(2012第5回)片道90分の海外旅行−その5−
ソウル2日目の夜、「ナンタ」観劇の後、かみさんと2人揃ってアカスリを体験に。さて、明洞から程近いビルの地下のお店では?
【第2日目 2月13日(月) ソウル市内】
アカスリ−2−
男女別の入り口で、かみさんと別れた。少し待たされた後、マネージャーとおぼしき物腰の柔らかい中年男性が出てきて面談。私は、アカスリ体験だけのつもりでここまで足を運んだのだが、マネージャー氏は、少し拙い日本語で、
「足裏と全身マッサージもしてみて下さい。効果が2〜3ヶ月は持続します」
「日本で受けるよりもずっと安いです」と熱心に勧める。
肩凝りと腰痛に悩んでいる私は、まあ、そんなに効果があるなら、受けてみようか、韓国の土産話にもなるし、とOKした。
アカスリ−3−
まずは、薬草風呂などで入浴。サウナなどもあって、日本のぽかぽか温泉のミニ版である。
しばらく待たされた後、若い兄ちゃんが呼びに来た。
ビニルを張ったベッドで、タオル一枚を腰に巻いただけで俯せになっていると、兄ちゃんが健康タオルのようなザラザラした布で全身をこする。時々、兄ちゃんが、日本語で「ほら、こんなに」と言って、こすり落としたアカを見せる。続いて仰向けになり、続いて横向けに、全身をこするのだが、そのたびに恥ずかしいほどアカが落とされる。
それはよいのだが、この兄ちゃん、私のかかとを髭剃り用のカミソリのようなもので剃って「ほら、かかとの角質がこんなにあるよ。足の裏も放っておいたら水虫の巣になるよ」と言う。そして、「日本円でたった1,600円の追加だから、これを取った方がいい。どう?」
うーーーん、商売熱心だ。しかし、施術中にそう言われたら、断りにくい。半信半疑ながら、私は承諾した。
アカスリ−4−
続いて、今度は別の兄ちゃんが出てきて全身と足裏のマッサージ。これは。なかなか気持ちが良かった。「キブニ・チョアヨ(気持ちいいです)」と韓国語で言うと、兄ちゃんは笑っていた。
この兄ちゃんも、また吸い玉を持ち出してきて、「これで身体の悪いところを吸い出すと、体調が良くなる。1,600円だけの追加です、どう?」と言う。
商売のやり方に、胡散臭さを感じ始めていた私は、このお勧めは、きっぱりと断った。
すべての施術を終え、かみさんと合流し、会計を頼むと、2人合計で23,100円だと言う。かみさんの方も、施術中に女性スタッフに「これをすればもっときれいになりますよ」「これをしない手はありませんよ」と、あれやこれや追加を勧められて、この値段になったらしい。
時刻は既に23:30。「ぼったくり」に近いやり方に、何やら割り切れなさを感じたアカスリ体験だった。
そして、確かに施術中はそれなりに気持ちよかったが、あれこれ聞かされた効能は、帰国後、ほとんど感じることがなかった。
【第3日目 2月14日(火) 夕刻までソウル その後帰国の途に】
ソルロンタン
この旅の最終日である。
もっとゆっくり韓国各地を巡りたいところだが、ビンボー暇なしのこの身には、2泊3日、ソウル市内のみという日程もやむを得ない。
さて、今朝も朝食は、ホテルではなく、バスで市内のレストランへ赴いてとるという。
出発前、かみさんは、昨日、偽ブランド品を買いに行ったオバサンたちからそのお値段を聞いて「安いわぁ」と、さも買いたかったようにつぶやいている。
ホテルのチェックアウトを済ませてバスに乗り込む。韓国の国会議事堂などの脇を通り、今日も渋滞の道をのろのろと進んでいく。40分ほどもかかって、やっと朝食場所に着いた。そのレストラン、というより「食堂」は、日本人の団体客ばかりだった。
今日の朝食はソルロンタン。漢字なら「雪濃湯」だ。牛の足の骨や臀部など、さまざまな肉を鍋に入れて煮立て、ダシをとったスープにご飯をかけて食べる。米が貴重品だった頃の名残で、ソーメンのような麺も入っているという。
どんなものかと期待していたのだが、アジュンマたちが運んできたのは、思ったより淡白。申し訳ないが、いまひとつ物足りない。この店のソルロンタンがたまたまそうだっただけかも知れないけれども、私たち日本人には、やはり味噌汁とおしんこの方が舌になじむように感じた。
