oni-ga-shima page-2
date:2003/08/31(sun) |
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フェリー乗り場にバイクをおいて少し附近を散策してみることにしましょう。 写真は乗り場から徒歩で数分の所にある八幡神社。二重の鳥居が海に向けて開かれていることから海にまつわるご神体を祀った社であることが容易に想像がつく。これもまた離島ならではのたたずまいなのだろう。対岸に見えるのは屋島だ。苔のむせた石灯籠や、ユーモラスな表情の狛犬が案配良く寂びた感じを醸し出していてとても宜しい。 |
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夏の陽射しが神社の境内に色濃く影を映し出す。うるさいほどの蝉の鳴き声がよく似合う日だった。子どもの頃、夏休みには母親の郷の寂れた漁村によく泊まりに行ったことを思い出す。ひとりで汽車に乗って行くのがスリルがあってドキドキする。降りる駅を間違えないようにひとつひとつの駅の名前を良く見ながらの大冒険だった。ホームまで出迎えに来てくれているおばあちゃんに道すがらその冒険の武勇伝をさも誇らしげに話ながらおばあちゃんの家まで歩いた。そんな祖母もすでに鬼籍入りしている。 |
バイクを停めてある船着き場までの帰り道は少し遠回りをして裏路地を歩いてみた。 田舎町の宿命なのか子どもの姿を目にしない。全般的に古い家が多いのだが、すでに住む人をなくして朽ち果 てようとしている建物も目立つ。過疎化が進んでいるようでとても静かだ。 島の人にとってはコンビニも仕事もない、ひょっとしたら病院もない(実際に信号機はひとつもない。吉幾三の歌じゃないぞ)暮らしにくい島なのだろう。しかし、よそから来た僕にとってはとても希有な環境に感じる。もしもこのたくさんある廃墟のうちの一軒をもらえたら時々やってきて、この贅沢な時間を過ごすのになぁ、、、、くれないかなぁ。なんてちょっと(実はかなり)本気で思ったりしている。 小さな無人島なんてのもいいなぁ。 |
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![]() 入口に鬼が出迎える |
![]() ぱ、ぱくってる |
せっかくツーリングに来たというのに歩いてばかりではカタナに申し訳ない。そろそろ行きましょうか。 この島の最大にして唯一の観光資源といえるのがここ『鬼の大洞窟』。昭和の昔にこの島の歴史を研究した人がいたらしい。残念ながら名前はわすれてしまった。その研究者がこの洞窟を発見したというのだが(昭和5年のこと)、彼の研究によると島の最も高いところにあるこの洞窟がかつて瀬戸内海を荒らしていた水軍(つまり海賊、つまり鬼のモチーフ)の根城であるそうだ。 女木島では全ての物が鬼づくしなのだが、この鬼というのはもともと中国の物である。それが平安時代に日本に伝わってきたのだ。本来は頭に角のある凶悪な怪物という定義ではなく思想として邪悪な物を示すものであった。それがいつの間にかこの国では今のような形になって定着したのだ。現代に鬼として伝わっているのもののほとんどはこの島のように海賊であったり、山賊であったりするケースが多い。また天狗などは流れ着いた渡来人の姿を始めて見た日本人が口伝えのうちに着色してきたものであるというのが一般 的な説になっている。 フェリーの観光客と時間をずらせたので洞窟は貸し切り状態だった。入場料\500を支払い、いざ入口に向かおうとするとなかから冷たく冷えた風が吹いてくる。照りつける陽射しの中を歩いていたのでこの涼しさがありがたい。洞窟の中の湿度がすごく高い。ヘルメットのシールドに露が着いている。出口から入ってきた空気がこの水蒸気の気化熱で冷やされ入口から吹き出ているのだろう。 洞窟の中は鬼が宴会をしたと言われる大広間や、女性をさらってきては監禁していたとされる座敷牢、宝物の保存庫等々など、、、よくもまぁ、これだけでっち上げたもんだと感心するような設定で鬼の人形がディオラマで設置されている。右の写 真の鬼の石碑の口に手を入れると真実かどうかが分かると説明書きに描かれてある。盗作はいかんでしょう。それなりにキッチュでシュールな空気を醸し出している洞窟でした。 この洞窟を発見したという人の研究では、この洞窟は天然の物ではなく人が作ったものらしい。内部の形状は確かに人工的に掘り進められた洞窟のように見えるし、自然に出来た洞窟のようにも見えなくはない。しかし、ここが海賊のすみかだというのはどうも納得しがたいものがある。海賊といえど専業ではないだろう、普段は普通 の漁師であると考えるのが自然な考察ではないだろうか。だとしたらわざわざ行き来の不便な山の上に大変な思いをしてまで洞窟を作らなくても平地で住めば良いと思うのだが。タケダの仮説ではこの洞窟は内部の表面 が全て岩盤質であることから、先に紹介した石垣のオーテを作るための石材を切り出すための石切場でなかろうかと考えるのだが、いかがなものだろうか。 観光用に都合のよい説が地元に支持されて今に語り継がれていることについてはタケダは否定的ではない。それが夢のない学説に塗り替えられ、たとえそれが真実であったとしても、誰も得はしないので今のままで良いと思う。 |