ホームページへ戻る

菅茶山一門と琴平の関係

日柳燕石の師匠にあたる三井雪航や奈良松荘、丸亀の岩村南里、尾池松湾、更に燕石に関する書物を読んで出てくる人物の殆んどが菅茶山の薫陶を受けています。菅茶山と讃岐の文人達についての興味から調べてみますと、古くは草薙金四郎先生の著作があり、備後史談などに発表されています。以下はその発表内容です。

備後史談13− 6茶山と岩村南里
備後史談13−10茶山と後藤漆谷
備後史談13−12茶山と合田伯鱗
備後史談13−12茶山と三谷尚玄
備後史談14− 5三井雪航と茶山
備後史談14− 7神童、森岡綱太
備後史談14− 9茶山の大和行に陪従した牧東渚
備後史談14−12山陽を中心としての茶山尺讀
備後史談15−10文化8、9年の茶山の書簡
備後史談15− 6奇人、牧詩牛のこと
備後史談16− 4文化9、10年の茶山の書簡

タイトルだけは判明しましたが、現在では中々入手困難なだけでなく、広く流布している情報とも言えないため調査は捗らず、半ば諦めておりましたが、今般、ほぼ前記内容を網羅した「随筆讃岐の文人」を閲覧する機会に恵まれ、これ幸いという結果になりました。讃岐の文人達の中でも琴平の町に係わった人物を中心として掲載します。勝手に解釈した箇所などあるかと思いますが、気付く所があれば随時ご連絡下さい。


1. 菅茶山について

菅茶山の肖像画

菅茶山は備後の国神辺に寛永元年(1748)生まれました。名は晋帥ときのり、字は礼卿、通称は太中、家は農業兼酒造業でした。時代は江戸幕府が出来て約150年、文政10年(1827)80歳で死去する間に、その体制は大きく揺らぎます。茶山死後明治維新までは約40年、その萌芽が現れるのはこの時代です。
天明元年(1781)頃、34歳で 私塾を開設するまでは、京都、大坂で学び、那波魯堂、池大雅、中井竹山、西山拙斉、頼春水などと交流しました。長寿であったのが一番の要因と思われますが、化政時代の文化人を代表する人物として、大きな足跡を残しました。
特に漢詩については、それまでの画一的な盛唐詩風の模倣から脱皮し、個性的で写実的な表現を用いた漢詩として大成させた人物として大きく評価されています。格調高く、それでいて容易に解釈できる茶山の詩が、後世に与えた影響は絶大でした。叙景詩や叙情詩が多く、思想をあからさまに表現した詩は少ないとは言え、幕末の勤皇の志士の殆んど全て(坂本竜馬を除く?)が茶山の漢詩を見習い、時勢を変えた点も見逃す訳にはまいりません。ここで茶山の漢詩を掲載するのは省略しますが、是非鑑賞してもらいたいと思います。


2. 菅茶山の塾について


郷里神辺に私塾「黄葉夕陽村舎こうようせきようそんしゃ」を開設したのは天明元年(1781)頃でした。寛政8年(1796)には福山藩の郷塾として「廉塾」と名前が変わりましたが、死去するまでの46年間、4度の大旅行以外はほとんどをこの地で暮らし、沢山の塾生を生み出し、それ以上の文化人の来訪を見ました。
塾の都講としては、頼山陽、北條霞亭、門田朴斉などが著名です。讃岐の人も多く入塾しました。「諸生金銀指引算用帳」という書類は文化8年(1811)から文政元年(1818)の塾生の収支記録ですが、この間に385人の入塾が記録されています。来訪者としては、当時の名だたる文化人の殆んどが山陽道の道筋にある茶山の塾に立ち寄った事が、菅家に残る「菅家往問録」を始め、様々な資料により確認出来ます。その資料は現在も調査が継続されているようです。


