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i r a ・ k i r a
2004/06/13 sun
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多重水切瓦
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今回のツーリングの最重要目的地の吉良川町に到着する。 ここ吉良川町では国選定重要伝統的建造物群保存地区(長い、、)として指定されている白壁と多重水切り瓦の街並みを目にすることが出来る。まずは国道沿いにあるパーキングにカタナを駐車し徒歩で散策に出かけることにしよう。 JR四国が季刊で発行している『〜新四国旅マガジン〜Gaja』という雑誌がある。普段は意図的にメディアに接することを避けているタケダが長く愛読し続けているレアな雑誌だ。 平たくいうところの“旅行雑誌”に分類されるワケだが、これがなかなかどうして。ライター達の雑司の深いことに加え、着眼点が実に新鮮。それでいて軽率なところがなく実に読み応えのある紙面 になっている。これだけうるさいタケダが購読しているというだけでもその内容は推して知っていただきたい。タケダが四国島内を旅するときには良き指南書として役立ってくれている。まぁ、人それぞれ好みがあるだろうからあえて薦めはしないのだが。 この吉良川町も以前『Gaja』に紹介されていて、タケダの軽い腰もひょいひょいと上がった始末。但し、常々旅行雑誌等で紹介されている観光スポットをトレースするだけのような旅はしたくないと思っている。タケダにはタケダの旅の流儀がある。建築マニアにして歴史マニア、なおかつ地域文化研究家、そしてライダーとなれば今回のような旅も自ずと“俺流”のスタイルが見えてくる。 さて、言ってみましょう「吉良川町国選定重要伝統的建造物群保存地区」(長いってば)。 |
まず吉良川町を代表するのが上の写真の「多重水切瓦」。そもそも水切りというのは屋根などに降り注ぐ雨水が壁に直接落ちないように設けられる装置である。本来であれば屋根の延長線で壁よりも少し張り出していればよいものだが、この吉良川町でではそれが何段にも設けられている。ここは言わずとしれた台風銀座。台風上陸時の雨量
たるや我々の想像を遙かに超えてしまうのだろう。それ故の多重水切なのだろうか。しかし、それにしてもこの水切りを多重に設けるというのはあまり機能的にその役割を果
たすとは思えない。実のところこれはデザイン上の意匠に負うところが大きい。かつて吉良川町では林業が盛んで、良質の炭の集積所として繁栄してきた。いまでも土佐備長炭は備長炭のなかでも最高級の品質を誇っている。そんな炭の流通
で栄えた豪商たちが自らの経済的繁栄をこのような建造物の豪華さで誇ったのだ。これらの建物のほとんどがそんな時代に建築されたものだ。隣の家が水切りを2重にしたとなると、負けてはなるものかと3重にし、そのまた隣が4重に、、、とエスカレートしていった。ここに“いごっそう”といわれる見栄っ張りな土佐ッ子の気質がよくうかがえる。ちなみにこの瓦、コストにして一枚¥400也。それを当時同様の工法で現在に再現施工しようとすると一枚あたり¥14,000を必要とするとのこと。
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特筆すべきは水切瓦だけではない。吉良川町の民家には漆喰が多く使用されている。高知県独特の『土佐漆喰』とよばれる工法は地灰にネズサ(発行処理したワラスサ)を加え水こねしたもので、糊を含まないため塗りつけた後、水に濡れても戻りがなく、厚塗りが可能できめが細かいことが特徴。加えて“鏡面
仕上げ”とまで呼ばれたかつての土佐の職人達の高度な技術が生かされている。(どうせならバフ仕上げまでしてしまえばよいのに、、、って思わないの、そこのあなた!) 右の写真のように本来であれば純白のはずの漆喰ではあるが、吉良川町の漆喰壁には黒くコールタールが塗られた後がうかがえる。これは鏡面 仕上げの漆喰壁があまりにも輝いて見えるために、先の大戦中に町が敵機の標的になることを避けるために黒く塗るように達しが下ったのだという。恐るべし土佐の職人技。それが戦後60年の時間の中で徐々に表面 のコールタールが雨風に削られ本来の漆喰が見えるようになってきた。 半世紀以上の時間を越えて、僕らは今こうして出会うことができた。 |
![]() 土佐漆喰鏡面仕上げ |
![]() いしぐろの防風壁 |
上の多重水切瓦と土佐漆喰の景色は吉良川町でも国道に近い「浜地区」といわれるエリアで多く目にすることが出きる。一方山側の「丘地区」と呼ばれるエリアでは巧みに石を積み上げた堅牢な石垣のある風景が訪れる者の目を楽しませてくれる。先にも書いたが台風が多く上陸する地方なので、その雨風から家屋を護るために防風壁としてこれほど頑丈な石垣が作られることになったのだろう。この石垣を『いしぐろ』という。面
白いのは家々によってその意匠が異なり、それぞれが趣向を凝らしたものになっていることだ。これもやはり隣に負けまいという気質の現れだろう。 |
