昔のパソコンとノンリニア編集


平成15年 新しいバイオ

 仕事用のデスクパソコンとして購入したのが、SONYが新しいコンセプトで開発したバイオWシリーズです。ノートはキーボードが使いづらいしLa13は調子悪いので、机上を広く使えるパソコンを考えていたところに、このバイオWはドンピシャでした。標準の機能で、キーボードもたためるので、使い勝手はノート以上です。ただ、せっかくのテレビ機能は使うこともなく、リモコンは一度も使ったことはありません。また、MXSのところでも書いたとおり、SONY独自のソフトは使い物になりませんが、これも価格に反映されているわけです。このようなネットワーク活用時代に逆行するSONYの姿勢に、中学生以来もっていた熱い信頼も冷え切りました。
 仕事用としては、使いやすいパソコンなのですが、自分のまわりの機械を壊すと自認している女性が隣席となってから、時々画像が乱れるようになってしまいました。リカバリしても無駄でした。恐るべしエリザベス

平成14年12月 PDAに初挑戦

 旅行や出先でのメモや情報管理という点で興味を持っていたPDAも、年末の済州島旅行での使用を考えて「クリエPEG-NX70V」を平成14年12月に発注しました。夏の江原道旅行でのデジカメ故障の経験から、予備のサブカメラ(最低30万画素)の必要性を痛切に感じて、最初は携帯電話のカメラ付き機種へ変更を考えましたが、ドコモで聞くと4万円近くかかるということです。それならいっそ入出力に秀でるPDAかな!ってことで、決めたわけです。バイオUも考慮しましたがカメラはなく、バイオC1はでかすぎる。小さいデジカメも考慮したのですが、結局、このPDAの31万画素CCDカメラにしました。音声付きの動画も連続で撮れるので、言葉の分からない旅のメモ用マルチメディアとしては最適です。画面は、320×480ドットハイレゾ液晶で、OSはPalmOS5、CPUはインテルPXA250(200MHz)、ちょっとかさばるけど、キーボードもあって文字入力もスムーズにできます。通信カードで、ダイレクトにインターネットにアクセスしたり、ワイヤレスLANにアクセスしたりすることもできますが、それは私の住むところでは日常的に使えそうもないので今回はパス。本当はクリエ用のGPSもつける予定でしたが、インターネットで調べる限りかなり遅いらしいのと、地図ソフトも含めた使い勝手が未知なので、まだ待つことにしました。
 しかし、済州島〜釜山旅行でのトラブルの結果と、携帯電話用キーボードの購入で使うことがなくなり、リサイクルバザーに出したところ、中学生に買われていきました。

平成14年7月、VAIOでDVD活用開始

 平成14年、職場が変わってバタバタする中、ビデオ編集用のでかいAVIファイルが、HDDにたまりにたまって、DVD−Rの活用を考え出しました。また、DVDレコーダーにも慣れ、パソコンでDVD製作にも見通しがついてきました。また、パソコンでの音楽データ整理も始めようと、MDの使える2台目のVAIO「PCV−MXS3」をソニースタイルで購入しました。このパソコンの仕様は、ペンティアムW1.8GHzに768MBのRAM、240GBのHDDとCD/DVD-R,RW、NetMD、メモリースティックスロットまで装備し、専用の本格的なスピーカーまである、この時点で最強のマルチメディアパソコンです。  CPUもメモリもHDDも余裕のスペックで、ビデオ編集もサクサク...という日々のはずでしたが、撮りためたAVIファイルが圧縮形式の問題で処理できず、仕事や韓国ページの作成で忙しかったこともあってあまり使いませんでした。しかし、アドビプレミア6.5の購入でAVIの問題も解消し、11月半ばからDVDの作成に使っています。ディスプレイは、イイヤマの21インチで見やすいのですが、慣れてくるとビデオ編集するには2つのディスプレイがほしくなります。WindowsXpは、2000と比べれば予想してしていたより使いやすくて安定していますが、どちらにせよビデオ編集には時間がかかります。簡単に編集してDVD一枚焼くのにも丸一日かかってしまいます。そのうちDVDビデオの作品作りは、動画の編集だけをこのPCでやって、DVDレコーダーで焼くようになりました。
 さて、問題は、音楽や映像の総合プラットホームとして期待していたSONYのソフトです。著作権保護の姿勢は結構ですが、ソフトにガチガチに独自の制限がかけられていて使いづらいのです。どうも、他のパソコンや機器との活用は考えていないようなのです。MDなんか、他で録音したものは全く編集できないので、結局全く使わなくなって、今では壊れて本当に使えなくなってしまいました。ソニックステージという総合プラットホームも、ファイルがどこにどのような形であるのかわかりにくいし、ファイルの出し入れも制限があって結局使わなくなってディスクトップからも消してしまいました。ただ、アンプはさすがSONYといえるもので、一時、LS3/5Aを繋いで使っていましたが、すばらしい音を聴かせてくれました。

