(2015第3回)カンツォーネと陽光の国を行く −第3回−


【1日目:12月7日(月)ローマ到着】

 13時間かけてフランクフルトへ、さらにローマへと飛んで、イタリアの地を踏んだ私。早速、チョンボを重ね、まさかの夕食抜きにも遭いながら、第一夜を迎えている。その前途はいかに?


川野さん


 ローマのホテルに到着した後、カードキーを使って部屋に入るとき、要領がつかめず悪戦苦闘した。隣の部屋の前でも、同じツァーの女性が、開錠に苦戦していた。私と同じく、ツァー一人参加の様子である。
「どう?開きにくいね」
と関西アクセントで話しかけてこられた。まあ、2人とも、なんとか各々の部屋のドアを開けることはできたが、なんとも使いにくいホテルである。

 そして、私より少し年長と思われるこの女性、あとで
「川野さん」という名前を知ったのだが、この先、ツァーで、何かと・・・・・

【第2日目 12月8日(火)ローマ〜ポンペイ〜アルベロベッロ】

せっかち?

 ローマ1日目の夜は、夜中の12時過ぎに日本から携帯メールが届いたりして、なかなか熟睡できなかった。

 少し早めに起きて着替えを済ませ、この旅行記のための旅メモなどを殴り書きしていると
ドアをノックする音が聞こえたような気がした。心当たりがないので、聞き間違いかと思いつつ、ドアを閉めたまま
「Is there anyone?」
と英語で尋ねた。すると、
「お隣の川野です」
という。ドアを開けると、
「朝食に行かない?」とのこと。

朝食時間より10分ほど早いのに、せっかちなことである。断る理由もないし、着替えてもいたので部屋を出て朝食場所に行くと、既に同じツァーの人たちが、列を作っていた。みんなせっかち?いや、皆さん、
私と同じく夕食抜きで、お腹を空かせていたのかも知れない。

朝もやの中を

朝もやの中をローマからポンペイへ 
さて、今日から南イタリアを巡る旅のスタートである。

 今日は、長靴型のイタリアの向う脛を南下して土踏まずと踵のあたりの世界遺産を何ヶ所か回ることになっている。
 最初に目指すのは、
ポンペイの遺跡だ。バスに乗っていざ出発!

 郊外に出て、南に向かうにつれて車窓がミルク色に霞んできた。朝もやである。すぐに晴れるかと思っていたら、逆にますます深くなっていく。路ばたの樹木や田畑が白いベールに覆われたようで
幻想的な風景である。
 
「イタリアでは、よくこうした朝もやがよく見られます」
と添乗員の山田さんがバスのマイクで説明する。標高は決して高くないのに、
信州あたりの高原を行くような趣だ。

アッピア街道の松並木 やがてようやく靄が晴れて、松並木が見えてきた。
「アッピア街道」である。
 古代ローマの主要都市を結ぶために造られた「ローマ街道」の中でも、最も古く、紀元前312年から敷設が開始されたという。なんと2300年もの歴史を有する並木道である。

 
「すべての道はローマに通ず」という言葉で知られるローマ街道は、375本の幹線だけで85,000kmを超え、支線を含めると15万kmもあったといわれている。そんな古い時代にこれほどの土木工事を実施したとは!今まさに、古代ローマ人が残した構造物を目の当たりにしていることに、大きな感慨を覚えた。

ポンペイについて

タイムスリップして登場したポンペイ遺跡 さて、ポンペイに着くまでに、この奇跡の世界遺産について、ちょっとおさらいをしておきたい。

 ポンペイは、ナポリ近郊にあった町。1万人近い人々が暮らす豊かな商業都市として栄えていたが、西暦79年8月24日午後1時頃、悲劇が起きた。
ヴェスヴィオ火山が大噴火したのだ。さらに、その約12時間後、火砕流が発生し、高温のガスがこの街を襲い、逃げ遅れていたすべての生命を奪った。その後も火山灰が降り続き、町も人も厚い灰の下に埋もれてしまった。

 その後、この町のことは、18世紀に発掘されるまで、長く忘れ去られていた。驚いたことに、火山灰の下から現れた古代都市は、
風化することなく保存されていた。日用品や美術品も被災当時のままの状態で残っていた。少ない空気や有毒ガス・火山岩が劣化から守っていたのだ。

被災当時の人たちの姿がそのままに 発掘隊は、火山灰の中に空洞があることに気付き、ここに石膏を流し込んだ。すると、
なんと!人や犬の姿がリアルに再現された。赤ん坊をかばうように抱く母親、抱き合ったままの恋人、苦しんでいる犬など。火山灰の中で遺体だけが腐敗し、被災時のままの形が空洞として残っていたのである。

 住居、商店、神殿、公衆浴場、道路など、西暦79年当時の町が次々と姿を現した。その文明の高さには、現代人も驚嘆する。そして、豊かな文化は、古代人も現代人と同じ感情を持っていたことを改めて実感させる。

 今、私たちが向かっているポンペイとは、そんな
お宝の山のようなところらしい。

ポンペイ到着

 ローマから南方向へ245km、1時間半をかけて、いよいよ世界遺産ポンペイ遺跡に到着である。靄もきれいに晴れて上天気。

 と、その前にカメオ工房見学。こうしたツァーではお決まりの土産物販売である。職人さんの手によって、見事に加工される緻密な工芸品なのだが、お値段を暗算で日本円に換算して、眺めるだけにした。なにしろ、こちらは3万円分のユーロしか持っていない
ビンボー旅行者なのだ。

