有馬家には慶長七年(1602)の検地帳として、「寒川郷富田ノ庄中村御検地帳(田方)」・「寒川の郡富田庄中村御検地帳(畠方)」・「富田ノ中村田方名寄帳」の三冊(写)が保存されている。さらに、寛永七年(1630)の「寒川郡富田中村畑方御検地帳」(写)も伝えられている。
検地帳とは、一筆ごとの土地の面積、位付け(上・中・下)、生産高、耕作農民が記された土地台帳のことであり、これらの文書は、近世の農民や農民の生活状態、農民支配を方向付けた検地の意義を明らかにする上で貴重な資料である。
一方、富田中村に関する免定状が残っており、最も古いのは、慶長十一年のものであるが、元和八年(1622)から寛文(1665)までのものも残っており、近世初期の富田中村の免の変遷を知ることができる。また、元和九年から寛永十五年(1638)にかけての知行免定状、蔵入代官免定状もあり、富田中村における生駒藩の知行地と代官所の具体的な様子がうかがえる。さらに、県史編纂資料目録によると鳩網免許状など八十七点の資料が保存されている。
因みに、有馬家は生駒氏入封後より、寒川郡富田中村の庄屋であったといわれ、慶長十二年(1607)までは有馬與兵衛、慶安四年(1651)までは、有馬勝左衛門が庄屋となっており、以降も庄屋となっている。

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