3. 頼山陽について

頼山陽の肖像画
頼山陽は安永9年(1780)大坂の生まれ。名はのぼる、字は子賛、のちに子成、通称は久太郎、山陽は号です。
頼春水(1746〜1816)と叔父頼杏坪(1756〜1834)は茶山の古くからの友人であり、山陽が茶山と結びつくには何の不思議もありませんでした。父春水は広島藩の儒者として登用され、大坂から広島へ移転しました。神辺の近くです。山陽が廉塾の都講となるのは文化6年(1809)30歳の時ですが、それまでにも数度訪れ、「日本外史」も大略が脱稿していました。山陽はその後すぐ廉塾を飛び出し、茶山とは紆余曲折がありましたが、茶山死後の天保3年(1832)上梓された茶山の遺稿「黄葉夕陽村舎詩・遺稿」には序文を寄せており、山陽が茶山の一番弟子だった事は明らかです。
文化8年(1811)には小石元瑞の周旋で入京し、私塾を開きます。以後、天保3年(1832)53歳で死去するまで、小石元瑞とは深い繋がりがありました。金毘羅の三井雪航が小石元瑞に医学を学ぶため京都に来た時、山陽とも出会いました。
山陽が讃岐に来た事は意外と知られていません。文化12年(1815)4月15日山陽は広島を出帆しましたが、風の悪戯で讃岐に着いたようです。4月27日夜に平田、藤村諸子と同行して榎井村日柳家に入りました。平田、藤村は二人共和田浜の人で、廉塾の子弟と思われます。当地日柳家とは、榎井村の土佐屋日柳氏です。和田浜の豪商藤村家から土佐家へ養子に入った半四郎を呼び同行して金毘羅の町に来たようです。土佐屋日柳氏は加島屋日柳家の本家にあたります。翌日28日には片岡民部を訪問してこんぴらさんに参詣しています。片岡民部とは、象頭山多門院主の片岡琶溪の息子です。金毘羅では日柳氏の家だけでなく、内町の料亭にもその足跡を残し、「芳橘楼」の名前を揮毫しています。折角讃岐に来たのですから、金毘羅以外に丸亀や高松にも訪れて後藤漆谷などの歓待を受けていますが、ここでは柴野栗山を讃えた詩を掲載します。

五剣山を望み故柴栗山先生を懐ふ有り

南望讃岐洲 南に讃岐の洲を望んで  
遥指五剣山 遥に五剣山を指す  
山峰如冽剣 山峰冽剣の如く 冽とは寒さの厳しい様 
峭立衆嶺端 けわしく衆嶺の端に立す  
正襟遥拜之 襟を正して遥に之を拜す  
非山思其人 山に非ず其の人を思う  
柴公吾父執 柴公は吾父執なり 父執とは父の友達
実産出其間 実に産其の間に出す  
応運振頽俗 運に応えて頽俗を振す 頽俗とは俗に崩れる様 
天意秀気攅 天意秀気あつまる  
吾少贍其貌 吾、少し其の貌を  
有似此孱顔 似たる有此の孱顔に 孱顔とは痩せてか弱い顔
雖非甚魁梧 甚しくは魁梧なるに非ずと雖も 魁梧とは体が大きく立派である様
自抜群賢班 自から群賢の班を抜く  
談論挺鋒鍔 談論鋒鍔を  
文辞痩不寒 文辞痩せて寒からず  
顧吾謂可教 吾を顧みて教ふ可しと謂う  
朽木庶彫 朽木彫こいねが  
当時貪嬉楽 当時嬉楽を貪り  
侮不屡往還 屡往還せざりしを侮ゆ  
前輩日已遠 前輩日已に遠く   
従誰鞭駑頑 誰に従ってか駑頑に鞭たん 駑とは才能の劣る様 
典刑今安在 典刑今安くに在り  
山容独 山容独りたり さんがんとは険しい山の事

@の字は宛+「りっとう」です。GTコード002675です。
Aの字は山偏+賛です。GTコード010893です。
Bの字は山偏+元です。GTコード009959です。

