(2012第2回)片道90分の海外旅行−その2−
19年ぶりに訪れた韓国。そこにいた自分は、買い物と韓流ドラマの舞台巡り目当てのオバサンの中に、一人だけ紛れ込んだ場違いなオジサンだった。
密かに「ゴッドヌナ(ゴッド姉さん)」なるニックネームを献上した大柄な女性ガイドの後を短足で追いかけながら厳寒のソウル市内を巡る。
【第1日目 2月12日(日) 仁川空港→ソウル市内】
海鮮鍋
私たちのバスは、仁川国際空港からソウル市内へと向かう。前回19年前は、まだ金浦空港しかなかったので、空港もアクセス道路も初めてである。
とっぷりと日が暮れた中、バスが着いたのは、大衆食堂といった趣のレストランだった。今夜の夕食は、海鮮鍋である。
高松から仁川までの機内でも簡単な機内食が出た。かみさんの冷たい視線を無視してCAさんから缶ビールをもらって飲んでもいたので、あまりお腹は空いていないのだが、目の前にキムチやナムルなどの副菜類とともに海の幸を煮込んだ鍋が並べられると、ついつい手が伸びて、「メクチュ、チュセヨ(ビール下さい)」と頼んでしまう。
そして、食堂のアジュンマ(おばさん)たちの勧め上手なこと。日本語で「チヂミはいかがですか。おいしいですよ」「奥さん、飲み物はどうします?」と次々に追加注文をとる。Lサイズのピザほどの大きさのチヂミは、おいしかったが、日本円換算で1,600円というのは少し高い気がした。
ホテル
満腹になってホテルへ向かう。事前にネットで調べたところ、格安ツァーで使うホテルにしては、内容は悪くなさそうだが、さて、どんなものかと少し心配していた。
だが、部屋は少し狭いものの、床暖房が入っていて心地良い。さすがオンドルの国だ。ベッドなども清潔。ただ、歯ブラシなどは備えられていない。韓国では環境への配慮から、ホテルには使い捨てにする歯ブラシなどは置いていないのだ。これは高級ホテルでも同様である。
とにかく、韓国到着第一夜が暮れた。明日は、AM7:40出発。よく眠っておこう。
【第2日目 2月13日(月) ソウル市内観光】
早朝のソウル
AM6:40にモーニングコールが鳴った。韓国2日目の朝である。この国は、日本と時差がなく、ソウルは国の西方に位置しているため、まだ暗い。
ホテルの部屋は暖房がよく効いていて暑いほどだった。喉を傷めたら大変と、バスタブの湯を抜かず、バスルームのドアを開けたまま眠ったのが良かったのか、ほどよく湿度が保たれている。
さて、今日はAM7:40にホテルのロビーに集合して、朝食は外部のレストランに出掛けてとるという。ロビーにおりると、ホテルのレストランからおいしそうな香りが漂ってきた。このホテルでも、朝食がとれるのだ。なのに、なぜわざわざ外で?と思う。コストダウンのため、安い単価で契約したレストランに行くに違いない。なにしろ格安パックなのだ。
ゴッドヌナこと、ガイドの朴さんが迎えに来て、全員バスに乗り込む。道路は朝の通勤ラッシュだ。私たちのバスは、なかなか幹線道路に入れない・・・と思いきや、無理やり割り込んだ。強引!後続の高級車が激しくクラクションを鳴らす。うーーん、韓国のドライバーは、たくましい。
韓式朝食
バスは渋滞した道路をレストランに向かう。ノロノロと進むため、時間がかかって仕方ない。たかが朝食である。なぜもっと近くのレストランを使わないのか?と思う。
結局40分以上かかってやっと朝食場所に到着した。
キムチ、ナムルなどお代わり自由の副菜が添えられた韓式朝食がテーブルに並ぶ。主食がご飯なので、日本人には違和感がない。ただ、食器、箸、スプーンはすべて金属製だ。
チッカラクという金属製の箸を使いながら「すべりやすくて使いにくいわ」と、かみさんがぼやく。郷に入りては郷に従え、だ。
周りを見ると、金属製のお椀を手に持って箸でご飯を食べている人が多い。韓国式は、お椀はテーブルに置いたまま、ご飯はスッカラクというスプーンで食べるのがマナーであるが、知ったかぶりをして、同行者に嫌われたくないので、黙っていた。