怪談 シチヤ段の「つるべ下がり」 その昔、吉良川の里のシチヤ段は竹藪に囲まれ、大きな松の木が一本生えていたそうな。この松の木に「つるべ下がり」という妖怪が潜んでいた。妖怪は松の木の高い枝から「子どもとろか、子とろか」「これにのれぇ、これにのれぇ」と恐ろしい声でスルスルとつるべを降ろして通 行人を脅かしていた。近所の子供たちは「泣いていたらつるべ下がりに取られる」と聞き分けて利口にしたそうな。 まず、この手のあやかし(妖怪変化)でもっとも有名なのが「つるべおとし」と呼ばれる妖怪。「つるべおとし」は森や林の中に住んでいて、木の下を通 る旅人の上へ下りてきて魂を食らうという。その様が井戸のつるべに似ていることからその名が付いた。狐狸の類の低俗霊が正体とされる。かつてまだメディアという媒体が発達していない時代、情報の伝達は物流の副産物だったのだろう。一般 に庶民が自由に諸国を行き来できる時代ではなかった。そしてこの吉良川は藩外へ炭を流通 させる拠点だった。つまり情報の流通も多かったのだろう。この時代の情報伝達の手段は口承伝承という方法なってくる。その情報伝達経緯のなかで、どうしても情報は変化してしまうのは避けられない。例えばAという情報とBという情報がいつの間にか混同してしまいCという情報になってしまったりする。またはAとう情報の一部が欠損し伝達者によって別 の情報で補われDという情報になってしまりとか。 ここからはタケダの推測である。この「つるべ下がり」と「つうるべおとし」との相違点だが、まず似ているのはその名称、そしてギャップがあるのが生態。「つるべ下がり」は本体はあくまでも木の上にいてつるべという道具を下ろしてくる。一方「つるべ落としは」自らがド〜〜ンと下りてくるのである。似ていなくはないが若干異なる。前者は子どもをさらうが、後者は命をとる。地域によっては「つるべおとし」はただ人を驚かすだけらしい(つまり他地域にも伝播していることがうかがえる)。つまりタケダの考えるには、このケースの場合、伝達された情報は名前だけだったのかもしれない。これを「名称先行型伝達」とタケダは呼んでいる(今決めた)。 そして彼の地において名称が若干変化し、内容の方が名前を補うかのように形成されたのではないかと考える。同じ祖を持つ情報が伝達の経緯で変化し別 の物になってしまうことが多々あるが、あくまでもこれは同一視してはいけないし、別 視してもいけない。体系ごと把握しなければならいのだ。地域文化を研究する場合、心しておかなくてはならない。あくまでもタケダの所見だが。 |
![]() この坂がシチヤ段 |
つるべ下がりとは、、、水木しげるのマンガにでも登場しそうな妖怪だなぁ。
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今まで高知県東部には鉄道が引かれていなかった。平成14年7月1日JRごめん駅から奈半利までを繋ぐ路線が新たに開通
した。その名も『ごめん・なはり線』。 この奈半利駅はその終点となる駅になる。この『ごめん・なはり線』にはアンパンマンの作者として有名な高知県出身の漫画家のやなせたかしがマスコットキャラクターを各駅ごとにデザインしている。始点の後免駅では“ごめん えきお君”そして終点の奈半利駅は“なは りこちゃん”。おもわずワビを入れてしまわずにはいられない。「ごめん・なはり。」 さすがはなはりこちゃん。ニコリと笑って許してくれたさ。土佐ッ子だねぇ。 タケダは以前から旅に出るときにはスタンプ帳を持ち歩くことにしている。こういうことの積み重ねが旅に厚みをもたらすのだ。きっとここにも記念スタンプが設置されているだろうと探してみると駅の窓口に置いてあった。「乗車記念スタンプ」、、、と張り紙をしてある。う〜〜ん、乗車はしてないがスタンプは欲しいし、、、。とりあえず頼んでみよう。 |
窓口で受付をしていたのは若い女性の職員さんだった。すみませんけどスタンプを借りて良いですか?、、、全部の駅のスタンプを押してあるシートがありますが、よければどうぞ。あ、、いや、、自分のスタンプ帳がありますんで、、、。そっれじゃぁ、全駅分のスタンプもありますけのでどうぞ。、、、あ、、いや、、、、ここのだけで結構なんです。 |
思いの外、燃費が伸びた。リットル当たり20kmは走っただろうか。いつもなら200kmを越えたくらいでリザーブに入るが、今回は300kmを優に越えてから燃料コックを捻った。 今日一日での走行距離、348km。走りに走ったりといった実感がある。青空と蒼い海の狭間でココロの洗濯もジャブジャブ出来て爽快な気分だ。しばらくは今日訪れた要所で大量 にもらってきた当地の広告パンフを読みふけることになるだろう。こういったパンフは遠慮せずにどんどん持ち帰るべきだ。そしてちゃんと目を通 し、分類してストックしておく。決して捨ててしまってはいけない。これも後になって自分の貴重なデータベースになるものだ。 高知は本当に面白い。高知は懐が深い。高知は自然の恩恵に恵まれている。高知の土着文化は華やいでいる。高知の歴史はドラマティックだ。この地を掘り起こせば幕末の志士達の血が沸いてくる。掘り起こせば掘り起こすほどどんどん違った高知が顔を出す。高知は、、高知は、、、まだ良く解らない。だから、まだまだ高知への旅は続くのだろう。 |
お し ま い
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