短歌会雑誌 『槻の木』巻頭の「今月の歌」より
 
  
十一月の歌   川手 清三


     自らの虜囚の悲惨触るるなく四十五年の教職を辞す
                            (「槻の木」第九〇〇号記念号)
                              

      川手清三さんが亡くなった。川手さんは戦前からの数少ない会員の一人。千葉県に
    あって教職の傍ら歌を詠み、詩を書き、童話を書いて充実した人生を送られた。だが
    過酷な歳月もあった。第二次大戦のさなかに招集されて旧満州へ配属、敗戦後は捕虜
    としてシベリアに送られた。飢餓と極寒に耐えて強制労働に従事する数年があった。
    それらの日々は歌集『シベリアに歌ふ』に纏められている。だが、学校の児童たちに
    はその「虜囚の悲惨」は語らなかった、というのが右の歌である。出征前、川手さん
    は東京余丁町に都筑省吾を訪ねた。「丸め来し頭指差(あたまゆびさ)しこを見よと言
    ふ清三やにこにこと笑む」これは「川手清三君を送る」と題する恩師の歌でさる。その
    笑顔が実によかったと、師は後に語っている。平成三年、千葉県茂原市の小川進司邸
    に師の歌碑が建った時、その除幕式の司会を川手さんは努めて下さった。私にはそれ
    が最初で最後の川手さんとの一会(いちえ)であった。もう一首「書きなづみわがある
    机上舞ひ降りし花あぶひとつ升目を埋む」。謹んでご冥福を祈る。    (来嶋靖生)



十月の歌   谷川 健一

                                            あおと                              
     棄てられて飢えさまよへる牛の群れの足音とどろく人絶えし町
                                   (『露草の青』)
                              

      谷川健一さんが亡くなった。歌とエッセイをまとめた新刊の『露草の青』が版元か
    ら送られて来、一読したその翌日、新聞を見て驚いた。右に掲げたた歌は誰でもわか
    るように、東日本大震災を詠まれた歌。このほかにも石巻を訪ねた歌をはじめ多くの
    憂いと悲しみの歌がある。祖国の現状に対する憂いだけでなく、谷川さんには現代短
    歌に対する愁いもあった。この『露草の青』の「はしがき」にはその心がかなり鮮明
    に綴られている。実は今年三月、NHK短歌(TV)の私の最終回には谷川さんをゲ
    ストにお招きすることが決まっていたのだが、 急に辞退される申し出があった。 は
    がきにはご自身のペンでこう書かれていた。「二月にお目にかかることを楽しみにし
    ておりましたが、突然血圧が異常に高くなりました。寒い折ですので、万一皆様に御
    迷惑をおかけすることがあっては、と思い、御遠慮することにしました。悪しからず
    御了承下さい」。前々からの行き掛りで、柳田国男の短歌や現代短歌について、お考
    えを承る予定であったが、果たせなかった。謹んでご冥福を祈る。   (来嶋靖生)



九月の歌   小島 ゆかり

     坂道に白き陽流れ眼帯の人のぼりくる九月のまひる
                                    (『純白光』)
                              

      作者は現歌壇でもっとも忙しく立ち働いている一人。この歌は二〇一二年、ある出
    版社から求められて「短歌日記」という企画(一日一首、短文を添える)に応じた一首。
    九月三十日の項にある。毎日ともなるとかなりの苦行のはずだが、ここに掲げたよう
    な落ち着いた歌が並んでいる。「歌は人なり」とは言い古された表現だが、この作者
    の魅力の秘密もやはりこの「人」にあるのではないか。才を際立たせて詠むのではな
    く、力まずに詠む歌にそれとなく品がただよう。『月光公園』当時のきららかな作風
    はすでに越え、年とともにしっとりと味わいの濃い手厚い歌が多くなっている。前々
    からのことだが歌柄は変化に富み、さまざまな様相をみせてくれる。例えば「車椅子
    の父は駱駝に乗るごとし一生(ひとよ)の時間砂漠のごとし」といったきびしい内容の
    歌もあれば「教へても教へても歌を一句といふ学生ありてわが丈縮む」といったユー
    モラスな歌もある。どちらも底に流れているかなしみを思わずにはいられない。初心
    者への批評も暖かくかつ鋭い。多忙となるのは当然であろう。     (来嶋靖生)



八月の歌   窪田 空穂

     高やまのいただきの原窪窪に清水湧きたまり四十八沼
                                   (『冬日ざし』)
                              

      昭和十四年夏、空穂は次男茂二郎を伴って志賀高原を訪れた。バスで高原に入り、
    前山に登り、大沼池や四十八沼(空穂は沼と言っている)をめぐって二十首ほどの歌
    を詠み残している。古く、志賀山の噴火によって溶岩が流れ、数多くの窪地に水が溜
    まって生じた池という。いわゆる高層湿原で、標高は一七八〇から一八〇〇くらい。
    姫石楠花、小梅尅吹A綿菅など、美しい植物が咲く。空穂の歌、「窪窪」という表現
    が珍しい。また初出の後、幾つかの手入れをしているのも参考になる。「高やまの真
    蒼の沼のふちめぐりあなやさしさや花もつ深苔」の第二、三句はのちに「真蒼き水の
    岸めぐり」に、「高やまの真蒼き沼の浮島や足の危くわが踏みのぼる」の第二、三句は
    「真蒼き沼に浮む島」にそれぞれ改めている。さる夏、私は高原内の焼額山(やけびた
    いやま)と笠山に登った後、この四十八沼と大沼池とを歩いてきた。四十八沼から大沼
    池へ回るのはかなり時間がかかる。しかも七十年前のこと、今のように道も整備され
    ていないはずだが、よくぞ空穂父子は歩き通したと思う。       (来嶋靖生)
                                                    注  姫石楠花(ひめしゃくなげ)小梅尅吹iこばいけいそう)綿菅(わたすげ)   



七月の歌   窪田 章一郎

 川上の濁沢(にごりざわ)にテント張りし父この葛の湯に中休みしつ
                                   (『素心臘梅』)
                              

      詠まれている父はもちろん窪田空穂。濁沢は高瀬渓谷から烏帽子岳への登りにかか
    る直前にある。大正十一年夏、空穂は長野県大町の旅館対岳荘を出発。槍ヶ岳を目指
    した。始めから終いまで徒歩である。高瀬川沿いに歩き続け、途中葛の湯で小休止。
    「浴槽は、家とは反対の私たちの歩いて来た川岸にあった。屋根はあるが、壁のない
    浴槽の中に湯に入っている二人三人の首だけが見えていた」と空穂は記している。そ
    の夜は橋を渡って出た濁沢の川原にテントをはって一泊する。章一郎は五十二年後の
    昭和四十九年、立派になった葛の湯こと葛温泉の湯に身を沈めて父を偲んでいる。父
    と同じく山好きであった章一郎は高齢になってもしばしば山に登り、山への思いを詠
    んでいるが、ここにもそれが気持よく表われている。実は昨年の夏、私もこの高瀬渓
    谷から濁沢を訪れた。いまは壮大な高瀬ダムが出来、当時の面影はほとんどないとい
    うが、それでも濁沢の滝は白い帯をなして落ちているし、石ごろごろの河原もある。
    空穂はここで流木を燃やしながら一夜を明かしたのだ。        (来嶋靖生)


六月の歌   松田 常憲

たやすきにつきてためらふこともなし現代仮名遣といふをいぶかる
                                   (『凍天以後』)
                              

      短歌雑誌として屈指の老舗『水甕』が今年創刊百年を迎え、先頃盛大な記念会が行
    なわれ、また立派な記念号もできた。『水甕』創刊の中心にあったのは尾上柴舟だが、
    その柴舟を補け、会の運営・雑誌編集発行に生涯を捧げたといってもよいほど、大き
    な力を注いだのがこの歌の作者松田常憲である。昭和三十三年に亡くなったからもう
    没後五十五年になる。明治の和歌革新の大歌人については多くのことが語られるが、
    その傍らで奮励努力した人のことは意外に知られずに過ぎることが多い。常憲もその
    一人である。とくに昭和の戦前戦後の多難な時期に雑誌を支えるについて、どれだけ
    の困難に堪えたことか。察するにあまりある。幸い作者は『長歌自叙伝』という大著
    を残しているので、ある程度のことを知ることができる。ここに掲げた歌は戦後間も
    ない昭和二十二年、国語改革の名のもとに当用漢字、現代仮名遣いが行なわれるよう
    になった折、それに対する批判をもっとも早く歌によって表明したもの。明快で滞る
    ところがない。読み直し、学びたい歌である。            (来嶋靖生)



五月の歌   小野 茂樹

まぼろしにすぎねどかつて迷ひたるその岐路をなほゆくはわが影
                                   (『黄金記憶』)
                              

      歌の「わが影」に余韻が響く。これが短歌であり人生であろう。もう三十年以上も
    前のことになってしまったが、 小野茂樹が交通事故で亡くなったと聞いた時 は耳を
    疑った。亡くなる二年半ほど前のこと。勤め先の河出書房で、小野さんと私は社長に
    呼ばれ、ある新しい企画の準備にかかるよう指示された。間もなく、関連する業界の
    人に招かれ、二人で打ち合せに赴いた。仕事の上で行をともにするのは初めてであっ
    た。会議の後は酒となり、六本木の某所でしたたかに飲んだ。小野さんは私と違って
    酒に強く、いくら飲んでも乱れず、相手によどみなく調子を合わせられる人であった。
    命じられた仕事はたやすくは進まず、そのうちにそれぞれのもつ他の仕事に戻った。
    その後、事は起こった。早稲田の短歌会では学年差があったが、何かと交流はあった
    し、勤め先では後から入った私にいろいろと面倒を見てくれた人。都筑省吾先生の次
    の歌はおそらく小野茂樹を詠んだものと思われる。「昨夜(よべ)おそく路上に事故に
    遭はれつと若き友の死電話の報ず」。五月七日の深夜の出来事である。 (来嶋靖生)



四月の歌   若山 牧水

うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
                                   (『山桜の歌』)
                              

      若山牧水といえばまず多くの人は「白鳥は」を吟じ「幾山川」を思い出す。そして
    「白玉の」を口づさむ。恋と旅と酒。それが標準的な牧水のイメージである。それは
    それでいい。が、牧水の歌にはもっと違う面もある。その一つがここにあげたような
    歌である。作者は桜であれ雲雀であれ、自然とじっくり向き合って心静かに思いを述
    べる。ここに見る山桜の歌は、大正十一年、伊豆湯が島温泉に滞在しての作で二十三
    首の連作だが、全体にゆったりした気分があり、 のびやかで美しい。 この頃すでに
    三十八歳になっている牧水の歌には、人生的な落ち着きが加わり、言葉ではたやすく
    言えないような味わいを湛えている。青春歌人牧水はまた人生歌人牧水でもある。古
    来桜の名歌は多く、桜はいわば歌いにくい素材である。先例が多すぎるのだ。牧水に
    も「うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花」のような家持や
    宣長と通い合うような歌がある。いまの若い作者たちと牧水の歌とはテンポがあわな
    いかも知れないが、この流麗な調べこそが歌のベースなのだ。     (来嶋靖生)
            


三月の歌   高木 佳子

苦しみは燦としてあるみつかんねみつかんねんだどこさゐんのか
                       (『東日本大震災詩歌集 悲しみの海』)
                              

      ここに掲げた歌の作者はいわき市に住む。写真で知るだけで面識はない。が、震災
    についてのこの人の発言や歌にはつねづね注目している。ここでも上の句のきびしい
    表現が下の句の切実な方言に裏打ちされて限りない感動を呼ぶ。昨年震災詠をめぐる
    座談会に出席したとき、私は歌の善し悪しではなく「人間としてどう生きるか、何を
    どう感じるか、そこのところをじっくりと見つめて」いこうと述べるのが精一杯だっ
た。現地にはほんの一二回足を運んだだけ。まだ一歩も踏み出せていない。
     三月といえば、私の心には三つの衝撃が走る。まずこの歌にあるように二〇一一年
    三月十一日の東日本大震災。 次に昭和二十年三月十日の東京大空襲、 そして第三は
    二十二年三月十日以後の大陸からの引き揚げ、である。実際に身を以て体験したのは
    最後の引き揚げだけだが、どれをとっても人の命、失われた人命の数の多さとその奪
    われ方のすさまじさ。三月がくるたびに私は歌を詠むことに戦慄を覚える。歌を詠も
    う。詠まねばならぬ、と思ってもたやすく言葉には出来ないのだ。   (来嶋靖生)



二月の歌   都筑 省吾

人麻呂の像は上方一点を見据うるぞよき一点見据う  
                                    (『星の死』)
                              

      昭和五十六年二月に河出書房から刊行された『石見の人麻呂』は、著者畢生の大著
    である。その敬愛してやまぬ人麻呂晩年の絶唱、いわゆる「石見相聞歌」をもとに人
    麻呂終焉の地鴨山について、通説を覆す新見を提示した大きな研究である。ここに掲
    げた歌はその執筆の間に成った一首で、詠まれている人麻呂像は同著四十九頁に収め
    られている写真の像であろうと推察される。編集担当の藤田三男が調達したものであ
    ろうか。人麻呂像と称される画像や木像は幾つもあり、様相はさまざまだが、この画
    像は至極穏やかな表情をしている。詠まれている通り、上方一点を見据えているが、
    写真よりも歌のほうがずっと迫力がある。結句の繰り返しがいい。この歌を「槻の木」
    誌上で読んだ亡き小中英之が「いい歌だなあ、いいなあ」と感嘆していたこと、忘れ
    られない。この稿を書くにあたって、久しぶりに『石見の人麻呂』を開いて、拾い読
    みしていると、まさに亡き師の声が聞こえて来るような気がして粛然となった。この
    大著、もう一度丁寧に読み直さなくては、と思ったことである。    (来嶋靖生)



一月の歌   窪田 空穂

                                           いへ 
       卓上に白く光るは菊の花長寿を祝ひ家びとの活く  
                                   (『清明の節』)
                              

      昭和四十一年元旦の歌。「元旦」と題する八首の第三首目にある。詠まれている「家
    (いへ)びと」はもちろん_子夫人である。夫人の献身的な介護のさまは、昨年窪田空
    穂記念館に展示された夫人のノートによって悉さに知ることができる。(これについ
    ては別に記したい)。空穂は長い生涯で多くの新年の歌を詠み残した。求められて詠ん
    だものもあろうし、自らの感として詠んだ歌もある。この年の元旦は前年春の気管支
    炎が快癒した後だけにやや改まった気分で新年を迎え、家族や知人の祝いを素直に受
    け入れて詠んでいる。もちろん同じ一連の中の「命あるままに積もりし齢(よはひ)な
    り命の歳なりわがものならず」などはやはり空穂らしい厳しさがあるが、この菊の花
    が「白く光る」というのはまさに自らの心そのままの表現であろう。なお「命あるま
    まに齢つもり凡愚われ九十をひとつ越す身となりぬ」という歌があるが、空穂は数え
    年で歳を考えていたから、自分は九十歳を越えたとして詠んでいる。今の数え方だと
    八十九歳となる。亡くなる前年、つまり最晩年の元旦の歌として、特に感慨深い。
                                     (来嶋靖生)



十二月の歌   樫山 まつ
        
山峡の段(きだ)なす畦の彼岸花炎をあぐる秋陽に照りて  

                                  (『山茱萸の花』)

                              

     
彼岸花の歌は昔も今も非常に多い。右はおだやかな歌で実景をそのまま素直に詠ん
    でいる。「炎をあぐる」も彼岸花の描写としてはごく普通の形で特に目立つ言い方で
    はない。が、こういう平明素朴、かつ堅実な詠み方こそ短歌のベースにあるものだと
    私は思う。いま歌壇には騒々しい歌がはびこっているが、私はここにある静けさを大
    事にしたい。作者は「まひるの」所属、早大教授故樫山欽四カ夫人。また女優樫山文
    枝さんの母。個人的な話になるが、今から約三十年前、私は「毎日新聞」の新刊歌集
    紹介を書いていた。この歌集に出合い、拙い文章を書いたのだが、たまたまその前の
    週から紙面の使用行数が少なくなり、短い紹介がさらに短くなってしまった。久しく
    満ち足りぬ思いでいたところ、過日「NHK短歌」に文枝さんがお付き合いくださる
    ことになり、まつさんの歌を語る機会が到来した。「人の眼に追はるる職を持つ娘の
    がれて今日は樹の間を歩む」という心やさしい歌もある。もっと語りたいが、作者亡
    き今、ここでは短歌の基盤にしっかりと立つ歌として確かめておきたい。(来嶋靖生)




十一月の歌   水野 昌雄
 
石ころを音も立てずに押し上げてすつくと立ちし寒霜柱
                                                 (『暁風』)
                              

      霜柱の歌。読めば何ということもない歌に見える。だが上の句に注目したい。石こ
    ろを持ち上げるのは霜柱にとっては重く、負担であろう。しかも何の音も立てずにすっ
    くと押し上げているのだ。当たり前じゃないか、と言ってしまえばそれまでだが、作者
    は霜柱の決して目立たない当然の姿に注目している。もう少しわかりやすい歌をみよう。
    「リストラというよりかつての日本語は端的率直馘首と記す」。この歌、作者の心に
    は端的率直ではない日本語の現状への強い批判がある。言葉の問題だけではない。こ
    こから万事あいまいに本質を隠したがる政治や社会、教育など、各方面に及ぶ憂いが
    響いてくる。時代に対して、権力に対して、妥協しない鮮烈な歌を六十年間粘り強く
    詠み続けてきたのが水野昌雄である。そして見落としてならないのは彼の柔軟な感性、
    決して頑なではない。ここに示した歌は、なべて報われない無名の民衆への思いに繋
    がる。作者と私は同世代。大陸からの引揚げなど共通する経験もあり、歌の上では竹
    馬の友と言いたい人。窪田空穂への理解も深い。           (来嶋靖生)



十月の歌   橋本 喜典
 
沖縄戦 広島 長崎 ポツダム宣言 十六歳のあの三か月
                                               (『な忘れそ』)
                              

      この歌にあるように、作者は昭和二十年に十六歳であった。この年日本国民は初め
    て敗戦という事態に遭遇した。沖縄日本軍の全滅、広島・長崎への原爆投下、ポツダ
    ム宣言の受諾、つまり無条件降伏という、いままで学校でまた新聞ラジオで教え込ま
    れてきたことがすべて逆転した。八十二歳の作者は顧みる。「敗戦後十七歳の思ひし
    こと 大震災後八十二歳の思ひゐること」「敗戦後打ちひしがれしわれらにも希望は
    ありき希望はいのち」。そしてさらに次のように詠む。「再びの悲歌の時代に生きてわ
    れあかるき歌を詠みたくおもふ」「再びの悲歌の時代をみつめつつ花鳥風月を愛さむ
    われは」。これらの歌、注釈を加える必要はあるまい。私は作者より三歳年下である。
    早大短歌会の後輩として、ずっと先輩の背を見つつ学んで来た。右の歌を見てわかる
    通り、祖国を思い、同胞を思う作者が、自らの身に鞭打って、渾身の力を込めて纏め
    たのが、新刊の歌集『な忘れそ』である。そこには、日本人としてまさに忘れてはな
    らないことが重く、凛々と歌い上げられている。           (来嶋靖生)



九月の歌   土岐 善麿
 
燃えさかる野天の竈の焔のなかかの腕はもよいつまでも焼けず
                                              (「改造」大正13.3)
                              

      昨年三月の東日本大震災によって多くの歌が詠まれた。特に被災された方々やその
    家族の歌はいずれも切実で、短歌に携わるものとして多くのことを考えさせられた。
    そしてあらためて過去の関東大震災の歌や空襲の歌などを詠み返してみた。ここに掲
    げた歌は関東大震災の時の歌、当時新聞記者だった作者が震災の後、東京市内を取材
    のために駆け回ったその一齣。多くの人が安全と思って逃げた被服廠跡は折からの風
    に煽られて火の海となり、何万という生命が失われた。焼死した人々の亡骸は収拾が
    つかず、その場に竈を作り火葬にしたという。作者はそれらを「地上百首」と題する
    連作とし、雑誌「改造」に発表した。このほかにも「くろこげのむくろよく見ればよ
    こ顔にいきのみの肉のすこしなほある」「投げ込むや筵のかばねもんどり打ちすなは
    ちあらず焔のなかに」など凄惨な状態が悉さに描かれている。現在と違ってまだテレ
    ビはなく、ラジオも普及していない当時のこと、根拠のない流言が広がりさらに悲惨
    なことも起こった。それらについては別に記す。           (来嶋靖生)



八月の歌   安永 蕗子
 
日本に依り韻律に拠ることの命運つひに月下を出でず  (『朱泥』)
                              

      昨年三月亡くなった安永蕗子の歌。熊本に縁があるということで、安永さんには生
    前しばしば優しい言葉をかけて頂いた。過日、これまた熊本生まれ、俳句の正木ゆう
    子さんと同席する機会があり、正木さんとの話から再度安永蕗子の歌を詠み直した。
    その歌の魅力はすでに多く論じられているが、私は作者の歌の、きっぱりと言い切る
    小気味よさが好きだ。よく言われていることだが漢語・熟語の選択がみごとで、実に
    韻律性の高い語を詠み込んでいる。この「命運つひに月下を出でず」はその好例である。
    「朝靄の薄れゆくまま江津と呼ぶ冬麗母のごとくみづうみ」の「冬麗」も、ともする
    と浮きあがりそうな語だが、上の句と下の句の結節点として、この場合は効果をあげ
    ている。江津湖近くに転居されてからはこの湖が多く素材として選ばれた。ここで自
    然詠こそが歌の究極にあると思い定め「自然詠の方向に人生必然の理由を見る」とも
    書いている。歌の調べのもととなる言葉の韻き、その律調の高さは現代短歌において
    範とすべきものと私は思っている。読み直されるべき歌人である。   (来嶋靖生)



七月の歌   影山 一男
 
エアコンの雫の狐雨が降る神保町裏道ひとりし行けば  (『桜雲』)
                              

      作者は出版社柊書房を営む一方、歌人としては「コスモス」選者の一人。会社のあ
    る神田神保町で毎日忙しく働いている。書店街の裏通りを歩いていると、時折エアコ
    ンから戸外に落ちる雫を浴びることがある。それを「狐雨」といったところが秀逸。
    現役編集者の日常の哀感を詠む歌には、私自身の経験と重なるところがしばしばあり、
    親しみと懐かしさを覚えることが多い。「表紙張り、かがり、箔押し、安き値に働く
    人いて本は生まるる」「本作りなりはひとして生くること天命としてこの先も生く」。
    出版も編集も、とにかく好きでなくては続かない仕事だ。また「エースでも四番でも
    なきわれの頭(づ)を染めつつ咲けり白さるすべり」という歌もある。「コスモス」で高野
    選手が打点王になれるのは出塁率の高い一番影山選手が得点圏にいるからだ。さもな
    くば絶妙のバントで走者を進める二番影山の功か。編集者は人に花をもたせるのが仕
    事である。自分を殺す心を持たなくては務まらない。風貌が若い頃の宮柊二さんそっ
    くりと言われてきた作者。今も面影は残している。          (来嶋靖生)



六月の歌   武川 忠一
 
単純に流れぬ水のゆくえなど心けわしき夜は思うも   (『秋照』)
                              

      四月十一日、武川忠一さんが亡くなった。亡くなった人に「さん」は要らないとい
    うが、この人にはつけずにいられない。私が歌を始めて間もない頃、武川さんは「ま
    ひる野」のトップスターであり、民衆詩としての短歌の論客として輝かしい存在、私
    には憧れの先輩であった。毎週の早大短歌会に、一度だけだったが、武川さんと植田
    重雄さんをゲストに招いたことがある。武川さんの批評は明快で歯切れよく、胸のす
    く思いをしたことを覚えている。その後何年か経ち、窪田空穂先生が亡くなり、空穂
    忌や空穂会が始まり、なぜか私が事務を預かる役になった。当初若年の私には、各結
    社の均衡や長老先輩方の意見を調整したりするのはかなり重荷だったが、そのたびに
    私を扶け、励まし、適切な指示をして下さったのが武川さんであった。さらに後、松
    本の窪田空穂記念館の開館前後は、文字通り一つになって労を共にした。それらのこ
    と、語り出せば尽きない。掲げた歌の背景の詳細は知らないが、何かの組織に拘るこ
    とであろうか。武川さんらしい、深い思索の思われる歌である。    (来嶋靖生)



五月の歌   今野 寿美
 
「業平橋」を「とうきょうスカイツリー駅」にしたがる平成の世は
                                     (『雪占』)
                              