この店でも、アジュンマ(おばさん)たちは、日本語で「ミネラルウォーターは要りませんか」「ウーロン茶もありますよ」と、熱心に追加注文をとっていた。
南山韓屋村
レストランを出て最初の目的地である「南山韓屋村(ナムサン・ハノクマウル)」へ向かった。ここは、李氏朝鮮時代に両班(ヤンバン)と言われた高級文官・武官たちの旧邸を集めて再建し、公開している施設である。
本稿は、観光案内を目的とするものではないので、詳細は他のHPに譲るとして、ここでは印象に残ったことを記しておこう。
◎家屋には、床暖房であるオンドルが備えられていて、床下には薪をくべる焚口、建物脇には煙突が見られた。だが、当然のことながら、建物は現在のような機密構造ではなく、冬季には寒風が遠慮なく吹き込んだと思われる。「立派な家やけど、現代人は、とても暮らせないね」と周りから声が上がっていた。
◎両班は、身分制度で最上位に位置する貴族階級である。当主を中心に、本妻、側室、使用人なども、この家屋で生活していた。建物の造作は大きいし、敷地も広いが、建物から垣間見える生活ぶりは、質素そのもの。今日の一般韓国人のほうがずっと良い暮らしをしているように見えた。
◎「先祖を敬う」ことが生活の中心になっている。広い部屋に4代前までの先祖を祀り、日々、礼拝とお供えを欠かさない。そのお世話ぶりは、現に生存している家族に対するよりもずっと手厚かったそうだ。
景福宮−1−
さて、貴族の住居の次は王宮である。この国最大の王宮、景福宮(キョンボックン)へとバスで移動した。
朝鮮王朝の開祖である李成桂は、1392年、現在の北朝鮮に位置する開城(ケソン)で即位し、その2年後、当時の漢陽(ハニャン)、つまり現在のソウルに遷都を決定。風水に基づいて、この地の北岳山の南に正宮として建設し、1395年から使われてきたのが景福宮である。
広い!とにかく広い!総面積12万6,337坪もあるそうだ。
さて、ここで疑問発生。私は、19年前、1993年にもこの王宮を訪れたのだが、当時は、これほど広大な敷地ではなかったように思う。なぜ?
その疑問は、ゴッドヌナの説明を聞いて氷解した。
日本は、韓国を併合した後、この王宮内の建造物を次々に取り壊して、ここに壮大な「朝鮮総督府」の建物を建設した。前回、私が訪れた時には、まだその旧総督府の建物が残っていて、国立中央博物館として使用されていたのだ。
しかし、王宮の構内に割り込み、その正殿を隠すような位置に建てられた旧総督府は、日本支配と韓民族屈辱の象徴とされた。
韓国でも、豪華な旧総督府の建物を「歴史の教訓」として残すべし、との意見もあったようだが、当時の金泳三大統領の決断により取り壊しが決定。1996年に撤去されたのである。
そして、現在、跡地に王政時代の施設が次々に復元されている。私の記憶とずれがあるはずである。思えば、私は、滑り込みセーフで、撤去前の旧総督府の内部まで見学できたわけで、その意味では貴重な体験だったと言えよう。
景福宮−2−
韓国観光公社作成の冊子には、景福宮は、それ以前にも「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)によって焼失しました」、つまり日本の豊臣秀吉による出兵によって焼失した、と記されている。
一方、Wikipediaには、「日本の軍勢が入城する前に朝鮮の民衆によって略奪と放火が行われ、王宮が焼失した」旨、書かれていて、私のような浅学菲才の者には、どちらの書きぶりが真実に近いのか分からない。
しかし、韓国民の認識は「景福宮は2度も日本によって破壊された」ということのようだ。その意味でも、この王宮は、韓国民による反日感情の象徴のひとつでもある。
日韓の複雑な歴史を秘めた景福宮。その広大な敷地に並ぶ建造群、その中で演じられてきた人と人のドラマなど、この王宮にまとわる話は、まだまだ続く。次回をお楽しみに。
−続く−
(2012/03/15)