 遺跡入口前には、土産物店が並ぶ。日本語で
「コンニチハ」「ナマジュース、オイシイヨ」と話し掛けてくるが、やはり何も買わない。

 入場ゲート前には、現地ガイドのダニエラさんが笑顔で私たちを待っていた。彼女の日本語による説明を聞きながら遺跡の内部を回るのだという。ダニエラさんから入場券を受け取って遺跡に入る。

2千年前の町に立つ

ボンペイの遺跡にて 構内には、石造りの建物、道路など、町の様子がそのまま残っている。映画のロケセットのようだ。だが、これは作り物ではない。
まさしく西暦79年の町なのだ。タイムスリップして現れた古代都市なのだ。道路には、馬車の轍もきれいに残っている。2千年前の人々が歩き、馬車が往来していた石畳の上に、今、自分が立っていると思うと深い感慨を覚えた。

 にしても、12月だというのに、今日は少し暑いほどだ。ダウンジャケットを脱ぎ手に持って歩く。

 神殿前の広場を抜けて市街地に入る。パン屋、居酒屋、クリーニング店などが見られる。中でも、パン屋には、当時の石窯や挽臼がそのまま残っていて、発掘時には焼いたままのパンも出てきたという。また、私たちは覗けなかったが、この街には娼館がいくつもあって「快楽の都市」とも呼ばれていた。公衆浴場なども整っていて、人々は、
結構生活を楽しんでいたようだ。ただ、それは奴隷に労働させていたからなのだが。

住居入口のこの絵は「猛犬注意」を示したもの 富裕層の住居には、入口の床に犬の絵が描かれていて、これは泥棒除けの「猛犬注意」を示すものだったらしい。

石膏の人型

 遺跡内の建物の中に、石膏の人型が展示されていた。前述のとおり、火砕流によって命を失った人々の姿を被災時そのままに伝えるものである。なす術もなくうずくまる人、横向けに倒れた子供。

 自然災害の恐ろしさを
これほどリアルに訴えるものがあろうか。噴火直後から火山灰は街中に降り注いでいたと思われる。早めに避難していれば、命を失うことはなかった。現に人口1万人ほどのうち、火砕流による死者は2千人ほどと言われている。ただ、テレビやラジオも、警戒警報などもなく災害に関する知識も乏しかった当時、何らかの理由で街中に残った人々を誰が責められるだろうか。

高度な文明

上下水道も整っていた 町には、なんと
上下水道も敷設されていた。上水道の蛇口など、現在のものと構造はほぼ同じだという。

 壁画も多く発掘されている。漆喰を壁に塗り、それの乾かないうちに水性の絵の具で直に絵を描く「フレスコ画」の赤色など、現在の技術でも再現しづらいほどの見事な発色で、
芸術方面でも優れた文化を形成していた。
秘儀荘のフレスコ画
 私たちは、遺跡の外れにある邸宅「秘儀荘」も訪れた。この建物の壁画は「ディオニソスの儀式」と称される多産祈願を込め「ポンペイの赤」を多用したフレスコ画で有名だ。

 当時、日本は弥生時代。
ポンペイの高度な文明には、舌を巻く以外にない

フニクリ・フニクラ

 さて、この旅行記の冒頭に
「カンツォーネをBGMに」と書いた。ポンペイの遺跡から仰ぎ見るヴェスヴィオ火山は、「フニクリ・フリクラ」で知られている。(「フニクリ・フニクラ」のユー・チューブへのリンクはこちらをクリック)

 ご存知のとおり、ヴェスヴィオ火山の登山電車(フニコラーレ)の開通を祝って作られ、以後、その電車のCMソングとして歌われた曲である。

 私は、今でも登山電車が現役で活躍しているものと思っていた。ところが、現地ガイドのダニエラさんによれば、この登山電車は、1944年のヴェスヴィオ火山の噴火により破壊され、以後廃止されたままなのだという。テンポが早く元気の良いこの歌を聞くと、鉄道ファンならずとも
「いいなあ、乗ってみたいな」と思われるだろうが、何のことはない「誰も乗る登山電車」は70年以上も前に誰も乗れなくなっていたのである。

一人参加の悲哀


 お昼になり、遺跡に近いレストランで昼食をとった。

 家族参加の人たちは、各々同じテーブルにつくわけだが、私のように一人参加者は、テーブルの椅子の空きに合わせて適当に割り振られる。私は、4人掛けのテーブルの3人家族と一緒に食事をとることになった。

 こうなると、
他人の家族の食卓にお邪魔虫が一匹紛れ込んだようなものだ。気を使ってくれるような人たちならよいが、この名古屋から参加した一家は、そんな気配など、まるでなし。家族同士の会話には、当然参加できないし、どうも居心地が悪い

 一人参加の悲哀である。


 次回は、お伽話の挿絵のような村、アルベロベッロや「白い迷宮の町」など、「イタリアの最も美しい村巡り」の報告。
 写真も掲載するので、続けてお読みいただきたい。

−続く−

(2016/04/24)




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