      五月の歌かどうかは知らない。だがこの歌に出会って思わず膝を打った。しかも実
    際は「したがる」を越えて「して恥を知らず」なのだ。この改悪は著しく目立つ例だ
    がこれに類する醜悪卑俗な新駅名、新町名は挙げきれないほどある。歌集『雪占』に
    ははじめに掲げた歌を初め、批評性高く、立ち止まって考えさせられる歌が多い。
    しかも言葉や文字に関わることを多く採り上げている。「力士ならぬ相撲取りとか聞
    こえたり歌人、歌詠み、はたまた歌屋」とか「持ち帰って検討します前向きに検討し
    ます言つて済ませる」とか老人に力(りょく)づけて言ひ失敗に学つけて言ふきのふけ
    ふ雨」など。昔近藤芳美さんが「歌人」と書くと中国では「歌手」という意味になるんだ
    よと教えて下さったが、今わが国には「歌手」ならぬ「歌屋」さんが続々と生まれて
    いる。在原業平を抹消してまでスカイツリーに熱狂しるのは行政かマスコミか、地元
    の商店街か、そしてまた鉄道会社か。疑わない人が多い。いやな世の中だが、言葉を
    鋭く強く守る歌人今野寿美さんにはぜひ多く発言して頂きたい。    (来嶋靖生)
                                    



四月の歌   太田 水穂

咲きて散りて幾春のわが花なりし老木のさくら跡もなきかな
                                     (『流鶯』)
                              

      昭和二十年 (一九四五)四月十三日の東京大空襲で東京はほとんど焦土となった。
    太田水穂も田端の家を失った。その家は二田荘と号し、大正八年から住み慣れたとこ
    ろで「潮音」社もここにあった。昭和十四年、水穂はその家を嗣子青丘一家に譲って
    自身は鎌倉に移っていた。水穂はすでに七十才、その衝撃はいかばかりであったか。
    「ひとところ焼けのこりたる骨組のすくと立ちをり野を寒くする」「やけあとの末はお
    ぼろの朝霞ひとすじ川の光り流れたり」などをはじめ、悲痛な歌が続いている。周知
    のように、水穂は空穂と同じ信州の出身で、青年時代からの親しい交友関係があり、
    空穂の妻藤野との結婚にも一役買った。同じ昭和二十年に出た空穂の歌集『明庵』に
    対しても「その日々のさやけさくらさつばらかに顕はし見しめ飽かしめぬ歌」と好意
    的に詠んでいる。またこれより先、空穂は鎌倉に水穂を訪問し「故事(ふること)に心
    を潜め我が村を語る水穂のわれよりも知る」「山の家に籠もりて門を出でぬとふ水穂
    老いては信濃びとさぶ」などの歌を残している。           (来嶋靖生)



三月の歌   佐藤 通雅

非情の雪なれどもバケツに詰め込んで不浄用の水作らんとする
                                (「短歌往来」七月号)
                              

      作者は仙台市に住む歌人。児童文学研究者。昨年の大震災により被災し、同居の親
    族が亡くなった。被災後は各地を回って被災者のために働き続けている。この歌もそ
    のひとこまであろう。解説する必要はない。作者はまた仙台の「河北新報」の歌壇の
    選者も務めている。そこに寄せられた多くの歌は(私はごく一部を読んだだけだが)
    いずれの歌も胸を打つ。例えば「避難所にいますと赤い旗立てて一軒二軒と人消えて
    ゆく・渋谷史恵」五月一日掲載。「戦争に戦後今日まで生かされて体験せぬこと「死]
    のみになりぬ・安田貞夫」五月八日掲載。「生きねばと仮設の隣り荒地借り季節遅れ
    の野菜の種蒔く・島田敬三郎」七月三十一日掲載。右はわずかな例だが、東京の歌壇
    雑誌に出ている著名歌人の歌にはない迫真生、技巧を超える力がある。佐藤さんから
    聞いた話だが、震災によって家を奪われた人たちが、仮設住宅で日々を過ごすうちに
    短歌を詠みはじめた人が何人もおり、短歌つくりが生きる上での励みになっていると
    いう。短歌とはなにか、考える資料にもなる貴重な話である。     (来嶋靖生)



]二月の歌   都筑 省吾

                            あした   
生き残りひとり我があるこの世なり夕べかく思ひ 朝 かく思ふ
                                    (『星の死』)
                              

      一九八七年、作者八十七歳。この歌の次に「思はぬに昨夜(よべ)雪の降り我がた
    めは二つはあらぬ今日の日来たる」がある。「二つはあらぬ今日の日」とは二月十九日、
    つまり作者の誕生日のこと。この頃、藤田三男の肝煎りで、いつ頃からか、先生を囲
    んで盃を交わすささやかな集まりが続けられていた。この集まりについては私よりも
    もっとおもしろく書いてくれる人たちがいると思うのでそちらに譲る。掲げた歌は、
    若き日に文学に志した仲間がみな世を去って、自分一人になってしまったという歌。
    孤独を嘆いているようにもとれるが、決してそれだけではない。我こそはという昂然
    たる自負と気概が下の句「かく」の繰り返しにこめられている。前年の秋、かねて研
    究を進めて来たオノコロシマの所在について、実地踏査のため大阪湾を航行、定期船
    から遠望した後、翌日は小さい舟で令息至さんとともに目標とする沼島に接近し、そ
    の姿をカメラに収めている。「浪飛沫(しぶき)真前よ我が面打ち叩き小舟音立てひた
    驀地(ましぐら)に」。まさに年齢を感じさせない生き生きとした行動である。
                                     (来嶋靖生)



一月の歌   休載

平成二十四年一月号は、「第九〇〇号記念号」としたため、一月の歌は休載。



十二月の歌   會津 八一
             
いにしへ の とほ の みかど の いしずゑ を くさ に
かぞふる うつら うつらに
               (『自注鹿鳴集』)
                              

      大正十年十二月の作。作者會津八一はこの年秋から翌年春にかけて九州を旅し、大
    分県中津、別府、福岡県太宰府など各地をめぐり多くの歌を残している。これらは
    「放浪□草」としてまとめられ、『南京新唱』や『鹿鳴集』に収められているが、ここ
    では『自注鹿鳴集』から引用した。この旅の成立や経過については原田清著『私説會
    津八一』に詳細綿密な考証がある。右の歌を理解の便のために、仮に漢字まじり、字
    間をつめた形にすると「古への遠の朝廷(みかど)の礎(いしずゑ)を草に算(かぞ)ふる
    うつらうつらに」とでもなろうか。つまり太宰府都府楼跡に佇んでの歌である。あわ
    せて観世音寺の鐘の音を詠んだ歌もある。「このかね の なり の ひびき を 
    あさゆふ に ききて なげきし いにしへ の ひと」。むろん菅原道真を偲ぶ歌
    である。知られているように八一は歌の調べを重んじ、声に出して歌を詠み、舌頭千
    転してよどみないのがほんとうの歌だ、とした。今こそ学ぶべき尊い教えである。
                                     (来嶋靖生)
    
注 「放浪□草」の□は、「口偏に金」       



十一月の歌   結城 千賀子

終焉の窓おごそかに夕映えて父をつつめり天
(あめ)の茜は
                                   (『天の茜』)
                              

     
詠まれている「父」は歌人磯幾造(いそいくぞう)。磯は「アララギ」で山口茂吉に
    学び、戦後は山口の創めた「アザミ」に参加。氏の死後は「表現」を創刊して今日に至っ
    た。平成二十二年十一月八日死去、九十三歳。戦後間もない頃は磯幾造といえば鮮烈
    率直な職場詠で知られ、短歌の社会性のあり方を身をもって明らかにする存在であっ
    た。晩年は堅固な写実による自然詠を多く詠み残した。掲載歌の作者結城千賀子はそ
    の娘。文字通りの愛娘で、はやくから作歌に励み、師でもあり父でもある磯幾造のも
    とで、女性らしい清新な感覚をもって頭角を現わす一方、父の主宰する「表現」の発
    行編集を扶け、また父の作品を整理し、その業績を明らかにする地道な作業を続けて
    きた。いま日本は高齢化社会となり、介護の歌は歌壇に充満しているが、父の終焉を
    見守る作者の歌は緊密な調べをもって胸をうつ。ほかに「一穂
(いつすい)のいのちの
    炎細りゆく見つくして一夜わが眸
(め)乾けり」「なほしばしこの世の岸にたゆたへる
    
父の眠りよ黄昏までを」「一揖(いちゆう)しこの世しづかに罷りゆくその後姿(うしろで)
    幻に見ゆ」などがある。                      (来嶋靖生)



十月の歌   千代 国一
      
  瓦斯
(ガス)の焔(ひ)は青々と噴く妻の影くらく小さきを後より抱く
                                    (『鳥の棲む樹』)
                              

      十月号の入稿を終え、一息ついて後記に取り掛かろうとしていた矢先、電話が鳴っ
    た。千代国一逝去の報せである。案じていた事が遂に現実となった。大正五年一月の
    生まれだから今年九十五歳。歳に不足はないとはいうものの。やはり少しでもこの世
    の人であってほしいという願いはもつ。空穂系雑誌としては最も古い「国民文学」を
    松村英一から引き継ぎ、先年創刊九十年の偉業を成し遂げた。歌は松村直系の写実に
    徹する詠風で堅実そのものだが、初期にはここに掲げたような初々しい相聞歌で知ら
    れた人。この歌を含む歌集『鳥の棲む樹』は第一回新歌人会賞を受賞した。「唇(くち)
    ふれて冷たかりけり霧のなか足もとに砂崩るる音す」「乳色に夜明くる部屋に吾と妻と
    互(かたみ)に見えてしばし眠れり」など今も新鮮である。敗戦後、財閥解体で苦境に
    立つ旧大倉組の再建に尽力、経営者としての手腕も高い。その才をもって現代歌人協
    会の財務担当理事としても大きな功績を残した。私にとっては空穂会の良き先輩。協
    会財務の上でも実に多くのことを教えて頂いた。謹んでご冥福を祈る。 (来嶋靖生)



九月の歌   宮 柊二
             
たたかひを終りたる身を遊ばせて石群れる谷川を越ゆ

                                    (『小紺珠』)
                              

      歌集『小紺珠』冒頭にある著名な歌。第二次大戦で中国大陸にあった作者は敗戦後
    復員、九月に妻子の疎開している富山県を訪ねた時の作。歌意、戦争を終えて帰国し
    た自分の体を休ませるような気持で岩の群がっている谷川を越えていることよ。この
    谷川は黒部渓谷であろう。まだ戦争中の緊張感が残っている身ながら、その戦争がよ
    うやく終わったという安堵感、そしたまたこれから展開して行く新しい生活とを思っ
    ている。さわやかな詠み口で、ここに日本の歌がああると思わせるような調べがある。
    戦地にあったときの歌は歌集『山西省』に纏められているが、それとこの歌を含む歌
    集『小紺珠』とが宮柊二によって示された戦後短歌の新機軸であった。
     歌を詠み初めて間もない私は先輩から教えられて何冊かの歌集を繰り返し読んだが、
    この『小紺珠』もその一冊である。「一本の蝋燃(もや)しつつ妻も吾(あ)も暗き泉を
    聴くごとくゐる」「悲しみを窺うごとも青銅色(せいどう)のかなぶん一つ夜半に来てを
    り」「告白と芸術と所詮ちがふこと苦しみてロダンは「面」を発見せり。」など。
                                     (来嶋靖生)



八月の歌   春日真木子
             
地震 津波 底ひ揺れつつ小さなるこの国土
(くにつち)の傷つきやすし
                                   (『燃える水』)
                              

      この歌は今年三月の地震・津波の歌ではない。数年前に今日を予見するかのように
    詠まれた歌である。これより先、阪神淡路大震災があった。中越の大地震があった。
    作者はそれらの経験の上に立って日本という国土への憂いを述べている。この前に作
    者は五島列島を訪れ、壮大な石油備蓄基地を見、エネルギー問題についての知見を新
    たにした。歌集『燃える水』にはその前後の感が淡々と穏やかに、かつ鋭く詠まれて
    いる。長くゆたかな人生経験、作歌経験に基づく作風の特徴は短い言葉では語り尽く
    せない。それとは別に、私達が目をみはるのは、「水甕」責任者としての活躍ぶりで
    ある。「水甕」が生まれたのは大正三年(一九一四)、百年に近い老舗である。主催柴舟
    の死後は、作者の父松田常憲が継ぎ、さらに石井直三郎、加藤将之、熊谷武至、高嶋
    健一と主宰が次々に変わってきた。春日真木子は父娘二代にわたってこの 暖簾 を守
    り、柴舟の「業績」はもとより「水甕」の先輩達の存在を明らかにする事業を次々に世
    に送っている。まさに偉観というべきであろう。           (来嶋靖生)



七月の歌   上田 三四二
             
あぢさゐの花をおほひて降る雨の花のめぐりはほの明りすも

                                     (『湧井』)
                              

      紫陽花はさまざまな人によって詠まれ、知られている歌も多い。その中にあって、
    この歌は決して目立つような歌ではなく、ごく穏やかな歌だが、ここに採り上げたの
    はひとえに調べが美しいこと、印象鮮明なこと、による。「花をおほひて降る雨の」の
    流れが美しい。「花のめぐりはほの明りす」も雨季の表現として的確である。短歌を読
    むよろこびはここにあるとでも言いたくなるような歌だ。上田さんが亡くなってはや
    二十年以上が経過した。私は短い間だったが、上田さんからは歌人協会の仕事で貴重
    なことを教えられた。それは言葉では現わせない。短歌の世界はいま、商業雑誌など
    を見ていると何となく騒然とした感じがするが、こういう歌を読むと、救われるよう
    なやすらぎを覚える。歌集『湧井』は、大病による手術前後の緊張した期間のもので、
    掲げた歌のほか「死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きている一日(ひとひ)一日はい
    づみ」といった厳しい歌や、名高い「ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて
    谷にゆくかも」などが収められている。               (来嶋靖生)



六月の歌   藤井 常世
             
あぢさゐの葉群しづまる夕やみに湛ふる水のごとき花あり

                                   (『繭の歳月』)
                              

      やわらかい調べ、静謐な気分を持った歌。夕方、風に揺れていたあぢさゐの葉群も
    静かになり、作者の目に映る花は湛えられた水のような澄んだ風情をもっている。自
    然であれ何であれ、このように落ち着いた眼ざしで対象を見つめ、しっとりとした抒
    情を伝えるのがこの人の世界である。学芸の気風に恵まれた家系に育った人だが、作
    者自身の意識せぬうちにおのずからどの歌にもよき血脈が感じられる。もう何十年も
    前のことだが『紫苑幻野』という作者の第一歌集の出版を祝う会に私は顔を出した。
    未知の作者だが、小中英之に薦められてのことだ。作者は多くを語らず、師の隣につ
    つましく目を伏せているばかり、その姿が心に残った。現代短歌は年々猥雑の度を加
    えているが、この作者はそういう風潮に馴染まず、明らかに一線を画して自らの歌風
    を貫いている。「一夜さのあらしに梢を離れしは木の葉鳥の子逡巡の月」「「ひとすじの
    風あればわれとともにそよぐ母が残しし帯の秋草」          (来嶋靖生)



五月の歌   松平 盟子


バゲットは半分(ドウミ)で買うべし今日の分だけの幸福さくさくと切る
                           (『カフェの木椅子が軋むまま』)
                              

      一九一二年五月、与謝野晶子はパリにいる夫、寛を追って旅立った。当時のことで、
    飛行機ではなく、シベリア鉄道経由の長い旅である。夫妻はヨーロッパ各地を回って
    十月に帰国するが、その滞在中のくさぐさはまだ知られていないことが多い。この歌
    の作者松平盟子はかねて晶子研究を進めている人だが、単身現地へ赴き、与謝野夫妻
    のヨーロッパ旅行の足跡をつぶさに調べ上げている。もう十年も前のことだ。歌はそ
    の晶子研究の一端で、踏査旅行中の生活が多く詠まれている。海外旅行の観光短歌は
    うんざりするほどあるが、現地で生活し、それを詠んだ歌は数少ない。友人の部屋を
    借り、不慣れな土地で苦闘しながらのつつましい生活から生まれた歌は、生き生きと
    した力に充ちている。「「フランス人はみな優しい」の例文が仏語テキスト最初にあり
    ぬ」「晶子の靴くくと鳴りたる石畳わがサンダルは踵が折れし」「浴槽に浸ればわれの
    なにがしの苦汁といえる汁が溶け出す」               (来嶋靖生)


四月の歌   小島 ゆかり
              
水流にさくら零る日よ魚の見るさくらはいかに美しからん

                                   (『月光公園』)
                              

      古今の桜の歌はほとんど人間の眼で見た桜である。が、ここに魚の眼で見る桜の歌
    が登場した。詠んだのは子を生んで間もない、若い母親である。幼い子に近く、同じ
    低い視線でものを見るうちに、たくまずして得られた新鮮な発想であろう。ものには
    表と裏があり、ともすれば裏は好ましくないイメージを伴うことが多い。裏目、裏金、
    裏街道、裏取引・・・。だが水面の裏には人間の汚れた眼には見えない美しさが存在する。
    それを魚は知っているのだ。この歌はさくらを詠んだ美しい歌だが、読みようによっ
    ては人間の、また短歌の、それこそ「裏」を見透した鋭い歌でもある。「槻の木」新年
    会の彼女の話は、古典から現代までの歌を通覧し、作者自身の体験を踏まえた実作に
    有益な話であった。宮柊二に学び、高野公彦ら「コスモス」の佳き先輩に刺激され、
    短い間に大きな成長を遂げた新世代の女流。明るく、変化に富む歌が身上だが、最近
    は「三人の親の一人も喪はず今年暮れたり大き息する」といったきびしい歌もある。
    歌壇の明日を担う一人である。                   (来嶋靖生)



三月の歌   木俣 修

かみはし あけ  そりはし                              いろ
神橋の朱の反橋ほのぼのとこの降る春の雨に彩へり

                                     (『高志』)
                              

      昭和十五年(一九四〇)、宮崎県鵜戸神宮での作。この年、紀元二千六百年というこ
    とで、国中が「奉祝行事」に沸き立った。中でも宮崎県は天孫降臨や神武天皇東征な
    どの神話に基づいて、霧島山や美々津浜をはじめ、県内各地が脚光を浴び、有力歌人
    が相次いで訪れ、多くの歌を残した。中でも木俣修の諸作は、喧伝された斎藤茂吉の
    歌とは別に、純粋な力のこもった一連である。詠まれている鵜戸神宮は日南市にあり、
    日向灘に突き出た鵜戸岬の先端の洞窟内にある。祭神は神武天皇の父、鵜茅草葺不合
    命(うがやふきあえずのみこと)を主神とし、戦前は官幣大社として国家的に尊ばれて
    きた。「古事記」には豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)が鵜茅草葺不合命を生む劇
    的な場面が記されている。修の歌も茂吉の歌も、いわば戦時中の国策の流れに沿って
    生まれた歌であることは否めないが、それを超えて、あの当時日向の大自然と向き合
    った力作として十分に評価すべき歌と私は思う。他に佐々木信綱、長塚節、若山牧水、
    前田夕暮、川田順、松田常憲、宮柊二、伊藤一彦ら、鵜戸神社の歌は近代現代を通じ
    て枚挙に暇ない。                         (来嶋靖生)



二月の歌   津川 洋三

海へだて雪にかがやく連峰を振り放(さ)けやまずわれの家持
                                   (『連峰の雪』)
                              
      第二次大戦中、新年御題に「連峰の雲」という年(昭和十九年)があった。そうい
    う古いことを思い出すのは私の年齢を伝えるだけで、この歌とは関係ない。作者は純
    粋に家持と立山を思っての歌である。歌は堅実で、とくに第一、二句は土地の人なら
    ではの美しい響きをもっている。私が作者のこの歌に惹かれるのは、やはり北陸、加
    賀の歌人としての津川洋三が意識されるからである。「白山を望む山村にて十九まで
    育ちき一族に守られながら」という歌は志貴皇子を産んだ越路君伊羅都売(こしぢの
    きみいらつめ)を詠んだ歌だが、何か作者に通じる血脈を思わせる。作者は加賀の中
    心的歌人でありまた土地の名望ある医師でもある。個人的な思い出になるが、平成十
    三年、はじめて金沢を訪れた時、私はこの津川さんと永井正子さんんとに大変世話に
    なった。加賀白山に登りたい、という私の夢に、二人はいろいろな形でアドバイスし
    て下さった。おかげで十七年と二十年、心筋梗塞後の身ながら、私は白山への登頂を
    二度も果たし、黒百合の群生や壮麗なお花畑に接することができた。  (来嶋靖生)



一月の歌   都筑 省吾

 かかる間も時は過ぎゐむかくてある今宵も遠きむかしとならむ
                                    (『入日』)
                              
      敗戦直後、「新年」と題された五首の最後に置かれている。当然のことを当然のよう
    に歌っているが、国の大きな変動の時に新しい年を迎える緊張がそのまま形になって
    いる。この前には「高らかにラジオうたひてありけるが鳴り出でにけりあはれ除夜の
    鐘」がある。今なら紅白歌合戦の後にゆく年くる年という番組が続くという平凡な事
    実ととられやすいが、これは敗戦直後のこと。戦事中に多くの寺の鐘は金属供出で軍
    に懲発され、国民は除夜の鐘をきくことなどほとんどなかった。この「あはれ」には
    久々に聞く除夜の鐘への感慨が込められている。敗戦後すでに六十数年、「今宵も遠
    き昔とならむ」はまさに事実となった。この頃、作者は四十歳代後半、創作力がもっ
    とも充実していた時期にあたる。「明るくも春の夕日の照らしたりあの草原に出でて
    歩まむ」「ひぐらしのかそかに鳴ける峡を来て空に吊せる吊端渡る」「この丘にわが佇
    めばくれなゐの入日の前に汽車笛鳴らす」など、代表作ともいうべき秀歌が次次に生
    み出されている。                         (来嶋靖生)


十二月の歌   与謝野 晶子

 夕月夜片Pの河の橋くぐる黒き紅葉のなまめかしけれ
                                    (『白桜集』)
                              
     『白桜集 』は与謝野晶子没後、平野万里によってまとめられた遺歌集。二千四百首
    を超える多くの歌が収められている。昭和十年、夫寛と死別した後の、悲しみと追慕
    の心が全編に流れ、哀切をきわめる秀歌が数多く並んでいる。掲げた歌は最晩年、昭
    和十六年十二月、湘南片Pで詠まれた歌。「Kき紅葉」はそのままの描写であろうが、
    病身の作者の歌としては不吉な予感もする。しかしなお「なまめかしけれ」と言い切
    るのがこの人である。前年五月に脳溢血で倒れ、以後山梨や湘南に転地療養をするが
    状態は決して好転しない。しかも暮になって太平洋戦争が勃発、出征した子を思って
    「戦ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く」という歌もある。傷心と寂寥の
    中でも歌は詠み続け、「梟よ尾花の谷の月明に鳴きし昔を皆とりかへせ」という凄みの
    きいた歌、また「われのみが長生の湯にひたりつつ死なで無限の悲みをする」や「源
    氏をば一人となりて後に書く紫女年若くわれは然らず」など悲痛な歌を多く詠み残し
    ている。亡くなった時は六十五歳であった。            (来嶋靖生)


十一月の歌   山崎 方代

 大正三年霜月の霜の降るあした生まれて父の死を早めたり
                                    (『左右口』)
                              
     最近ことがあって山崎方代の歌を読み直し、少しばかり調べごとをした。三十年以
    上も前、はじめて『左右口』を読んだ時はその独特の語り口、文学一筋を貫こうとす
    る生き方に感銘を受け、多少のことを書いた記憶がある。だがその後、その無頼の在
    り方に疑問を感じ、歌にみられる殊更の構えを疎ましく思うようになった。しかし、
    今回あらためて読み直し、方代が大きな影響を受けたヴィヨンの詩などと思い合わせて
    みると、また新しい感想を得た。特に晩年の歌はかつての構えが薄れ、親しみのある
    人間が浮かんでくる。生計は二の次、歌が第一、というありようはわが師都筑省吾の
    若き日に通うものがある。(だが二人は決定的に違う)。ここに掲げた歌は父を思い、
    自分の不幸を心で詫びている歌だが、方代の父が亡くなったのは九十何歳だというか
    ら、単純に言えば事実と違うことになる。虚構は創作にはつきもの、「嘘の真実(まこと)」
    と方代に明るい人は言う。詠まれたことすなわち事実と読み取る自然主義的読者の幼さ
    を笑うようなところがある。もちろん異論はあろう。        (来嶋靖生)


十月の歌   都筑 省吾
  
 四方(よも)うづめ天地おほひて降れる霧渦巻き流れ乱れ走せ飛ぶ
                                       (『螢橋』)
                              
