I.こんぴらの句碑巡り


こんぴらの町にある句碑を巡る文化コース

  一番新しい稲畑廣太郎から一番古い古帳女、古帳菴の句碑まで、14の句碑を巡ります。
  こんぴらの町には多くの歌人、俳人が訪れ、地元の人達との交流も多く、参道周辺に多くの句碑が建立されています。
  坂道を登ったり下ったりしながら、それぞれ特徴ある句碑を見ることができます。
  特に裏参道の山道を散策できる格好の機会です。
   

 ・・・2時間、約5キロ

コース外にあるのは参考資料です。時間がある方はどうぞ。

1. ------ 稲畑いなはた廣太郎こうたろう (1957- ) ------

山気さんきとは朝桜よりはじまりぬ」

 平成19年12月建立。

松尾寺の境内にあります。松尾寺は表参道の南の道筋の小松町の坂の登り口、公会堂の下です。高野山真言宗、普門院と号し、本尊は釈迦如来です。元は金毘羅大権現金光院の別荘地としての寺でしたが、神仏分離令に際しこの地に移りました。 四国曼荼羅霊場十六番札所です。地元の人は「まつおじ」とは発音しません。いつも「まつおうじ」と呼びます。山門には二品親王の額「象頭山」が掲げられ、文保3年(1319)作の弘法大師坐像があります。
稲畑廣太郎は、高浜虚子の流れを汲むホトトギス派の俳人です。

2. ------ 与謝よさ蕪村ぶそん (1716--1784) ------

「象の目の笑ひかけたり山桜」

 昭和44年4月建立。
 

公会堂の玄関前の庭の一隅にあります。公会堂は昭和9年に建造された木造の日本建築物で有形文化財に登録(平成10年4月)されています。象頭山を見上げる金刀比羅宮参道に程近いところ、美しい緑の山を借景に荘厳な佇まいを見せています。春には、庭園の桜の木々が一斉に咲き乱れ、あでやかな風景が広がります。毎春のこんぴら歌舞伎の頃には花見を楽しむ人が多く、現在でも各種催しや集会などに使用されていますが、全国的な旅行ブームの時には、旅館の館主が演劇を行ってお客様をもてなしていた事もありました。
与謝蕪村は明和3年(1768)から2年間琴平に滞在したという記録が残っています。

3. ------ 大西おおにし一外いちがい (1886-1944) ------

長閑のどかさをうち眺め居りさぬき富士」

 昭和50年5月建立。
 

金丸座の三差路の左側道端にあります。地元櫛梨の出身者です。「肩書きや名声が幅を利かせていた戦時中、どの人にも公平に付き合い話をしていた珍しい人です。」という飾らぬ人物でした。彼の調査した「掃苔録の人びと」は江戸時代の琴平の人びとの貴重な記録として残っています。

まっすぐ進むと、コース外の大久保ェ之丞 と渡辺磯吉の碑があります。コースは金丸座の裏からの坂道を道なりに歩き、右手の石段を登ります。

4. ------ 大久保おおくぼェ之丞じんのじょう(1849-1891) と渡辺磯吉 ------

「笑わしゃんすな百年先は財田の山から川舟出して月に世界へゆきゝする」

 昭和45年4月建立。
 

「我ものの人のものゝと云ぬものゝ物は社会のものゝものなり」
 昭和45年4月建立。

渡辺磯吉の句碑は昭和41年9月建立。金山寺山の山頂にあります。
「手に眼鏡雄図をたくむェ翁の本土につなぐ夢のかけはし」
大久保ェ之丞は明治時代初頭の政治家で、未来を見つめた卓越した人物です。詳しく三水会の「大久保ェ之丞」をご覧下さい。
渡辺磯吉は大久保ェ之丞と同郷の実業家です。

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5. ------ 石榑いしぐれ千亦ちまた (1869-1942) ------

「船をくだき人の命とる海にむかひをたけびし君が聲の大きさ」

 昭和50年4月建立。
 

琴陵宥常の大きな銅像の横にあります。琴陵宥常は日本水難救済会の創立者で、石榑千亦はこの日本水難救済会に入って活躍、海の歌人と呼ばれました。石榑千亦の碑は全国で三番目になります。

