腕  ――かいな――
      


    


 月の光が眩しい。
 限りなく満月に近い十六夜の月は、
地上にくっきりとした影を落としている。

 風はなく、波の音だけが浜辺に響いている。



 強い香りが寄せてくる。
悪臭ではない、芳香と言って良いのだが、
あまりに強いため良いと感じる前に、強いと感じさせてしまうのだ。
 夏の夜にしか咲かない幻の花の香だ。
 舞香花――崖っぷちの沢で夜に咲き始め、朝には川に落ちてしまう花の、
今宵は最も美しく咲く夜だと言う。
 島の娘達に誘われ、船員達のほとんどは花見に出かけてしまった。
ベックマンにも当然声は掛けられたのだが、
どういうわけか夕刻からずっと姿を見せないお頭を放置しておくわけにもいかず、
丁重に辞退して、お頭探しを続けていたのだ。

 これだけ月が明るいと、ランプも要らない。





 シャンクスを見つけたのは、夜もかなり更けた頃だった。
 海岸沿いの、というよりは、海の中に湧き出る温泉に赤い髪が見えた。
白々とした月の光の下でさえ、色褪せることのない“赤”だ。


「また入ってるのか。あんたが、そんなに風呂好きとは知らなかったぜ」
「ああ、催促されちまってな」


 誰に、とは聞くまでもない。
浅瀬に座り込んだシャンクスの太股の上に
くってりと伸びた黒猫の姿……これが猫の姿であらうか、
慨嘆するベックマンの気も知らず、シャンクスは宣う。

「カッツェにだって、リフレッシュタイムは必要だよな〜
カッツェのおかげで俺たちの船にゃネズミ一匹いないものな」

 黒猫の顎から鼻先を撫で上げるシャンクスの指の動きにつれ、
カッツェのひげが大きく動く。頬から目元の動きは、まるで笑っているようだ。
――まさかな、とは思いつつ、
かなりしてやられてきたベンは、いささか被害妄想な気分にかられた。
 うっとりと目を閉じたまま漏らされる息が声になるなら、
さしずめ「くにゃ〜ん」とでもなるのだろうか。
弛緩しきった、そして、幸福を絵に描いたような姿だった。




「……必要なのは、否定しないが」
 ベンの声は、ちょっとばかし剣呑なものになる。
「あんたにソレを求めるのは肯定できない」
「おい、猫にまでヤキモチかよ、見苦しい男だな」
「ああ、俺は見苦しい男なんだよ。こと、あんたに関しては」
 盛大に開き直ったベンの言いように、シャンクスは、破顔する。

「けっこうなこった。赤髪海賊団の副船長は自分を知ってるわけだ」
「褒美だ、いいこと教えてやろう」



 くいっと指を差す。
「俺のサッシュを取りな」
 言われるまま、少し離れた岩場に放り出されているそれを持ち帰ると、
次の指示が出される。
「広げてな」
 捧げるように、広げて待つ。
 シャンクスは右手でカッツェの首筋を持ち、
左腕の残った部分で器用にカッツェの尻を支えて持ち上げた。
「ほら」
 すとんとサッシュの上に載せられる黒猫。
「おい、これをどうしろと」
「拭いてやれよ、お前、両手があんだから楽勝だろ」


 冗談ではない。そんなことをした日には――喚くか暴れるか、
どちらにせよ、ひどい目に遭うのはベンだ。
 抗議しようとして――止まる。

 暴れない?喚かない?時々しっぽを振って、雫を散らしてはいるが、
サッシュの上に載せられたまま、カッツェはおとなしく伸びている。
どころか布越しにとはいえ、ベンの掌に体をすりつけ喉を鳴らしさえしている。




「シャンクス、これは一体」
「拭いてやれってば、待ってるだろ」

 言われるまま、黒猫の体を拭きながら再び問う。

「シャンクス、説明しろ」
 ベンに体を拭かれて、なおカッツェがじっとしているなど、
信じられない。満月の夜の魔法だろうか。
(正確には、十六夜だが)




「見たとーりさ。カッツェは風呂に弱いんだ」
 風呂上がりには、もうくて〜となっちまって。
 可愛いぜぇ。

 シャンクスににこにこと言われてしまっては……逆らえない。
ベンはせっせと猫の湯上がりを手伝った。
掌の上で、安心しきったようにくつろぐ姿は、
赤髪海賊団の狩猟隊長とも思えない稚さで、
放り出すわけにもいかず。……
正直、イヤではなかった。掌に伝わる温もり。
安心しきって身を預けてくるものの気配。……誰が、これを拒めるだろう。