     昭和五十二年十月二十九日、「槻の木」創刊五十年を祝う会が栃木県鬼怒川温泉星
  の湯で行なわれた。日光湯元に降り立った一同は、まず二荒山神社に参詣、ここを詠
   んだ窪田空穂先生の色紙を都筑省吾から神社に奉納した。この歌は境内に歌碑となっ
 て残っている。その夜は「一日五十首」の歌を各自詠んだり、懇談したりして過ごし、
  翌日は鬼怒川の川下りの後、車をつらねて霧降高原に向かった。しかしその名の通り
   一面の霧、紅葉の名所とされる六方沢橋の上で停車したものの視界ゼロ。沼尾静一さ
  んの話を聞きながら往事を偲ぶばかりであった。だが私が驚いたのは、霧に覆われて
 何も見えぬ橋の上で都筑先生が、何も見えぬ霧に向かって一心にメモをとっておられ
る。歌を詠んでおられるのだ! 先生のそういう姿を見るのははじめてだった。この
 時の先生の歌一つ二つ「行けど行けどもみづる落葉松(からまつ)林なり降りしく霧の
いや降りしきる」「高鳴るは我が靴音か渓底を落ち行く軍の蹄の音か」。何しろ三十
三年前、参加した会員の多くは物故、健在なのは原田清と来嶋ぐらいであろうか。
                                             (来嶋靖生)


九月の歌   小高 賢

   縁日にむらがる子らにまぎれいん九月一日九歳の母
                                   (『眼中の人』)
                              

     「震災記念日」と註があり、九月一日とあるから当然これは大正十二年の関東大震
    災を指す。九月一日は震災記念日だなあ、ということから、幼い頃の母を偲んでいる
    歌。今は第二次大戦すら知らない人が多くなったが、関東大震災を知る人はさらに少
    なく、もし思い出話など聞いたとすれば実に貴重なことである。当時刊行された震災
    写真画報の類を私は何冊か見たが、その惨状には言葉を失う。作者はむろん大震災は
    おろか、空襲の体験もあるかないかの世代だが、彼の歌にはつねにこういう歴史意識
    が流れている。同じ歌集に「感傷といわれるだろう『資本論』第一巻の新訳買えば」
    という歌もある。「私たちは長谷部文夫訳だった」と註があり、新訳読後の何首かがあ
    る。私は古本屋でもっとも安価だった高畠素之訳を買ったが、一つの文が幾つも幾つ
    も読点で繋がる悪文?で難渋した記憶がある。(卒業前後に岩波文庫で向坂逸郎訳が
    出た)。この歌集にはほかにも『日本の思想』『矛盾論・実践論』など、なつかしい書
    名が次々に出て知的興奮?をそそられる歌集である。         
(来嶋靖生)
    


八月の歌   窪田 章一郎

      
  征く日まで戦(いくさ)のさなか端座して深夜ひとりの碁を打ちし音
                                   (『素心臘梅』)
                              

     「深夜ひとりの碁」を打っているのは作者の弟茂二郎。昭和十八年、早稲田大学国
    文科を繰り上げ卒業、十月世田谷の野砲連隊に入隊、戦地に向う。中国大陸で敗戦を
    迎え、捕虜としてシベリアに送られ、同地で死去した。茂二郎は秀才の名が高く、卒
    業論文には泉鏡花を選んだ。碁が強く、この歌に見るように深夜一人碁盤に向かい、
    棋譜を片手に碁石を並べ研究していた姿は、都筑省吾先生からも聞いたことがある。
     兄弟の仲は睦まじく、病弱であった弟を兄はつねに思い、あの体で軍隊生活が堪え
    られるかと案じている歌がある。戦後、復員を待つ家族の願いも空しく、同じく捕虜
    として抑留されていた友人が帰国して、茂二郎の死を伝えた。家族の衝撃は大きく、
    父空穂の長歌「捕虜の死」をはじめ、兄章一郎の「弟を偲ぶ」などの秀作が多く生み
    出された。掲げた歌はその後歳月を経てからのもので「鎮魂歌」十六首の中にあり、
    「八月十五日」という小題のもとにある一首。ありし日の弟の姿がそのままに窺える
    哀切な響きがある。                        
(来嶋靖生)



七月の歌   窪田 空穂

               
  大君(おおきみ)の将校として死にけむも親には子なり泣かずあ
らめや
                            (『冬木原』)
                              

     昭和十九年七月十八日、ラジオは大本営発表として、サイパン島日本軍全員玉砕の
    報を伝えた。このニュースを聞いて、空穂はすぐに筆を執り、この歌を含む六首の歌
    を書き郵便で半田良平に送った。以前(平成十一年七月)この欄に記したように、良
    平の三男信三は兵士としてサイパン島日本軍の中にあった。玉砕の報を聞いて良平は
    「報道を聴きたる後にわが息を整へんとぞしばし目つむる」に始まる悲痛な歌を多く
    詠んでいる。その同じニュースを空穂も聴いたのである。掲げた歌の意は『信三君は
    「大君の将校」として名誉の戦死を遂げたのであろうが、親にとってはかけがえのな
    い「子」ある。泣かずにいられようか』。ほかには「代り得ばと親はおもはむ三人子
    の残れるあらぬ半田のあはれ」などがあった。信三が死ぬと、三人の男の子をすべて
    失なうことになる良平を思う歌だが、当時郵便でこの歌を送るなど、危険極まること
    で、もし検閲にかかったら反戦思想として処罰されたはずである。人間としての真情
    を吐露した、そして深い師弟愛の思われる歌である。         
(来嶋靖生)



六月の歌   窪田 空穂


  さし出だす曽祖父(ひいぢい)の中指握りたる曽孫(ひまご)何思
ひし振り切りにけり
                  (『去年の雪』)
                              

     昭和四十年六月一日、空穂は老人性貧血のため、青山の心臓血管研究所に入院し、
    二十五日に退院した。「眼(まなこ)昏み口もの言へずなる我を妻はおどろき声高く喚
    (よ)ぶ」という状態になったので急遽入院したが、その後は経過も良く、入院中の歌三
    十首が歌集に収められている。病院は東宮御所や代々木の森が窓から望める青山の高
    台にあり、全体に明るい気分の歌が多い。掲げた歌は曽孫が見舞いに訪れたのであろう。
    ほんの一瞬のことだが楽しげに詠んでいる。「眼昏み口もの言へず」の状態にあった
    時は「老病は癒ゆる日あらず言ふべくは死もて全治の日とはなすべき」と、やや気弱
    になった感じもあるが、入院後は体調も戻り「命とはわがものなりけり俄には死なず
    と思へば死は近からず」と力強く詠んでいる。事実、その夏から一年半は元気に過ご
    すことが出来た。『去年の雪』には四十一年の九月までの歌が収められているが、こ
    れは空穂が生前、自ら編んだ最後の歌集となった。翌年の六月には「わが誕辰祝ひて
    妻の菖蒲生くかくて咲き散る幾十度(いくとたび)ぞも」と詠んでいる。 
(来嶋靖生)


五月の歌   馬場 あき子

  若夏の雨すぎし木々さやさやと現し身洗ふ窓にさやげる
                                   (『葡萄唐草』)
                              

     「若夏」は沖縄地方で四月五月の季節を言う、と『広辞苑』にはあるが、他の辞書
    には「若夏」がないものもある。古い歳時記にはない。沖縄の古謡「おもろそうし」
    の例が辞書にはあげられている。短歌で先鞭をつけたのは馬場あき子のこの歌で、三
    十数年前のことだが、一読目のさめるような新鮮な印象を受けた記憶がある。以後多
    くの歌人が追随している。作者は古典や古謡に生きている佳い言葉を敏感に採り入れ
    る人で『うたことば辞林』(作品社)にはそれらの古語を生かした作者の歌が多く収
    められている。最近刊行された『能・よみがえる情念』(檜書店)は著名な演目の解題
    が中心だが、関連する和歌がふんだんに引用、紹介されており、歌人には重宝な本と
    なっている。例えば「桜川」の章では貫之の「つねよりも春べになれば桜川なみの花
    
こそまなくよすらめ」だけでなく、伊勢の「散り散らずきかまほしきを故郷の花見て
    帰る人も会はなむ」にも触れられているのがありがたい。短歌の韻律の危機が思われ
    る昨今、歌人には古典名歌にもっと学ぶべきではないか。       (来嶋靖生)


四月の歌   山口 茂吉

               
はるいかづち
川かみの低き空よりふるひ来る春 雷は移らふらしき
                                     (『杉原』)
                              

     近代歌人の中には力をもち、よい作品を残しながら、当節あまり話題に上がらない、
    そういう人が少なくない。「アララギ系」では森山汀川、藤沢古実、山口茂吉、堀内通
    孝、などが思い浮かぶ。このうち山口や堀内は昭和三十年代まで生きていたのだから
    親しんでいた人も多いはずだ。
ここにあげた山口茂吉は兵庫県の出身、はじめ島木赤
    彦に学び、赤彦没後は斎藤茂吉に就いた、佐藤佐太郎とともに斎藤茂吉の身辺にもっ
    とも近くあって、学びかつその文業を支えた。詠まれている川は多摩川、雷鳴の動き
    を簡潔かつ正確に描き、いわば写生に徹した歌である。こういう調子はもっとも茂吉
    的だが、これだけ着実に自然を把握できる人は少ない。歌は地味だが内に深くこもる
    気分に味わいがある。大正昭和期の「アララギ」写生の息吹をもっともよく伝える一
    人であろう。岩波文庫の『斎藤茂吉歌集』は佐藤佐太郎、柴生田稔と山口茂吉三人の
    編集である。歌集『杉原』は第一歌集で、故郷「杉原谷」に因む。このあと歌集『赤
     土』『高清水』などがある。昭和三十三年四月二十九日没。      (来嶋靖生)


三月の歌   都筑 省吾

         
鶯の今朝来て鳴けば俄にも春のかをりの漂ひ揺らぐ
                                     (『黒潮』)
                              

     昭和三十一年の作。最近東京都内で鶯の鳴く声はめったに聞かれなくなった。が、
    まだこのころは作者の住むあたりでは毎年のように鶯の声が聞けた。「明け方の冷た
    き雨の中に来て鳴く鶯は人知らざらむ」とも詠んでいる。夜を徹して原稿を書き続け
    ている作者は、明け方の雨の中に庭の梅の木で鳴く鶯に気がついた。同じ時の歌に
    
「鶯の鳴くを我が見ぬ逆さまに身は傾けてこゑ絞り鳴く」もある。作者は鶯や雀をと
    くに好んで詠んだ。こういう小鳥は作者のこよなき友であり、時には作者自身である
    かのような歌もある。対象を凝視し、隙のない言葉でその姿を生き生きと描き出す。
    また近年、東京は雪が少なくなった。少し後のことだが「暖かき音立てて降る春の雨
    夜に入り雪となりて音絶ゆ」(『星の死』)という歌がある。夜の雨が雪になるという
    何気ない表現の中に季節の変化が時代の変化とともに読み取れる。自然を的確に詠む
    歌が激減しているいま、これらは顧みられるべき歌である。思えば都筑省吾先生が亡
    くなられて、いつのまにか十三年が経過してしまった。        (来嶋靖生)
         

二月の歌   橋本 喜典

         きさらぎの光の中に水仙の一念まこと静かに立てり
                                     (『無冠』)
                              

     作者は窪田章一郎亡き後、篠弘とともに「まひる野」の代表となって同誌をまとめ、
    
また先年、歌集『悲母像』によって詩歌文学館賞、短歌新聞社賞などを得た。掲げた
    歌は、十数年前の歌。水仙の花がすっきりと立っているさまを描いている。「一念」と
    いう表現が独特だが、これにはいささか背景がある。この二年ほど前、作者は勤務先
    の早稲田中学・高校の校長室で突然倒れた。ただちに救急車で病院に運ばれたが「解
    離性大動脈瘤」と診断された。まさに危機一髪の状態だったようだがよき処置を得て
    何ヵ月かの治療静養の後全快退院することができた。生と死の狭間に立って「命」と
    対峙した前後の歌は、何度読み直しても鋭い緊迫感を保っている。時を経て詠んだこ
    の水仙にも、作者の命を凝視し命を愛惜する心が生きている。学生時代から病気がち
    で、私より何年か先輩なのだが休学によって遅れ、短い間だが早稲田の短歌会で同席
    したこともある。空穂系の正統を思わせる誠實かつ人間味のあふれる歌風で、堅実な
    措辞、こまやかな神経は六十年の歌歴を通してゆるがない。      (来嶋靖生)



一月の歌   正岡 子規

         
あら玉の年のはじめは寒けれど梅をし見ればたぬしかりけり
                                   (『竹の里歌』)
                              

     明治三十五年の歌会始の御題は「新年梅」であった。子規はこれに即して五首の歌
    を詠んでいる。いずれも平明な歌で「大君のみことかしこみあら玉のとしのはじめに
    梅の花さく」という第一首目の歌で知られるように、御題を詠む、という愼みがこめ
    られている。五首すべてに枕詞「あら玉の」が含まれているのもその顕れであろう。
    なお一首だけ「うめの花乏しく咲ける璞(あらたま)のとしのはじめは嬉しくありけり」
    と、漢字一字の「璞」を用いている。すべておだやかな歌だが、苦しい病状の中から生
    み出されたものでかりそめならぬ気配が感じられる。ちなみに一月、子規の病状はと
    みに重くなり、碧梧桐、左千夫、虚子、秀真、鼠骨らが輪番で看護を続ける状態とな
    った。その後やや小康を得て創作もできるようになったが、夏以後さらに衰弱が進み、
    九月十九日に亡くなってしまう。私はこれまで根岸の子規庵には四度ぐらい行ったこ
    とがあるが、梅の季節の様子は知らない。いまTVで司馬遼太郎『坂の上の雲』が放
    映されているが、子規庵が観光の波に汚染されぬよう、案ずるばかりである。
                                     (来嶋靖生


十二月の歌   高野 公彦

                                                 
並び航(ゆ)く翔鶴、瑞鶴、赤城、加賀、蒼竜、飛竜やがて亡びつ
                                     (『水行』)
                              

     「昭和十六年十二月、太平洋上」と詞書がある。いうまでもなく、ここに並んでい
    るのはすべて航空母艦である。ということはハワイ真珠湾への出撃であろうか。日本
    海軍の軍艦は命名に慣例があった。戦艦は長門、武藏、大和などの旧国名、重巡洋艦
    は鳥海、羽黒など山の名、経巡洋艦は天竜、利根など川の名であったと記憶する。航
    空母艦はここに見るように鶴と竜が付いていた。がここに航空母艦の中に赤城、加賀
    があるのは戦艦を航空母艦に改造したからで、三万トン級の巨艦として評判だったこ
    とをこども心に覚えている。後のほうの蒼竜、飛竜は実践向きに行動力すぐれた新型
    の艦と教えられた。この歌は、作者高野の戦争への思い、あるいは連合艦隊に無言の
    思いを馳せての歌であろうか。だが私はそれよりも、ひそかに固有名詞への関心、つ
    まりネーミングへの興味が作者にはあったのではないか、と推測している。なお高野
    の十二月の歌としては同じ歌集に「十二月二日の夜明け東天(とうてん)に燃ゆる薄雲
    の紅(あけ)のかなしさ」という美しい歌があるが、私はあえて航空母艦の歌を選んだ。


十一月の歌   佐藤 佐太郎

                                                 
ひとところ蛇崩道に音のなき祭礼のごと菊の花咲く   (『星宿』)
                              

     蛇崩(じやくずれ)は東京目黒区の地名、作者の家に近く、日常の散歩コースで「花
    ひらきあるいは閉ぢていたるところおしろいの咲く蛇崩の道」「雨に逢ひて蛇崩坂を
    いそぎ行く今日の一人も哀れならずや」「われの知る蛇崩川が消滅し遊歩道に残る橋の
    名あはれ」など道、坂、川など多く詠まれている。地名そのものに風情があるし、ま
    たその蛇崩が佐太郎の歌によって現代短歌の歌枕になった趣がある。私は佐藤家に伺
    ったことはないが、仕事の打ち合せのために近隣の作曲家石井歓先生のお宅を何度か
    訪れたことがある。掲出の歌は菊の花を「音のなき祭礼のごとく」と詠んでいるのが
    見どころ、昭和五十六年、作者七十二歳の作。歌は単純に、また表現は限定すること
    だ、という作者の信念の貫かれた歌といってよいであろう。新刊の秋葉四郎『短歌情
    話』には同年十一月三日のところに佐太郎自身が「この頃は歌が出来る」と言って、
    この歌を含めて手帳に書かれた五首を夫人と秋葉氏の前で読まれたという。作者とし
    ても自信作だったのであろう。                   (来嶋靖生)
]


十月の歌   坂井 修一

                                                 
さらさらとゆふなぎの草照り翳り『百花譜』にひとのこころはありき  
                                   (『望楼の春』)
                              

     詠まれている『百花譜』は木下杢太郎の遺作。戦時中、灯火管制の下で夜毎描き続
    けた植物の図譜。貴重な短文が添えられている。岩波文庫に抄録されているが、何十
    年か前、伊東市の記念館でこれに接した時の感激は今も忘れない。それを坂井修一が
    詠んだのが右の歌、これも含めて坂井は「杢太郎」と題して十三首の歌を詠んでいる
    が、詩人、劇作家であるとともにも医学者太田正雄でもあった杢太郎についての深い
    考察がある。「太田母斑名はのこれども学徒らよ太田正雄をかへりみるなし」は医学
    上の業績のこと。また「東大にありし八年よきことのすくなかりけむ東大に果つ」と
    いう歌もあるが、坂井も今情報工学の専門家とした東大にいるのだから思いは微妙。
    坂井自身、創作に研究に幅広い活動を続けているだけに杢太郎の才と気骨が何となく
    坂井の姿に重なってくる。東大の戦前の憲法学者上杉・美濃部を詠んだ「シルバーシ
    ートに物食ふをとめ わがうちに怒るは慎吉か達吉か知らず」も彼の奥行きを思わせる
    歌で、これについても語りたいが他日を期すことにする。       (来嶋靖生)


九月の歌   渡辺 洋子

                                                 
ベッドより起ち上がろうとして崩れ瞬くまなこは銀河をうつす  
                                  (『珈琲の香り』)
                              

     九月の歌ではないが、あえてここに記すことにした。作者は肝細胞癌を病み、この
    歌を詠んでから二年と経たぬうち(平成十九年三月)に世を去った。歌われている場
    面は、いま日本中至るところで起きている高齢化社会の現実である。筋力衰えた病人、
    あるいは老人がベッドから立ち上がろうとして崩れ、転倒する。そして病状が悪化し、
    寝たきりになる人もいる。ただこの作者は崩れるわが眼に映った銀河を捉えている。
    これが歌を詠み続けてきた人の詩魂である。作者はほんの短い間だが、調布市の私の
    短歌教室「三日月歌会」に夫の渡辺進さんと一緒に出席されていた。体調不自由な身
    ながら、はきはきと発言する気持ちのよい人だった。入会の時から、私は進さんが渡
    辺順三の息子であり、洋子さんがその妻(徳永直)の娘であることは察し得ていたが、
    文学の上に人定訊問は不要、と思ってしばらく知らぬ顔でいた。やがて洋子さんは
    「ポトナム」に作品を発表するようになった。働くことの好きな、活発な女性であり、
    語りたいことは多いが、ここでは一首を紹介するに止める。      (来嶋靖生)



八月の歌   正田 篠枝

                                                 
子と母か繋ぐ手の指離れざる二つの死骸水槽より出づ  
                                    (『さんげ』)
                              

     作者正田篠枝は昭和二十年八月六日、広島市御幸橋近くの自宅で被爆した。原爆被
    害の惨状を数多くの短歌に詠み、昭和二十一年三月(奥付は二十年十二月)、ひそかに
    歌集『さんげ』として刊行した。これは原爆体験を詠んだ最初の歌集であり、もっと
    も生々しい記録である。私は『昭和万葉集』編纂作業の最中にはじめてこの歌集を読
    んだ。作者は後に次のように書く。「その当時はGHQ(連合軍最高司令部)の検閲
    が厳しく、見つかりましたなら必ず死刑になるといわれました。死刑になってもよい
    という決心で、身内の者が止めるのに、やむにやまれぬ気持ちで、秘密出版をいたし
    ました」。GHQの検閲といっても今やわからぬ人のほうが多いかも知れない。出版
    物はすべて、GHQの検閲が必要であった。短歌雑誌でさえ、検閲によって発行禁止
    になったり、部分削除や抹消が命じられた。まして原爆被害の実情など、断じて公に
    してはならぬ、禁止情報であった。それをあえて出版した作者の勇気はどれほど讃え
    ても讃えきれない。篠枝は四十年六月、原爆症乳癌で亡くなった。   (来嶋靖生)



七月の歌   都筑 省吾

                                                 
七月の日の下(もと)水の冷たくて手ひたし難し此処に鮎住む  
                                     (『入日』)
                              

     昭和二十五年七月、作者は静岡県藤枝相楽の植田重雄の家に招かれ、翌日大井川を
    遡ってともに釣り糸を垂れた。同県出身でまだ学生だった高田敏も同行した。手をひ
    たすことも出来ないほど冷たい清流に棲む鮎の群れが、早朝に川を下り、夕べとなる
    とまた川を上るありさまに目を見張った。一連十二首。「山と雲他にものなき峽にし
    てひぐらしの鳴き鮎つどひゆく」という大きな把握。「ひぐらしの谿間にに潜り入る
    が鮎鮎が梢に鳴くがひぐらし」という斬新な発想。この年作者五十歳、気力充実、まさ
    に脂の乗りきった時期で、鮎の姿を生き生きと捉えている。私は「槻の木」に入って
    間もなく、右も左もわからない頃だったが、この歌の溌剌とした調子に何か身の引き
    締まるものを覚えた。 短歌で動くものを描く、その手本を見たように思った。 また
    「瀬を幾瀬群れ走(は)せ下(くだ)りゆきし鮎夕べをあはれひた走せ上(のぼ)る」で「あ
    はれ」の使い方を学んだ。初心の頃の忘れられない連作である。いまや作者はもちろ
    ん、同行した植田重雄も高田敏もこの世の人ではない。半世紀以上前のことなのだ。
                                     (来嶋靖生)


六月の歌   斎藤 茂吉

                                                 
どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも  
                                     (『赤光』)
                              

     いまさら註釈を加える必要もない有名な歌。大正二年六月昨。『改選赤光』では「死
    にたまふ母」のすぐ後におかれている。啄木の「どんよりと/くもれる空を見てゐし
    に/人を殺したくなりにけるかも」との類似から影響関係が論じられるが、深入りは
    しない。下の句を読めば二人の違いがよくわかる。私的なことだが、この歌を詠むと
    私は中野重治の『歌のわかれ』を思い出す。詩ではなく小説のほうである。最後に近
    く、歌会の場面があって、一座で好評を得ている万葉ぶりの歌を、片口安吉が立ち上
    がって弁駁する。早稲田の一年生だった私は、その場面から歌会の批評のあり方につ
    いて教えられた。そしてそれが、なぜかこの「どんよりと」の歌とともに記憶に残っ
    ている。また同じ頃、来春慶応を受験するという友人と三田で別れ、たまたま立ち寄
    った古書店で『斎藤茂吉ノオト』を見つけ、高かったが思い切って買い、電車賃節約
    のために都電に乗り、高田馬場まで長い長い時間をかけて帰ったことも思い出す。梅
    雨時の空を仰ぐたびに蘇る歌である。                (来嶋靖生)



五月の歌   北原 白秋

                                                 
ああ五月蛍匍ひいでヂキタリス小さき鈴ふるたましひの泣く  
                                    (『桐の花』)
                              

     先月来、必要があって『桐の花』をまたまた讀み返した。白秋の絢爛たる言葉遣い
    にあらためて畏れに近い敬意を抱いたが、それはさておきこの歌はどうにも気になる
    ので再度取り上げる。ここで詠まれているヂキタリスは薬用・観賞用植物で、小さい
    鐘のような花がつく。そこで白秋は「小さき鈴振るたましひの泣く」と言うのだが、
    不思議なことに昭和二十四年八月刊行の岩波文庫『北原白秋歌集』では下の句が「日
    々に汗ばむ草いきれたつ」となっている。私はこの文庫版を大学受験の帰りに京都の
    古書店で買って、当時つねに携行して愛読した。しかも意味も深く考えずにこの形で
    記憶していた。が、先年『秀歌月ごよみ』刊行のとき、この形で引用したところ、影
    山一男さんから下の句が違う、と指摘された。たしかに全集の形とは違う。編者の木
    俣修に何か別の資料があったのかとも思ったが、どう考えても「日々に汗ばむ」では
    意味が通じない。おそらく編集なり印刷なりの過程で、編者も知らぬ間に他の歌の下
    の句がまぎれこんだのではないか。と今のところは思っている。    (来嶋靖生)


四月の歌   山川 登美子

                                                 
わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく 
                                (『山川登美子全集』)
                              