山陽が廉塾の都講の時に在した讃岐の人としては、尾池松湾、片岡琶溪、奈良松荘、三井雪航、牧東渚などの名前が挙がっています。秋山厳山は近くの笠岡にある小寺楢園の塾に在籍、山陽が「日本外史」の内容を小寺楢園に相談していて、上梓される前の稿を書写して金毘羅に持ち帰った事が知られています。山陽は天保3年(1832)死去、享年53歳でした。


4. 北條霞亭について

北條霞亭の肖像画

北條霞亭については、森鴎外の小説で有名です。小説の形を取ってはいますが、史実に基づいていると言えるものです。蛇足ながら、石川淳の「森鴎外」は一読に値する「森鴎外」論です。森鴎外の「北条霞亭」その107には、綱太の入門時の事が書簡として載せられています。

先日来讃州より才子の童子入門滞留いたし候、森岡綱太と申すもの、12歳にてふりわけ髪の小児に候へども、書物はよくよみ候。史記左伝なども一通手を通し居候。先は奇童と申すべきもり也。

霞亭は文政6年(1823)死去、享年43歳でした。


5. 菅茶山の江戸旅行

茶山の江戸旅行は文化元年(1804)57歳の時と、文化11年(1814)67歳の時の二回行われました。
同行者の一人、臼杵直江とは牧野黙庵のことです。文化8年(1811)に入塾、文化14年(1817)に退塾しています。牧野黙庵については後記します。江戸では数々の画家、儒者と交わり、その資料が沢山残されております。著名な人物としては、蛎崎波響、古賀精里、亀田鵬斎、大窪詩仏、伊沢蘭軒、谷文晁、尾藤二洲、市河米庵などです。讃岐の人としては柴野栗山、菊池五山が挙げられます。

柴野栗山(1736〜1807) 71歳

柴野栗山の肖像画

名は邦彦、字は彦輔、通称は彦助、栗山と号した。
栗山は古賀精里、尾藤二洲と共に寛政三博士と称された人物です。文化元年(1804)栗山のツテで茶山が多くの文人墨客と交わった事が伝えられています。
頼山陽の父春水と友であった事は、先の頼山陽の漢詩の通りです。「寛政異学の禁」でも有名ですが、幕府の学問所である昌平校に於ける学問を朱子学として確定しただけで、一般人が蘭学を学ぶ事を禁止した訳ではありません。

菊池五山(1770〜1854) 84歳

名は桐孫、字は無絃、通称は左太夫、後に佐太夫、五山又は娯庵と号した。
寛政9年高松を出奔、江戸で市河寛齋に学び、詩名をあげる。師の寛齋は書で知られ、絵の文晁と共に「詩の五山、絵の文晁、書の米庵」と言われた三絶の一人です。
日本初のジャーナリズムである「五山堂詩話」には、当時の詩人の作品と批評が網羅され、現在でも江戸時代中期の貴重な資料となっています。無名時代の頼山陽、中島棕隠らも「五山堂詩話」によって世に知られるようになりました。文豪菊池寛の親戚筋にあたります。


6. 菅茶山の大和旅行

茶山は若き頃より京都へは数度旅していますが、通常「茶山の大和旅行」と言われる旅は、文政元年(1818)3月6日から5月29日までの旅行です。神辺から吉野、吉野から京都へ行き、京都ではほぼ二ヶ月滞在し、後藤漆谷などと親密な交際を続けた様子が「大和行日記一巻」に資料として残っています。同行者は牧周蔵、林新九郎、臼杵直記、渡辺鉄蔵、プラス別所有俊となっていますが、牧周蔵とは牧百穀のことで、牧東渚という名前の方がよく知られています。牧周蔵はこの旅で「北上記」を資料として残しています。臼杵直記とは臼杵直江の事と思われますので、すなわち牧野黙庵の事です。二人共讃岐金毘羅の人間です。いずれにしても、茶山と讃岐の人との親密な交流が窺えます。


