武市半平太(瑞山)誕生から切腹までの一生・早分かり年表 |
半平太誕生 | 1829年9月27日 文政12年 |
武市半平太( 瑞山・ずいざん)幼名は鹿衛 高知市仁井田に生まれる。変名は柳川左門 |
20才 | 1849年 | わずか20歳で城下の新町で剣術道場を開く道場の門下には中岡慎太郎、 岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となる |
27才 | 1856年 | 江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる この時代180cmの大男じゃった、 |
32才 | 1861年 | 江戸で土佐勤王党を結成 龍馬は9番目に加盟・龍馬とは遠戚で7歳年上, 龍馬はアゴが角ばった半平太のことをアゴと言いよったと、 |
33才 | 1862年 | 開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握 |
1863年1月 | 郷士の白札から上士格留守居組に出世 | |
1863年8月 文久三年 |
長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した文久の政変が起きた | |
34才 | 1863年9月 安政元年 |
長州藩が力を失い幕府を押す土佐藩の容堂が武市半平太をはじめ尊王派を次々に投獄 |
36才 | 1865年安政二年 | 「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられ 誰も為しえなかった三文字の壮絶な切腹をした享年36才 |
、 | 、 | 高知市にある半平太(瑞山の旧宅と墓所は国の史跡に指定されている。 |
、 | 1867年慶応三年 | 10月3日、土佐藩が大政奉還建白書を幕府へ提出11月15日、京都で龍馬・慎太郎と共に暗殺される |
、 | 1868年明治元年 | 新政府、「船中八策」を基にした「五箇条のご誓文」を発表する。 |
明治元年 | 1868年明治元年 | 龍馬が暗殺された翌年3月、新政府、「船中八策」を基にした「五箇条のご誓文」を発表する。 |
山内容堂は半平太を切腹させたことを悔やみ 病床で (半平太許せ)とうわ言を言ったとか |
半平太(瑞山)の切腹した場所は ひろめ市場の南西 四国銀行帯屋町支店付近で碑があるきね、 場所はここ |
半平太は月形半平太のモデルにもなり 戦後時代劇のトップスターが演じちょります。 |