平成12年10月、WindowsMe機への移行

 平成12年後半ともなると、私の標準使用パソコンであるPC9821Xv20では、もういかんともしがたい時代との差が感じられるようになりました。大きな画像を扱う際のペンティアム200MHzの非力さと、窮屈なHDD、さらにDVDの普及もあって、そして98系最終OS(WindowsMe)発売を機についに買い換えを決断しました。そして選んだのが、SOTECのM381AVです。これは私のネット購入第一号ともなります。SOTECのアンケート形式の注文書にこちらの希望を書き入れるとすぐに価格が提示され、それを送信すると数日で注文確認の葉書が来て、入金10日ほどでこのパソコンは到着しました。
 このパソコンは、ペンティアムV800MHzに256MBのRAM、60GBのHDDとCD-RW,DVD-ROMの2連装、モデム、LANポート、IEEE1394ポート、PCカードスロット付きでテレビも見れるという、MOを除いて現在求められるほぼすべての機能を内蔵したマルチパソコンです。ただ、ディスクトップにもかかわらず、PCIを始めメモリスロット、HDD、ドライブベイがすべて使われており、拡張性はほとんどない状態でした。しばらくXv20と平行して使っていましたが、ダイヤルアップルータ:SOHO-MN128PALへの移行と同時に平成12年10月19日、Xv20には引退していただき、完全に標準パソコンとなりました。なお、1.3GB-MOはUSB接続し、外付け60G-HDDも増設し、メール、文書、静止画用に使用していました。

平成11年秋 ついにノンリニア編集の道に引きずり込まれる

 パソコンでのノンリニア編集元年といわれる平成10年、地元のCATVとともに職務でDV編集の仕事をする事になり、ノンリニア編集の技術を目の当たりにしました。そして、職場のビデオなどの整理の必要もあって、DVノンリニア編集のできるパソコンの購入を計画しました。もっているDVカメラがPanasonicなので、DV-Raptor搭載DOS/Vか、SONYのPCVシリーズか悩みましたが、ついにPCV-R70を注文しました。しかし、発売3ヶ月目にもかかわらずR70は生産終了。次機種であるPCV-R71L5(H11.02発売)を10月下旬に発注して、ついに11月13日に購入となりました。このパソコンはPentiumV600MHzのCPU、27GのHDD、ギガポケットというTV番組記録ソフトもつき、アドビプレミア5.1で高度なノンリニア編集もできる当時最先端のPCです。さらにRAMを256MBとして、平成12年8月のライブのビデオ編集を機についにノンリニア編集を開始しました。結果、10分程度の動画編集で作業用も含め約4GB使うのでハードディスクの不足を痛感し、ハードディスクを増設し、+60Gの合計87GBとしました。
 ただ、ノンリニア編集は、膨大な時間を必要とし、後からいくらでも手直しができるのできりがない作業であることがわかりました。H24現在このパソコンはまだ生きているのですが、電源を入れることはほとんどありません。