6. ------ 本居もとおり豊頴とよかい (1834-1913) ------

「朝つくる光まはゆみ白雲の槙ねの龍もかけひろめけむ」
「朝日には消えすあらめや玉とのみ世をあさむくも露の間にして」


 明治31年8月建立。
 

大門を抜け、五人百姓の後にあります。本居豊頴は東宮侍講正四位です。句碑と言うよりは日清戦争の戦勝記念です。右側の句が上で、左の句が下です。どれも読み取れる状態にはありません。

7. ------ 琴陵ことおか光重みつしげ (1914-1994) ------

「春うらら磴道とどうにつづく人波の北の南の国訛りかも」

 平成11年7月建立。
 

桜の馬場の外れにあります。昭和23年金刀比羅宮の宮司に就任、宮の経営だけでなく、広く文化人てしても活躍しました。琴平町の第1号名誉町民です。

8. ------ 小林こばやし一茶いっさ (1763-1828) ------

「おんひらひら蝶も金毘羅まいり哉」

 昭和38年4月建立。
 

宝物館の上り口、光重の句碑のすぐ横です。観音寺に滞在し、伊予街道の途中詠んだとされます。原本には日付の後に「考」、句の前には「奉納」、名前の後に「花押」があります。一茶は信濃の生まれ。前々年寛政4年には観音寺に滞在、この年も観音寺専念寺で越年、
「元日やさらに旅宿とおもはれず」の句を残しています。
長野県信濃の一茶記念館には次の二句が残っています。
「おんひらひら金比羅道の小蝶哉」
「とぶや蝶ひらひら金毘羅大権現」

9. ------ 久保井くぼい信夫のぶお (1906-1975) ------

御扉みと開けの太鼓の音は朝もやのなづさふ谿たににながくこだます」

 昭和52年夏建立。
 

高橋由一館の建物の下にあります。地元琴平の人です。軍歌「愛馬進軍歌」が有名です。

まっすぐ進み、ご本宮から常磐神社の間にコース外の北原白秋の碑があります。コースは宝物館の裏の道を道なりに歩きます。

10. ------ 北原きたはら白秋はくしゅう (1885-1942) ------

「守れ権現夜明けよ霧よ山はいのちのみそぎ場所」

 昭和52年秋建立。
 


白秋は福岡県柳川市の生まれ。明星派の詩人として活躍、その後「からたちの花」や「城ヶ島の雨」などの童謡、山田耕筰とのコンビによる校歌や応援歌で有名になりました。昭和10年6月5日「花壇」に宿泊、当夜の宴会は大いに賑やかだったようで、お座敷芸の「金比羅拳」を行った事が記載されています。「ととかかぼんびん」と言います。讃岐路での白秋は大歓迎を受けた様で、今のトップクラスのアイドル並みの人気だったようです。
碑は「山の歌」の一部を書家安東聖空が書いたものです。全文は下記の通りです。
「守れ権現夜明けよ霧よ山は男の度胸だめし行けよ荒くれどんどん登れ山はいのちのみそぎ場所
さあさ火を焚けごろりとまゝよ木の根枕に峯の月夢にゃ鈴蘭谷間の小百合酒の肴にゃ山鯨」


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11. ------ 吉井よしいいさむ (1886-1960) ------

「金刀比羅の宮はかしこし船人か流し初穂をささくるもうへ」

 昭和43年5月建立。
 

宝物館の裏手、帆掛け舟の句碑です。勇は東京芝区の生まれ。父は伯爵。与謝野鉄幹の「新詩社」を経て耽美派の歌人として活躍、晩年は土佐(昭和9年〜12年)、京都に暮らしました。
「ことひらの桜まつりにいきあひぬうれしかしこし旅人われは」
この句は土佐時代の昭和11年4月10日の句で、「花壇」に宿泊しました。地元の歌人18人が勇を中心に記念写真に納まっています。

12. ------ たに かなえ (1896-1960) ------

「象頭山金毘羅大権現と幼きより聞き馴れて名のいたく親しき」

 昭和47年7月建立。
 

松宵山の下にあります。谷鼎は現在の秦野市の生まれ。この句は昭和10年頃修学旅行の引率の時の作です。地元には沢山の句碑が残っています。

13. ------ 入江いりえ為守ためもり (1867-1936) ------

「あまねくもふりわたるらむ神のますことひら山のゆふたちの雨」

 昭和10年10月建立。
 

時雨岡にあります。大正天皇御即位の大礼に際して讃岐を主基の国に定められた時の主基屏風の風俗歌です。入江為守は当時東宮侍従長であり、御歌所所長でした。この句以外に讃岐を詠んだ歌が9句残っています。

