(2013第5回)親子旅はシベリアの町へ −その5−
驚きの連続パンチを見舞ってくれたロシア第1日目。一夜明けた今日から観光本番である。無愛想なホテルレストラン従業員に文化の違いを感じつつ、雨のハバロフスク市内に繰り出した私たち。ホテル近くの公園からアムール川とその彼方に連なる山々を見渡した後、市内の主だった観光地などを巡る。
【第2日目 9月21日(土)ハバロフスク市内】
市内あちこち
前述のとおり、アムール川ミニクルーズが中止になったことから、この日は終日市内のあちこちを回ることになった。
この旅行記は、観光案内を目的としたものではないので、詳しくは述べないが、それぞれの訪問先ごとに簡単な説明や私の感想を記すことにする。
銅像
ハバロフスクは、銅像の多い町である。アムール川を見下ろす公園にも、大きな銅像が2つ屹立している。
(1)ヤコヴ・ヂャチェンコ像
ホテルインツーリストのすぐ近くに軍服姿で建っている。
ヤコヴ・ヂャチェンコは、陸軍軍人で1858年5月、その部下たちともにこの地に上陸した人物。前述のハバロフがハバロフスク周辺を探検しロシアの領土とするきっかけを作った後、この陸軍大尉がこの地を完全にロシアの支配下に置いた。
ちなみに、ハバロフスクの市章には、彼が上陸した年である「1858」が描かれている。1858年は、この町の創立の年として位置づけられているのだろう。
(2)ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ像
通称アムールスキー伯爵(1809〜1881年)として知られる軍人・外交官。
1847年に東シベリア総督に就任し、清国との間で領土交渉を進めた。1689年のネルチンスク条約により清国領とされてきたアムール川左岸をロシア領とするアイグン条約を締結した。1858年のことである。清国にしてみれば、武力を背景に領土を強奪した人物であり、不平等条約を押し付けた張本人、ということになろうが、ロシアでは領土の大幅な拡大を成し遂げた人物として、このように銅像が建てられ顕彰されている。
彼の銅像は、1891年に建立されたものの、ロシア革命後の1929年に撤去されてレーニン像に代えられ、さらに1989年レーニン像撤去を経て、1993年この銅像が再建された、という歴史をたどっている。
なお、この人物は、1859年、軍艦7隻を率いて日本の江戸・品川沖に来航し、サハリン全土がロシア領であるとの主張を認めさせようとしたが、江戸幕府に拒絶された、という経歴も有している。
ロシア正教の聖堂
ウスペンスキー教会(写真右)とプレオ・ブラジェンスキー聖堂(写真左下)の2つの聖堂を訪れた。
建物の外観の美しさはご覧のとおりであるが、それ以上に感心したことは、聖堂の中で、敬虔な祈りを捧げる人々の真摯な姿。男女とも、祭壇に向かって頭を垂れ、時に十字を切りながら静かに神に祈っていた。残念ながら、建物の内部は撮影禁止。
ちなみに、男性は帽子を取り、逆に女性は髪をスカーフなどで覆うことが望ましい、とされているそうで、娘には、私のマフラーを渡してスカーフの代わりに使わせた。
ロシア正教について
ここで蘊蓄を少々。
日本人は、キリスト教と言えば、カトリックとプロテスタントだと思っている人が多いかと思う。もう一つの大きな流れであるロシア正教、ギリシア正教など正教会のことは、あまり知られていないようだ。函館市のハリストス正教会、東京神田のニコライ堂などは日本正教会の聖堂である。
余談ながら、ロシア正教の聖職者であるニコライから日本人として初めて正教の洗礼を受けたのは、土佐藩出身で、坂本龍馬のいとこに当たる沢辺琢磨など3人だった。
726年にローマ皇帝が「聖像禁止令」を出したことが、カトリックと正教会(東方教会)が分裂した契機であり、さらに1054年、お互いに相手を破門しあって東西キリスト教は、完全に分裂した。
その原因は三位一体の解釈やマリア崇拝を巡る意見の相違などとされているが、故・米原万里さんによれば、「決定的だったのは、正餐式で使うパンをめぐる対立だったらしい」という。(米原万里著「心臓に毛が生えている理由」角川学術出版)
つまり、正餐式に、ロシアやビザンチンで常用される酸味のあるライ麦パンを用いるか、カトリック教会で一般的だった酸味のないパンを用いるかをめぐって、11世紀半ばに東西両教会の間で激論が交わされ、双方が妥協せず、ついに互いに相手を破門、ということにまで至った、というのである。
栄光広場
話が脇道に逸れてしまった。舞台をハバロフスクに戻そう。
次に訪れたのは、戦没者を祀る栄光広場。
第二次世界大戦の独ソ戦では、戦場から遠く離れたこのシベリア東部の町からも大勢の若者が兵士として駆り出され、戦死したのだそうだ。