平成9年 タワー型パソコンにも手を出す。

 より高いパソコン環境を得るため、安定したWindows95機であるNEC-PC9821Xv20をこれもアウトレットで購入しました。
 Pentium200MHzと当時の2Dビデオカードの最高峰Millenium4M、RAMはすべてECC付で96MB、HDDは3GBあるので、しばらくは性能の不満はないと思っていたパソコンでした。しかし、画像を扱うようになると、その遅さにイライラし、あっという間にHDDはパンクしてしまったのでした。
 La13とのdataのやりとりは、MaxLinkのパラレル接続で行っていて、I/ODATAのカードドックを導入し、PCカード(20M)も接続できるようにしました。しかし、職場の関係で5インチのFDDを付け、さらに640M-MOをつけたら、カードが使えなくなってしまいました。さらに2倍速のCD−Rをつけて、貴重な5インチFDD付のパソコンとして活躍していましたが、平成17年、教育用にばらして廃棄となりました。

平成8年 インターネットとサブノートに手を出す。

 1月、その当時愛媛県で唯一の一般向けプロバイダ「bekkoame internet」に加入。14.4kbpsのモデムでネットサーフィンを楽しみました。まわりにインターネットに接続している人がいないので、トラブルには四苦八苦して悩む日々が続きました。でも今考えると、パソコンネットの世界が大きく広がった懐かしい日々です。4月に転居、6月に電話回線をISDNにし、FTP接続に苦労しましたが、夏には念願のホームページを開設しました。

 そして、やはりデスクワークには軽いパソコンが必要であるので、ついにサブノートパソコン(NEC-9821La10)も買ってしまいました。しかし、1年ほどで画面が狭いというだけで、同僚に10万円で譲り、平成9年夏にはLa13をアウトレットで購入しました。
 メモリは48Mでまあまあですが、CDDとFDDが外付けなのが不便です。FDDなんか一度壊れてしまいました。でも、とにかく軽くて場所をとらないのが便利なので、旅行などでは重宝します。京都の金閣寺のISDN電話に接続して使っていて、少々雨が当たり、その後、調子が悪くなってしまい、そのうち使うことがなくなりました。

平成6年 Windows機に挑戦

 平成6年9月、Windows3.1をプリインストールしたNEC-9821Xpを17インチディスプレイとともに購入しました。
 よい音源とCD−ROMで、マルチメディア面での活用が広がるとともに、さまざまなトゥルータイプフォントを使った、表現力豊かな文書作成に大活躍してくれました。
 平成8年にはWindows95への移行しましたが、i486DX4に熱暴走の欠陥があって、インストール時に次々に出るトラブルにはとまどいました。原因が分かるまでに約1年かかり、手作りのCPUファンをつけてやっと動作が落ち着いたのでした。その後、Am786DX5-133MHzのCPUに載せ代え、56Mのメモリにし、340MのHDDを500Mをに代えるとともにSCSI-1GのHDDを加えて、2倍速のCDDを6倍速にしてこき使いました。

平成4年 ノートパソコンとの出会い

 家ではVX21が活躍していたころ、職場での活用のために40万円も使って、モノクロのノートパソコン(NEC-9801NS/E)を購入しました。80MバイトのHDD(後に120M)により、文書の管理も可能になりました。
 ※ 平成6年冬、自動車の屋根に載せたままそれを忘れて発進させ、お釈迦となってしまいました。

昭和63年 16ビットパソコンへの移行

 そのころ職場にもパソコンが導入されるようになり、時代はNECの16ビットが主流でした。そして思案の末、ついに買ったのがNEC-9801VX21でした。
 今までの倍の容量である1.2メガバイトも保存できるFDディスク装置を持ち、何と256色もの色が表示できる98シリーズのほぼ完成された機種です。一太郎Ver3やLotus123とともに本格的な文書作成と表計算を使った成績処理に活用するようになりました。(もちろんゲームも)
 このころにはパソコンの使用はほとんど仕事でしたが、サラリーマンである私は経費で落とすわけにも行かず、このペースでパソコンに金をつぎ込むことで、経済状態はどん底になりました。この当時、その貧困生活を見かねた優しい職場の同僚や上司の家で、何度も晩飯をごちそうになった時期です。
 やがて、40MバイトのHDDや1.5Mのメモリボード、さらにはCPUアクセラレータの導入で、VXはその性能以上にこき使われるのでした。
 ※ PC9801VX21は、子どものための練習機としてがんばっていましたが、平成10年夏、ついに無理がたたってお釈迦になってしまいました。

