友よ〜、夜明けは近い〜〜!

(1)徳島ふぉ〜く村の夜明け前。

どーして徳島ふぉ〜く村が誕生したのか?それは1970年8月、岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖の湖畔にて開催された第二回中津川フォークジャンボリーを見たことに始る。

1950年、3丁目の夕日・すだっち地方に産声をあげたワトソン飛来は、その頃の少年達と同じように背番号3にあこがれる野球少年であった。まったく音楽など縁のなかった4番・サードに転機がおとずれたのは中学校の遠足の時である。目的地までのバスの中、ガイドのネェちゃんの話や、歌のあとで、みんながそれぞれ得意の歌を歌って時間をつぶしたが、当時のバスにはまだビデオもカラオケもなく、みんなアカペラで歌っていた。その時、わしは御三家の中でも学生服姿(のちにこのことが制服で活動するココナッツ Jr.へと続く?)の舟木一夫さんを得意としていて、『北国の街』という歌を歌ったところ、激しく女子生徒陣から拍手をいただき、そのことが勘違いへのスタートとなった。

高校受験をひかえた中学3年の正月に観た『エレキの若大将』がさらに追い討ちをかけた。高校生になったら、スポーツをやって、ギターを弾いて、澄ちゃんと恋をするんだと激しく思い込んでしまった。受かったらエレキを買ってやるという約束は、『エレキは不良だ!』なんていう訳の分からんキャンペーンにうちの親も同調してしまい、ギターはなぜか万年筆に化けてしまった。しかし、バアちゃんを説得して、大きくなったら返すからと貴重な年金から7千円をかりて白いモズライトに似たエレキギターを手に入れた。『エレキの4番・サード』の誕生である。7千円は返していない・・・振り込めサギのはしりとなった。

加山雄三とベンチャーズと長島茂雄の高校生活の後半、けっしてテレビの歌番組では聞くことのない歌が深夜放送のラジオ番組から流れてきた。フォークルの『帰ってきたヨッパライ』と、高石友也さんの『受験生ブルース』である。フォークソングとしてではなく、まずはコミックソングとしてわしの耳をとらえた。今も脈々とわしの中で流れ続いている笑えないギャグや、coco's(コニーズ)ホットこいさんずにつながる世界の源流がここにある。その奥にある本物のワンダフルワールドへの入り口として・・・。

1969年、ちょうど19の春から3ヶ月後の19の夏、徳島市文化センターでおこなわれた徳島労音の例会(高石友也コンサート)で初めてフォークコンサートなるものに触れ、テレビどころか、ラジオからもあまり流れていなかったそのレパートリーの数々に深く感動。その日のすだっち地方は台風の直撃をうけており、コンサート途中では『あと30分でバスがとまるそうなのでバスで来てるお客さんははやく引き上げてください』なんていう高石さんのMCのある中、ゲストできていた五つの赤い風船は『雨よいつまでも、降ってお〜く〜れ〜』なんて歌を会場のみんなに歌わせていた。

1年後の1970年の夏、フォークジャンボリーを見るため、後日徳島ふぉ〜く村を立ち上げるときに常山パンを紹介してくれることになる、2つ年下で徳島市立高校3年だった栄のてっちゃんと2人でホンダのCS-90というバイクに2人乗りで中津川に向かった。全国から集まった8000人の熱いパワーに、これは徳島でもなんかせんとあかんなぁ・・・と青春の熱い血潮がたぎった2人であった。城山下の徳島公園でフォーク村の第一回のコンサートが開かれたのはそれから2ヶ月後のことである。

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