この食堂も、なかなか商売熱心。「イカの塩辛はいかが?よそで買ったら3倍くらいかかりますよ」とアジュンマたちが食事中の客に売り歩く。そもそも、このソルロンタン1人前の客単価はいかほどだろう?ここでもキムチなどは、お代わり自由だ。イカの塩辛でも買ってもらわなければ、利益は薄いに違いない。
昌徳宮−1−
今日は、昌徳宮(チャンドックン)へと向かう。昨日の景福宮が正宮、この宮殿は離宮である。
しかしながら、大韓帝国の末期に、王族たちは、もっぱらこの離宮を政務と生活の場としたため、歴史を彩るさまざまな出来ごと、事件などの舞台になった場所である。その建造物群は、1997年にユネスコの世界文化遺産として登録されている。
私は知らなかったが、かみさんによれば、この宮殿は風水に基づいたパワースポットとして知られているのだそうだ。この画像を携帯電話の待ち受け画面にすると良いとされているらしい。デジカメではなく、携帯電話を取り出して写真を写しまくるかみさん。
また、「チャングムの誓い」以来、韓流歴史ドラマを欠かさず見ているかみさんは、韓国は初めてなのに、構内の建造物などについて何かと詳しい。
ゴッドヌナことガイドの朴さんが「韓国人は、庭園を造ることが苦手です。だから日本や中国の宮殿や寺院などで見られるような樹木や池のあるお庭がありません」と解説する。うーーん、なるほど、言われてみれば。
また、王族が最後に生活していたため、景福宮に比べると、内部は近代化されていて、西洋式の調度類も取り入れている。例えば、ソファ、テーブルと椅子、シャンデリアなどである。
昌徳宮−李方子妃のこと−
宮殿内の門や建物などは、世界文化遺産だけあって、見ごたえのあるものが並んでいるが、正宮である景福宮とよく似たものが多いし、詳しいことは観光案内のHPに譲ることにして、本稿では説明を省略する。
ただ、広い敷地の中で「ここで方子妃が過ごされました」とゴッドヌナから紹介された建物が印象に残った。決して、豪壮な建物ではない。宮殿の中でも離れと言ってよいような場所にある平屋である。
李方子妃(1901-1989)は、日本の皇族、梨本宮家に女王として生まれた。皇太子裕仁親王、つまり後の昭和天皇のお妃候補にも挙げられたという女性である。1920年、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠と結婚。本人の意思とは無関係に決められた婚儀であり、明らかな政略結婚だった。
1921年に長男が誕生。東京で暮らしていた夫妻は、乳児だった長男を連れてソウルへ里帰り。東京へ帰る直前にその長男が急逝した。これについては、軍部による毒殺説もささやかれている。
1931年、10年ぶりに次男が誕生。しかし、1945年の日本の敗戦によって、夫妻は、王公族の身分と日本国籍を失い、財産を切り売りしながら在日韓国人として細々と生活していた。韓国大統領・李承晩は夫妻の帰国を拒否。1960年には、夫の李垠が脳梗塞で倒れた。
韓国の政権が朴正煕に変わって、やっと夫妻は帰国を果たし、昌徳宮内で暮らすことになったものの、寝たきり状態だった李垠は1970年に死去。
韓国人 李方子として
方子妃は、日本への帰国を断り、韓国人李方子(イ・パンジャ)として、この昌徳宮内の屋敷で生活をしていく。特に障害児教育に尽力し、特技の七宝焼などを活かして資金を作り、障害児施設や障害児学級を設立した。
その尽力ぶりは韓国でも認められ、1981年には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
だが、次男は、米国人女性と結婚し米国に帰化。子供が無いままにその夫人と離婚して、2005年、心臓麻痺のため滞在中の日本で死亡。
政略結婚のあげく、故国から離れ、家族に囲まれることもなく過ごした方子さんの晩年は、どんなに寂しいものだっただろうか。
この話をゴッドヌナから聞いたかみさんは、「お気の毒やね。寂しかったろうね」と何度も繰り返していた。
この方子さんといい、旧満州国の皇弟に嫁いだ嵯峨浩さんといい、普通の家庭に生まれて普通の結婚をされていたら、どんな人生を送っていただろうかと思う。
お二人とも、結婚相手の国でその国民になりきって、人のために尽くされた。
滞在44時間の韓国旅行記、次回は最終回。
仁川空港へ向かうバスの中で、大切なものが見当たらないことに気付き、大汗をかくことに。
−続く−
(2012/04/05)