(2013第4回)親子旅はシベリアの町へ −その4−


 
雨のハバロフスクに到着した私たち親子。ホテルでロシア初の食事をとろうとしたところ、大レストランではドアの外にまで響く大音量の音楽に閉口。同じホテル内の韓国レストランへ向かった。そこでビビンバと思って注文した料理は、なんと!チャーハンだった。
 そんな食事のあと、部屋に引き上げ、ゆっくり旅の疲れを癒そうとしたのだが・・・

【第1日目 9月20日(金)ハバロフスクのホテルにて】


風呂の湯が・・・

 韓国レストランでの夕食を終えて7階の部屋に帰る。「7階」と言っても、ロシアでは日本で言う1階を「0階」と表示するから、日本の流儀で言えば8階に当たる。

 エレベーターを降りたところにデスクがあり、中年女性が座っている。かつては、この女性が部屋のキーを受け渡ししていたようだが、カードキーをフロントで受け取るようになって、その仕事はなくなったようだ。

 さて、部屋に帰った後は、何はともあれ、入浴して旅の疲れを癒したい。早速風呂の蛇口を回した。ところが・・・・待てども待てども、
お湯が出ないやや黄色がかった水が出るばかり。これは何とかしなくちゃ。

 手元のロシア語テキストに
「浴室のお湯が出ません」というフレーズがあったことを思い出した私は、そのページを開いたまま、エレベーター前に直行し、デスクに座っているおばさんに指でそのロシア語の文章を示した。
 おばさんは、すぐに理解して、その巨体を私たちの部屋に運んでくれた。そして、バスルームで蛇口をあれこれと操作した。すると、なんと!
湯気が立ち上り、お湯が出てきた。一体どんな魔法を使ったのだろうか?

 
「スパシーバ」(ありがとう)と言うと、おばさんはニッコリして、ゆっさゆっさと身体を揺すりながら部屋から出ていった。

HOTとCOLDが


HOTとCOLDが逆になっていた蛇口
「おかしいね。どうしてお湯が出んかったがやろうかねぇ?」
「うーん、分からんねぇ。あっ、ひょっとして、この蛇口、HOTとCOLDが逆じゃない?」

そうなのだ。
HOTの方から水が、COLDの方から湯が出るようになっていた。

「何、これ?洗面台の方は、ちゃんとHOTからお湯が出るのに」

しかし、やっとお湯が出始めたのはよいが、
ぬるいし黄色がかったお湯ばかりが出続ける。

 宮脇俊三さんがこのホテルに泊まられた時には
「コックを回すと茶色の湯が出てきた。待てども待てども湯はきれいにならない。(中略)しかも湯がぬるい」(宮脇俊三著「シベリア鉄道9400キロ」)と書いておられるから、湯が
「茶色」から「黄色」になった程度で、31年前とあまり変わっていない

テレビも・・・


スイッチを押してもリモンコンを操作しても映らなかったテレビ そんな風呂でも、とにかく浴びてバスルームから出たところ、娘が
「このテレビ、全然映らん」と言う。なるほど、電源の赤ランプは灯るのに、画面は真っ暗のままだし音声も出ない。リモコンを操作しても、全然ダメ。

 部屋の掃除の際に、こんなことくらい、チェックしないのだろうか?まあ、どうせロシア語の放送ばかりだろうから、テレビが見られたところで、たいして役に立つこともないのだが。

 
「この部屋、時計もないね」と娘が一言。いやはや、これがかつては外国人客専用に使われたホテルの現状である。 

【第2日目 9月21日(土)ハバロフスク市内】

ホテルの窓から

雨の朝 ホテルの窓から見たハバロフスク市内 ハバロフスクの朝が明けた。カーテンを開いて窓外を眺める。あいにくの雨模様。しかし、
初めて見る町の景色の素晴らしいこと!

 教会の尖塔と青い屋根、赤レンガや白い壁の建物、色づいた街路樹、緑の芝生、そして右奥にははるか雲煙のかなたまで続く大河、アムール。わずか3時間でやってきた異国の景色が拡がる。

 31年前に、宮脇俊三さんもNHKのシベリア鉄道取材クルーも、この建物の窓から同じ景色を眺めたか、と思う。いや、正確には、31年の歳月を経て町の風景は大きく変わったことだろう。「同じ景色」ではないかも知れない。だが、アムールの流れ、その向こうに霞む平原や中国東北部の山々など、自然の風景は、彼らが眺めたと同じもの、と思うと、
大きな感慨が湧いてきた。

朝食

これが私の朝食。ちょっと欲張って食べ過ぎ?向こう側の娘のお皿と大違いだ。(携帯電話で撮影したもの) ペラペラの紙にキリル文字が並んだ朝食券を手に、娘と二人、1階の大レストランへ向かう。昨夜、大音量の音楽に恐れをなして夕食は敬遠したレストランだ。