昭和60年 パソコンの仕事への活用

 昭和60年に8ビットの上位機種でディスク装置が付き、漢字が何とか使えるパソコン(NEC-8801Mk2)を購入しました。ディスプレイとプリンタで40万円ほどの購入価格は、当時の手取給料4ヶ月分であり、購入に当たってはまさに苦渋の選択でした。おかげでこのころから私の貧乏時代が始まります。
 鮮やかな色を使った画像と一太郎の前身となった「ユーカラ」というワープロソフトを使って、なんとか文書も書けるようになり、当時はまさに夢のようなパソコンでした。
 ※ この思い出のPC8801Mk2は、職場のバザーでプリンタ・ディスプレイ付きで平成7年に5千円で売られていきました。

昭和56年 パソコンとの出会い

 教員免許を取るために大学を留年しましたが、卒業単位はほぼ取っていましたので、私は5・6年生とバイトと趣味に明け暮れる人生を送ることになりました。今考えるとこの経験こそが私の多趣味と脳天気で活動的な人格を作ったのだと思います。そんなとき、兄貴が使っていたパソコン(NEC PC-8001)をグリーンディスプレイ付でもらったのです。これが、実質的な私のパソコンとの出合いとなりました。
 PC-8001は、日本初(実質的には)の本格パーソナルコンピュータでした。データはテープレコーダで保存し、メモリは32kB。文字は半角英数字とカタカナのみ。今から考えると背筋が寒くなるような性能のパソコンで、簡単なゲームや幾何学描写ができるだけですが、当時は最先端でマイコンとも呼ばれていました。私のような貧乏学生には宝の箱のようなマシンでした。
 BASICやマシン語でゲームを打ち込み、アニメの主人公を描いたり、ゲームを改造したりして熱中した懐かしきよき時代です。まず、知る人ぞ知る「スタートレックゲーム」英語版をやっていましたが、最もはまったのは「フリート・コマンダー」という海戦シミュレーションゲームでした。当時のマイコンでは、アメリカの「アップルU」という機種が高度なゲームができるというので話題になっていた時代でした。もちろん、これはあのアップル社のはじめてのヒット作です。今考えると信じられないくらい遅いパソコンなので、シミュレーションゲームを一戦するのには、丸1日以上かかりました。アクションものは、マシン語のバリア・アタック、ラリーXなどをあきもせずによくやっていました。私にはこのような時代があるので、今の子どもがファミコン類〜現代の電子ゲーム機に熱中してしまう気持ちもよくわかります。
 昭和58年に就職しても、パソコンの活用はゲームがほとんどでした。BASICで成績処理を行うプログラムを作ったりもしましたが、日本語はカタカナしか使えない時代のいパソコンでは、仕事にはまだ使いものにはなりませんでした。ファミコンもなかったこの時代、近くの小学生や中学生もパソコンでゲームをするために、よく私の家に遊びに来ていたのどかな時代でした。

 ※ PC-8001はまだ所有していて、なんとか動きます。
 ※ 初代PC-9801も8インチドライブ装置付きで所有しています。(作動未確認)

昭和54年 プログラム電卓時代

 兄よりヒューレット・パッカード・横河 関数電卓 HP 25ミニ マイクロカリキュレータというプログラム電卓(右写真)を定価の半額2万円で中古で購入したのが、私の最初のコンピュータの所有となりました。
 この電卓は、マシン語を使って簡単なプログラミングができます。当時は電卓とは単なる計算機であった時代です。工学部の専門教科は電卓持ち込み可でしたから、公式などを覚え込ませることができるのでずるく(?)活用することができました。これも実力のうちなのです。授業ではフォートランをやっていましたが、プログラミングもパンチカードの作成ばかりで、実物のコンピュータなどほとんど目にすることのできない時代でした。