7. 菅茶山の年譜と「菅家往問録」に見える讃岐の人

茶山は旅先では数々の人物と交流し、自宅の黄葉夕陽村舎(後の廉塾)でも幾多の文人墨客を迎えています。「菅家往問録」と茶山の年譜に見える讃岐の人を掲載します。

NO. 人物 出身地 生没年 通称 備考
1 阿部 良山 讃岐 1773-1821 世良 良山堂 篆刻家
2 阿部 良平 讃岐 1793-1862 伯玉 謙十郎・信次郎 謙洲・介庵 篆刻家 良山の長男 
3 阿部 春台 讃岐 1795-1832 春台 泰蔵 鹿城 謙洲の弟
4 荒木 密次 讃岐 密次 茶山弟子
5 僧 意戒 讃岐 寒e 寒?
6 石原 正七 讃岐琴平 1792-1824 士憲 正七 篁軒 茶山弟子 淮南の子
7 石原 徽 讃岐琴平 1758-1814 后琴 貞介 淮南・飲龍 牧詩牛の分家
8 稲毛 屋山 讃岐高松 1755-1822 直道 聖民 官左衛門 屋山・息斎 篆刻家
9 臼杵 直卿 讃岐 1796-1849 古愚 直卿 以斎・直右衛門 黙庵・信夫翁 茶山弟子 牧野黙庵 高松藩儒
10 尾池 桐陽 讃岐丸亀 1765-1834 寛翁 左善・左膳 桐陽 丸亀藩医
11 片岡 琶渓 讃岐琴平 光範 民部の父
12 片岡 民部 讃岐琴平 1796-1876 章範 民部・王民夫 象頭山多門院主
13 片岡 織衛 讃岐琴平 民部の弟
14 勝田 鹿谷 讃岐丸亀 1777-1849 寧卿 九一郎 鹿谷 備中高松藩儒
15 勝田 正之介 讃岐丸亀 丸亀藩士
16 勝田 赤泉 讃岐
17 河口 友右衛門 讃岐多度津 友右衛門 晋霞 多度津藩家老
18 河口 順吾 讃岐多度津 政邑 順吾
19 菅 市良左右衛門 讃岐象頭山 政英
20 神崎 市郎兵衛 讃岐引田 敬之 維顕 市郎兵衛 薈浦
21 菊池 五山 讃岐高松 1769-1853 桐孫 無絃 左太夫 五山・娯庵 江湖社社友
22 菊壷 茂雄 讃岐
23 黒河 伊兵衛 讃岐北岡
24 小西 松塢 讃岐本山 1797-1845 貞遊 従之 元四郎 松塢
25 小西 仁輔 讃岐本山
26 後藤 芝山 讃岐 1721-1782 世鈞 竹風 守中 弥兵衛 芝山・竹鳳 高松藩儒
27 後藤 黙斎 讃岐 1759-1815 師周 元茂 弥右衛門 黙斎 高松藩儒 芝山の子
28 後藤 漆谷 讃岐高松 1749-1831 苛簡 子易・田夫 袋屋勘四郎 木斎・漆谷 高松豪商
29 合田 快庵 讃岐和田浜 温良 快庵
30 合田 温恭 讃岐和田浜 温恭 救吾 『紅毛医言』
31 合田 大介 讃岐和田浜 蘭斎 温恭の弟
