皇陛下ご来琴の際は別館にお泊り頂きました。

9. ------ 金陵の郷 ------

江戸時代より続く酒蔵を創業当時のまま残し、酒づくりに関する資料と文化を今に伝える資料館です。銘酒「金陵」の試飲が出来ます。 広場には大きな楠があります。

金陵の郷広場(西野金陵のホームページより抜粋) 御神木の楠大樹は霊の木。大樹は多量の水を有する。 又、楠分限も願い永々の酒づくりの守木「御神木の楠木」と崇められております。(樹齢推定・鎌倉時代) 金毘羅信仰に修験道天狗信仰があり人々の災難を救った天狗が象頭山に帰る時、金陵の楠で休息し、お山へ帰ったという伝説があります。
【クスノキ科 クスノキ属】 ●漢字は樟・楠 ●各地で名前がわからないナンジャ モンジャといわれているものはクスノキが多い。 ●常緑高木で春芽出しの若葉は淡紅色、橙黄色など から淡緑色に変わり美しい。 ●初夏黄色がかった白い花が集まって咲く、実は小さく 黒い。全体として特有の香りがする。 ●古代には丸木舟に多く使われた。

10. ------ 高燈籠 ------

高燈籠については、「三水会」ホームページの「高燈籠附近明細」と「高燈籠ガイド」をご参照下さい。


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