龍馬と出会い育んだ人々の生没年と龍馬が出会った年 |
河田小龍 | 土佐藩船役人、絵師。安政元年(1854)の11月頃、龍馬は土佐城下随一の知識人・河田小龍を訪ねた。 小龍が漂流民・ジョン万次郎を取り調べて書いた「漂巽紀畧」に興味があったからだろう。 小龍は、「外国船を購入して東西に航行させ、金儲けをしながら航海術を身につける。そして、その利益を もってこの国を建て直すべきだ」と説いた。これを聞いて感服した龍馬は、のちに小龍の弟子である近藤 長次郎や新宮馬之助らと亀山社中を結成し、小龍の思想を実現させている。小龍は明治31年、75歳で亡く なった。 |
武市半平太 | 土佐藩白礼。土佐勤王党の盟主。龍馬と遠戚だった。文久元年(1861)8月、江戸で土佐勤王党を結成 し、帰国後、一番最初に龍馬に声をかけた。しかし龍馬は土佐での活動に限界を感じ、文久2年(1862) 3月に脱藩した。その直後、土佐勤王党は献策を退け続ける吉田東洋を暗殺し、藩内で大きな力を持つよう になる。だが前藩主の山内容堂が土佐勤王党の弾圧を開始すると、武市は投獄され、慶応元年(1865) 閏5月に切腹させられた。36歳 |
中岡慎太郎 | 土佐藩大庄屋。龍馬の陰に隠れがちだが、実は龍馬よりも早く薩摩・長州の和解に向けて活動していた。 文久元年(1861)、土佐勤王党に17番目に加入する。ちなみに龍馬は9番目だった。しかし 勤王党の幹部が捕縛されると脱藩し、長州に逃れた。その後、西郷隆盛と会談して薩長和解の可能性を 見出し、同盟の締結に奔走した。慶応3年(1867)、脱藩罪が許されると陸援隊の隊長となり、 武力討幕を推進する。京都の近江屋で龍馬と共に暗殺された。30歳 |
近藤長次郎 | 商人。亀山社中の隊士。餅菓子屋の倅(せがれ)で、同志から「饅頭屋」のあだ名で呼ばれていた。 土佐で河田少龍や岩崎弥太郎に学び、江戸で安積良斎に入門している。蘭後を学び、少し英語も 話せたという。長州藩のために薩摩藩の名義を借り、英国商人グラバーから武器や艦船の買い付けに 成功した。これにより長州の薩摩へのわだかまりは氷解し、薩長同盟への足がかりとなった。しかし 慶応2年(1866)1月、英国への密航計画を同志に咎められ切腹する。29歳 |
岩崎弥太郎 | 土佐藩地下浪人。三菱財閥の創始者。安政元年(1854)江戸の昌平校で学んだが、父が投獄されると 帰郷し、役人に抗議したため投獄された。その後、追放され、謹慎中だった吉田東洋の少林塾に入門する。 慶応3年4月、長崎の土佐商会に赴任し、商務の主任となる。また責任者である長崎留守居役になって龍馬 と交流した。海援隊の給料(1人月5両)は弥太郎が窓口となって支給している。維新後、土佐商会を 譲り受け三菱商会を創設し、三菱財閥の基礎を築いた。明治18年に52歳で病没した。 |
後藤象二郎 | 土佐藩参政。慶応3年(1867)1月、龍馬と後藤は長崎の料亭で会談したが、この時の二人は敵同士 だった。龍馬が以前加盟していた土佐勤王党が後藤の義叔父・吉田東洋を暗殺していたし、後藤は龍馬 の遠戚だった武市半平太を断罪したからである。しかし、両者は旧怨を捨てて手を結んだ。龍馬は土佐藩 のバックアップを得て亀山社中を海援隊に発展させ、後藤は「いろは丸事件」や「イカルス号事件」で 龍馬を助けた。また後藤は龍馬の代わりに「大政奉還」と山内容堂に上申し、実現への道筋をつけた。 明治30年に病没。60歳。 |
勝海舟 | 幕臣。文久2年(1862)秋頃、龍馬と千葉重太郎は海舟に会いに行った。当時、海舟は軍艦奉公並と いう幕府高官で、龍馬らは開国派の海舟を斬ることが目的だったという。しかし西洋事情を聞かされ、 「日本に必要なのは、軍艦とそれを操縦する船員である」という主張に感服した龍馬は、その場で弟子 入りした。海舟の弟子となり、龍馬はその人脈を得ている。戊辰戦争が始まると、海舟は西郷隆盛と 会談し、江戸城の無血開場を実現させた。明治32年に77歳で亡くなる |