     与謝野晶子、増田雅子とともに「明星」三女流と謳われた登美子は、明治四十二年
    四月十五日に亡くなった。同じ浪漫的な作風といっても、晶子とは違う気韻を持つ歌
    が多く、失恋、結婚、夫の死、発病という悲運を負いながら、その歌は却って一途に
    澄み、冴えわたって行った。この歌は、死を自覚した作者の悲痛な心境であり「後世
    (ごせ)は猶今生(なほこんじやう)だにも願はざるわがふところにさくら来てちる」と
    ともに美しくもまた悲痛な秀歌である。登美子には理解ある弟がいて、姉の作品や蔵
    書が大切に長く保存され、よく整理された記念館ができているのは嬉しい。何年か前
    に私は登美子の生家のある小浜市を訪ね、その記念館を見学し、山川家の墓所にも詣
    でて来た。墓所は駅に近い丘の上にあり、土地の名家である山川家歴代の墓の中に登
    美子の墓もつつましく建っていた。悲恋の歌として名高い「それとなく紅き花みな友
    にゆずりそむきて泣きて忘れ草つむ」の「忘れ草」は藪萱草のこと、その解釈につい
    てのある説に対し、今野寿美の歯切れのよい見解が近刊の歌の『ドルフィン』に見え
    る。                               (来嶋靖生)


三月の歌   大岡 博

                                                 
千仞の谷にくじけぬ獅子の仔になぞらへて母の仮借なかりき 
                                   (『童女半跏』)
                              

     作者は窪田空穂に学び、歌誌「菩提樹」を創刊主宰した。誠実温和な作風ながら鋭
    い社会批判と人間愛が内在する歌を多く詠み、数多い空穂系歌人の中で際だった存在
    感をもつ。祖父は旧幕臣、維新後慶喜に従って駿府に下り静岡に住み着いた。父は事
    業の傍ら中国革命にも関与し、ほとんど家を顧ぬ人だったらしい。そのため博は早く
    から社会に出て一家を支える立場にあった。この歌は「三月九日、冷雨来たりて暗し」
    という詞書と「かかる日に我や生まれし三界の首枷という嘆き負ひては」に続くもの。
    武士の家柄という矜りもあり、母の躾はきびしかったのであろう。その母は、千仞の
    谷に落とされても挫けずに生きる獅子の
の故事を説き、艱難に耐えよと博に教え
    た。昭和四十二年三月、冷雨降る日に六十才になった博は母の教えをしみじみと思い
    出しているのだ。「仮借なかりき」はきびしい表現だが、実感であろう。博の長男は詩
    人また文芸評論家として大きな仕事をした大岡信である。博の母の、愛深ききびしい
    躾は、博からさらに信へと伝えられているに違いない。        (来嶋靖生)


二月の歌   尾上 柴舟

                                                 
つけすてし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき 
                                 (『日記の端より』)
                              

     尾上柴舟が亡くなったのは昭和三十二年(一九五七)だからもう五十年以上前のこ
    とになる。美作(岡山県)津山藩士北郷家に生まれ、本名は八郎、尾上家を継いだ。
    旧制一高から東京帝大に学び、落合直文に師事、久保猪之吉・服部躬治らと「いかづ
    ち会」を起こしたが、大正三年自ら「水甕」を創刊主宰し、同誌は現在も健在である。
    ここに掲げた歌は柴舟の代表作とされ、世評は高いが、若い頃の私は、結句の「山は
    悲しき」でどうにも躓いてしまった。しかしこれは明治四十三年の作で、当時の短歌
    界にあってはむしろ上の句の清新な叙景が注目されたのであろう。この山は伊豆伊東
    に近い大平山とされる。実際の柴舟を私は知らないが、都筑省吾先生や山本寿さんか
    ら時折その面影、エピソードなどを聴き、何となく親しみを覚えてきた。柴舟という
    と、今の歌壇では先ず「短歌滅亡私論」が思い浮かび、ついで草仮名の高手、ハイネ
    の初期紹介者などというイメージが先に立つが、近年「水甕」の人たちによって資料
    が次々に整備され、新たな研究がめざましく進められている。     (来嶋靖生)



一月の歌   大岡 博

                                                 
立ち返る年のあしたを朱ふかく咲きてひそけし寒木瓜の花 
                                  (『童女半跏』)
                              

     大岡博が亡くなって二十七年になる。昨年夏、待たれていた全歌集が花~社から刊
    行された。昭和二十七年の第一歌集『渓流』以来、私はこの空穂系の先達の歌に少な
    からぬ関心をもってきた。今あらためて全ての歌集を読み返すと、さまざまな感慨が
    湧く。祖父は幕臣、父は中国の革命運動にも関わりがあったという血筋だけに、博の
    歌の底に流れる反骨の気概、強い正義感は生得のものである。豊島逃水の縁で窪田空
    穂を知って一途に傾倒、その死までひたすらな気持を貫いた。ここに掲げたのは六十
    歳を少し出た頃の歌だが清潔かつ静謐、空穂に学んだ色彩の濃い歌である。しかしこ
    の後体調を崩し、年々に詠む新年の歌もしだいに病身を嘆く歌が多くなる。「ゆるき
    坂足曳きのぼり行く我に明るき海か眩しくも照る」。昭和五十五年作の「歳旦余情」
    の一首、この翌年に亡くなっている。師を思う心とともに、家族への愛も深い。詩人
    大岡信は日本詩歌の世界を大きく広げたが、その力は父博の愛に培われたものであろ
    う。『歌林提唱』というすぐれた歌論集も残されている。       (来嶋靖生)


十二月の歌   与謝野 晶子

                                                 
鵠沼の松の敷波ながめつつ我れは師走の鶯を聞く    (『白桜集』)
                              

     与謝野晶子最晩年の作。この前に「夕月夜片瀬の河の橋くぐる黒き紅葉のなまめか
    しけれ」があり、後には、「円覚寺衆踏み賜ふ敷石に栗毛の色の紅葉朽ち行く」がある
    ので、湘南地方で詠まれたものであろう。師走の鶯はめずらしいが、当時広い松原の
    あった鵠沼には師走でも鶯の声が聞かれたのであろう。おだやかな歌である。巻末近
    くにあるので、昭和十六年の作かと思われるが、このころ作者はすでに病を得て静養
    中であるから、歌はもう少し前の作かも知れない。明治中期、近代短歌革新の輝かしい
    担い手であった晶子は、その後は文化界全体に活動範囲を広げ、作風も穏和に深まっ
    て行くが、昭和十年夫の寛と死別して以後は、亡き夫を追慕する歌が主流を占めるよ
    うになる。没後纏められた歌集『白桜集』には、孤りこの世に生きる作者の哀切を極
    める秀歌が数多く収められている。「源氏をば一人となりて後に書く紫女年若くわれ
    は然らず」「我のみが長生の湯にひたりつつ死なで無限の悲しみをする」「梟よ尾雄花の
    谷の月明に鳴きし昔を皆とりかへせ」など。             (来嶋靖生)


十一月の歌   三井  ゆき

                                                 
変りしはわれか老いゆく母の身かガラスの向うは霜月の海(『雉鳩』)
                              

     八十八歳の母をこどもたちが集まって祝った折の歌。母の姿を見ながらふとわが身
    を省みる。複雑な思いをこめた下の句が美しく、また深い。この歌の前にある「八十
    八年生き来し面ざし母ならぬものを加へてときにかがやく」も母への恩愛の情が甘く
    流れずにこめられた佳い歌である。いま、介護の歌をはじめ老いの歌は歌壇全体を覆
    っている感があるが、三井ゆきの「霜月」七首はこころゆかしい一連で、この手の歌
    の範としてよい。高齢者の甘い歌にいらいらさせられる昨今、こういうきっぱりとし
    た歌に出会うとほっとする。作者は「短歌人」に属し、亡き高瀬一誌夫人。夫との死
    別はこの後間もなくのこととなる。夫の介護の日々を詠んだ歌も、緊張した佳作が続
     くがこれについては別の機会に触れる。                     
     三十年も前のことになるが、歌壇総合誌に私が執筆しはじめの頃、ある座談会に出
    ると、編集者の傍らに美しい速記者がいて目を瞠った。それが三井ゆきさんとの初対
    面であったが、黙礼程度で何も言葉は交わさなかったように思う。   (来嶋靖生)


十月の歌   栗木  京子

                                                 
十月の跳び箱すがし走り来て少年少女ぱっと脚ひらく (『綺羅』)
                              

     十月は運動会シーズン、そのための練習か、普通の体育の時間か。下の句「ぱっと
    脚ひらく」がこどもたちのきびきびした動作を描き、こころよい。作者は現在の歌壇
    の最前線で活躍している女流。何年か前の七月にもミシンの歌でこの欄に登場してい
    ただいた。その時からこの歌は十月の歌として意中にあった。去る六月、歌人協会の
    短歌講座で作者と同席する機会を得たので、あらためて既刊の歌集すべてに目を通し
    た。デビューの頃から現在まで、鋭い感覚と犀利な論理性、説得力ある措辞の斡旋は
    変りなく、比喩も巧みだし、むしろ手厚くなっている。言うとすれば戦後世代だけに、
    文語的言い回しにぎこちなさが残る程度、だが破綻を見せるほどではない。高安国世
    創刊の「塔」に属しているが、先進の誰かの影響を強く受けた様子は、作品の上から
    は見えてこない。歌も容姿も目立ちやすく、論じられることの多い人なのだが、私の
    読んだ限りでは、納得できる栗木京子論はまことに少ない。論者のほうが作者に及ば
    ないのだ。まだ未知の部分を秘めている人である。          (来嶋靖生)


九月の歌   岩本  素白

                                            いましめ
うろたへて死ぬべき時に死なざりし人のうへ見ぬ 戒 とせん
 
                                  (「信濃詠草」)
                              

     岩本素白は歌人ではない。専ら随筆を書き、早稲田大学の講壇にも立っていた。昭
    和二十年五月の東京大空襲で罹災、家財一切を消失した。蔵書も資料もなくなっては
    大学の教師は勤まらないと、大学へは即刻辞表を出し、縁戚を頼って信州屋代町に疎
    開した。机もない、枕もない、という生活で、素白は鉛筆と紙さえあればできる短歌
    を詠みはじめた。発表する気はなく、日記のように書き付けていたものらしい。昭和
    三十七年、作者長逝の後、発見された「信濃歌日記」短歌七百八十七首のうち三百十
    八首と長歌三章が令息朝彦さんによって整理され「槻の木」に発表された。歌は、平
    明に詠まれる中におのずからの気品がただよい、その素養の深さ、さすがと思わせら
    れる。掲げた歌は「九月十日、某将軍自裁の記事を新聞に知りてその死に損ねしを哀
    れむ歌」四首の内の一。函館五稜郭に立て籠った武士を父にもつ素白は、幼時から死
    に際は潔くあれと、父から切腹の作法まで教えられていたらしい。軽い所感のようだ
    が、素白の潔癖な性格が、またその死生観が窺える歌である。     (来嶋靖生)


八月の歌   佐 藤 佐 太 郎

味噌汁をあたたかに煮てすするときわが幸は立ち帰り来む
 
                                     (『立房』)
                              

     昭和二十年の作。この歌の少し前に「昭和二十年八月十五日以後」という歌があり、
    続いて「山河」と題する一連の中にこれがある。「ことごとくしづかになりし山河(やま
    かは)は彼の飛行機の上より見えん」「眼をとぢてわれは思ひぬ清き香は夜昼となく地
    (つち)より立たん」などの歌とともに、長い戦争が終わった安堵感がただよう。ここ
    にある「味噌汁」は同じ味噌汁でも平時の味噌汁とは違う。背後に戦時中の不自由な
    耐乏の日々があり、また安心して食事のできる平安の歓びがある。またこの頃の歌に
    は、不要となった防空壕を埋める歌や、焼跡を歩く歌などが見える。戦後六十年以上
    経過した今、この頃の生活感情も次第に風化してゆくが、わたしたちの世代にとって
    は、何よりもここがすべての原点であった。佐藤佐太郎は敗戦当時は三十六歳、その
    歌は事柄を極度に削ぎ落とし、単純に徹している歌だが、こういう混乱期にあってか
    えって純粋に、詩の深奥に迫る趣がある。しかしこうしてもたらされた平和だが、こ
    の後には戦時中にもまさる物資不足、窮乏の生活が待っていた。    (来嶋靖生)


七月の歌   宮  柊二


はう                  ふづき     うなづら                    
  砲の音と錯覚したり七月某日海側のかたに遠花火あがる
                                     (『晩夏』)
                              

     夏は花火のシーズン、とくに海辺では花火の催しが多い。この歌は第二次大戦終結
    後間もない昭和二十三、四年頃の作である。戦時中、兵士として中国大陸にあった作
    者、まだ戦地の記憶が痛烈に身のうちに残っている。七月のある日、遠い花火の音が
    海のほうから聞こえた。一瞬、砲の音かと錯覚した、という歌である。まずその錯覚
    を第二句までで言い切り、一拍おいて事実を述べた簡明な歌。戦後六十余年、戦争経
    験者、つまり当時の砲の音を知る人は徐々に少なくなっているが、また新しい形で恐
    怖を呼び覚ます音は生まれつつある。作者はこの少し前の七月には「ゆらゆらに心恐
    れて幾たびか憲法第九条読む病む妻の側(わき)」(『小紺珠』)とも詠んでいる。いま憲
    法論議は盛んだが、ここに挙げた二首、戦争を否定し、憲法擁護の歌として極めて説得力
    がある。歌集『晩夏』は、学生時代に私は先輩から借りて読んだ。当時はこの「遠花火」
    の歌に気づかなかったが、ここに来て大きな力のあることを覚った。若い頃には見え
    なかったことも、年齢や時の変化によって見えてくるものらしい。   (来嶋靖生)


六月の歌   辺見  じゅん

麦の穂の熟れゆく頃と告げし兵 死にきと父の声の昂(たかぶ)る 
                                     (『秘色』)
                              

     父の戦場回想をもって一首としている。戦場で死の直前にある兵士が、いまごろ郷
    里では麦の穂が熟れている頃だ、と言って息絶えた、ということである。敗戦後復員
    して来た父が家族に戦場体験を語っている場面である。その時の父の昂ぶりは、まだ
    幼い娘であった作者の心に、何にもまして強烈に印象づけられた。歌集『秘色』は戦
    後五十年以上経って刊行された歌集だが、長い間作者の胸に温められてきた思いであ
    る。今際(
いまわ)の兵の語ったのが「麦の穂」であり、それを確と受け止めた父、さら
    にその話を鮮明に記憶した娘、そこに私はかりそめならぬ日本人の「血}を感じる。こ
    の歌の心はその後の作者の仕事の原点とさえ言える。父は角川源義。角川書店創業者
    であるとともに俳人でもあり民俗学者でもあった。娘は父を思う心篤く「遠山にきれ
    ぎれの虹つなぎつつ我が父の座に雪は降り積む」という名歌を残している。短歌だけ
    でなく、『男たちの大和』や『収容所から来た遺書』『レクレイム・太平洋戦争』な
    どノンフィクション、ドキュメンタリーにも多くの作を著している。  (来嶋靖生)


五月の歌   半田  良平

言挙げを吾はせねどもうら深く国を憂ふる者の一人ぞ  (『幸木』)
                              

     昭和二十年五月十九日に半田良平は亡くなった。第二次大戦が終わる僅か三ヵ月前
    である。三男がサイパン島で戦死し、自らも病床にあり、戦局の非を痛感していた良
    平は国の前途を危ぶんで、三月にここに掲げた歌を詠んだ。良平は窪田空穂のもっと
    も早い門下生の一人で、少年時代、半田暁声の名で「電報新聞」に短歌を投稿、空穂
    に師事した。松村英一、植松壽樹とともに「国民文学」の三羽烏と謳われた。栃木県
    の農村に生まれ、旧制二高から東京帝大英文科に進んだ。大学ではアーサー・シモン
    ズを研究、卒業後は教職につき「国民文学」随一の知性派として知られ、創作だけで
    なく研究・評論面でも活躍した。鋭い批判精神をもち、昭和初年「蔑めるナチスドイ
    ツと防共協定をなさねばならぬ時いたれりや」「いつよりか軍需景気といふ声を空吹
    く風のごとく聞きをり」など、あからさまに政治批判の歌を発表しているが、当時と
    しては勇気のいることであり、また危険なことでもあった。死後刊行された歌集『幸
    木』は昭和二十四年、第五回日本芸術院賞を受賞した。        (来嶋靖生)


四月の歌   三枝  昂之

甲斐ヶ嶺の神代桜咲きなむか心で会いて春を逝かしむ (『農鳥』)
                              

     甲斐ヶ嶺は文字通り甲斐の国の山々だが、多くの場合南アルプスの山、とくに白根
    三山(北岳・間の岳・農鳥岳)を指すことが多い。作者三枝昂之は甲府の出身、甲州
    の風土や地名を採り入れた秀歌が多い。歌集名の『農鳥』も山の名である。歌は神代
    桜を詠んでいるが、前後から推して病床の母を思う歌であることがわかる。見舞いに
    行きたいが仕事のために行けないことを「心で会いて」と言っている。母を思う歌で
    は「海という言葉母から聞かざりき海なき九十一年を過ごししか母は」もある。生涯
    山梨県から出なかった母なのだ。作者は七十年安保の頃、学生運動の渦中から作歌を
    はじめ、学生歌人としてデビュー。のち作歌とともに研究活動にも打ち込んでいる。
    『前川佐美雄』『昭和短歌の精神史』などは短歌史に残る名著である。作者は学生時
    代の激しい反体制の歌からこういう人間味溢れる暖かい歌まで幅広い領域を持つ。父
    は「国民文学」「沃野」の幹部同人であった三枝清浩、心臓を病んで戦後間もなく亡くな
    った。弟は現歌壇で活躍している三枝浩樹。             (来嶋靖生)


三月の歌   島木  赤彦

我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる
                                    (『柿蔭集』)
                              

     大正十五年三月二十七日、島木赤彦は世を去った。この歌は六日前の二十一日、夕
    食を済ませた後、次女の初瀬に口述して書き取らせた歌。赤彦最後の歌とされる。こ
    の年早々、赤彦は胃癌で手術不能と診断され、日を追って病勢は進んだ。歌は言葉や
    すらかに「今宵も思ひいでて眠れる」と、家に帰ってこない犬を案じているが、この
    歌の前にある「たまさかに吾を離れて妻子らは茶をのみ合へよ心休めに」とともに家
    族も犬も含めて命あるものへの深い愛惜の心から生れたもの。赤彦と言えば鍛錬道と
    か、万葉偏重、排他的結社制の元祖など否定的な評価もあるが、五十年に満たない一
    生をひたぶるに短 歌へ打ち込み、また一方 人としても心やさしい情愛の持主であっ
    た。赤彦あればこその近代短歌である。なお「みづうみの氷は解けて」「信濃路はいつ
    春にならん」「夕焼け空焦げきはまれる」など著名な歌は多いが、最晩年のこの歌こそ
    赤彦生涯の最高傑作と私は思っている。なお斎藤茂吉の「島木赤彦臨終記」は赤彦の
    臨終に至る十日間のありさまを心をこめて綴った名文である。     (来嶋靖生)


二月の歌   釈  超空

きさらぎのはつかの空の月ふかし。まだ生きて子はたたかふらむか
                                   (『倭をぐな』)
                              

     昭和二十年二月十九日、アメリカ軍は硫黄島に上陸を開始した。三日前から約九百
    隻の艦船による艦砲射撃を続け、六万の地上兵力を投入してきた。日本軍は陸海軍合
    わせて二万三千、この中に釈超空の養子藤井春洋がいた。激しい戦闘の後、司令官栗
    林忠道中将の「国の為重きつとめを果たし得で矢玉尽き果て散るぞ悲しき」の電報を最
    後に全員玉砕して果てた。近年書籍・映画で採り上げられ、(本誌でも廣田光男が紹介)
    話題となった。春洋は親しく超空の薫陶を受け、國學院大学教授であったが十八年に
    再応召、硫黄島に赴任した。この時超空は戦局の非を察知し、春洋を洋嗣子として入
    籍する。この歌にある二月二十日はまだ激戦のさなかであったろう。全員玉砕の発表
    があったのは三月に入ってからであるが、玉砕と伝えられた二月二十八日を春洋の命
    日とした。歌集『倭をぐな』は敗戦前後の超空の悲嘆慟哭の思いのこもる歌集で、死
    後刊行された。なお超空は戦後間もなく、二人の共著の歌集『山の端』を出し、春洋
    の遺歌集『鵠(たづ)が音(ね)』の刊行を終えて世を去った。      (来嶋靖生)



一月の歌   石川 啄木

何となく、今年はよい事あるごとし。元旦の朝晴れて風無し。 
                                  (『悲しき玩具』)
                              

     明治四十四年「創作」一月号に発表された。原作は三行書き。「よい事あるごとし」
    は予感というより願望に近い気持であろう。この年一月三日、啄木は与謝野鉄幹宅に
    年始の挨拶に行き、帰途、同行した平出修のところに立ち寄る。平出は「明星」の同
    人でもあり弁護士でもある。啄木は平出からいわゆる大逆事件についての内容を聞
    き、弁護人に託した幸徳秋水の陳弁書を借りて四日から筆写を始める。七日の日記に
    は「この陳弁書に現れたところによれば、幸徳は決して自ら今度のような無謀を敢て
    する男でない」と書く。しかしその後下された判決は二十四名死刑という極刑で、啄
    木は激しく興奮し「余の思想に一大変革ありたり」と意識する。またこの頃、はじめ
    て土岐哀果と対面、意気投合して新雑誌「樹木と果実」創刊を企画、哀果からクロポ
    トキン自伝などの「国禁」の書を借用、愛読する。哀果との邂逅は確かに「よい事」
    だったが、啄木自身の健康は徐々に悪化して行く。翌四十五年の新年は病苦と貧困の
    うちに迎え、四月十三日に世を去る。二十七歳(数え年)であった。  (来嶋靖生)



十二月の歌   若山 牧水

膝寄せてもろ手かざせば炉のなかの燠は静かに燃え入りてをる
                                      (『黒松』)
                              

     大正十五年(一九二六)の作。歳末、自宅の炉端で静かに時を過ごしている。少し
    前には「鉄瓶を二つ炉に置き心やすし一つお茶の湯ひとつ燗の湯」という歌もある。
    「膝寄せて」以下、上の句の流麗な調べはいかにも牧水らしい。結句の「をる」も、
    今の幼い歌人なら「ゐる」とするところ。こういう場合「をる」が本当だよ、と都筑
    先生から私は教えられた。この年五月、牧水は詩歌の総合雑誌「詩歌時代」を自ら企
    画、華々しく創刊するが、資金が続かず十月号で廃刊となる。その失意もこの歌には
    反映しているかも知れない。この頃から体調も徐々に衰え、二年後の昭和三年九月、
    四十四才で世を去る。病名は肝硬変、旅と酒の名歌を多く残した牧水だが、やはり酒
    が過ぎ、次から次へと続けた旅も疲労の蓄積となったのであろう。名声の割に経済的
    に恵まれないのは当時の歌人に共通のことだが、とりわけ牧水は定職がなかったから
    一層苦しかったに違いない。数多い旅の中には色紙短冊の揮毫によって収入を得る目
    的もあったという。あまりにも短い一生であった。          (来嶋靖生)


十一月の歌   松倉 米吉

かなしもよともに死なめと言ひてよる妹(いも)にかそかに白粉にほふ                                  (同歌集)
                              

     大正八年(一九一九)十一月二十五日、松倉米吉は世を去った。あと一月で二十
    四歳になるという若さである。新潟県糸魚川に生まれ、高等小学校在学中、再婚した
    母を追って上京、鍍金(めっき)職人、挽物職人となって働いた。大正二年「アララギ」に
    入り、早川幾忠や高田浪吉と若手の勉強会を結んで作歌に励んでいたが、肺を病んで喀
    血、十分な治療も受けられぬまま貧窮のうちに亡くなった。歌の「妹」は恋人。親方の娘
    で相愛の仲、しばしば米吉を見舞った。「かび臭き夜具にながながこやりけりこのま
    まにしていつの日いえん」「かうかうと真夜を吹きぬく嵐の中血を喀くきざしに心は
    苦しむ」など哀切な歌が胸を打つ。死後友人たちの手で歌集がまとめられた。米吉は
    啄木と「アララギ」と現代短歌を結びつける接点だと言った評者もいる。貧窮、貧困、
    貧乏といった言葉が実質を失ない、その実感は一定の年齢以上の人にしか通じないよ
    うな現歌壇であるが、米吉の歌は私にはいまなお新鮮に響く。早稲田の短歌会の頃、
    この歌集を一読するように勧めてくれたのは篠弘であった。      (来嶋靖生)



十月の歌   大岡 博

浪の秀に裾洗はせて大き月ゆらりゆらりとあそぶがごとし
                                    (『春の鷺』)
                              