14. ------ 松尾まつお芭蕉ばしょう (1644-1694) ------

「花のかげすずりにかはる丸瓦」

 明治20年3月建立。
 

裏参道の千種台と鏡池の間にあります。芭蕉は琴平には来ていないと思われます。裏には建立当時の俳人の句が15句刻まれています。

空に道あとこそ見えね子規 東京 幾雄
春浅き松の木立や象頭山 松山 鶯居
嗚呼ひろしはせをのかけは唐大和 三ツ浜 其式
時雨にはうこく日のあり象頭山 当国 梅園
うち返す嵐もなくて花の浪 丘霞
古池にそたつ蛙や花の本 梅径
花の香も世にたくひなし象頭山 支樗
神垣に初日かゝやく象頭山 鶴居
色かえぬ松尾の山のしけりかな 一松
是かまふ神の留主とは象頭山 梅里
涼しさや神風うけし袖たもと 其年
琴平や下向きまむゆき年参り 桃阿
仰むいて香にうつむくや花の下 江甫
また山に日か暮のこりて初霞 来帰
見おろせば霞を帯て讃岐富士 伯州 梧雄

歴史を紐解くと、芭蕉の時代には木村寸木という俳人が金毘羅に居て、元禄13年(1700)に「金毘羅会」という句誌を発行しています。芭蕉を始め其角、嵐雪など蕉門の人々や大淀三千風など多数の俳人の句が掲載されています。又、天保14年(1843)には丸亀の俳人菊壺茂椎が普門院において芭蕉の150回忌追善俳諧を催し、「花橘」「松尾文庫3編」を刊行しています。
多度津街道の原御堂にも芭蕉の句碑がありますのでついでに紹介します。
「世を旅にしろかく小田の行きもどり」

15. ------ 合田ごうだ丁字路ちょうじろ (1906-1992) ------

「金ぴらの祭のあとの紅葉晴」

 昭和41年10月建立。
 

学芸参考館の下にあります。合田丁字路は「ホトトギス」同人、桜屋旅館の主人で琴平の人です。四国新聞の文芸欄を長年に渡り務めました。

16. ------ 古帳こちょう(1780-) と古帳こちょうあん(1781-) ------

「天の川くるりくるりと流れけり、あたまからかふる利益りやくや寒の水」

 天保14年正月建立。
 

明野の道筋にあります。表に古帳女、裏に古帳菴の二句が刻まれています。
「のしめ着たみやまの色やはつ霞、折もよし衣更して象頭山」  古帳菴
最初は別の場所にあり、表裏が逆だったそうです。


コースから離れていますが、大西山の金刀比羅宮神餞田の中に伏見一九甫の句碑があります。

17. ------ 伏見ふしみ一九いっく (1904-1991) ------

「木苺やこゝ羅神馬の墓とこ路」

 昭和44年5月建立。 

伏見一九甫は若い頃から金刀比羅宮に勤めた俳人です。19歳の時の句が優秀と認められたので一九と名乗ったそうです。

最後に紹介するのは狂歌です。高燈籠のすぐ横、「講外燈上断」の裏に刻まれています。

18. ------ 岡田おかだ東呉楼とうごろう (安政年間の人) ------

「引請けは茶屋ありたけに置屋中給仕めしもり跡はしらんぞ」

 万延元年建立。

高燈籠と「講外燈上断」碑については三水会ホームページ「高燈籠辺りの文物詳細」をご覧下さい。

以上で終了です。お疲れ様でした。

19. ------ 番外編 ------

内町の参道には琴平の町に関係ある短歌が刻まれた燈籠が設置されています。探して見て下さい。

  1. ろう禰宜ねぎも紅葉かざしてまつりがお      高浜虚子
  2. 伝奇にも酒手くりやうぞ紅葉かご    高浜虚子
  3. 金毘羅のとうを一気に初詣       合田丁字路
  4. 大門おごそか晴れきった       種田山頭火
  5. たまたまの紅葉祭に逢ひけるも   高浜虚子
  6. ことひらへお絵馬あぐる日永かな  正岡子規
  7. 紅葉して象頭山上の日和かな    村上鬼城
  8. 金刀比羅の御守おまもりかけし遍路哉    菱谷竹人