32 合田 才治 讃岐和田浜 1793-1809 伯鱗 才治 茶山弟子 蘭斎の子
33 合田 時蔵 讃岐和田浜 1795-1811 靖斎 蘭斎の子
34 河野 徳蔵 讃岐高松 石瀬尾薬方
35 佐々木 雲屋 讃岐高松 1777-1831 九萬 鳳程 萬九郎 雲屋 画家 長町竹石弟子
36 佐々木 太郎右衛門 讃岐高松 西国屋
37 柴野 栗山 讃岐牟礼 1736-1807 邦彦 彦助 彦輔 栗山・古愚軒 阿波藩儒 昌平講教授
38 柴野 碧海 讃岐 1773-1835 允常 応登・吉甫 平次郎 碧海・子慶 阿波藩儒 栗山の養子
39 鈴木 親斎 讃岐岡田 万邦 蟹谷・松江
40 炭屋 保治 讃岐琴平 金毘羅金光院の御用金を司どる 森岡綱太の父
41 高島 太左衛門 讃岐琴平 牧東渚の父
42 高島 百穀 讃岐琴平 1786-1833 百穀 信蔵 東渚 牧氏養子 東渚と同一人物
43 中條 東? 讃岐千疋 世和 奥夫 東?・竹趣・藍泉 姓源
44 富山 体五郎 讃岐高松 定静 士安 三村屋体五郎 潜斎
45 長町 竹石 讃岐高松 1757-1806 徽・賦 琴翁 徳兵衛 竹石・琴軒・文暉 画家
46 僧 風牀 讃岐寺家 1779-1831 教存 快行 風牀 倉敷観龍寺住職
47 藤村 音九郎 讃岐和田浜 1797-1855 直弘 毅順 乙九郎 九淵・墨雨・今是
48 牧 石潭 讃岐琴平 1748-1827 匡直 温夫 久兵衛 石潭 棲碧山人の父
49 牧 棲碧 讃岐琴平 1788-1833 景周 畏驥 徳稱 藤兵衛 棲碧山人・詩牛 石潭の子 東渚の義兄弟
50 牧 東渚 讃岐琴平 1786-1833 昌・碩 百穀 信蔵・周蔵 東渚・屏浦 石潭の養子
51 三谷 堯民 讃岐丸亀 -1846 助市・兵助 葵陵 丸亀藩士
52 三谷 尚玄 讃岐金倉 1787-1809 子功 尚玄 茶山弟子
53 三井 直博 讃岐琴平
54 三井 雪航 讃岐田村 1796-1851 重清 士潔 沢弥→隆斎 雪航 山野氏 直博養子 
金毘羅大権現金光院医員→奥医者
55 三野 謙谷 讃岐 1773-1851 知彰 子剛 新蔵・信平 謙谷 廉塾都講 高松藩儒
56 村岡 呉竹 讃岐丸亀 1748-1807 景輿・井洲 伯衡 弥平太 呉竹 尾池桐陽の兄
57 森 順次郎 小豆島 清類 中倫
58 森岡 綱太 讃岐琴平 1806-1821 惟寅 士直 茶山弟子
59 宥瑜 讃岐琴平 寿福院
60 吉田 東甫 讃岐丸亀 洵直 子侯
61 降神観宥乗 讃岐 覚智 星花
62 渡辺 左衛門 讃州志度浦 伯徳