     昭和五十六年十月一日は大岡博の命日である。この歌は死後刊行された歌集『春の
    鷺』に収められているが、作者の代表作というべき歌。三島市寿楽園に歌碑となって
    いる。海の上に昇って行く月を、ゆらりゆらりと遊ぶようだ、と言う。子息の信は「遊
    魂」という言葉を連想すると言っているが、まことに月であって月を超える、深い魂
    の歌である。この歌、実は作者が亡くなる年の四月、熱海病院に入院した折の歌、つ
    まり四月の月なのだが、仲秋名月としても差し支えないと思ってここに掲げた。今宵
    の名月は、十月一日に亡くなった大岡博の魂なのである。作者は幕臣の末裔。歌は窪
    田空穂に学び、昭和六年「菩提樹」を創刊した。穏和な歌風だが鋭い社会性、批判性
    をもち、晩年はさらに人間的な深い奥行が加わって重厚な骨太の歌を多く詠んだ。空
    穂門下の歌人は数多いが、この人こそ目立たぬところで自らを貫いたほんものの歌人
    である。空穂会のことで私は作者としばしば語る機会があり、貴重な多くの導きを得
    た。本格的な研究や評伝がなされるべき人である。大岡信の父。    (来嶋靖生)


九月の歌   伊東 千鶴子

我(わが)立てる土につづきてほど近くまこと戦(たたかひ)はじま
                         りしとふ
                                (『昭和万葉集巻二』)
                              

     一九三一年(昭和六年)九月十八日午後十時三十分過ぎ、旧満州(中国東北部遼寧
    省)奉天市(現・瀋陽市)北方の柳条溝付近で鉄道が爆破された。夜間演習中であっ
    た日本の独立守備隊は「支那軍が線路を爆破」と報告、すぐに軍事行動を起こして奉
    天を占領した。いわゆる満州事変である。作者は「水甕」の会員で、おそらく奉天に
    居住していたのであろう。『昭和万葉集』には同じ作者の歌で「ふとさめし夜ふけの街
    を何事ぞあわただしくも往きかふ自動車」という歌も収められている。当時私たちは
    現地から三百キロ南の大連に住んでいたが、母は生まれて二月にみたぬ靖生を抱え、
    いつ匪賊や馬賊が攻めてくるかも知れぬと、毎夜眠れぬほど不安な日々を過ごしたと
    いう。だから現地奉天在住の人々の緊張はいかばかりであったろう。この事件は、実
    は日本軍の仕掛けた謀略で、これを口実に軍隊が一斉に出動、中国東北部一帯を制圧、
    傀儡国家満州国の独立を導く。日本軍で仕組んだ事件だという噂は当時から囁かれて
    いた。こうして日本は、長い十五年の戦争に傾れ込んで行く。     (来嶋靖生)


八月の歌   水野  昌雄

雲一つ無かりし夏の正午のことそれにて通じる同じき世代
                                    (『正午』)
                              

     作者は昭和五年生まれ。長く教育現場にあり、反戦平和の思想を純粋に守り、貫い
    て歌い続けている良心派の歌人。さて、この歌一首だけを取り出して「通じる」人は、
    年々少なくなりつつあろう。あの頃、中学二年生だった私には、日本が敗ける、敗け
    た・・など、信じられないことであった。
     八月十五日正午、対戦車壕堀りの動員現場から、近くの中学校の校庭に集合した私
    たちは、整列して頭を垂れた。詔書や勅語はそうして承るのが慣いであった。ラジオ
    は雑音がひどく、言葉はほとんど聞き取れない。「更ニ敵ハ残虐ナル爆弾を使用シ」
    「五体為ニ裂ク」「堪ヘ難キニ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ」といったフレーズが断片的に、耳
    に飛び込んでくる。あの奇妙な抑揚をもった声は、ほんとうに天皇陛下の声なのか、
    などと疑いながら聞いた。この詔書、天皇は「更ニ敵ハ残虐ナル爆弾を使用シ」と明
    確に述べている。にも拘らず、六十年経った今、国務大臣が「原爆投下はしようがな
    い」という日本になってしまった。風化もここまでくると恐ろしい。  (来嶋靖生)


七月の歌   藤沢  古実

深山木(みやまぎ)の倒れ木あまた越えて来つ人の入りけむ跡さへもなし
                                    (『国原』)
                              

     作者藤沢古実は明治三十年長野県上伊那郡箕輪の生まれ、東京美術学校彫刻科卒。
    島木赤彦に学び、土田耕平、高田浪吉らとともに大正期「アララギ」のホープと謳わ
    れ、赤彦を輔けて編集実務に携わった。「木曽馬吉」というペンネームを使用してい
    た時期もある。赤彦直伝の堅実な写生に徹した作風で、とくに甲信地方の山々を踏破
    して詠んだ歌は、近代短歌の山岳詠の先駆として、今読んでも新鮮である。ここにあ
    げた歌は「赤石山脈縦走」(今の南アルプス)という大連作の一首、ほかに「朝日さ
    す山上の霧にこゑかなし子をつれ歩む雷鳥の声」「山越しの嶺(
)越しの雲のゆるやか
    に身をふるるこそ寂(しづ)けかりけれ」など臨場感に富む歌が多い。関東大震災の折
    にも力作を残している。しかし恋愛問題から平福百穂、斎藤茂吉ら「アララギ」幹部
    との間に確執が起こり、退会を余儀なくされた。恋人が絵画のモデルであるという、
    今なら考えられない職業蔑視の圧力であった。退会後は郷里に帰って歌誌「国原」を
    創刊、後進の指導に当たった。昭和四十二年没。           (来嶋靖生)


六月の歌   都筑  省吾

御玄関先六月の空に立てる槻きらめき光る今日我が来れば
                                 (「槻の木」昭26.6)
                              

     「御玄関先」は窪田空穂邸の玄関。今もこの「槻」の木は隆々と立っている。六月
    八日、師の誕生日を祝う作者のいわば挨拶の歌。なぜか『都筑省吾全歌集』には収め
    られていない。が、私には忘れられない歌だ。昭和二十六年五月某日、私は先輩原田
    清と高田敏に伴われて三浦荘に先生を尋ね、入会のことを申し上げた。先生は話の後
    で「君、歌をもってきましたか」(まだこの日はこういう言葉遣いであった)といわれ
    た。いいえというと「ではこの紙の裏に書きなさい」と言って、書きかけの原稿用紙
    を三枚ほど下さった。私はノートから十首ばかり、拙い歌を拙い字で書いて差し出し
    た。先生はそれを、口の中で何度も何度も呟きながら、太いペンで直してくださった。
    「○のついたのだけ、書き直しなさい」と言われた。それが七月号に載った私の初め
    ての歌だが、そのもとの紙に書いてあったのが、この「御玄関先」の歌である。もう
    一首は「悉く身は削られて浪の上(へ)に岩となる島 松此処に老ゆ」であった。その時は
    歌の佳さより何より、変わった字だなあと驚き入るばかりであった。  (来嶋靖生)

五月の歌   影山  一男

今生の訣れ告ぐるか納骨の読経の間(あひ)に五月の雨よ
                                 (『空には鳥語』)
                              

     平成六年の作。当時作者は四十歳を過ぎて間もない頃。四月十一日に母を喪い、三
    十五日の法要を営んでいる。五月の雨は悲しみの雨だ。こどもの頃、私は死んだ兄の
    法事で、お経は生きている人に聞かせるものなのよと祖母に言われ、当否は知らず、
    熱心に読経を聞いたものである。この作者も母との「訣れ」を意識して慎ましく聞い
    ている。「働きて子を産み育て贅ならず貧しき昭和の母たり妻たり」という歌が続く。
    上の句、わが母もそうだったと共感を呼ぶ。東京下町、家業は町工場だったという。
    江戸っ子らしい気っ風のよさ、さわやかな人柄が歌にもにじみ出て、晴れた青空のよ
    うな歌風。自ら柊書房を営む。「マゼンタとシアンの配合毒薬と媚薬のよやうに愉しむ
    われは」は出版人ならではの歌。最近は碁の手があがり「敗着となりし一手がわから
    ずに五十歳越えつ終局近し」といった渋い歌もある。若い頃は痩身で、宮柊二を思わ
    せる風貌であった。その頃、私とは(建物は違うが)同じ『昭和万葉集』編集作業で
    苦楽をともにしたいわば「戦友」である。「コスモス」編集委員。   (来嶋靖生)


四月の歌   今野  寿美

かたちよき姫神山も春さらば笑ふか胡桃の雄花ゆるるか
                                    (『龍笛』)
                              

     四月十五日は石川啄木の命日。作者はその前後、四月何日かに啄木の生地、岩手県
    渋谷村を訪れた。いまは市町村合併で村や町の名が変わり、平成十八年四月から盛岡
    市に編入されて「渋谷」の名は玉山町の大字として残るばかり。詠まれている姫神山
    は渋谷の東のあり、標高一一二三・八メートル。ゆるやかな稜線が美しく、まことに
    「かたちよき」姿をしている。啄木が「ふるさとの山にむかひて言ふことなし」と詠ん
    だのはこの山と、西側に聳える岩手山の双方を差していると言われる。この歌は「雪
    むかへ」という十六首のうちの一首。下の句が明るく、春を待つ心躍りをさわやかに
    言う。多才な作者は「北上の柳のせゐにするとてもあんなに泣いた男はあゐない」とユ
    ーモラスに歌ったり「安らぎはうめばちさうの白さにて家出時代の節子うつくし」と
    いったやさしい歌も見せる。現在、三枝昂之氏とともに「りとむ」の中心にあって活
    躍している。余談だが、平成十八年九月三十日、私は妻と好摩の駅から山頂に登り、
    念願の美しい稜線を伝つて渋谷へ降りてきた。            (来嶋靖生)


三月の歌   花山 多佳子

おのおのの葉むらのかたち枝のかたちにつもりて已みぬ三月の雪
                                   (『春疾風』)
                              

     三月、降り続いていた雪が已んだ状態。雪は「葉むらのかたち」に積もっている。
    また「枝のかたち」に積もっている。作者が見ているものは目の前に展開している
    「かたち」である。その「かたち」は雪の降る前とは違う。降っている時とも違う。
    作者は降る雪がもたらした葉むらや枝の「かたち」の不思議に注目している。あとは
    読者が考えればよい。作者は自らの感覚を押しつけようとせず、淡々と詠んでいる。
    そこがこの人の不思議なのだ。歌から説明的要素をいさぎよく捨て、あわせて通俗性
    もきびしく排除する。常識的な理解や感覚を超えたところに独特の詩情を結ぶかのよ
    うだ。虚をつかれたような読後感を得ることもある。だが先年、ある雑誌で長歌の特
    集があり、この人の長歌に私は感心した。描写と感覚の微妙な均衡を保つ歌であっ
    た。力のある人なのにあまり目立たない。作品の提示にあたってつねに寡黙だからで
    あろうか。近頃、自己顕示欲まみれの歌人が多い中で貴重な存在。昭和十七年生まれ。
    高安国世に師事。「塔」に所属。                  (来嶋靖生)



二月の歌   小中 英之

生きながら傷の雄鹿は凍つるべし二月の沢の水音のうへ
                              (『わがからんどりえ』)

                              

     月の異称でもっとも詩歌に多く使われるのは「きさらぎ」であろう。漢字の「如月」
    も佳いが、耳で聴くときの音感も美しい。小中も「きさらぎ」を愛用した一人で『わ
    がからんどりえ』の中にも数多く見ることができる。がこの歌では「二月」を採用し、
    「きさらぎ」は捨てている。詩とその言葉に関する感性は鋭敏かつ繊細で、一語一句の
    選択に厳しく、一首の調べを尊ぶこと、同年配の友で彼の右に出るものはない。
     昭和四十五、六年か、私が商業誌や新聞など結社外の場にものを書き始めた頃、新
    宿でしばしば会い、串カツなど囓りながら飲みかつ語り合った。意気投合した挙句、
    無謀にも私は病身の彼をある大きな短歌企画の仲間に引き込もうとした。今から思え
    ば無理な話で長続きはしなかったが、嫌な顔もせずにつきあってくれた彼に今も感謝
    と悔いが残る。掲げた歌の雄鹿はあるいは自画像かも知れない。恩師の安東次男は
    「きさらぎの雪にかをりて家族らは帰ることなき外出をせよ」を採り上げているが、こ
    こでは触れない。平成十三年、六十四才で世を去った。        (来嶋靖生)


一月の歌   三枝 昂之

りんりんと凍てるばかりの空遠し甲斐ケ嶺はわがまほろばである
                                     (『天目』)

                              

     「同じ昭和十九年一月三日、私は山梨県甲府市に生まれた」と詞書がある。「同じ」
    とあるのでわかるように、これは一月三日に発生した出来事を順次詠み連ねて三十数
    首の連作としたもの。実におもしろい。「誰も来ぬ一月三日国民の団結を説き次の年
    なし」明治四十五年の啄木。この後四月十三日に亡くなつた。「さびしさの果てに生
    まれてうるわしき哀傷篇拾遺、城ケ島の雨」は大正二年の北原白秋。「歌びとの茂吉と
    茂吉銀座には春のうららがたっぷりとある」は昭和九年の斎藤茂吉と山口茂吉。「声
    揃える遠き姿は吾である 善麿、文明、哲久、修」は昭和十五年つまり紀元二千六百
    年の歌人たちの姿。最後に「後方宙返り(バクテン)をしても還らぬ故郷やなにはとも
    あれ還暦となる」で結ばれる。近年著わした大著『昭和短歌の精神史』との相互関係
    も窺われて興は尽きない。一月三日といえば、戦前のカレンダーには赤い字で「元始
    祭」と記され、一月五日の「新年宴会」ととともに小学生には不可解な日であった。
    ともあれこういう形で歴史を、文学を、人生を顧みることを教えられた。(来嶋靖生)



十二月の歌   春日  真木子

歳晩の町を隔つるひとところ伸びあがりたる青きひとむら
                                   (『燃える水』)

                              

     何年か前のこの欄で、昭和十六年十二月八日の臨時ニュースを聞いた時の松田常憲
    の歌を紹介したが、作者はその常憲の息女にあたる。父の志を継ぎ、雑誌「水甕」の
    発行責任者として八面六臂の活躍を続けている。歌は竹叢を遠望しての歌だが、実は
    この後に続くさまざまな竹の歌に作者の心は拡がって行く。とくに「戦時下の昏きに
    編める『竹酔日(ちくすゐじつ)』根のひろがれと父の名付けし」に私は立ち止まる。
    「竹酔日」とは陰暦五月十三日のこと。中国の俗説で、この日に竹を植えればよく繁
    茂する(『広辞苑』)という。戦時中、短歌雑誌にも次第に統制の波が押し寄せ、将来
    が案じられていた頃、作者の父は「水甕」の年間歌集名にあえてこの語を選んだ。年
    の暮れ、作者はかなたの竹叢を望み見て、「根のひろがれ」と願った父の心を思い、
    今に繋がる「水甕」に思いを馳せている。「水甕」は大正三年四月、尾上柴舟を中心
    に創刊された、歌壇屈指の老舗雑誌。柴舟の後、主幹は松田常憲、加藤将之、熊谷武
    至、高嶋健一、と繋がり、現在の春日真木子に至っている。      (来嶋靖生)


十一月の歌   土屋  文明

当用漢字新かなといふもので書いたとて誰か読むらむ歌はささやか
                                   (『読書南集』)

                              

     昭和二十一(一九四六)年十一月十六日、内閣告示第三十二号として公布されたの
    が「現代国語を書きあらわすために日常使用する漢字の範囲(当用漢字表)」であり、
    同じく第三十三号で公布されたのが「現代国語の口語文を書きあらわすかなづかい
    (現代かなづかい)」である。これが戦後の国語国字問題の発端であり、国語問題諸悪
    の根源ということになる。告示には強制力はないはずだが、占領軍の圧力もあって、
    官公庁の文書、学校教育、新聞などがこぞって同調協力したために文学の世界にも現
    代かなづかいが浸透するに至った。やがて本来の正漢字や歴史的かなづかいで書くと
    若い人は読めない、難しいという俗論が横行する。土屋文明の歌はその俗論を嗤う。
    「当用漢字や新かなづかいで書いたからといって短歌が多く読まれることがあろうか。
    決してない。歌は多くの読者(大衆)に読まれなくてもよいほどの、ささやかなもの
    なのである」と。ここには表面的な平易を求めたがる俗論を冷笑する確固とした自負
    がある。この矜持と自戒こそ今の歌人に必要なのではないだろうか。  (来嶋靖生)


十月の歌   小池  光

いまだおさげのゆり子先生「青い山脈」の歌を教へきわれら児童に
                                 (『日々の思い出』)

                              

     昭和六十一(一九八六)年十月から翌年九月までの一年間、一日一首一ヵ月分を一
    連とする企画として「現代短歌『雁』」に発表されたもの。その後次々に類似の企画が
    出現したが、この「日々の思ひ出」がいわば元祖といってよい。作者は「あとがき」
    で、日付が同時に写るカメラを例にして、公園のベンチの写真でも日付が入るとただ
    のベンチではなくなり「ただのベンチとして見てはならないという視線を観る側に誘
    引する」と述べ、さらにこれは「高級一眼レフで撮った<芸術写真>でない」と言い
    添えている。私は発表当時、この試みとコメントは優れた現代短歌批判だと思った。
    ここにあげた歌は詞書に「十月八日(水)石坂洋次郎死」とあり、「青い山脈」の歌
    を年若い先生が小学生に教える、という戦後的一風景で、さわやかな歌だがとくに斬
    新な歌ではない。が、一連全体を読み進めて行くと、当今の歌壇的短歌が陥っている
    病的現象が逆に浮かび上がってくる。自分のカメラを「高級一眼レフ」と錯覚し、そ
    の貧しい作を<芸術写真>と盲信しているめでたい男女が歌壇には満ち溢れている。
    何が歌か、を考えさせてくれる歌である。              (来嶋靖生)


九月の歌   伊藤  一彦

松川事件無罪判決夕刊に読みよろこびき二十歳の誕生日
                                   (『海号の歌』)

                              

     作者は一九四三年九月十二日に宮崎市に生まれた。作者と私とはかなりの年齢差が
    あるが、心の動きは近いようで、この歌に注目した。すぐ前に「海に向き海を見てゐ
    ず学徒出陣始まりし年にわれは零歳」があり、早くから歴史や時代の動向に敏感な少
    年であったことを知る。高校時代は新聞部長として活躍したと年譜にあるが、作者の
    出身校は秀才の集まる大宮高校、高校新聞でも九州で一、二を争う存在だった。実は
    私も高校新聞経験者で、全九州高校新聞連盟総会などと称して各県の代表が別府や阿
    蘇に集まり、社会の木鐸気取りで気勢を上げたものである。だから大宮高校新聞部と
    聞くと、ついゾクッと胸が躍るのだ。学徒出陣にせよ松川事件にせよ、当時の意識的
    な学生の大きな関心事であった、『松川歌集』には篠弘や私の歌も収められているが、
    その頃互いに知っていれば伊藤一彦の歌も『松川歌集』に入り、歌集に新たな色彩を
    加えていたかも知れない。右、なかば個人的な懐古談になったが、今とは違う時代の
    青春を伝える歌として、どうしても一言言いたかった次第である。   (来嶋靖生)



八月の歌   尾崎  左永子

夜の鏡みれば思ほゆひと日ひと日空爆の下に生きたりしこと
                                   (『星座空間』)

                              

     戦時中の体験は昭和一桁以上の世代には命と等価である。もはや六十年以上も前の
    ことになるが、「空爆の下に生きたりし」記憶は決して拭い去ることのできぬものであ
    る。この歌、初句と二句でまず読者を引きつける。「何で夜の鏡」? と訝しむその
    次に「姉いもうと鏡を食卓に持ち寄りて乏しき蝋の灯を明かるめし」という歌があっ
    てそうか! と膝を打つことになる。灯火管制の下、電灯はもとより、蝋燭の火さえ
    洩らすことの許されない日々であった。鏡を持ち寄るとは、何と悲しく、いじらしい
    知恵であろう。これらの歌は「八月悲歌」と題する五十首の連作として歌集に収めら
    れている。「終戦のかの暑かりし曇り空わが十七才は透く翅に似る」とあるように、十
    七才の少女が眼で見、肌で味わった貴重な時代の証言、迫力にみちた記念すべき力作
    である。作者は佐藤佐太郎に学び、松田さえ子の名ではやくから頭角を表わした。若
    き日は放送作家として活躍、その後領域を広げて古典に親しみ、エッセイストとして
    文芸全般に清新な一風を立てている。近年みずから「星座」を創刊した。(来嶋靖生)



七月の歌   栗木  京子

七月の夜に思ひ出づミシン踏む母の足白く水漕ぐごときを
 
                                   (『綺羅』)

                              

     作者栗木京子は「塔」に所属、岐阜に住んでいるが、活動範囲は全国にわたり、現
    在もっとも活躍している女性歌人の一人。「観覧車回れよ回れ」の歌をはじめ「天敵を
    もたぬ妻たち昼下りの茶房に語る舌乾くまで」など、あまりにも著名。繊細な感覚、
    斬新な発想、時代に対する批評性など、この作者の歌に必ず冠される評語だが、私も
    異存はない。ここにあげた歌はこの作者の歌にしては地味なほうだが、ミシンを踏む
    母の足を「白く水漕ぐごときを」と表わしたところが美しく、また時代のかなしみを
    湛えている。当時、多くの市民の家庭には足踏み式のミシンがあり、夏の夜の住宅地
    にはミシンを踏む音がよく聞かれた。「洋裁」という言葉が日常の中に生きていた頃
    である。同じ歌集に「ミシン針上がり下がりして布すすむ雪の日は返し縫ひのしづけ
    さ」という歌もある。ミシンは好みの素材なのかも知れない。作者とはある新人賞の
    選考会で同席したことがあるが、若い人の歌に対する的確で鋭い読み、そして授賞式
    での選考経過の明晰な批評に感嘆したことがある。         (来嶋靖生)


六月の歌   藤井  常世

あぢさゐの葉群しづまる夕やみに湛ふる水のごとき花あり
 
                                 (『繭の歳月』)

                              

     「水無月の川」と題する六首の歌の冒頭にある。静かな夕闇のなか、葉の間にひっ
    そりとあじさいの花が見える。それを「湛ふる水のごとき」と言う。澄んだ、静謐な
    歌である。いまや騒々しい、饒舌な、才知きらめく歌が幅をきかせる現代短歌の中
    で、貴重な存在。一連の末尾は「ひとすぢに思えるものを ふりむけばあぢさゐの花
    かき消えてゐる」で結ばれる。こういう歌に出会うと、私はほっと安堵の胸をなでお
    ろす。釈超空の高弟を父にもつ作者、その血液には自ずから一門の共有する詩情が流
    れているのであろうか。第一歌集『紫苑原野』の出版記念会に出て以来、ことさらに
    親しく話し合ったことはないのだが、私はこの人の歌と波長が合うらしく、ずっと関
    心をもち続けてきた。かと思うと「縊れむにほどよき枝と見てゐたり水無月情死の川
    くだりきて」といったギクリとさせられる歌も詠む。が、本領は「気を裂きて笛は鳴
    りいづこの世ならぬものを呼ばむと息あつくする」(氷の貌)といったところにあろ
    う。「人」解散後、自ら「笛」を主宰している。          (来嶋靖生)


五月の歌   佐 佐 木 幸 綱

新生児弟を見むと伸び立てる兄のうしろに窓さしのぞく
 
                                (『金色の獅子』)

                              

     「五月十九日」と題する一連の中より。一九八六年の作。「新生児弟」は作者の次男
    定綱くんであろう。その「兄」は長男頼綱くんであろう。はじめて見る弟を背伸びし
    て見守る幼い兄の姿がかわいく、微笑ましい。前後の歌には「桃の実の小さき五月十
    九日われに二人目の男(を)の子来たりぬ」「ほのぼのと初夏の夕べに生まれ来ぬ地球北
    半球初夏の夕べに」「かすかに揺れて清しき兄たらん覚悟のごときものも見ていつ」な
    どがあり、作者の子を見るまなざしのやさしさあたたかさがにじみ出ている。数年前、
    私の孫(男)も新生児の従兄弟を初めて見た時、しげしげと見つめていたがやがて振
    り返り「へんなやつ」とはきすてるように呟いた。思わず吹き出してしまったが、幼
    い子の目に映るあかんぼはたしかに不思議な、むしろ異様なものであろう。歳月の経
    つのは早い。この兄弟ももう立派な青年に育っていることであろう。ここにある数首、
    人間の愛情の根源に立ち、何の衒いもなくさっぱりと詠まれている。ますます生き難
    い世であるが、育ち行く若い力を信じたい。            (来嶋靖生)


四月の歌   前   登 志 夫

花の山にひと群れつどひ来つれども村人はみな山畑にゐる
    
                               (『流転』)

                              

