K.龍馬像を見に牛屋口へ行こう!!


春の山道をゆったりと・・・江戸時代にタイムスリップ!!

  金毘羅五街道の一つ伊予・土佐街道は高杉晋作が幕吏の手を逃れてこんぴらを脱出した道でもあります。街道のこんぴら口にあたる牛屋口には瀬戸大橋開通を期に坂本龍馬の銅像が建立されています。
牛屋口までの道は昔からの雰囲気が残る絶好の散策コースです。途中の広谷墓地には法然上人染筆の碑石があります。
  

 ・・・2時間、約5キロ 大人1,100円 子供900円

1. ------ 松里庵 ------

松里庵は江戸時代末期、琴平の勤皇家日柳燕石が常用した料亭として知られています。燕石は勤皇家であると共に博徒の親分としての顔も持ち、数々の勤皇浪士とは随分違った働き方をしています。 薩長土(薩摩、長州、土佐)の三藩のうち、特に長州との縁が深く、高杉晋作、桂小五郎など、名の知れた長州藩士が彼の許を訪れています。残念ながら吉田松陰は金毘羅大権現には参詣しましたが、その時には燕石と会っていないようです。 吉田松陰が燕石の詩文を愛重した事は事実で、燕石29歳の作「楠公聖人五絶」が長州志士に愛誦されていました。現在でも、よく詩吟の会で詠じられています。
高杉晋作については、彼の逃亡補助という罪で牢獄に入れられました。幕府が高杉晋作を逮捕に来た時、高杉晋作はこの松里庵に居たと伝わっております。宴会をする座敷には、予め逃亡を容易にする為の抜け穴が用意され、 高杉晋作はその穴から燕石の子分に案内されて長州まで無事に脱出したと言う事です。
高杉晋作が長州の仲間に知らせた手紙には、燕石には子分が1000人も居ると書いてあります。晋作は燕石を大変尊敬していたようで、晋作と燕石の会話のような漢詩が残っています。
燕石には情愛に満ちた詩もあり、詩吟などで聴く機会もあると思います。
逮捕から4年して燕石は釈放され、その後すぐに官軍に加入、伊藤博文と共に晋作の墓参に訪れ、有名な漢詩を残しております。
燕石については、お話できる別の機会があればと思います。
松里庵は、その後も営業を続けていましたが、平成始めに廃業しております。140年前の抜け穴も、座敷もそのまま残っております。 香川県指定文化財の指定を受けていましたが、現在はその指定を解除しています。

2. ------ 公会堂 ------

公会堂は昭和9年に建造された木造の日本建築物で、平成10年4月有形文化財に登録されております。 象頭山を見上げる金刀比羅宮参道に程近いところ、美しい緑の山を借景に荘厳な佇まいを見せています。春には、庭園の桜の木々が一斉に咲き乱れ、あでやかな風景が広がります。 毎春のこんぴら歌舞伎の頃には、花見を楽しむ人が多く、164個の提燈の下で盛り上がっています。又、現在でも各種催しや集会などに使用されていますが、全国的な旅行ブームの時には、旅館の館主が演劇を行ってお客様をもてなしていた事もありました。
公会堂には古い史跡が移設されています。石段を登ってすぐ左にあります燈籠は元禄7年(1694)建立の燈籠です。当時は苗田村にあったと記録にありますが、苗田のどこかは分かりません。300年以上前ですが、元々の場所が不明ということで、史跡の指定からは外れています。
与謝蕪村の句碑 「象の目の笑ひかけたり 山桜」。与謝蕪村は明和3年(1768)から2年間琴平に滞在したという記録が残っています。