菅茶山の年譜に見る讃岐人の行動を掲載します。

月 日 出来事
1806(文化3年) 10.06 勝田赤泉が来訪する
11.17 石原徽(后琴)・高島信蔵(牧東渚)が来訪する
12.29 恵充上人を招き塾で詩会を開く、岩村南里・高島百穀(牧東渚)・牧千里・向文二・松下敬治・鷦鷯大卿・小早川文吾が同席する
1807(文化4年) 10. 臼杵直卿(牧野黙庵)が来訪する
12.01 柴野栗山が没する
1808(文化5年) 2. 黒河伊兵衛が来訪する
1809(文化6年) 1.09 塾で三谷尚玄が没する
1.11 三谷尚玄を菅家墓地に葬る
2.23 勝田正之介が神辺に茶山を訪ねてくる
5.21 後藤漆谷・佐々木雲屋が来訪し宿す
6.29 塾で合田才治が没する
1811(文化8年) 2.17 菅荘左衛門(菅市良左右衛門)が来訪する
閏 2.25 高島信蔵(牧東渚)に書簡を送り廉塾都講就任を依頼する
. 3.27 牧棲碧山人が塾を出奔する
8.29 菅市良左右衛門(政英)が来訪する
1812(文化9年) 2.06 讃岐の弟子に高島信蔵(牧東渚)宛の贈り物を書簡とともに託す
6.29 渡辺伝左衛門(渡辺左衛門)が来訪する
1813(文化10年) 3.13 風牀上人が来訪する
8.06 森贈次郎(森順次郎)と中條東?が来訪する
1814(文化11年) 1.01 北條霞亭・佐藤子文・近藤元英・市川忠蔵・甲原玄寿・荒木密次・臼杵直卿(牧野黙庵)・佐々木文圭・太田孟昌と詩会を開く
5.06 江戸に向け甲原玄寿・臼杵直卿(牧野黙庵)を伴い出発する
5.06 片岡民部・牧信蔵(牧東渚)・菅広介・泉?太左衛門と別れる
6.05 小川町の福山藩上屋敷に入る
7.02 鵜川子醇・甲原玄寿・臼杵直卿(牧野黙庵)と不忍池で飲む
7.22 柴野久四郎(柴野碧海)・大田南畝を訪ねる
7.24 羽兵衛の招きに直卿(牧野黙庵)を行かせる
7.26 柴野久四郎(柴野碧海)・土屋七郎が来訪する
8.06 勝田赤泉・太田典客が来訪する
8.17 勝田鹿谷が来訪する
8.19 甲原玄寿・臼杵直卿(牧野黙庵)が昌平講に釈采を配す
8.21 臼杵直卿(牧野黙庵)を平井可大に行かせ謝礼する
8.26 臼杵直卿(牧野黙庵)を服部宗侃に遣わし薬を乞う
8.28 臼杵直卿(牧野黙庵)を鈴木芙蓉・市河米庵・蠣崎波響に遣わす
8.29 臼杵直卿(牧野黙庵)を鈴木芙蓉に遣わす
9.07 勝田鹿谷が来訪する
9.20 日本橋百川楼での勝田鹿谷寿宴に行く
9.20 大田南畝・菊池五山・大窪詩仏・梯箕嶺・川合春川・中井董堂・鈴木雲潭・井上直記・文鳳と会う
9.21 片岡民部が郷里の書簡をもたらす
9.22 臼杵直卿(牧野黙庵)が片岡民部に行く
9.23 勝田鹿谷が来訪する
9.24 菊池五山・川合春川・勝田鹿谷・大坂平野屋らと会う
9.27 渡辺惣兵衛(渡辺左衛門)が茶花を恵む
10.05 海晏寺観楓会の出席30名
10.11 三兵衛・片岡民部が来訪する
10.21 菊池五山が来訪し二朱銀を恵み蔀山の石書抜を返却する
10.26 臼杵直卿(牧野黙庵)を矢之倉の高松藩下屋敷に行かせ片岡民部の帰りを見送らせる
10.27 勝田鹿谷が二物を恵む
11.15 服部貞吉・吉沢五兵衛・武内東七・山名乙次郎・渡辺惣兵衛(渡辺左衛門)・森戸惣蔵が来飲する
11.16 勝田鹿谷が来訪する
11.20 井上四郎致仕の賀筵に出席40名が同席
11.24 勝田鹿谷が萬屋小左衛門を同道して来訪する
11.28 鈴木文左衛門・矢野秉次・勝田鹿谷・・・が来訪する