     作者は吉野に住む。吉野は古来桜の名所、古典和歌から吉野の桜を愛でて詠まれた
    歌は限りなくある。桜の名歌と言えばつぎつぎと口をついて出る歌は多い。が、この
    作者の歌は同じ桜を詠んでも少し風味が違う。単純に言ってしまえば生活者の歌と旅
    人の歌は違うということだ。ここにあげた歌は呟くように低い声で詠まれているが、
    響きは重い。前後の歌には「音たてて山をわたれる春風にもののふのごとかなしび添
    へつ」「尾根ふたつへだててをれば吉野山ながきいくさも花もまぼろし」がある。い
    ま生活者の歌といったが、生活の背後には歴史があり、民俗の重量がある。いま「村
    人」を忘れて政治は動き、観光行政は賢しらに働く。作者は具体的には何も言ってい
    ないが、一首の含みは痛烈である。近刊の歌集『鳥総立』には「木のうれに百舌啼け
    り暗殺者ひしめきつどふさくらのしたに」「さくらさくら二度のわらしとなり行くや春
    やまかぜに吹かれふかれて」などがある。昨年一月、毎日芸術賞、六月に日本芸術院
    賞文芸部門と恩賜賞とを併せて受賞した。             (来嶋靖生)


三月の歌   馬 場 あ き 子

雛すぎて咲かば咲きなむ亡き母の緋桃は暗くをんもりとして
    
                             (『葡萄唐草』)

                              

     亡き母を偲ぶ歌だが、味わい深い余情がある。歌われているのは緋桃で、まだ花は
    咲いていない。咲くならば雛の節句が過ぎてからだろうという。それはそれとしてそ
    の緋桃は見るからに暗く、をんもりとした風情を見せている。「をんもりと」という
    オノマトペが印象的である。雛祭という晴の日に間に合わぬ、緋桃の花のかなしみが
    さりげなくただよう。それは幼くして母と死別した作者のかなしみに通うものであろ
    う。娘となり、妻となり、世に出てはたらく作者の姿を、母は永遠に見ることはない。
    時に遅れて至るもののかなしみである。言うまでもないが、母恋の歌は作者の大きな
    特色のひとつで、どの歌集にも母の歌はいくつか見られる。「母の齢はるかに越えて
    結う髪や流離に向かう朝のごときか」「母よりも生きて見る花ひらひらと唐土までの
    思いするかな」「死してのち死者老ゆるとぞ雪の夜の鏡ひらけば亡母少し老ゆ」など
    限りない。またこの歌の「をんもりと」に見るように、作者はオノマトペの達人で、
    例歌をあげて述べたいが、別の機会とする。            (来嶋靖生)



        二月の歌  「槻の木創刊80周年記念号」のため休載


一月の歌   岩 津 資 雄

たんぽぽの綿毛となりし花鉢の文机に在り年立つ朝を
    
                              (『七十路』)

                              

     作者はたんぽぽの花鉢を机に置いて慈しんでいる。美しく咲いていた花が、時が過
    ぎて綿毛となった。それが歳晩から新年にかけてのことらしい。歌は端正でいかにも
    この作者を思わせる。創刊八十年、先日来古い「槻の木」をいろいろ読み返している
    が、創刊同人岩津資雄の存在は実に大きい。雑誌の発行事務は創作や研究とは違う。
    次々に発生するこまかな雑用を時間の制約の中で果たさなくてはならない。戦時中の
    物資不足の中で、雑誌が円滑に発行出来たのは岩津先輩の大きな功績である。この欄
    には三回目、作風についてはすでに触れた。昔話。昭和二十六年早大政経学部の学部
    祭で文芸コンクールがあり、なぜか私が短歌の一位となり、大隈講堂で賞状を貰った。
    その選者は岩津資雄・堤留吉両教授。都筑先生に報告すると、そりやぁ君、岩津君を
    訪ねてお礼を言うんだね、と言われた。政経学部で岩津先生は教養課目の「日本文学]
    を担当しておられる。研究室へ伺うと、ああ君は「槻の木」の人ですか、じゃあ当り
    前だ、と言ってはっはっはと笑われた。それが初対面であった。   (来嶋靖生)



【平成十七年】↓

十二月の歌   上 田 三 四 二


屋根こえてくる除夜の鐘映像のなかに打つ鐘ふたつ響(な)りあふ
    
                               (『鎮守』)

                              

     作者上田三四二は短歌に小説にまた評論に、幅広い活動を続けたが、昭和六十四年
    一月八日に世を去った。結核や癌との、長年にわたる闘病を押しての創作活動であっ
    た。この歌は没後に刊行された歌集に収められている。現実に聞こえてくる除夜の鐘
    の音とテレビから聞こえてくる音とをともに捉え、まさに重い余韻の響く歌である。
    同じ時に「臓摘(と)りていのち生きえしひと年をおくると大き鐘の鳴りいづ」がある。
    医師でもあつた作者はこの頃は自らの病状について熟知していたことであろう。
     作者とは現代歌人協会の理事としてお付き合いいただいた。企画委員会の責任者が
    上田さんで、私はその手伝い的存在。 判断がはやく、指示が適切であった。その後
    『昭和万葉集』の後続企画として『写真図説昭和万葉集』が始まつたが、上田さんの
    担当巻が病気のため停滞し、急遽私が残り部分を補うことになった。打ち合せにお宅
    に伺うと、上田さんはベッドの上に上半身を起こされ、懇切に考えを述べてくださつた。
    ついこの間のことのようだが、もう十数年が経過したことになる。  (来嶋靖生)


十一月の歌   斎 藤 茂 吉


荒磯(ありそ)なる間(かひ)の真砂(まさご)に降る雨のかそけき
音(おと)のきこゆるものを     
          (『霜』)

                              

     昭和十七年十一月二日、午前七時五十分、北原白秋が世を去った。斎藤茂吉は、良
    きライバルであった白秋の死を心から悼み、心をこめた歌と文章を残している。歌集
    『霜』には「北原白秋君挽歌」五首、「悼白秋君」五首、計十首があり、ここに掲げた
    歌は「悼白秋君」五首の第一首目にあたる。「城ヶ島の雨」を念頭において詠まれ「潮
    けむり磯ふる雨に相あひて「利休ねずみ」の雨が降るとぞ」 という歌もある。また
    「短歌研究」同年十二月号には求められて「北原白秋君を弔ふ」という文章を寄せてい
    る。森鴎外の「觀潮楼歌会」に招かれた初対面のこと、「白秋君が電車の線路の上にあ
    ふ向けに寝たり」「二人で肩を組んでひょろひょろ歩いたり」したことなど、大正初期
    の酒を交えた親しい交流のさまがつぶさに書かれている。最近、挽歌は一首か二首に
    凝縮して作るものだなどと賢しらにいう意見を読んだが、そういう人は人麻呂や憶良
    はもとより「死にたまふ母」や「土を眺めて」の挽歌の大作を知らないのだろう。こ
    の白秋を悼む十首、いずれも心深く、立ち去り難い。        (来嶋靖生)



十月の歌   高 野 公 彦  


ひた移る学生の群(ぐん)にフラッシュ射(さ)し無数にならぶ
夜の若き耳               
        (『水木』)
                              

     「一九六六・一〇・二一」と題がある。この日は総評を中心としてベトナム反戦統
    一ストが行なわれた日である。学生であった作者もこのデモに参加した。「デモの列暗
    くひしめく街のうへに白臘(はくらふ)の月ひかりをたもつ」という歌もある。とも
    に初々しい香気を放つ秀歌なのに世間では滅多に採り上げられない。しかし私はあえ
    て注目する。一、デモの歌は史上たくさんある。その無数にあるデモの歌の中にこの
    歌をおいて読み直して見よ。二、高野の全作品の中にこの歌をおいて読み直してみよ。
    三、右にあげた二首の技法に注目せよ。前の二項からは現代短歌の流行部分との差異
    が明らかに見え、第三項からは短歌の技法において、いかに結句が重要か、を思い知
    らされる。高野公彦は、いま現代短歌の最前線にあり、高い人気を保持しているが、
    高野をほめそやす人々の選歌や批評のほうは、感心しないものが多い。作者自身も案
    外、自分の志と他人の批評とのズレに戸惑うこともあるのではないか。いや、それは
    贔屓のひき倒しで、私自身の偏見が先立っているのかも知れないが。 (来嶋靖生)


九月の歌   長 塚  節  


うるはしき鵜戸の入江の懐にかへる舟かも沖に帆は満つ
                    
     (『長塚節歌集』)
                              

     長塚節は大正四年(一九一五)二月八日、三十六歳で世を去った。この歌はその前
    年、九州を旅した折のもの。入退院を繰り返しながらあえて長途の旅に出たのは、節
    にある覚悟があったのかも知れない。八月十四日に九州帝大病院を退院、その翌々日
   に博多を立ち、人吉を経て宮崎に入っている。乗合馬車に揺られて行く歌がある。
    「霧島は馬の蹄をたててゆく埃のなかに遠ぞきにけり」。折悪しく連日雨にたたられな
    がら海辺に出て青島を見、八月三十一日には「鵜戸(うと)の窟(いはや)にまうでて其
    の日ひと日は楼上にいねてやすらふ」とある。いまは鵜戸神宮も立派に整備されて参
    詣しやすくなっているが、当時は下るも上るも険阻な道であったことだろう。掲げた
    歌は一夜明けた九月一日の朝のこと、「懶(ものう)き身をおこしてやがて呆然として
    遠く目を放つ」という詞書に続く。子規の教えを守り、純粋な写生に徹した節の歌は、
    今の読者には素朴でものたりないかも知れないが、むしろ私は虚飾を排したこういう
    歌こそ詩の本質にもっとも近く繋がると思っている。        (来嶋靖生)



八月の歌   松 本 智 子  


あげ潮の闇の流燈ひとつらに風の彼岸へさかのぼりゆく
                    
       (『風の稜』)
                              

     広島市内を流れる元安川では八月六日の夜、原爆犠牲者慰霊のための灯籠流しが行
    なわれる。死者の数はいまもって算出できないらしい。今のところ、約十三万人と推
    定されているが、その後も死者はふえるだろうからまさに数えきれないことであろ
    う。作者は広島市在住の「地中海」同人。元安川は太田川の支流で広島市中区の平和
    記念公園の北で分かれ南へ流れる。原爆投下の時は、放射能を浴びた人々が水を求め
    て川に飛び込み多くの死者を出した。歌は「あげ潮」の時に読まれた歌だが「風の彼
    岸へさかのぼりゆく」に限りない思いがこめられ、忘れられない原爆秀歌の一首であ
    る。私は今年五月、今頃になって恥ずかしいが、はじめて平和記念公園を訪れた。資
    料館をはじめ多くの遺跡を見学したが、その感想は、とてもわずかな言葉では語り尽
    くせない。峠三吉や原民喜の詩は、少年時代に感銘を受け、暗じてきたが、その碑の
    前で私はほんとうに絶句した。それにしても資料館の売店には短歌の本が一冊もな 
    い。あれだけ原爆を詠んだ歌集があり、歌人がいるのになぜだろう。 (来嶋靖生)


七月の歌   太 田 水 穂  


七夕の笹の葉がひにかそけくもかくれて星のまたたく夜か
                    
         (『鵜』)
                              

     昭和七年の作。七夕は「万葉集」以来、多くの歌に詠まれてきた素材。日本人の生
    活とはきわめて身近な行事である。この歌は水穂らしい繊細な感覚のはたらく歌で、
    古風な感じさえする。が、この歌の詠まれた昭和初頭は、文学の世界ではさまざまな
    運動が起こり、革新的な気運のつよく盛り上がった時代である。「潮音」社内から新
    興短歌運動に走る人たちが何人も出、水穂自身も時代の波はかなり意識したに違いな
    い。水穂はこの頃「進んで現代相と取組み「潮音」全体の作風にも変化が見えた」と
    解説(太田青丘)されている。たしかに『鵜』にはレビューを詠んだ歌や、円タクの
    歌などもあるが、それは素材だけのめずらしさであって、歌い方としてはそれほどの
    変貌は見出だしにくい。それよりも水穂は、斉藤茂吉との病雁論争も一段落し、芭蕉
    研究などの成果も噛み締めつつ、自らの姿勢をさらに深め、堅固にする方向をとった
    というべきではないか。地味な歌だが、ここにあげた七夕の歌などに、水穂の自信の
    ようなものが窺われる。                     (来嶋靖生)


六月の歌   橋 本 喜 典  


枇杷の葉のかすかに触るる玻璃窓に朝の来たりて耀ふひかり
                    
       (『冬の旅』)
                              

     作者は篠弘とともに現在「まひる野」を背負って立つ人。掲げた歌は最近文庫本と
    して復刻された作者の第一歌集『冬の旅』所収。当時まだ大学生、しかも結核療養の
    ため休学を余儀なくされた失意の中での歌。「朝の来たりて」とあるのは眠れぬ一夜を
    明かしたということ。繊細で着実な写実の背後に純粋で真摯な学生の姿が浮かぶ。「南
    北のいづれの軍と問ふなかれ屍は若き兵にあらずや」朝鮮戦争当時の歌で、人間の命
    の尊さを率直に詠み、日本人の良心の根源を示す歌として多くの共感を得た。このほ
    か前後には発病入院を嘆く歌、自らを顧みる歌、世を憂いつつ向学の心に焦る歌、な
    どが並んでいる。昭和二十年代の、なべてが不自由であった頃の療養生活の困難は、
    私にもいささかの経験がある。療養の甲斐あって作者が復学した時、幸いに私は在学
    中で、早大短歌会の良き先輩に接することを得た。以後半世紀以上の歳月が経過した
    が、この作者の純正な作歌態度は変わらない。ここにある歌は初々しい若さを湛えて
    いるが、最近はもっと骨太い、剛直な歌も見せている。       (来嶋靖生)


五月の歌   塚 本 邦 雄  


五月五日袋小路に酔漢がひざまづき<空の神兵>うたふ
                    
     (『日本人霊歌』)
                              

     いうまでもなく『日本人霊歌』(昭和三八)は塚本邦雄が尖鋭な社会批判を展開した
    歌集として誰知らぬ人のない歌集である。ここに掲げた歌も、その反戦意識の窺われ
    る歌。五月五日は今は「こどもの日」だが、かつては「端午の節句」であり、近世以
    降は武者人形を飾り鯉のぼりを立てて男子の成長を祝う尚武の日であった。歌は、そ
    の五月五日に酔っ払いが「袋小路」で跪いて「空の神兵」を歌っているという。「袋小
    路」の意味するもの、また歌われている曲に注意したい。「空の神兵」は「藍より青き
    大空に」に始まる、太平洋戦争中の落下傘部隊を讃える歌。梅木三郎作詞、高木東六
    作曲で、いわば戦時中の大ヒット曲だが、戦時歌謡にはめずらしい曲の明るさが親し
    まれた。作詞の梅木三郎は陸軍中佐、空から降下する兵士らを「天下る皇軍=空の神
    兵」と詠み込み、得意満面であったろう。だが敗戦によって事態は一変した。ところ
    で武者人形つまり軍隊は表面上は否定されたが、塚本はなおその亡霊の存在を危ぶ
    む。袋小路に身をかがめて命永らえている、と警告しているのだ。  (来嶋靖生)


四月の歌   増 田 恵 美 子  


國といふ旧字を宗太郎の歌に見し 明治大正國重たかりき
                    
     (『春鬼来たる』)
                              

     歌の中の「宗太郎者」は稲盛宗太郎。作者は「砂金」同人。三重県津市に住み、名張
    市の短歌界の指導者。十数年前、草合和枝氏ら名張市民の間から稲盛宗太郎顕彰の声
    があがると、自ら先頭にたって市との交渉や基金の募集など、一身を傾けて働いた。
    その熱意は多くの人を動かし、昭和六十三年名張市立図書館のある小高い丘に、宗太
    郎自筆の「水枕」の歌碑が立つこととなった。遺族はもとより、旧友中中谷孝雄夫妻、
    中谷太郎らをはじめ、関係者一堂に会して除幕式が行われた。さらに宗太郎の命日、
    四月十五日には「蟷螂忌」という催しが年々続けられ、今年に至っている。しかし不
    幸にも、作者は病を得て平成十五年九月に急逝した。生前から準備されていた第三歌
    集『春鬼来たる』は、母の心をよく識る娘、真知子さんや「砂金」の人たちの協力で
    刊行された。歌われている「國」という字のある宗太郎の歌は、まだ私は見い出せな
    いでいる。宗太郎を思う増田恵美子の点した火は、藤本奈々子さんら門下の人や地元
    の大西武夫氏らに受け継がれ、今も美しい光を放って燃え続けている。(来嶋靖生)


三月の歌   河 野  裕 子  


古びゆく石垣添ひを流れゆく三月の水に水の幅あり
                        
   (『庭』)
                              

     作者は二年ほど前に大きな手術を受けた。幸い、体力は順調に回復しているようで、
    その刻々の変化が最新歌集『庭』から読みとれる。この「水の幅」も、近づく春の兆
    しというだけでなく、作者の眼が感じる心身の明るさと言ってよいであろう。
     私がはじめてこの人の歌に接したのは、もう三十年以上も前、一九六九年の角川短
    歌賞受賞作だが、その時に感じた新鮮な驚きはまだ忘れない。本格的な新人、と思っ
    た。「活火山」と評した人もあるが、体ごとぶつけるように衒いなく詠み、かつ歌い
    上げる作風は深まりこそすれ、衰えることはない。歌集では「湧くやうに咲きゐし梅
    がひのくれはほかりほかりと固まりになる」また「この人は幾人の乳房を診てきしか
    幾十幾百の中の私の乳房」また「これ以上こはれてはならず 湯の中にひろげてやれ
    ば素直な身体」など、病後の複雑な心身をのびやかに詠み続けている。この間に父を
    失うが、その前後の歌は緊張感があってよい。なお作者の母も歌人、その歌集を以前
    読んだが、娘以上に颯爽とした歌いぶりであった。
                                    (来嶋靖生)


二月の歌   千 代  国  一


ひ                      すさ 
        
氷のごとき白波動く沖をこめ荒ぶ海鳴りいづ方の音

                         (『天の暁』)
                              

     昭和五十七年二月、房総半島西岬での作。一連九首の第二首目。この前年二月二十
    五日、作者の師松村英一が死去、冬の荒涼とした海を見つめながら亡き師を偲んでい
    る。この歌の次に「清切(せいせつ)に果てにし老の英一を狐座のかたへに海鳴をきく」
    があり「砥色なす波寄せきたる明暗(あけぐれ)にものおもおもし海鳴の音」と続く。こ
    こに見るように、歌は松村英一以来の写実を旨としてゆるぎない。戦後間もなく、第
    一歌集『鳥の棲む樹』は愛妻の歌として世評が高かったが、その後はむしろ重厚な表
    現による写実に徹し、いわば「まこと」を貫く詠風である。英一死後、作者は師が一
    身を傾けた「国民文学」を継ぎ、創刊九十年、歌壇屈指の老舗の灯を堅固に守り続け
    ている。師を思う心深く、五十八年からは毎年四月に公木忌(松村英一忌)を営み、追
    悼と研究の集会を始めた。また平成五年の窪田空穂記念館開館に際しても空穂系雑誌
    の最古参「国民文学」を率いて大きなはたらきをした。八十九歳、壮健である。
                                    (来嶋靖生)

一月の歌   窪  田  空  穂


齢(よはひ)のみ多きにあらず愉しきやと問ふ人あるに我は首振る
                        
(『清明の節』)
                              


     空穂は新年の歌を数多く詠んだ。自らの心の赴くままに詠んだ歌もあれば、求めら
    れて詠んだものもあろう。生涯を通じて見れば優に三百首は越えるのではないか。そ
    れらは「老われも夢なきにあらず初日満つる今日のよき日の真蒼なる空」(昭和三十
    二年)や「新年を歓ぶこころ老いてあり若き身力(みぢから)立ち帰り来よ」(同四十
    年)のように希望に満ちた明るい歌もあるが、時にここに掲げたような、無条件に長
    寿や新年を喜んではいない歌もある。空穂には人生は決して楽しく幸せなものではな
    い、という認識がある。晩年人に問われて、もう二度とこの世に生まれて来ようとは
    思わない、という意味のことを語っているが、多くの辛酸を経て来た人なればこそ言
    い得る言葉であろう。また心深い歌としては「命あるままに積りし齢(よはひ)なり命
    の齢なりわがものならず」(四十二年)がある。いま老いて新年を迎える人は年々増
    えてきているが、空穂の歌はその範となるべきものではなかろうか。 (来嶋靖生)

【平成十六年】↓

十二月の歌   松  田  常  憲


開戦のニュース短くをはりたり大地きびしく霜おりにけり
                         
(『凍天』)
                              


     昭和十六年(一九四一)十二月八日早朝の臨時ニュースは次のように報じられた。
    いつもとは違うチャイムのあと「大本営陸海軍部発表 昭和十六年十二月八日午前六
    時 帝国陸海軍は本八日未明 西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」。そして
    何度か繰り返された。この時は「アメリカ、イギリス軍」と発音されていた。小学校
    四年生だった私は、その一瞬の異様な緊張感を今も覚えている。右の松田常憲の歌は
    大人らしい落ち着きがあり、これからはじまるきびしい状況をすでに覚悟している響
    きがある。『昭和万葉集』第六巻にはこの開戦のニュースを聞いた時の不安や緊張を伝
    える歌が十数首並んでいる。だがその後、真珠湾奇襲成功その他「大戦果」報道の連
    続に、これらの不安はたちまち影をひそめてしまう。そして「宣戦の大詔を拝して」
    感激する戦争賛歌が世を覆うようになる。従ってここに掲げた歌は、他の歌も含めて、
    ニュ−スを聞いた一瞬の、国民の真情を伝える貴重な歌である。あれから六十年、日
    本はまた戦争のほうへ身を寄せようとしているのではないか。    (来嶋靖生)


十一月の歌   木  俣   修

              あけ
噤みゐてただにきびしもみ柩に霜夜の暁はうごめきそめぬ
                                  (『凍天遠慕』)
                              


     北原白秋は昭和十七年(一九四二)十一月二日に亡くなった。数年前から糖尿病、
    腎臓病を発病、失明寸前の状態が続き、やがて歩行も困難となった。しかし気力は充
    実し、死の直前まで作歌を続けたという。右の歌の作者木俣修は病身の白秋のもとで
    創作や選歌を手伝い「多磨」の編集に携わるなど、もっとも身近にあった。なくなっ
    たのは午前七時五十分、「霜夜の暁はうごめきそめぬ」はその枕頭での実感。白秋臨終
    のさまは木俣はもとより、医師であった米川稔ほか多くの人が記している。また兵と
    して中国大陸にあった宮柊二は二日後に軍用電話で知り「こゑあげて哭(な)けば汾河
    の河音の全(また)く絶えたる霜夜風音(しもよかざおと)」などを詠んでいる。明治大
    正昭和三代にわたり、国民詩人ともいうべき白秋の逝去は、歌壇・文壇を超え、ひろ
    く文化界全体に大きな悲しみとして広がった。斎藤茂吉にも「ゑらぎつつ酒相のみし
    二十五年のむかしおもへば涙落ちむとす」がある。大正初期、当時の新鋭歌人たちは
    流派にとらわれずに交流し、まさに「酒相のみ」て語り合っていた。 (来嶋靖生)



十月の歌   春 日 井  建  

冴えわたる秋の夜天や若鹿の額打ちて星は降るかと思ふ
                                   (『朝の水』)
                              


     この五月二十二日に亡くなった春日井建の最終歌集の一首。病床で苦しい日々を送
    りながら、なお歌を詠み続け、選歌や選評、原稿執筆などの仕事を誠実に果たし、遂
    に体力尽きて世を去った。ここでは澄み切った心と、永遠の青春性の思われる秋の夜
    空の歌を選んだが、他に歌集には鬼気迫る闘病のさまが多く詠まれ、粛然と襟を正さ
    ずには読めない歌が並んでいる。「一晩をかけて落ちゆかざりしもの吐けり冷気がの
    みど貫く」「遊興にあらず痛みのために喫む麻薬と思へばいよいよ悔しも」。近年、私は
    いろいろな会の選考で春日井さんと同席する機会が多かった。理路整然と、自らの考
    えを正確に開陳できる明晰な頭脳の持ち主で、会のたびに多くのことを教えられた。
    先年の私のニューヨークの歌について、詩人の予知能力云々と、最初に言われたのは
    春日井さんである。そんなことはありませんよ、と言うと彼、本人は意識してなくて
    もそういうものなんですよ、と莞爾と微笑んだ。後で思ったのだが、あれは彼自身の
    ことなのではなかったか。謹んで冥福を祈る。           (来嶋靖生)



九月の歌   小 島 ゆ か り  

窓のべにみどり児は瞳をひらきをり彼方明るき雲の銀鱗
                                   (『水陽炎』)
                              