3. ------ 金丸座 ------

江戸時代、三都以外の地方は常設の小屋を建てる事が禁じられていました。金毘羅でも、年3回(3、6、10月)の金毘羅大権現のお祭りの「市立ち」の度に、仮設小屋で上方から役者を招いて歌舞伎などの興行を行ったり、富籤の興業などが盛んに行われていました。 しかし、江戸時代中頃から高まった金毘羅信仰により金毘羅の町がだんだんに門前町の形態が整ってくるにつれて、常小屋の必要性を望む多数の庶民の声を反映し、高松藩寺社方よりの許可を契機に、天保6年(1835)に三都以外の地で始めて定小屋として建てられました。
当時、大阪三座の一つ大西芝居(後の浪花座)を模し、富籤(現在の宝くじのようなもの)の開札場を兼ねた定小屋として建てられましたが、三都に在った小屋はすべて無くなったため、旧金毘羅大芝居(金丸座)は、現存する日本最古の芝居小屋となっています。 元々の場所は、現在「琴平町歴史民俗資料館」が建っているところです。 小屋の名称は所有者が変るたびに変更し、明治33年に「金丸座」と改名した後は現在でもこの愛称で親しまれています。
戦後、昭和21年終戦の傷跡がまだ充分に癒えない時代にあって、飯塚友一郎、五郎蔵親子の金丸座に関する論文が「建築文化第12号」に発表されました。これが戦後の金丸座復興運動の端緒です。
昭和22年にはラジオ放送や新聞への掲載が草薙金四郎氏によって行われ、金丸座の価値を見出す重要な役割を担いました。
昭和28年には香川県重要文化財に指定されました。
昭和33年5月、英国の東洋演劇研究家A.C.スコットが金丸座を訪問しました。案内役は建築家であり当時「英文日本」編集長であった斎藤寅郎氏、山陽新聞の記者であった因藤泉石氏、琴平町からは和泉観光課長、金丸座の座主松島吾市氏も同席され、丹念に取材されたようです。 翌月の朝日新聞学芸欄に「いたましい金丸座」の大見出しで掲載された記事が金丸座復興運動の導火線となりました。この年秋には建築関係者や演劇関係者の来琴が相次ぎ、文化財保護の人たち、マスコミ各界の人たちも動き始めました。
しかしながら、昭和30年代には復興運動は実を結ばず、県の重要文化財指定も一旦取り消しになり、再度指定されるなどといった事が起きました。
昭和45年に漸く「旧金毘羅大芝居」として国の重要文化財に指定され、昭和47年から4年間の歳月をかけて現在の場所に移築復元され、昭和22年から始まった草薙金四郎氏を中心とする復興運動は29年間の努力が報われる事となりました。
昭和60年からは「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催され、四国路に春を告げる風物詩となっています。こんぴら歌舞伎の初回からのデータ等は元々の場所である「琴平町歴史民俗資料館」に展示してあります。
平成15年度に復元及び耐震構造工事(平成の大改修)が行われ、併せて調査中に発見された痕跡を検証し、これらの判明した「ブドウ棚」と「かけすじ」を復元し、より江戸時代の情緒あふれる姿に再現することができました。


4. ------ 広谷墓地 ------

山の斜面を利用した古くからの墓地です。道のすぐ近くには法然上人染筆の六字の名号の碑石があります。金刀比羅宮の神域より移した累代別当職の墓や、菅家、山下家など古くからの琴平の町を支えた旧家の墓が多く、変わったところでは、上総の国の勤皇家野城広助の墓があります。

5. ------ 牛屋口 ------

昭和60年に国土交通省と環境省が制定した「四国のみち」に伊予・土佐街道の一部が入っています。道標や説明板が設置され、特に「牛屋口」辺りは昔のままの雰囲気が色濃く残って格好の散策ポイントとなっています。 説明板にも書かれていますが、歴史上の人物では、高杉晋作がこの街道を伝って萩まで落ち延びました。晋作のその後の活躍はご存知の通りです。なお、説明板には箕浦あたりと書かれてありますが、高杉晋作は箕浦からではなく和田浜から船に乗って山口に帰りました。
坂本竜馬の銅像は最近作られた物です。確かな資料は残っていませんが、坂本竜馬も間違いなくのこの街道を往来していたものと思われます。
歌人では、小林一茶の名前を挙げられます。「おんひらひらてふも金毘羅参りかな」の有名な俳句は、実はこの街道上で作られたのではないかと言われております。

ここで折り返しです。道なりに表参道に出ます。

6. ------ 一の坂鳥居 ------

一段と急な磴道が大門まで続きます。伊予・土佐街道の距離は大門から○里と数えますが、一の坂鳥居が伊予・土佐街道が参道に繋がる地点ですので、ここが街道の終点と言う事もできます。
備前焼の狛犬、すぐ上には灯明堂などがあります。どちらも重要有形民俗文化財です。

7. ------ 虎丸旅館 ------

虎丸旅館は現在一番高い所にある旅館です。主として伊予・土佐街道を歩いて来た参拝客を対象としていたと思われます。
宮本百合子が琴平に来たのは昭和21年9月、「虎丸旅館」に宿泊して、翌日公会堂で講演を行い、翌日には善通寺で夫の顕治と一緒になった事が記録に見えます。旧姓は中條ユリ。プロレタリア文学運動の旗手として活躍、共産党書記長の宮本顕治と結婚して宮本百合子と改名しました。讃岐での知人は多く、壷井栄とは同じ屋根の下に生活した記録も残っています。

8. ------ 表参道 ------

表参道はほぼ全て石段になっています。ご本宮まで785段、上りより下りの方が危険です。特に雨の日は着物を着たご婦人が滑って転ぶ事がよくありました。道の両側には土産物店がづらりと並び、今も商売に精を出しています。

9. ------ こんぴらうどん ------

石段の登り口には「とらや」「さくらや」と、二つの大きな旅館がありました。今はどちらも蕎麦屋、うどんやと姿を変えていますが、店先の佇まいは昔と殆んど変わりがありません。「とらや」は主として大坂からの客、「さくらや」は阿波、伊予、土佐の客がメインだったようです。旧「さくらや」はこんぴらうどん参道店として平成15年有形民俗文化財に登録されております。

10. ------ 灸まん ------

灸まんも昔は旅籠で、「伊予屋」と呼ばれていました。名前の通り伊予の客をメインとしていたと思われます。創業230有余年で、こんぴらさんでは、一番の老舗です。ここで最後ですのでゆっくりご休憩下さい。