「で、これからどうするんだ」
「放っときゃいい。小一時間は身繕いしてるから」
 見てな。

 シャンクスが指さすとおり、
ベンがサッシュごと下ろすと同時に、カッツェは身繕いを始めた。
全身くまなく、それはもう丁寧に。
確かに一時間はたっぷりかかりそうだった。



「来いよ」
 続けてかけられた声に無条件に従ってしまったのは、やはり月の魔法だろうか。
ブーツこそ脱いだものの、ベンは着衣のまま、海の中のシャンクスに歩み寄った。

 シャンクスの腕が伸びてくる。
 ベンは、拒まなかった。そのまま、共に水中に沈む。
シャンクスの腕はベンの背中に回り、緩やかにホールドした。

 波に揺られながら素裸のシャンクスを抱いてなお、性的興奮とは遠い。
遠いけれど近い。ひたひたと寄せてくるような感覚――


 花の香が強くなる。夜明けが近いのかもしれない。
舞香花は、黎明の頃には落花し、海へと流れ出るのだから。



「何かあったのか、シャンクス」
 ベンが呆れて聞いてしまうほどに、シャンクスの抱擁は長く、そのくせ穏やかだった。
ベンの背に沿っただけの、右だけの抱擁。
けれど、ベンがこの腕を振りほどくことなど、あり得ない。
たとえ、たとえシャンクスがベンの腕から逃れることがあったとしても。



「きれいだ」

 真顔で囁かれて――一瞬反応が遅れてしまった。

「は?」

 何とも間抜けた声が出た。

「お前てば、すげーきれいだ」

「…」

……何と反応すればいいものか。まさか頬を染めて俯くわけにもいかず、
当たり障りのない返事を返してしまう。

「光栄だが…こんなごつい三十男に言うセリフじゃないぞ」
「かんけーない。三十になろうが、四十になろうが、お前はきれいだ」

 こんな傷だらけでも?
 傷だらけでも!

 白髪になっても?
 白髪になっても!

 ハゲても?
 ハゲても!

 ここまで言われると、いっそ笑えて、ベンは落ち着いて返せた。


「ありがたいことだ」

 口元がほころびてしまうのは、どうしようもない。

「俺も、あんたのこと、きれいだと思うよ」

 ベンの左の掌が、シャンクスの髪の中に差し込まれる。
「朱より赤いこの髪も」

 シャンクスの左の瞼から頬にかけて走る傷痕を、ベンの右手がなぞる。
「この碧の瞳も、傷痕さえも」
 あんたはきれいだ。




「そっか、俺たちソーシソーアイなんだな」
 いかにも聞きかじりの単語を使ってみましたと言わんばかりの発音に、
ベンは苦笑したが、意味はそう違いはしないので訂正は入れない。
第三者はいないのだから、誰に恥じらう必要もない。


「馬鹿な奴らだよな」

「?」

「お前の親……
 お前を愛さなかったなんて、お前の愛を受け取らなかったなんて、な。
つくづく阿呆な奴らだ」

 お前はこんなに暖かくて、お前の愛はこの上なく熱いのに。

「シャンクスっ!」
 今まで、その領域に触れたことなど無かったのに。

「そんな顔、すんな」

 何かを零すまいとするように、食いしばったベンの唇に優しく触れる。
少しばかり体温の低い、ひんやりとした唇は、
シャンクスの触れた所から赤みを増した。まるで点灯されたように――

「親は――もう関係ない」

 絞り出された声。
「あんたが言ったことだ。求めて得られないものを望むのは虚しい。
止めっちまえってな」

「俺が得たものは、捨ててきたものの何倍も、何万倍も値打ちがある」

 いいや、はなから俺のもん、なんかじゃなかったのさ。あれは。
 むしろ淡々と告げる声が哀しい。


「お前…」

 お前には、他の生き方だってあった、よな。
 けれど、俺は離してなんかやらない。
 何を無くしても、俺は俺だ。
 何を無くしてもいい。俺が望むとおり生きるためなら。
 けれど、お前はダメだ。
 お前が望んだって、いかせてはやらない。




 愛しい愛しい、俺の男――

 そうさ、俺はお前の“親”じゃない。
親なら、子どもが独り立ちするよう仕向けるんだろうが……
俺は、そんなことしない。

 ベン、俺の愛しい男――

 知ってるか。俺に出会った、その時から
お前の運命は未来永劫俺と共にあるんだぜ。
 たとえ、あの月が夜空から無くなることがあろうとな。










2002.2.22



「汀にて」のその前夜編
☆ 副ちゃんが、あーまで余裕綽々だったのには、
何か訳があるに違いないということで〜
三つ揃えようと思ったのですが…
かなりムリがありますね。シャンクスニセモノだし…
でも、言ってもらいたかったんですよぉ。
ちゃんとシャンクスの口から「愛しい」って。
ちゃーんと両思いだってアピールしたかったんだけど…



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