t o u r i s t b l u e i s l a n d

 

 k i r a ・ k i r a
2004/06/13 sun

 

南へ向けて走っている。
前々日に四国を通過していった台風4号は置きみやげのように抜けるような青空を残していった。大雨に洗われたアスファルトもケタケタと笑っているようだ。少しだけ風が強い。天気晴朗なれど波高し、、か。そういえば浜辺は多くのサーファーで賑わっている。
風が意外にも冷たい。前日の天気予報が快晴を約束したので気温も30℃近くまで登るだろうと思っていた。Tシャツにデニムジャケットという夏の装いで出掛けたことに後悔。しかし心配はない。日和佐を越えたあたりで気温も上がってくるだろう。黒潮の運んでくる暖かい気温のせいだろうか。幾度となく走り込んだルートなのでそんなこともあらかじめ解っている。
ときどき道を行くお遍路さんを見かける。そういう季節だ。
海は朝日を反射して輝いている。



道の駅 宍喰温泉

県南から室戸岬へ向かうルートは何度走ってもいい。阿波室戸国定公園に指定されるほど風光明媚な景色に恵まれている。その上交通 量も少なく快走できるし、まったくツーリングにはもってこいのコースだ。
「彼のオートバイ、彼女の島」の著者としてライダーの間では知らぬ者はいないであろう片岡義夫の短編小説の中にもこのルートが舞台として登場する。オートバイではなくサーフィンを題材にしていることがライダーとしては残念に思われる。ひょっとすると片岡義夫はかつてこの地を実際に訪れたことがあるのかもしれない。小説の中で2階建てのドライブインで主人公の若者達が店のマスターにサーフスポットを尋ねる場面 があるのだが、現実にはその店は存在しない。もしくは実在していたのだが、今はもうないのかもしれない。


道の駅「宍喰温泉」で少し休憩を取り再び室戸岬に向けて走る。
高知県に入り、甲浦を過ぎたあたりで写真の看板が現れる。『魔のカーブ』とは気が利いてるではないか。いったいどんなカーブが待ち受けているのかと期待に胸を弾ませて飛び込んでみると、、、実はたいしたことのないS字カーブ、、、と思いきやそのまた奥にS字カーブがもう一つ待ち受けているという趣向。フッ、この程度で魔のカーブとはフカシもいいところだぜ。っと安心しているところに実はもう一発S字カーブが待っているという演出。実に気が利いている。

野根あたりからの海岸沿いは所々に砂浜はあるのだが、その多くは黒光りする大きな岩がゴロゴロ転がったような岩礁 が続く。通称「野根ゴロゴロ」これまた気の利いたネーミングではないか。土佐っ子の心意気が伝わってくるようだねぇ。


東洋町名物「魔のカーブ」


野根ゴロゴロ

御蔵洞

この野根ゴロゴロが国道のなかった時代には難所の遍路道だったそうだ。種田山頭火がこう詠んでいる。
『ぼうぼうとうちよせてわれをうつ』

室戸岬の少し手前、『御蔵洞(みくろど)』を再び訪れてみる。 弘法大使が修行し悟りを開いたとされる洞窟。 今でこそ国道が前を走っているが、彼の時代には洞窟から外へ目をやると“空”と“海”しか見えなかったことだろう。そして彼は“空海”と名乗ることになるのだ。

悟りと聞くとちょっと恐れ入るが、仏教において悟りとは突き詰まるところ「色即是空空即是色」にたどり着いて「さぁ、おしまい」である。幕末の動乱を走り抜けた坂本龍馬や中岡慎太郎の燃えるような生き様しかり、浮き世の所行は皆泡沫の夢、目が覚めてみれば幻と気づくだけ。今は冷たくて美味しいけれど、いつかは食べてなくなってしまうアイスクリンのようなものなのだ。あとはただ、ワッフルコーンが残るのみ。難しいことを分かりやすく説明してみました。

中岡さんちの慎太郎くん

室戸名物アイスクリン

余談ではあるが、ここで“悟り”というものについて少々誤解されてしまうことが考えられるので補足しておく。多分にして悟りとは仏教世界における修行の到達地であると認識されているのではないだろうか。それがすでに間違い。誤解ついでにこう言っておこう。実はタケダもすでに悟りを開いている。あまりお堅く考えないことだ。悟りなどは日常茶飯事そこいら中にころがっている。現の様々な迷いに際して、あれはこうだったのか、、、と閃けばそれはすでに立派な悟りである。いや、深く考えた末に到達するよりも突然閃くものなのかもしれない。まるで天から悟りが降ってくるようなものである。天啓と表現されるのも解るだろう。
悟りにも大悟・小悟と色々あるし悟りを開くのも一生に一回とは限らず何百回となく悟ればよい。大切なのは後悟であり、修行のあり方なのだ。