     この歌の少し前に「みなかみの水陽炎(みづかげらふ)のはるけさに母となるべき
    九月はありぬ」や「母となるは九月のその日杏など食(は)みつつ越えん一夏百日を」
    があるので、みどり児誕生は九月と知れる。はじめての出産で、この秋、作者は三十
    代に入ったと自ら後記に記している。初々しい歌で、下の句「彼方明るき雲の銀鱗」
    が美しくまたこころよいリズム感をもつ。人間一生のうちには、命に関わる幾つかの
    大事に遭遇するが、同じ命の歌としては「生」に携わる歌のほうが読者のほうも嬉し
    い。この歌、昭和六十一年の作だから、ここに詠まれているみどり児も今は二十歳に
    近くなっていることだろう。作者小島ゆかりは早大に学び、「コスモス」に育ち、歌集
    『水陽炎』でデビューした。「透明な美意識と芯の強い抒情」(川野里子)と評される
    が、確かに若々しく清新な感覚があり、古典的な語法にもすぐれ、均衡感覚整った歌
    を詠む。調布市の短歌会で私はしばしば同席するが、批評も鋭く、またあたたかい。
    次代を担う女流の最前線に立つ人である。             (来嶋靖生)


八月の歌   石 田 耕 三  

不時着せし零戦の航空兵憲兵に連れられて行く砂丘の上を 
                               (『私の昭和二十年』)
                              


     八月といえば、やはり敗戦前後のことが思われる。戦争はいまも世界各地で続いて
    いる。一九八八年、昭和六年生まれの歌人十五人が、敗戦当時のことを主題に『私の
    昭和二十年』という歌文集を出した。私もその一人で、一同不戦の誓いを新たにした
    ことであった。この歌の作者石田は二十年八月には鹿児島県の川内中学に在学してい
    た。知覧の特攻基地にも近いところ、とくに沖縄戦以後はほとんど戦場と同じ状況で
    あったことだろう。飛び立った飛行機が何かの事故で、作者のいる近くの海岸に不時
    着したらしい。その隊員は、憲兵によって連行される。その様子を不安な思いで見送
    る中学生。敵艦に突入して華々しく散った人もあれば、このように不測の事故で取り
    調べを受け「日蔭」に追いやられる人もいた。戦争終結まで命は無事であったろうか。
    作者石田耕三は牧水系の歌人、長谷川銀作に師事、師の遺志をついで「長風」を創刊、
    その中心にあって活躍した。堅実でまた神経の徹った美しい歌を多く詠んだが、二〇
    〇二年、病のために惜しくも世を去った。             (来嶋靖生)


七月の歌   高 嶋 健 一  

手のひらのくぼみにかこふ草蛍移さむとしてひかりをこぼす 
                                    (『方嚮』)
                              


     蛍の歌といえば、古くは和泉式部、近代では窪田空穂、斎藤茂吉らの歌を思い浮べ
    るが、ここにある蛍はそれらの先例を十分に咀嚼した上で詠まれた現代の蛍である。
    この歌、全体に繊細な神経がはたらき、蛍自身のもつかすかな光に着目、自然と人間
    の間に生じる一瞬の静寂を巧みに捉えている。結句「移さむとしてひかりをこぼす」
    は「移されむとし」または「ひかりこぼるる」の、いわゆる「ねじれ」ではないかと
    の見方もある。が、ここはひらがなの多用とともに、作者意図しての試みであろう。
    心理学専攻の高嶋らしい作品である。高嶋は十台から作歌を始めたが、老舗結社「水
    甕」で伝統短歌の長所を学ぶ一方、青年時代は先鋭な方法的実験にも挑んだ形跡があ
    る。正統と異端のはざまにあって、苦闘を重ねつつ自らの文体を確立して行った。長
    く病魔と闘い、実作はもちろん、結社「水甕」の運営に携わり、静岡女子大学の教壇
    に立ち、まさに八面六臂の活躍を続けてきた。が、一昨年惜しくも世をさった。死の
    直前に短歌新聞社章を受賞している。               (来嶋靖生)


六月の歌   滝 口  英 子  

死にゆきし樺美智子さんその土を撫でさすりいます哀しき母は 
                                   (『帰負野』)
               
     作者滝口英子は宮柊二夫人、歌集名は作者の出身地新潟県帰夫郡に因む。「哀しき
    母」は亡くなった樺美智子さんの母。昭和三十五(一九六〇)年一月、ワシントンで
    日米安保保障条約・日米行政協定などが調印され、日本国会での批准も時間の問題と
    なった。日本が事実上、アメリカの属国となることを定めるこの改訂に、国民的は反
    対の声があがった。それは政党や労働組合、全学連など組織の枠を越え、全国的な規
    模に拡がった。一方、これを鎮圧せんとする警察当局の動きも過剰となり、ゼネスト
    の十五日には一万人の警視庁機動隊が国会周辺を固めた。この日全国で五八〇万人が
    デモに参加したといわれる。私も勤めの合間、社の許可をとって、夜間行なわれた銀
    座のフランスデモに参加した。だが同じ頃、国会南通用門から校内に入っていた七〇
    〇人の全学連のデモ隊に対し、午後七時、警視庁第四機動隊が襲いかかった。催涙ガ
    スと警棒の雨の中、東大文学部国史学科の学生樺美智子が死亡、ほかに多数の負傷者
    が出た。死因は後かろの扼殺死だという。             (来嶋靖生)


五月の歌   篠    弘

つぎつぎに友消えゆけり捕はれし友らのあとを歩みゆく闇 
                                  (『昨日の絵』)
                              


     昨年の五月号には、一九五二年のメーデー事件で亡くなった近藤巨士を詠んだ真井
    郁子の歌を掲げたが、私にとっての五月はさらに同じ年に起こった早大事件を記さず
    にはいられない。五月九日、私服警官の大学構内潜入を咎めて学生の集会が開かれた。
    座りこんでいる学生達たちに対し、夜になって突如五〇〇名の警官隊が乱入、警棒を振
    るって無抵抗の学生たちに暴行を加えた。私は警官隊突入以前にその場を去っていた
    が、篠弘は最後まで現場に居合わせた一人である。「警棒の雨をのがれて湧くなみだ
    無意識のうちに頭撫でゐる」という歌もある。翌朝登校した私は校舎の窓や校舎前の
    舗道に夥しく流れている血の痕に戦慄したものである。半世紀以上前のこととなって
    しまったが、篠の十一首の歌は歴史の一齣を伝える貴重な作品である。彼はこのころ
    から時の問題を消化して作品化することに長じていた。ところで近刊の『軟着陸』に
    は「いかやうに人は見むとも回転の扉に入る脚たたらを踏みつ」という歌がある。今
    年三月に東京六本木ヒルズで起こった事故を予見しているかのようだ。(来嶋靖生)


四月の歌   渡 辺 順 三

日本の四月/桜の色匂う/今日の大地に起ちて胸張る
                                  (『渡辺順三全歌集』)
                              


     作者渡辺順三が亡くなったのは一九七一年、今年で三十三年になる。この歌は亡く
    なる三年前、小康を得て退院した時のもの。下の句がこの人らしい。戦前はプロレタ
    リア短歌運動の先頭に立ち、戦後は「人民短歌」「新日本歌人」の中心にあって活動
    を続けた。少年時代に空穂を尋ね「国民文学」の創刊同人にも名を連ねている。同志
    であった坪野哲久に比べると、順三の歌は地味で、人目に立ちにくい。が、人の心の
    「まこと」を捉え、つねに底辺で働く人、貧しさと戦いながら生きる人、権力に敢然
    と闘う人、そういう人々への愛情をもって歌い続けてきた。それは一生を通じて変わ
    らない。確かに教条主義的な歌もないではないが、その思想性の高さと剛さは類を見
    ない。私は松川事件をきっかけに渡辺さんを尋ね、その後何度か直(じか)に話を聞く
    機会があったが、往年の闘士と思えぬほど穏和で、やさしい人だった。官憲による拷
    問の経験も語って下さった。なお初期の「槻の木」は渡辺順三経営する印刷所で刷ら
    れていた。「都筑君は古いからなあ」と笑っておられたのも忘れられない。
                                    (来嶋靖生)


三月の歌   馬 場 あ き 子

知られねば知られであらむ春の闇しばしは遊べ五人囃子も
                                     (『葡萄唐草』)
                              


     作者馬場あき子、昨年芸術院会員に推挙された。歌人としては平成五年の斉藤史以
    来である。先年、ある機会があって、この人の全作品をテーマ別というか、素材別と
    いうか、分類する人たちとの接触があり、その編集に参画した。 『歌ことば辞林』
    というその本は馬場あき子の歌を分類したものではあるが、現代短歌の語彙の小辞典
    ふうの趣があり、助っ人である私自身も大いに教えられた企画であった。その『うた
    ことば辞林』には「雛」の歌が十五首選ばれ、それぞれに味わいがあるが、私がもっ
    とも心に留めているのがこの一首である。とくに上の句が奥行深く、第四句の「しば
    しはあそべ」という優しい物言いにスムーズにつながっている。作者は、古典の語や
    情感を現代に生かす達人で、古典の歌語を古典語と思わせずに現代の生活に溶け込ま
    せる、そのこころ栄えと腕前はみごとというよりない。「桜」を詠んだ「糸とおす針
    のきよらにかがよえばつらぬきとめよさくらさくらも」(雪鬼華麗)など、古典と現
    代がまさに一線につらぬかれている好例といえる。         (来嶋靖生)


二月の歌   斎 藤  史 

かがふ         あやかし 
きさらぎのきらめく雪を被りて雪の妖・われの白髪 『風に燃す』)
                              


     昭和三十九(一九五四)年の作。いうまでもなく、二月は斎藤史にとって特別の意
    味をもつ。昭和十一年二月二十六日、いわゆる二・二六事件で幼友達は死に、父は獄
    舎に繋がれた。以後作者は繰り返し、この事件にかかわる歌をいろいろな形で詠んで
    いる。掲げた歌は「雪の霊」と題する連作の中にあり、直接二・二十六事件を扱っては
    いないが、決して無関係とは言えない。歌は自身の相貌の変化を下の句に描いて凄絶
    である。間もなく作者は病む夫を看取りつつ、老衰の母をも介護する苛烈な生活とな
    る。この歌はそのすさまじい未来を予見しているかのようにも読める。 昭和五十四
    年、長い看病の末に死別した母を「盲ひたる母の眼裏に沁みてゐし明治の雪また二・
    二六の雪」(『渉りかゆかむ』)と詠んでいるが、その「母の眼裏に沁みて」いたと詠ん
    だ雪は、同時に作者の眼裏に沁みている雪でもあった。さらに言えば二月は作者の生
    まれ月でもある。二〇〇二年四月二十六日逝去。まことに波乱に富んだ一生であった
    が、現代短歌の大きな転換を方向づけた歌人でもあった。      (来嶋靖生)


一月の歌   窪 田 空 穂


            ゆうげ                                  きれ
年越を祝ふ夕食の膳に添ふたまたまに見る塩鰤の切
                              (「槻の木」昭一八・一)
                             

     昭和十八年の新年歌会始の御題は「農村新年」であった。それを意識して前年のう
    ちに詠まれたもの。作者自身の育った信州農村の新年を思いつつ、五首の歌が並ぶ。
    歌は第四首目にあたる。塩鰤一切れが詠み込まれているが、これは戦後に書かれた次
    の文章に見合う。「・・・・大年(年越し)の夕飯が思い出される。この夕飯は私達子供
    には正月が来たような気のするたのしいものであった。それは馳走があるからであっ
    た。馳走といっても仕来(しきた)りの質素なもので、塩鰤の大きな切り身一切れに、
    大根と人参の膾で、その他には、正月の酒の肴の数の子、黒豆、田つくり、芋、大根、
    人参などのいわゆるせっちくらいの物である。しかしその晩に限って、大人の膳の上
    には杯が添っているのであった」(『窪田空穂随筆集』)。他の歌は「大御田に仕へまつ
    らふ家なりと鍬をぞ磨く年立つとふに」「年の神くだり来まさむ松に添ふ藁もて編め
    る御饌(みけ)の高杯」「国生める神の御像(みかた)の刷物(すりもの)の代々(よよ)経て
    古りし床にかかぐる」「家あるじ家(や)から犒(ねぎら)ひにこやかに年越す宵の杯あぐ
    る」である。                          (来嶋靖生)



【平成十五年】↓

十二月の歌   釈    超  空  


年の夜の雲吹きおろす風のおと 二たび出で行く。砂捲く町へ
                               (『海やまのあひだ』)
                             

     釈超空の第一歌集『海やまのあひだ』の大正七年の項、「除夜」と題する十八首の冒
    頭に置かれている。初出は「アララギ」同年三月号で、超空が一挙に百首(実際は九
    十八首)を発表し、斎藤茂吉の批判をはじめ、多くの話題をまいた作品の内にある。
    「アララギ」では「除夜」と題する歌は八首だが、同時発表の「三年」「旧年」「年ごも
    り」「雪」などを含めて約五十首、それらをさらに厳選して右の数に絞り込んだもので
    ある。初出では句読点はない。砂捲く町へ出て行った後の歌には「年の夜を買ひ物に
    来て銭とぼし銀座の町を押されつつ行く」「銀座をば帰らむとして渡る橋下くらく鳴
    る年の夜の波」「除夜の鐘鳴りしまひたり電車来ぬをぐらき辻にたたずみてゐる」な
    どが続く。しかし歌集に収めたのは「年の夜を」だけで、またそれも次のように改作
    されている。「年の夜 あたひ乏しきもの買ひて、銀座の町を押されつつ来る」。この
    あたり、超空の選歌意識や推敲過程として興味深い。のちの「自家自註」にもこの年
    の大晦日のことが語られているが、「除夜」の歌には触れていない。  (来嶋靖生)


十一月の歌  千  代  國  一  


秋日ざしやはらに受くる草の中かの雲父のやうな雲なり
                                 (『鳥の棲む木』)
                             


     千代國一は大正五年生まれ、八十七歳という高齢ながら、いまなお実作はもとより
    「国民文学」の責任者として、編集発行の中心にある。いうまでもなく「国民文学」は
    大正三年創刊、空穂系と称される諸雑誌の最古参、誌齢九十年を数える。松村英一・
    半田良平・植松寿樹の「国民文学」トリオが大正昭和の歌壇でどれほど大きな存在で
    あったか、私が語るまでもない。その重い歴史と伝統を背負って今日あるのが千代國
    一である。『鳥の棲む樹』は昭和二十七年に出た第一歌集。歌を始めて間もない私が、
    初めてそのみずみずしい愛妻の歌を読んだ時の印象はいまなお鮮烈である。だがここ
    では病床にある父を詠んだ歌を引いた。草の中に臥して仰ぐ秋の雲を「父のやうな雲」
    と言う。澄んだ、貴い心が簡明な表現の中に生きている。なお同歌集には空穂の序歌、
    松村英一の序文に加えて先輩山本友一の跋、作者の後記がある。いずれも長文だが、
    作歌の指針となる内容を多く含み、教えられる。作者の歌に対する信念も明確に語ら
    れている。この年作者三十七歳。                 (来嶋靖生)


十月の歌  原  田    清  


夕波のおだしき音のみぎは辺を貝を拾ふと人の並みゆく(『編鐘』)
                             


     大分県佐伯市には長く大内須磨子がいて、多くの歌を詠み、多くの後進を導いた。
    「槻の木」の仲間は都筑省吾をはじめ、入れ代わり立ち代わり同地を訪れ、歌を語り歌
    を詠みあって相互刺激を続けた。作者原田清も幾度かこの地を訪れ、時にはこの歌に
    あるように、さらに南の蒲江港にまで足を伸ばしている。ちなみに須磨子は貝のコレ
    クターとして全国的に著名な存在で、ここに詠まれている蒲江港はその貝の収集地の
    一つである。この時、同行したのは誰々か、記されていないが、直ちに幾人かの名が
    浮かんでくる。「夕くらむ渚もとほり拾ふ貝ほのかに光る紅桜貝」「見れど見えぬわれ
    を導き拾はせつその貝の名もたちまち忘る」とあるから、大内須磨子みずから出向い
    ていたと思われる。歌はこの作者らしい悠揚とした調べをもち、心静かに手厚く詠ま
    れている。その前日の歌。「縁古(えにしふ)る二階の部屋に幾度ぞ葛港の鳶の声聞く」
    その二階家は佐伯大内家のこと。八月末この地へ赴いた私は、仲間に案内してもらっ
    たが、主(あるじ)亡き家はすでに解体され、サラ地になっていた。思いは尽きない。
                                    (来嶋靖生)


九月の歌  宮    柊  ニ  


「漢の武帝の天漢二年秋九月」諳んじてゐる小説冒頭(『独石馬』)
                             


     小説とあるのは中島敦『李陵』の冒頭。この後「騎都尉(きとゐ)・李陵は歩兵五
    千を率ゐ、辺塞遮虜□(へんさいしやりよしやう)を発して北へ向った」と続く。
    言うまでもなく『李陵』は中島敦の遺作。戦時中のもっとも執筆困難な時期に文壇に
    登場、病弱で喘息に苦しみ、ごく短い間に珠玉のような作品を残して、昭和十七年十
    二月、心臓衰弱のため永眠した。『李陵』は原稿として書き上げられてはいたが、ま
    だ表題のついていない未定稿で、先輩の深田久弥が名付けて翌年「文学界」に発表さ
    れた。『史記』や『漢書』などに記された中国古代の名高い事件から、人間の生の極
    限までを鋭く深く、また格調高い文章で描いた名作で、その内容からも、成立事情か
    らも、その文体からも、宮柊二が暗誦していたということは十分に頷ける。昭和四十
    七年の作。糖尿病など体調のよくない状態で、ふと『李陵』をまた中島敦を思い出し
    たのであろう。引用による短歌は多いが、原典の持つ格調を自らの歌に巧みに生かし
    た好例として教えられる。                    (来嶋靖生)

        (注)上文の第2行、10文字目:□は・・・・「章」扁の右に「おおざと」



八月の歌  水  野  美  知  


予習やめ画をかきに来よ相沢よレモン夏蜜柑水蜜桃ぞ
                              (「槻の木」昭和十三・八)


     第八〇〇号を前に、旧い「槻の木」に目を通していたら、たまたま右の歌に遭遇し
    た。歌の中の「相沢」はいうまでもなく現在本誌で活躍している相沢一男。作者水野
    美知が小学校の教員であった頃、クラス担任であったことは相沢一男自身が記してい
    る。卒業後も画を学んでいたのであろうか。「水彩のすきとほりたる清らかさ澄める
    汝(な)が眼が面影にたつ」という歌もあれば「或日、二階の掲示板に相沢一男の近
    作を見て」という詞書のもとに次の歌を含む四首がある。「相沢の青の色調しづみつつ
    しづかに深く艶をもちたる」。水野美知は絵心のある歌人で、「槻の木」の表紙に自ら
    彩管を揮ったこともある。歌は生徒を激励発憤させるために少しばかり甘い感じはあ
    るが、「レモン夏蜜柑水蜜桃」と画材の果実を並べたところ、夏の気分と少年の意欲
    (食欲を含めて)をそそるに十分で、水野先生の暖かい気持ちはもちろん、少年の純真
    でひたむきな表情が浮かんでくる。昭和十三年三月、第一〇〇号を迎えた直後、新興
    の気漲る「槻の木」の一景であった。               (来嶋靖生)


七月の歌  斎  藤  茂  吉  

あまつ日はやうやく低く疲れたるわが子励まし湯殿へくだる
                                     (たかはら)



     昭和五年七月二十日、斎藤茂吉は長男茂太を伴って出羽三山に登る。「長男茂太十
    五歳になりたるゆゑ、出羽三山に初詣せしめむとて出発す」云々の詞書がある。岩根
    沢口から月山、湯殿山を経て羽黒山へ詣り、最上川を見つつ狩川駅へ至る長途の旅、
    歌は百首を超える大作である。詞書にあるように長男茂太に出羽三山を教えるのが茂
    吉の願いで「月山のいただき今しかくろひて氷の谿(たに)に雨ふりにけり」といった
    荘重な歌の続く中に次のような歌が顔を出す。「ほどちかき森の中より聞こえくる鶫
    のこゑをわが子に教ふ」「夜も啼く山ほととぎす我が子にも教へなどして眠りに入り
    つ」「高山に霧のせまりてくるさまを吾が子はときに立ちどまり見つ」「ほほの木の
    実はじめて見たる少年に暫しは足をとどめて見しむ」「雷(らい)の火に燃え倒れたる
    大樹をば少年は見たりこの山に来て」など、わが子を気遣う父親茂吉が見えて楽しい。
    掲出の歌は月山から湯殿山へ下る道、私も同じコースを辿ったが、茂吉父子の歩いた
    頃はまだ登山道の整備も今ほどではなく、かなりの苦労があったことであろう。
                                    (来嶋靖生)


六月の歌  雨  宮  雅  子  

六月の鏡の中にも雨降るに旧知のごときわが顔映す(熱月)


     雨の季節である。鏡の中にも雨が降っているという。そこに映ったのは誰の顔であ
    ろうか。わが顔であってわが顔でないとも見える。そこに「旧知のごとき」のはたら
    きがある。「旧知のごとき」の中には、我と他者、現在の我と過去の我、未知と既知
    など、表現の根本に横たわる微妙な問題がひそんでいる。陰鬱な気分のただよう歌だ
    がこの「旧知のごとき」には自らに還る安堵感のような、ほのかな光も感じられる。
    この作者は六月に詩情の動く人で、同じ歌集に「六月のつゆけき闇をくぐりきて高層
    鉄扉われは押したり」「犀潟の針魚(さより)食みたる六月は天のくもりにつつまれ
    にけり」があり、また第一歌集『鶴の夜明けぬ』にも「六月の気流乱れて紫紺ふるふ
    てっせんのうへ雷近づけり」がある。雨は否応なしにわれとわが心を見つめ直すはた
    らきがあるのかも知れない。作者雨宮雅子は永く「地中海」で活躍、現在はみずから
    「鴟尾」を発行している。篤い信仰心に支えられた、詩性の高い歌を詠む。『斎藤史
    論』で第十六回平林たい子賞を受賞している。(来嶋靖生)



五月の歌  真  井  郁  子  

昭和二十七年二月の雪を共に食べ二十三歳その春死にき(白樫)


     二月とあるが、実は五月の歌なのである。このすぐ後に「揺すれあふ若葉のなかに
    汝(な)が声の聞こえほとほと五月は暗し」がある。こちらを挙げるべきかとも思っ
    たが、「二月の雪を共に食べ」の美しさにどうしても惹かれる。二月のある午後、大
    学生の甥がひょっこり叔母のもとを訪れた。叔母といっても三十歳前、まだ若い。雪
    の美しい日で、甥は庭に積もった雪を掬って来、叔母はミルクと砂糖を用意し、即席
    のアイスクリームが出来た。「美味しいねと互(かたみ)に言ひて食(たう)べたる
    雪のアイスクリーム ストーブ燃えて」。まだ一般家庭でアイスクリームを作ること
    など夢であった頃の話である。その日から三月も立たぬ五月一日、メーデーのデモ隊
    が禁止区域であった皇居前広場に雪崩れ込んだ。警官隊は催涙ガス、拳銃などを発
    砲、その一弾が一学生に当たり、若い命が奪われた。学生の名は近藤巨士。雪の午後
    に叔母とアイスクリームを食べた青年である。民主主義国となる日本を願って、ひた
    すら行動した彼また私たち。この荒涼とした世にあって、ことさら私には彼の死が思
    われる。                            (来嶋靖生)


四月の歌  窪  田  章  一  郎  

     いくさ
征く日まで戦のさなか端座して深夜ひとりの碁を打ちし音
(素心臘梅)


     前にも触れたが、四月は多くの歌人が亡くなっている。とくに十五日は、山川登美
    子(明治十二年)、五島美代子(昭和五十三年)、土岐善麿(同五十五年)そして窪田
    章一郎(平成十三年)と四人を数える。この歌の対象は誰しも察しがつくように弟茂
    二郎さんのこと。秀才の誉れ高く、また碁に堪能だったことも知られている。ひとり
    で碁盤に向かい、歌にあるように端座して、時には棋譜を片手に打つ。その姿は都筑
    先生からも何度か伺った。出征の日は、町会旗を先頭に、襷をかけた茂二郎さんに付
    いて、空穂、章一郎以下、親戚、近所の人たち、都筑省吾、鈴木金太郎ら空穂門下の
    人々が揃って護国寺前の都電停留所まで送ったという。電車が来たので空穂の発声で
    万歳を三唱、省吾・章一郎は一緒に電車に乗り、麻布の入営先まで付きそった。(『歌
    を詠み始めた頃』参照)。だが、その日から、遂に茂二郎さんは帰らなかった。シベ
    リアで亡くなった弟を悼む兄章一郎の歌はどの歌も切々と胸に響く。三年前の四月十
    五日、その兄も世を去った。五十年を隔てての再会となる。(来嶋靖生)


三月の歌   植  松  寿  樹  

幾度かまどろみて覚め甲斐に入り我が眼は生きて待つ君を追ふ
                                (白玉の木) 