 ロシア式朝食はどんなものかと、期待半分、不安半分で入ってみると、
ごく普通のバイキング形式の朝食だった。並んでいる料理も、西欧諸国のホテル朝食と変わりない。味も決して悪くない。

 いつもながら、朝はあまり食べない娘を前に、私は、あれもこれもと料理を皿に取り、がっつりと食べまくる。

ロシア女性

 食べ終わって、レストランを出るとき、出口にいた若い女性スタッフに
「スパシーバ」(ありがとう)と声を掛けた。しかし、彼女は知らんぷり、いや、聞こえないふりか。文化の違いかも知れないが、言葉のひとつくらい返してもよさそうなものなのに。

 前にもどこかでこんなことが、と思って考えてみると、それは中国本土のホテル・レストランでのことだった。
こういうのが中国とかロシアの流儀なのだろうか?

娘も
「ロシアの女の人って、お客さんに笑顔を見せる習慣がないがやろうかねぇ」
「うーーん、韓国では、相手がお客さんでも、女性が無闇に笑顔を見せるのは『はしたないこと』とされているって聞いたことがあるけど、ロシアはどうかねぇ」

しかし、ガイドのナターシャさんは、笑顔美人。昨夕会ったばかりだが、この印象は外れていないだろう。そんな人もいる。

 要は個性とか受けた教育や訓練の違いであって、ロシア女性をすべて一括りにして
「笑顔を見せない」とか「愛想がない」などと言うのは、日本人のことを「意見を言わない」「何を考えているか分からない」などと決めつけるのと同じなのかも知れない。

アムール川の岸辺

 そのナターシャさんがホテルのロビーに迎えに来た。
 
「ドーブラエ・ウートラ」(おはようございます)と挨拶すると、彼女も笑顔で「ドーブラエ・ウートラ」。この旅では、ずっと私たち二人だけのために、ナターシャさんが案内してくれるのだ。

 今日は、
終日、ハバロフスク市内の観光である。楽しみにしていた「アムール川クルーズ」は、この大河の異常増水が続いているため、クルーズ船が欠航しており、
中止とのこと。出発前にニュースで増水のことは知っていたが、そろそろ水位も低下しているのでは、と淡い期待をしていたのに、残念!
 
「代わりに極東美術館へ行きます」とナターシャさん。

間近に見たアムール川 さて、傘を差して、徒歩でホテルのすぐ近くにあるアムール川を見下ろす公園に向かった。

 アムール川。
この大河を見てみたかったのだ。今、まさに間近に流れている。大きい!まさに滔々とした流れだ。全長4,368km。モンゴル、中国、ロシアの3ヶ国を流域として、オホーツク海に注ぐ。ハバロフスクの手前でウスリー川と合流し、北東方向に流れてサハリン北部の対岸に至る。

 この付近で川幅は、どれほどだろうか。あまりにスケールが大きくて、距離感がつかめない。向こうに連なる山々は、中国の東北部。あいにくの天候のため、少し霞んでいる。この川の中国名は「黒竜江」。その名のとおり大きな龍が横たわっているかのような光景である。

 川面には、大きな貨物船が何隻も行きかう。中州も多い。ソ連時代には、支流であるウスリー川に浮かぶ中州の領有権を巡って中ソ両軍が衝突したこともある。1969年3月のことである。

 この大河が冬には氷結して、歩いて対岸まで行けるようになるという。冬には、どんなにか寒いことだろう。この地から遠く離れた町だが、中露国境に満州里という町がある。
「満州里小唄」という古い歌の哀愁を帯びたメロディーを思い出した。(満州里小唄へのリンクはこちら

「アムール河の波」

アムール川をバックに親子で 9月だというのに、この厚着! 雨の中、歩きながらナターシャさんが
「どうしてハバロフスクに来たいと思われたんですか?」と聞く。
 「合唱曲の『アムール河の波』が好きで、この川を一度は見てみたかったんです」
と私。
「そうでしたか」
「ご存知ですか?『アムール河の波』。見〜よアムールに波白く、シ〜べリア〜の風立〜てば♪って曲ですけど」
(リンクはこちら→日本語版 ロシア語版

 突然、歌を口ずさみ始めたオヤジを横目で見て、娘は

「恥ずかしいからやめて」
と言いたそうな顔をしている。

ニッコリしながら
「ハバロフスク市民なら、この歌は、みんな知っていますよ」とナターシャさん。
「そうですか。良かった〜」
「音楽が好きなんですか」
「コーラス部にいたんです。あっ、言いたくなかったんですけどね。ヘタの横好きですから」


「ヘタの横好き」なんて日本語をナターシャさんが理解出来たかどうかは分からない。


 この後、市内の観光地を回っていく。そこでは、ロシアとこの町が歩んできた歴史が垣間見える。
 その話は、また次回に。


−続く−

(2013/11/17)




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