余談の補足ついでにもう一つ。中岡慎太郎。何をした人物かご存知だろうか。幕末の動乱を駆け抜けた土佐藩脱藩の志士。というだけでも知っていたらたいした物である。幕末から明治維新までの天下風雲の時代における史劇には英雄と呼ぶべき人物が大勢登場する。幕臣の勝海舟、薩摩の西郷吉之助(隆盛と呼ばれるのは維新後ずっと後)、長州の桂小五郎に高杉晋作、そして真打ち土佐藩(脱藩、復席を繰り返すが)の坂本竜馬らがそうだ。慎太郎もこの英雄の中に含まれるべきなのだが、どうしても竜馬の陰に隠れてしまう。彼は本来、竜馬の陰に隠れるには惜しすぎる人物なのだ。明治維新を大きな石垣に例えると、中岡慎太郎という石を石垣から取り除くと維新という石垣は見事に崩壊してしまうほどの重要人物なのだ。彼の奔走なくして薩長同盟はありえなかっただろうし、彼が岩倉具視との架け橋にならなければ大政奉還も不完全だった。竜馬の海援隊に対し、陸援隊を率いたのも慎太郎だ。残念ながら慎太郎は大政奉還後、竜馬と共に近江屋にて賊の討ち入りに会いこの世を去った。土佐藩からはほかにも自由民権運動で有名な板垣退助や藩臣、後藤象次郎も欠かせない。

えぇいついでだ。もういっちょ余談といくか。広大な太平洋に面し、荒々しい黒潮に育まれた環境が幕末に多くの志士を産んだ、っと勝手に思いこんでいる御仁が多いように感じるのだがいかがだろう。確かにそういった環境が人を育てたという背景はあるだろう。しかしそれは本質ではない。
答えから言ってしまうと、当時の身分制度という社会背景がそうさせたのだ。小学生程度の知識があれば江戸時代の士農工商という4階層の身分制度があったということくらいは覚えているだろう。もちろんその下にもまだ階層外の人々がいる。しかし、上層の武士の中においても多くの階層に分けられていた。例えば上層の武士には下層の武士を切り捨て御免できる権限すらもある。一言に武士といえど、その内部の身分は天と地ほどに格差があったのだ。関ヶ原の功績で徳川から土佐24万石(ちなみに阿波藩蜂須賀家は25万7千石)の領土を授かった山内家は上層の藩士、かつて四国中を征服しながらも関ヶ原で敗北した長曾我部の家臣は郷士という下層の身分になる。こうした身分制度は江戸時代、他の60余藩でも存在はするのだが、土佐藩においてはその身分制度の絶対性は絶大であり、長きに渡り下層武士を弾圧してきた。この弾圧に対する反発こそが多くの脱藩浪人を産み、尊王(=倒幕)勢力となっていったのである。事実、脱藩志士のほとんどが郷士と呼ばれる下層身分の武士達であり、藩士が脱藩することは希であった。残念なのは彼らは斬ることしか知らず、斬ることによって世が代わると信じていたことである。



巨大空海象にシバキを入れてみた。 後ろでは釈迦象がふて寝している。
“あこう”の林が山肌を覆う。ここはすでに亜熱帯気候地帯。南国土佐なのである。

 


鯨館「鯨の郷(いさのごう)」
室戸岬をV字型に折り返して進み、本日の真の目的地、吉良川町へ入る。
まずは休憩がてら、道の駅「キラメッセ室戸」に立ち寄ることにする。室戸周辺に限らず、四国南部の海ではホエールウォッチングが出来るスポットが各地に存在する。古来より水産資源に恵まれた海にはマッコウクジラやニタリクジラが今でも訪れる。日本人は世界でも類を見ない鯨肉を食する文化を持ち合わせているので(あとはイヌイットくらいだろう)、もちろんこれを獲らずにはいられない。というわけで室戸は380年ほど前から捕鯨で栄えることになる。突き取り漁法といわれる古式捕鯨は一時は隆盛を極めはするが、鯨の来遊の減少や捕鯨に対する外的圧力によりそれも次第に衰微していった。鯨に限らず乱獲で姿を消す魚は後を絶たない(ニシンとか。最近ではタコも獲れないらしい)。漁獲高をコントロールするといったテクノロジーは、残念ながらこの国には存在しない(期待はしていない)。
その土佐古式捕鯨の歴史や文化をキラメッセ室戸に併設された鯨館「鯨の郷(いさのごう)」では紹介している。入場料は350円。旅に出たのならこの手の施設はケチらず訪れた方が良い。ちなみに当館の名誉館長はかのC.W.ニコル氏だ。

 

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