     昭和三十九年三月二十六日、植松寿樹は旅先の土肥温泉で心臓麻痺のため急逝し
    た。寿樹は、松村英一・半田良平らとともに窪田空穂のもっとも早い門下の一人、長
    く「国民文学」で活躍、温厚な人柄、典雅な作風で知られる。戦後「沃野」を創刊、
    富小路禎子、山本かね子らを育てた。ここに掲げた歌は三十七年の作。「国民文学」か
    ら「沃野」を通じて親しかった歌人三枝清浩の訃報に接し、その住む甲府へ駆けつけ
    た時のもの。下の句の「我が眼は生きて待つ君を追ふ」に、二人の交情が偲ばれる。
    この歌の次には「かへらざるものを徴(はた)らず傍輩を潤して悔いず語りだにせず」
    があり清浩の人柄が描かれている。「かへらざるもの」は他人に用立て、焦げ付いた
    金子。その三枝は甲府で呉服商を営み『昭和万葉集』には「統制に遭はざるはなき品
    ひさぐ店に吾ゐて安きときなし」「支払の準備の金のなくなりて手放す惜しき品売り
    にけり」など戦時中の経済統制に苦しむ商業の実態を詠んだ歌が収められている。昂
    之、浩樹の父。『三枝清浩』歌集がある。(来嶋靖生)


二月の歌   岡  野  弘  彦  

少年の日の二月二十六日かの日より追憶はいよよ暗くなりゆく
                                (冬の家族) 


     二・二六事件のことは、以前にもこの欄で岩津資雄の歌を採り上げた。また最近は
    斎藤史の歌で短歌界では身近なものになったが、前号のテロを憂うる中村憲吉の歌に
    関連して、やはり現在の時点で戦争への危機感を確かめておきたい。つまり重要な歴
    史の教訓としてあえて繰返す。昭和十一年(一九三六)二月二十六日大雪の早朝、陸
    隊青年将校らの企てたクーデターは、歩兵二個連帯以上の兵士四千名による大規模な
    もので、内大臣、大蔵大臣、警視総監らを殺害、議事堂や首相官邸、警視庁など要所
    を占拠する空前の事件となった。当時作者は十二歳、事の重大さは十分に認識できる
    年齢である。事件は数日後鎮圧されたが、陸軍内部はもとより、国内外に大きな衝撃
    と影響を与えた。翌年七月には廬溝橋事件が起こり、以後日本はまっしぐらに戦争へ
    の道を突き進む。作者は「追憶はいよよ暗くなりゆく」と歌っているが、多くの親し
    い学友が次々に戦場におもむき、帰らぬ人となった。この歌のすぐ後には「額(ぬか)
    薄くなりたる友らつどひゐて酔へばすなはち戦ひを言ふ」がある。 (来嶋靖生)


一月の歌   中  村  憲  吉  

 こ ぞ         まがつひ
去年のごと禍津日あるなテロリズム世を暗うするは国がらに恥づ
                                (軽雷集以後) 


     「歳首有感」と題する連作より。昭和八年(一九〇三)の作。「去年のごと禍津日
    あるな」は前年発生した相次ぐテロ事件を指す。まず七年二月九日、大蔵大臣井上準
    之介が演説会場に向う途中ピストルで狙撃され死亡。ついで三月五日、三井合名理事
    長団琢磨が三井本館の玄関先で、同じくピストルで撃たれ、死亡した。犯人はいずれ
    も「一人一殺」を目指す暗殺組織「血盟団」のメンバーであった。さらに五月十五日
    古賀清志・三上卓ら海軍青年将校を中心に、陸軍士官候補生や民間の国粋主義者たち
    によるクーデタ−が企てられ、首相犬養毅が首相官邸で射殺された。クーデターは未
    遂に終わったが、「五・一五事件」として後の「二・二六事件」の先駆となった。憲
    吉はこういうテロの横行を憂い、日本の国柄に悖る恥ずべき行為だと嘆いている。質
    は違うがテロを恐れ、憤る歌はこの頃から存在した。一時大阪毎日新聞の記者でもあ
    った作者は「アララギ」会員の中でもっとも時勢に敏感な一人であった。だが憲吉は
    この時すでに病床にあり、翌年五月五日、四十五歳の若さで世を去っている。
                                                         (来嶋靖生)


【平成十四年】↓

十二月の歌   藤  平  春  男  

                          しらかみ
書きさしの論文用紙白紙と残れる多し今は忘れむ  (昭和万葉集) 


     作者は当時早稲田大学の学生であった。昭和十八年の「槻の木」十二月号に掲載さ
    れた歌。戦争末期、学生たちは学業を捨てて戦地におもむいた。書くはずであった論
    文もまだ書き上がっていないが、今はそれを忘れて出陣しなくてはならぬ。「白紙と
    残れる多し」に学問への思いがこもる。作者は幸いに復員、短歌の創作からは離れた
    が、後、早稲田大学教授となり、和歌史、とくに歌論研究の第一人者となった。窪田
    空穂記念館の設立のためにも大きな力となり、早稲田大学と空穂会、窪田家とを結ぶ
    強力なパイプ役を果たされた。不幸、病を得て平成七年長逝された。著書数多く、そ
    の学問的業績はいうに及ばず、和歌文学界に測り知れぬ大きな足跡を残された。この
    歌は作者青春の一齣を伝えるもの。作品の『昭和万葉集』掲載の諒解を得ようと電話
    したとき「じゃあぼくも万葉歌人というわけですね」と明るく笑われたことを思い出
    す。「槻の木」のためにも長生きしていただきたかった先輩である。 (来嶋靖生)


十一月の歌   宮  柊  ニ  

                むないた            あはあは
硝子戸越しわが胸板に射して来つ淡々し霜月十二日の夕日 
                                   (晩夏)

     昭和二十三年(一九四八)十一月十二日、極東国際軍事裁判法廷はA級戦犯者に対
    し判決を下した。被告のうち二名は病死、一名は発狂、残る二十五名は絞首刑七名、
    終身禁錮十六名、禁錮二十年、七年各一名であった。作者は「砂光る」と題し、詞書
    をつけて「重ね来し両手(もろて)を解きて椅子を立つ判決放送の終りたるゆゑ」に
    始まる十一首の歌を詠んでいる。当時テレビはなく、多くの人はラジオの前に座って
    この判決放送を聞いた。作者の判決に対する意見は示されていない。が、その重苦し
    い気持は掲出の歌から十分に察しられる。私は学生時代、外交史のゼミを選択してい
    たが、指導教授のI先生は、あれは勝者の一方的な裁判であり、正しい裁判とは言え
    ないと、当時から公然と批判しておられた。学生たちは、戦争を指導し多くの国民を
    死に追い込んだ人たちが死刑になるのは当然と、教授に対して反発していたが、今思
    うと教授の言にもっと耳を傾けるべきだったとも思う。政治的・社会的な出来事を詠
    むのはむずかしいが、この連作は一つのあり方を示し、きわめて示唆的である。
                                    (来嶋靖生)


十月の歌   富 小 路 禎 子 

                                   から
都より飢ゑのがれ来し宿屋づとめ鹹き干魚を職場にせせる 
                               (未明のしらべ)

     この歌が十月の歌にふさわしいかどうか心許ない。考えあぐねているうちに、今月
    は富小路禎子の歌にしようと思い至ったに過ぎない。作者については説明するまでも
    ない。今年一月に亡くなった現代女流第一線にあった人。「沃野」の代表として本誌
    とも縁は深かった。多くの歌集があるが、私はやはり第一歌集『未明のしらべ』に強
    く惹かれる。とりわけ生活と戦う初期の歌が佳い。後記に「三年ばかりの間に六度住
    居を変へ、転々と六つの職を移り歩きました」と自ら書く。年譜にはそのうち四つの
    職場の名が列挙されている。ここに掲げた歌はその四つめにある「千葉県白浜旅館」
    のことであろう。「ある処女」と題する二十二首の歌のうちの一首。旅館勤めのあり
    のままを詠んで力強い。「過去一切を棄てて漁場の旅館(やど)に来し処女にはすで
    に怖づるものなし」という歌もある。旅館勤めも立派な職業であるが、当時の世情や
    彼女自身の過去からは落魄の思いはあったであろう。しかしそれに屈せず、歌を詠み
    続けた。それが歌人富小路禎子となって花ひらいたのである。    (来嶋靖生)


九月の歌   森   伊 佐 夫 

みたび                               じやうやま
三度来て師の歌碑の前に佇ちにたり城山の空を行く今日の雲 
                                 (しのたけ)

     作者森伊佐夫は「槻の木」同人。窪田空穂の全作品の総索引を作り、『窪田空穂著
    作集』(PL出版社)や『窪田空穂全歌集』(短歌新聞社)などを編纂、先月の村崎
    凡人とともに空穂研究の基礎を築いた人。師を思う心深く、右の仕事はすべて、まさ
    に宗教的といってもよいほど真摯かつ敬虔な態度で果たされた。晩年は折に触れて上
    京、必ず雑司ヶ谷墓地の師の墓に詣り、帰途神田の古書店街を一巡した後、夕刻から
    勉強会(穂の会)へ顔を出されることが多かった。長く静岡で教職にあり、文法の知識
    は抜群で、私たち後輩はどれだけ蒙を啓かれたか知れない。たまに古書店で、空穂著
    作の初版本を見つけると即座に購入、私の会社に現われて、ぼくは持っているから君
    にあげるよ、と気軽に下さるのであった。ちなみに森さんの蔵書のほとんどは、没後
    夫人の手によって松本の窪田空穂記念館に寄贈された。歌はここに見るように平明温
    雅、気取りのない詠み口に高雅な気品を湛えている。詠まれている歌碑はもちろん空
    穂の「鉦鳴らし」、松本市城山公園に建っている。平成三年一月没。 (来嶋靖生)


八月の歌   村 崎 凡 人 


戦争はかくて終わりぬ瀬戸の海小豆の島に遍路鈴振る (風俗)


     作者村崎凡人は徳島の生まれ、早大に学び、在学中から「槻の木」に加わり、主要
    同人として一生を貫いた。戦時中は満州からフィリッピンへ転戦、生死の間を彷徨し
    たが戦後無事に帰還、のち徳島女子大学理事長。掲げた歌は復員後、訪れた小豆島で
    久しぶりに遍路の振る鈴の音を聞き、しみじみと戦争終結を実感したというもの。昭
    和二十八年に刊行した著書『評伝窪田空穂』は、空穂から直接聞いた膨大な話をもと
    に、多くの関係者からの取材や綿密な調査を重ねて成ったもの。空穂研究の嚆矢とさ
    れ、いまも後進に多くの影響を与えている。作品はその人柄の通り明朗闊達、とらわ
    れるところなくのびのびと詠む。戦中詠を集めた『キャンガン付近』(のち『比島戦
    記』として改編)『風俗』があるが、その後の歌集『市井』が未完のままなのが惜し
    い。私たちには頼りになる先輩で「定時発車」つまり雑誌の定期刊行を会うたびに強
    調していた。いまの「槻の木」を見ていただけないのが残念でならない。
                                    (来嶋靖生)


七月の歌   都 筑 省 吾

                             
入谷の朝顔市の朝顔のわが家に来たり梅雨いや深き (星の死)

     昭和五十八年の作。入谷(いりや)の朝顔市は七月六日から八日まで、東京入谷の
    鬼子母神境内で行なわれる。作者省吾は端午の節句の菖蒲湯や朝顔市など、季節季節
    の行事をことのほか愛(め)で、しばしば歌に詠んでいる。青春期を上野で過ごした
    作者にとっては朝顔市には格別の思い入れがあったことだろう。「我が家に来たり」
    とあるが、おそらく作者の好みを知る夫人が、入谷に赴いて買って来られたものであ
    ろう。しかもこの何日か前には、三月三十一日に亡くなった親友尾崎一雄の百ヶ日の
    集まりがあり、出不精の省吾にしてはめずらしく丸の内の会場へと出掛けている。
    「丸の内梅雨の雨降り街路樹と行き交ふ人と珍し我に」「一雄夫人にあひ淵
(ふかし)
    夫人にあひ友らにあひ一雄百ヶ日の今宵の集ひや」と詠んでいる。亡き友を偲び、
    尾崎一雄夫人、浅見淵夫人たちに会い、旧友たちと一夕をともにし得た作者の心のた
    かぶりが伝わってくる。上野桜木町時代、いわば槻の木揺籃期のくさぐさが、この朝
    顔市と一雄百ヶ日の歌から蘇ってくるのだが、それは私ひとりの勝手な読み方かも知
    れない。                            (来嶋靖生)

六月の歌   岡 井  隆 


         をばやし                                             へ  
旗は紅き小林なして移れども帰りてを行かな病むものの辺に
                            (土地よ、痛みを負へ)

     一九六〇年六月、日米安全保障条約並びに日米行政協定の改訂批准を強行しようと
    する政府に対し、全国的に反対する運動がおこった。槻の木の仲間にも、国会周辺を
    はじめ各地のデモに参加した人は少なくないと思う。六十年このいわゆる六十年安保
    闘争は戦後政治史だけでなく戦後短歌史の上でも大きな意味を持つ。すでに萌芽を見
    せていた新しい短歌運動がこれを機に大きく進展し、方法の変革をめざすさまざまな
    実験が試みられた。岡井隆の歌はそれらの最先端を行くもので数多い問題作を提出し
    た。「赤い小さな林のように見えるデモ隊の旗は移動を始めた。 私もそれに参加し
    て行きたいが医師であるからには病者を守らなくてはならない、心は残るが病者のも
    とへ帰って行こう」この「小林」は万葉集以来用いられている古語である。また「帰
    りてを行かな」の助詞「を」の使われ方もめずらしい。だがこの表記はこの歌にとっ
    て必然である、また古語を現代に生かしたみごとな例と思う。見かけの新しさだけが
    革新なのではない、古語はつねに現代語でもあるのだ。       (来嶋靖生)



五月の歌   与 謝 野 晶 子 


     さつき  フ ラ ン ス                      コク リ コ        コ ク リ コ  
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟
                                (夏より秋へ)

     あまりにも有名な歌。「フランスの野には真っ赤な雛罌粟の花が咲き乱れ、まさに
    火の海のようだ。それはあなたを思って遠く日本から駆けつけて来た私の心であり、
    あなたの心でもある」。明治四十五年(一九一二)五月、与謝野晶子はパリに到着し
    た。前年十一月、単身ヨーロッパに向けて旅立った夫の寛を追って、シベリア鉄道経
    由ではるばる辿り着いた。「三千里わが恋人のかたはらに柳の絮(わた)の散る日に
    来る」とも詠んでいる。結婚後すでに十年以上経ている二人だが、遠く離れてみると、
    それはまさに恋人同士のような新鮮な慕情となったのであろう。当時のヨーロッパは
    日本から見れば遠い遠いところであった。四、五句が歯切れよく、再会のよろこび、
    弾む気持が表れている。なおコクリコはひなげし。雛罌粟の字が当てられる。罌の字
    は粟を入れる瓶、ケシの実は胴が丸くふくらみ、その罌のように見えることによると
    いう。なお初句の類似として北原白秋『桐の花』に「ああ五月(さつき)蛍匍ひ出で
    ヂキタリス日々に汗ばむ草いきれたつ」がある。          (来嶋靖生)



四月の歌   土 岐 善 麿 


遠山に いちめんにかがやく四月の雪 職業といふものの変へがたきかも
                                 (街上不平)


     四月というと必ず思い出す人々がいる。とくに十二日から十五日まで、身近な歌人
    が何人も亡くなっている。十二日・窪田空穂、十三日・石川啄木、十五日土岐善麿、
    稲森宗太郎、窪田章一郎。だから桜が咲くのはうれしいけれども、時に蕭然となるこ
    ともある。ところで善麿は、その歌の中に三月や五月は多く詠み込んでいるが、四月
    は実に少ない。ここに掲げた歌は大正のはじめ、まだ三十代の作者が新聞記者として
    もっとも繁忙を極めていた頃の歌。何か事件が発生するとすぐに現場へ急行する。歌
    の上では沼津へ向かったり宇都宮に駆け付けたり、まさに飛び回っている感じである。
    当時のことゆえ自動車は数少ない。もっぱら汽車である。深夜の汽車に飛び乗って、
    途中車窓から街を見たり、物思いにふけったり、歌を詠んだりしている。夜昼のない、
    私生活目茶目茶の職業に、つい愚痴を言いたくなるときもあろう。しかし決して嫌が
    っているわけではない。善麿は一時、新聞記者をやめてパン屋になろうと思ったと、
    後年語っているが、どの程度のものであったろうか。(原作三行)  (来嶋靖生)



三月の歌   熊 重 真 太 郎 


三千余人焼死のままに扉は閉ざす明治座のめぐり人影あらず
                              (『昭和万葉集』)


     昭和二十年(一九四五)三月十日深夜、アメリカ空軍B29三三余機の大編隊が東京
    上空に侵入、深川、本所、浅草、日本橋など下町一帯に無差別絨毯爆撃を繰り返した。
    周辺部をまず爆撃、ついで中心部へと投下範囲を絞ったために人々は避難路を断たれ、
    死者約百万人、負傷者はその数倍に及んだという。この歌はその夜、日本橋明治座に
    避難した人たちが閉ざされた扉から出られず、焼死者は二千人(歌では三千人、五千
    人ともいう)に達した。作者は翌朝現場に駆け付け、骨灰の山となった惨状を目撃、
    この歌のほかにも「焼死者をトラックに積む兵卒ら無造作なり荷物扱ふごとく」とも
    詠んでいる。昨年九月のニューヨークのテロ事件以後、再びアメリカは戦争をはじめ
    た。私たち日本人は、戦争で何百万という同胞を失った。無力の非戦闘員に無差別絨
    毯爆撃を平気で行ない、その指揮官を表彰した国の大統領が、テレビ画面で報復を怒
    号する顔、とても人間とは思えない。アフガンでも同じことを繰り返している。熊重
    真太郎は「沃野」に所属。長く小学校教員を勤めた。        (来嶋靖生)



二月の歌   大 岡  博


花あまたもつ寒木瓜の枝たわめ遊ぶ雀を見てゐる雀(春の鷺)


    昭和五十二年二月の作、作者古希を迎える直前である。体調はあまりすぐれない。
    このあと四月四日に入院、かの名作「浪の秀(ほ)に裾洗はせて大き月ゆらりゆらり
    と遊ぶがごとし」を含む「清明節」七首が詠まれる。掲出歌、描かれているのは寒木
    瓜と雀。「遊ぶ雀を見ている雀」がおもしろい。見ている雀と同じ眼で作者は遊ぶ雀
    を見ている。雀は作者の好きな素材で、翌年にも「身を沈めはつかに首を覗かせて思
    案するふりしている雀」があり、この雀も微笑ましく描かれている。静岡県三島市に
    あつて、「菩提樹」を創刊、堅実で冷静、骨のある作品を詠み続けた。いつの頃か、
    私は大岡博の「含羞について」という文章を読み、深く感銘したことを覚えている。
    博は、自らの非力を自覚すること、未熟さへの含羞があって、始めて短歌は生まれる
    もの、と言っている。この背後にある深い思索を私は思う。作者の二月の歌としては
    「わが胸の底に満ちくる汐なして二月ゆふべのうす青き空」(童女半跏)という美し
    い歌もある。五十六年死去。大岡信氏の父。          (来嶋靖生)



一月の歌  都 筑 省 吾

お正月はどこから来るのと吾子の問ふ野越え山越え電車に乗りて
                                   (入日)

      昭和二十六年、作者五十一歳。問いかける子はまだ二歳と数月の女の子。作者に
    とってははじめての子である。女の子は、机に向かって原稿を書いている父のそばに
    やってきて、何かと話ししかける。お正月はどこから来るの?表情は真剣である。父
    親はペンをおいて、かたわらの火鉢に手をかざし、やや当惑しながら、にこにこ笑っ
    て、一所懸命答える。長い間家庭というものに無縁な生活をして来た不馴れな父親の
    説明に、女の子は納得したであろうか。そして次に「いろはがるた抱へきたりて読め
    と言ふ読みやりをればつまらなくなれり」が続く。つまらなくなったのは女の子のほ
    う。無理もない。ここにある歌、飾り気もなく衒いもなく、純真な気持ちで詠まれて
    いる。作者の他の歌とは違うやさしさ、明るさ、そして夢がある。当時としては晩婚
    の作者、生れてきた「あかんぼ」は驚異の対象であり、新鮮なこどもの歌を多く詠み、
    歌境を大きくひろげた。ところは東京豊島区雑司ヶ谷のアパート三浦荘。「槻の木」の
    歴史を語るには欠かせない「歌枕」である。           (来嶋靖生)


【平成十三年】↓

 

十ニ月の歌  窪 田 空 穂

学徒みな兵となりたり歩み入る広き校舎に立つ音あらず(冬木原)


     第二次大戦末期、早稲田大学構内での歌。「兵となりたり」はいわゆる「学徒動員」
    を指す。昭和十八年十月二日「在学徴集延期臨時特例」が公布され、大学等に在学中
    の学生の徴集延期の特例は廃止となり、男子は皆一様に兵役につくことになった。テ
    レビでたびたび回想番組が放映される通り、十月二十一日激しい雨の中、東京神宮外
    苑競技場で出陣学徒の壮行会が行なわれた。そして陸軍は十二月一日、海軍は十二月
    十日、大多数の学生の入隊が実施された。人影まばらとなった大学には、兵役に堪え
    ない病弱の学生たちだけが残された。空穂は詠む。「いささかの残る学徒と老いし師
    と書に目を凝らし戦に触れず」また「ここに逢ふ人のすべては口結びものにこらふる
    面持をせり」。「ものにこらふる面持」が鋭い。当時空穂は『万葉集評釈』を執筆中
    であった。空穂は「出陣した学徒の代わりに学ぶという意識で机に向かった」とのちに
    語っている。十二月は、対米英蘭との開戦の月でもあり、戦争によって大学が圧殺さ
    れた月でもあり、いやな記憶の残る月である。           (来嶋靖生)

 

十一月の歌  北 原 白 秋

          ボ  ア 
ふくらなる羽毛襟巻のにほひを新しむ十一月の朝のあひびき                           
(桐の花)


     白秋青春の歌として名高い。少年時代にこの歌をはじめて読んだ時「羽毛襟巻」
    にボア、とかなが振ってあるのに新鮮な驚きを感じたのを覚えている。このように、
    外来語に漢字を宛てて意味を推察させたり、近い音を漢字にしたり、また漢字熟語
    に和風のかなをふって情緒をもたせたり、白秋は『桐の花』でさまざまな試みをみ
    せている。金絲雀
(カナリヤ)、湯沸(サモワル)、歇私的里(ヒステリー)、自鳴鐘(めざまし)
    単調(ひとふし)などである。これらのすべてを白秋が使い始めたとは言えないが、
    この試みは当時、きわめてハイカラな印象を与えたのは事実であり、程度の差はあ
    るがその影響は今日まで及んでいる。柳田国男は「歌にルビを振るなどべらぼうな
    こと」と言っているが、それは極論としても、ルビの功罪はいまも相半ばしている。
    白秋は、十一月にはとくに思い深かったと見え、同じ『桐の花』の「哀傷篇」に
    「十一月は冬の初めてきたるとき故国
(くに)の朱欒(ザボン)の黄にみのるとき」が
    ある。なお掲出歌の「新しむ」は「新鮮に感じる」の意と思うが、『広辞苑』など
    には「可惜
(あたら)しむ」はあるが「新しむ」は見当たらない。白秋の造語であろ
    うか。                            (来嶋靖生)


十月の歌  川 崎 杜 外


野の草の色づき枯るるもの見れば土に朽つるものはみな静かなり


      このうたは十月に詠まれた歌ではないが、ここでは「国民文学」の母体となった
     「十月会」に触れたく、杜外の歌を掲げた。明治三十八年(一九〇五)十月、当時
     「電報新聞」短歌欄に投稿していた少年たちが、選者窪田空穂のもとに集まって結
     成した会、それが十月会である。その十月会が発展して大正3年「国民文学」が生
     まれる。主なメンバーは高瀬淡嶺(俊郎)半田暁声(良平)植松寂寥(寿樹)田中
     静潮(対馬完治)山下芳葉(要)らで、これに兄貴分のような形で参加したのが川
     崎杜外であり、宗耕一(不旱)であった。杜外は明治十七年松本市に生まれ、小学
     校の教員であったが、勤務先の和田小学校に太田水穂が校長として赴任して来たこ
     とが契機となり、水穂や空穂の「この花会」に参加して歌を詠むようになった。赤
     彦・水穂の『山上湖上』には杜外の歌も掲載されており、松本の空穂系歌人として
     は大きな存在で、生業の新聞記者の傍ら、後進の指導にもあたった。この歌は空穂
     の筆による歌碑となって松本市内蟻ヶ崎の塩釜神社境内に建っている。昭和九年没。
                                     (来嶋靖生)

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短歌会雑誌「槻の木」の巻頭には、毎号来嶋靖生先生が「今月の歌」を執筆されています。このページでは、
先月号までの「今月の歌」を、先生のご了解のもとに転載しています。先生の解説とあわせご鑑賞下さい。