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  和家敬一 書


釜倉の笠置峠

(老松乱立、春風一路、宇和の沖田を見晴らす景色いと美し 双岩村誌)

笠置の夜雨(やう)


笠置峠に今も残るお地蔵様
昔、宇和へ行く道がありました。この笠置峠は、遠方からでも目立つほどの大松が茂り、松、杉、桧などの森林におおわれ、また、山つつじの頃は特に美しく、山田薬師のお祭りの日には道せましと大勢の人でにぎわいました。秋、しば栗が色づく頃、寒さと共に山の紅葉が一段と色を染め、旅の人を楽しませてくれました。
笠置山の南側からは宇和盆地が眺められ、区画した田園に、れんげそう、菜の花と美しい造形模様を作り出し見事な春を楽しませてくれた景観も昔のことになりました
笠置峠の大松は、元の双岩小学校からでも見えるほどの大きさでした。そのそばにお地蔵様が建っています。
約二百年ばかり昔の話です。
釜倉の和家吉蔵が用事が出来て宇和へ行くことになったそうな。和家吉蔵がテクラテクラ歩いて笠置峠の大松のそばにさしかかったとき、ぼろ布に包んだものが落ちていたそうな。和家吉蔵は、なにげなく通り過ぎたそうな。
人通りの多いこの笠置峠では、この不思議な包みを見た人は、ほかにもあったそうな。ある人は、この包みが大蛇に見えたそうな。金の目玉が大きくピカピカ光っているのに驚き、走り去ったそうな。また、ある人は、大きな大きな人間位もあるようなむかでに見えたそうな。たくさんの足が全部金色に光っていたので、この怪物に襲われては大変だとばかり、力いっぱい走って通り過ぎたそうな。
和家吉蔵は、用事が終わって帰る途中、笠置峠の大松のそばにさしかかったとき、朝、見たところにぼろ布の包みがあるので、不思議に思って開いてみると、びっくり仰天、大判、小判がいっばい入っているので、おそるおそる持ち帰ったそうな。
どうしてわかったのか、暫くして落し主が和家吉蔵の家に現われた。それは、大どろぼうだったそうな。
和家吉蔵は、内心ビクビク振えていると、静かに落ち着いた口調で、
「このぜに(金)は、どうせ、おれにそなわっていなかったぜにだ。お前にやる。粗末に使うな。わかったか。」
と言うと、さっさと立ち去って行ったそうな。

この大金をたただでもらってはもったいないと考えた和家吉蔵は、笠置峠は、よく化けものや追いはぎが出て怖い峠だ。笠置峠にお地蔵様を建てて旅の人を守ってもらおうと考え、寛政六年三月(1794年)大金の落ちていた笠置峠にお地蔵様を建てたそうな。
それからは、旅の安全祈願、または、雨請のお地蔵様として恵みの雨をふらし、また、様々な病人を助けられたので参拝者が多かったそうな。
お地蔵様のお祭りの日には、露店が並び、草角力大会もあったので大勢の人々でにぎわったそうな。
和家吉蔵はお祭りの日には、お赤飯のおむすびを飯びつにいっぱい入れ、だるにお酒をたくさん用意して、みんなにごちそうされたそうな。
その頃の小判型の飯びつが二つの和家敬一(和家吉蔵の子孫)宅に残こされています。
 
お地蔵様の南側は、昭和六十年十二月に林道がつき、大松の巨大な切り株は、朽ちたまま林道のそばに横倒しになっています。
ふるさとを愛する、わたし達、六十才以上の者がなつかしく昔を偲び、幼な友達と遠足に訪れた笠置峠は、あの日の思いに、また、伝説に心を開くだけの地名となりました。
昭和二十年六月二十日、鉄道が開通してからは、笠置峠を越える人がなくなりました。
笠置峠
笠置峠を越える道は八幡浜市釜倉と宇和町岩木を結ぶ石畳の立派な道で、昔は参勤交代にも使用され、幕末にはイネ二宮敬作村田蔵六(大村益次郎)高野長英が越えている。
昭和20年笠置トンネル(鉄道)が抜けた後は次第に通るものもなくなった。
かつて峠には二軒の茶屋があったそうである。
宇和町側は峠まで林道が伸びているが、双岩側は峠までは来ていないので車で峠を越えることはできない。

内藤新作の双岩物語より 森分菫著「ふるさと双岩」 より抜粋

「やわたはま峠物語」
笠置峠篇
笠置峠紀行