12.03 菊池五山が絵を寄せ詩を求める
12.06 渡辺惣兵衛(渡辺左衛門)・田辺主計が来訪し酒を恵む
12.09 勝田鹿谷が来飲する
12.10 菊池五山が来訪し海野蠖斎招宴出席を促す
12.10 海野蠖斎を訪ね大田南畝・菊池五山・大窪詩仏・鏑木雲潭・稲毛屋山等と交わる
12.19 菊池五山を訪ねる
1815(文化12年) 1.05 藤田直介・菊池五山が来訪する
1.08 石田醒斎の招宴に行き、立原翠軒・菊池五山・大窪詩仏・清水藤蔵・葛西堅蔵・広瀬蒙斎と交わる
1.24 勝田鹿谷が来訪する
2.17 小島蕉園・岡本花亭・・・・・菊池五山が来訪する
2.20 月形七介・榊原鐵三郎・・・・・勝田鹿谷が来訪する
2.21 牧棲碧が来訪する
2.22 渡辺惣兵衛(渡辺左衛門)・鈴木直・太田孟昌・勝田鹿谷が来訪し氷根勇七を託さける
2.24 柴野栗山・尾藤二洲の墓を詣でる
2.24 柴野碧海・大田南畝・石塚次郎左衛門・伊澤蘭軒と告別する
2.26 江戸出発 竹田器甫・甲原玄寿・臼杵直卿(牧野黙庵)・江原與平・河崎敬軒が同道する
3.19 (大坂) 三井雪航・中山文平が酒肴を恵む
3.22 (尼崎) 宣二郎・為五郎・村上玄郷・三井雪航・中山文炳・絲川為蔵が来訪し酒をむ恵む
3.29 神辺に帰る
9.13 牧東渚が来訪する
10.04 竹田器甫・臼杵直卿(牧野黙庵)と尾道に行く
12.30 北條霞亭・竹田器甫・甲原玄寿・臼杵直卿(牧野黙庵)らと詩を賦す
1816(文化13年) 6.19 降神観宥乗が来訪する
1817(文化14年) 9.13 三野謙谷が森岡綱太を連れ来訪する 綱太が入門する
1818(文化15年) 3.06 牧東渚・林新九郎・臼杵直卿(牧野黙庵)・渡辺鐵蔵を伴い『大和行日記』の旅に出る
3.16 牧東渚らは奥の院に遊ぶ、一緒に一目千本に至る
3.17 吉野を出る 一目千本で牧東渚・林新九郎が別れて伊勢に向かう
3.17 土田で河相保平・桑田定太郎・佐藤謙介が別れて高野山に向かう
3.17 臼杵直卿(牧野黙庵)・渡辺鐵蔵と平野を経て越村服部宗侃を訪ね吉田意専と会う
3.17 留守中の神辺に僧道隆・河口友右衛門・河口順吾が来訪する
3.20 御香宮で臼杵直卿(牧野黙庵)を京都に急がせる 直卿が御旅町に出迎え升屋に泊す
3.21 後藤漆谷を訪ねる 漆谷と某の池大雅屏風を見る
3.21 臼杵直卿(牧野黙庵)と祇園・清水を経て鳥辺山に和田東郭・菅恥庵の墓を詣でる
3.23 後藤漆谷を訪ね阿部良平と会い留飲する
3.24 後藤漆谷を訪ね真知堂箏の会に行くのを約束する 北野天満宮裏門で別れ真知堂箏の会に向かう
3.24 出町で休憩し真知堂前で食事している途中で演奏会が終わる 会に出席していた漆谷と牧東渚・林新九郎と出会う
3.24 東渚・新九郎を連れ升屋に帰る
3.25 牧東渚・林新九郎が北野・平野の花見に行く
3.26 牧東渚と小田南豊を訪ねる
3.27 中山言倫が画を持ち来訪し後藤漆谷も来訪して一緒に見る
3.28 植田敬三が畑柳泰の言を伝え後藤漆谷所蔵書画を見ることを求める
3.29 牧熊太郎・牧東渚と東山双林・知恩院・祇園・大谷に遊び北佐野亭で小酌する
4.01 後藤漆谷・阿部良平を訪ねる
4.01 牧東渚・中山言倫らと真如堂に琵琶演奏を聞きに行くが中止で聖護院に憩い春篁亭で飲む
4.02 石原正七が来訪する 後藤漆谷・中山言倫が来訪する
4.03 後藤漆谷・鳩居堂が酒を恵む
4.04 丸山佐阿弥での阿部良平の招宴に牧東渚と行く 会物は100人以上