大久保一翁 | 幕臣。安政元年(1854)、老中の安部正弘に抜擢されて海防掛となり、勝海舟を登用した人物で ある。しかし、その先見の明を他の幕閣に危険視され、左遷と復職を繰り返した。龍馬は一翁を訪ね た時、その話を聞いて手を叩かんばかりに歓喜したという。おそらく一翁は「大政奉還論」を説いた のだと思われる。一翁は文久2年頃から大政奉還を唱えていた。その後、江戸城無血開城に尽力し、 維新後は東京府知事などを歴任した。明治21年に72歳で亡くなる |
西郷隆盛 | 薩摩藩士。龍馬は西郷に会った時の第一印象を勝海舟に「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば 大きく響く」と語っている。その数ヶ月後、師である海舟が失脚し、路頭に迷った龍馬は薩摩藩の 庇護を受けることになり、西郷と強く結びついた。そして龍馬は、犬猿の仲だった薩長に軍事同盟 を結ばせるが、薩摩藩の責任者が西郷だった。その後、西郷は「武力討幕」に進み、龍馬は平和的 な倒幕である「大政奉還」を目指して、お互いの進むべき道は違う物になっていった。明治10年 (1877)、西南戦争で戦死する。51歳 |
横井小楠 | 熊本藩士。福井前藩主・松平春嶽の政治顧問。春嶽から紹介されて小楠を訪ねたが「積極的に開国 して国力をつけるべき」「武士も商業活動を行わなければならない」と聞かされ、その考えに衝撃 を受けた。龍馬がのちに亀山社中や海援隊という商業隊を結成したのは小楠の影響が大きかった。 龍馬は2年半の間に5回も訪ねて教えを請うたが、小楠が幕府に建白した「国是七条」をアレンジ して、新国家の政策案である「船中八策」と作っている。明治2年、京都で刺客に暗殺された。61歳 |
陸奥宗光 | 紀州脱藩。海援隊士。文久3年(1863)ごろ、龍馬に勧められて神戸海軍総練所の練習生になった という。その後、亀山社中に加入し、海援隊にも加わった。龍馬から「商法のことは陸奥に任せる」、 「海援隊の連中は大小の刀を取り上げれば路頭に迷う奴ばかりであるが、陸奥陽之助(宗光)だけは 食うのに困らない男である」と高く評価されている。龍馬が暗殺されると、仇討ちのために天満屋を 襲撃した。明治政府では外務大臣になり、不平等条約の撤廃に活躍する。明治30年、54歳で亡くなった。 |
桂小五郎 (木戸孝允) |
長州藩士。無用な争いを好まなかったため、「逃げの小五郎」というあだ名を持つ。龍馬はそんな桂 のことを、「当時長州に人物なしといえども、桂小五郎なる者あり」と称賛している。慶応元年 (1865)閏5月、龍馬は桂を西郷隆盛の会談を実現させようと桂に会った。そして紆余曲折は あったが、翌年1月に薩長同盟が結ばれた。維新後、「五箇条の御誓文」の作成に関わり、廃藩置県 に尽力した。また岩倉使節団の副使も務めたが、明治10年、45歳で病死した。西郷、大久保利通と ならび「維新の三傑」と呼ばれている。 |
坂本乙女 | 龍馬の姉。幼少期の龍馬は軟弱な少年で、10歳を過ぎても寝小便がなおらなかったという。また身分の 高い武士の子とケンカした龍馬は、わずか半年で塾を辞めさせられてしまう。そんな弟を一人前の男に しようと乙女は剣術や読書を叩き込んだ。身長176センチ、体重は112キロの大女で、あだ名は 「坂本のお仁王様」だった。そして姉のスパルタ教育のおかげで龍馬はたくましく育っていた。 龍馬の手紙で最も多く残っているのは乙女宛である。明治12年(1879)、49歳で亡くなった |
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