石碑に戦没者一人ひとりの名前が刻まれている。キリル文字で「Афганистан(アフガニスタン)」と刻まれたブロックもある。アフガンにソ連軍が介入した時に戦死した人たちの名前である。
旧ソ連軍は、アフガン戦争で約1万5千人もの死者を出しているが、戦場ではなく兵舎内で同数の兵士が命を奪われているという。その原因は、古参兵による凄惨な新兵いじめ、異民族出身者間の集団リンチ、動員された土木工事での事故死、ということである。(米原万里著「魔女の1ダース」新潮文庫)
これらの人々の名は、この中には刻まれていないのだろうか。
いずれにしても、戦争の悲惨さ、軍隊組織の非人間性をまざまざと感じる話である。
郷土史博物館
次に郷土史博物館を訪れた。
ここは、ハバロフスク地方の歴史を展示した施設である。入場料は旅費に含まれているが、参考までに尋ねると300ルーブル(約900円)とのこと。で、館内撮影には別途100ルーブルが必要だった。セコイなぁ、と思いつつ窓口のおばさんにルーブル紙幣を渡して、撮影許可の切符みたいなものを受け取った。
館内には、この地で駆け回っていた野生動物の剥製や先住民の住居、衣服、狩猟具が展示されていた。また、ロシア革命後に近郊で繰り広げられた赤軍と反革命派との戦闘の模様もジオラマ形式の絵画で見られるようになっていた。
野生生物の剥製は、その種類の多さに驚くばかり。そもそも、この地に限らず広大なシベリア全域について言えることだが、これらの野生動物が自由に闊歩していたこの土地は、前述のハバロフのような毛皮商人たちが先駆けとなって、先住民を制圧しながらロシア帝国の勢力下に置いていったのである。
特に黒貂の毛皮は、パリへ持っていけば、貴婦人が争って求めたため、べらぼうな価格で売れた。このため、黒貂は「走る宝石」と呼ばれ、徹底的に乱獲されたのである。(司馬遼太郎著「ロシアについて」文春文庫)
トラや山猫、熊なども、欲に駆られた商人たちによって毛皮目当てに殺しまくられた。
こんな話を知っていると、博物館内で今にも動き出しそうな動物たちが気の毒になってくる。
なお、館内には、マンモスも展示されていた。もちろん、こちらは剥製ではなく、復元模型である。シベリアの永久凍土の中からは、マンモスが次々に発見されている。酷寒のシベリアは、天然の冷凍保管庫でもあったわけだ。
重い荷物は
郷土史博物館は、広い上に階段での上がり降りが多く、ずっと歩いて立って、の繰り返し。まだ、脚の調子が万全ではない私には、少しきつい。ナターシャさんに事情を話して、時折、館内の椅子に腰を掛け、休み休みしながら、彼女の解説を聴くようにした。
そもそも、この旅行中、重い荷物は、いつも娘が持ってくれるなど、娘は私の脚のことを心配して、何かと気を遣ってくれている。オジサンが娘に荷物を持たせて自分は身軽に歩く姿など、地元の人の目にはどんなに映っただろうか。
私「荷物を持たせてすまんね」
娘「大丈夫、大丈夫。任せて」
娘に迷惑を掛けるために、この旅に誘ったみたいになってしまった。
にしても、この国は、身体の不自由な人にとって、暮らしにくいし、まして移動は大変なのではないだろうか。空港やホテル、そして、この博物館など公共施設でも、バリアフリーという発想が感じられない。このことは、翌日のシベリア鉄道で一層強く実感することになる。
日本車とトローリーバス
博物館を出たところで、ワゴン車が待機していた。今日は、私たち親子とナターシャさんの3人、この車で市内を巡る。ドライバー氏は、昨日のアンドレイ氏とは別人で、無口なオジサン。名前も名乗らなかった。
小雨のハバロフスク市内は、日本車が目立つ。ナターシャさんによれば、乗用車はほぼ9割が日本車で、あとはドイツ車などだという。ロシア国産車もあるようだが、性能が悪くて故障ばかりなので、ほとんど見られないそうだ。
通りには、トロリーバスも走っている。日本では、立山黒部アルペンルートの2区間、計9.8kmを走っているだけだが、ロシアでは多くの都市で市民の足として活躍していると聞く。
私「トロリーバスが走っていますね」
ナターシャさん「はい、普通のバスもありますけど、こちらの方が混んでいます」
私「運賃が安いんですか?」
ナターシャさん「運賃は、どちらも市内15ルーブル均一ですが、トロリーの方は、65歳以上の市民は無料なんです」
私「なるほど。トロ〜リと走っているから、じゃないんだ」
市内巡りは、まだまだ続く。市内の市場で垣間見たロシア庶民の素顔、この町と日本の関わりなど、ご紹介したいことがたくさん。
その話は、また次回に。
−続く−
(2013/11/24)