4.06 牧東渚と後藤漆谷を訪ね書画を見る
4.07 牧東渚・林新九郎・矢野秉次が宇治に行き、渡辺鐵蔵が北野へ行く
4.08 牧東渚・林新九郎が比叡山に上る 中山言倫・石原正七が来飲する 後藤漆谷が来訪し書を乞う
4.09 畑柳泰の招きに行く、後藤漆谷も畑氏に来る、畑氏が所蔵する書画を見る
4.10 後藤漆谷に行き鰆で小酌する、朱彜尊の掛軸を見る
4.11 中山言倫・牧東渚と諧仙堂所蔵の短冊を見る
4.11 梅辻春樵・後藤漆谷らを訪ねる 鯛を漆谷に寿司を宿舎表の妻に贈る
4.14 牧東渚・臼杵直卿(牧野黙庵)・林新九郎・伊達太左衛門・依頼した印を持参した阿部良平と高尾寺・栂尾祠に遊ぶ
4.16 中山言倫・後藤漆谷と名村進八を介して長崎阿蘭陀館長プロムホフと会う 
4.16 牧東渚・臼杵直卿(牧野黙庵)と雨蛤店で小飲する
4.17 聖護院双松亭での伊達太右衛門の招宴に後藤漆谷と行く
4.17 清岡菅公が書を、中村竹洞・浦上玉堂・浦上春琴が画を、茶山・漆谷が書を作る
4.18 後藤漆谷が来訪し東本願寺見学を相談する
4.19 石原正七がオランダ館に行く 合田時蔵が来訪する
4.19 北小路大学介・伊地智藤右衛門・後藤漆谷らと交わる
4.20 後藤漆谷・今村栄顕が来話する
1818(文政元年) 4.22 二条新地景眺楼で武元登登庵の追善を催す 斎藤小平・柴田義董・鳩居堂・後藤漆谷・浦上春琴・小田南豊・中山言倫・牧東渚・石原正七・臼杵直卿(牧野黙庵)が会する
4.22 春琴1幅・南豊3幅・義董2幅の画、小平和歌1首・漆谷漢詩1首・茶山・東渚・正七が書を作る
4.26 牧東渚が竹内に行く 讃岐国分寺隠居が来訪する
4.26 後藤漆谷と清岡菅公の招宴に行く 清岡が律詩1首、漆谷・茶山・清水雷首が絶句、杉岡道啓が七律1首、絶句1首、茶山七絶1首が成る
4.28 小倉藤公の招宴に後藤漆谷と行く
4.29 阿部良平・牧東渚と嵯峨に遊び六如上人の墓を詣でる
5.03 後藤漆谷が来訪し火とぼしを恵む
5.05 後藤漆谷・中山言倫を訪ねる
5.09 中山言倫・後藤漆谷と越後屋太兵衛を介して六孫王主僧所蔵書画を見る
5.11 佐藤謙介・臼杵直卿(牧野黙庵)と竹内の能を観る
5.12 大龍寺・春日亀弥太郎・別所有俊・岡本豊彦を訪ね柴野碧海に至る、後藤漆谷が先在する
5.13 柴野碧海が来訪し香合・花旱菜を恵む 碧海・後藤漆谷が今枝栄顕に来て飲む
5.15 後藤漆谷の樵巷の会に出席し柴野碧海・畑柳泰・・・・篠崎小竹・武内確斎と交わる
5.15 漆谷が小田南豊・東東洋らに会の画を描かせ、詩文を乞い絶句を作る
5.16 升屋宗七・後藤漆谷を訪ね告別する 漆谷が来訪し竹庵「桃柳双燕」・釧雲泉「山水」を示す
5.17 高瀬舟で京都を出立する
5.22 (大坂) 三井雪航・備後広谷人らが来訪する
5.23 片岡琶渓を訪ねる
5.28 牧東渚を先に帰す
5.29 神辺に帰宅
1820(文政3年) 8.11 牧棲碧上人が来訪する
9.06 風牀上人・小野泉蔵が来訪する
9.07 風牀上人・小野泉蔵と北條霞亭を訪ね飲む
9.08 風牀上人・小野泉蔵に七律一首を示す
9.09 風牀上人・小野泉蔵・北條霞亭・塾生と御領山に登る
9.14 風牀上人・小野泉蔵が来訪する神辺を去る
1821(文政4年) 4.11 森岡綱太が没する
4.12 牧東渚が書簡で森岡綱太の死を伝える
6.08 牧東渚に書簡を送り、森岡綱太葬儀の際に門田朴斎への饗応へのお礼と綱太位牌を記す
6.22 森岡綱太両親が来訪し謝意を示す
9.08 風牀上人・小野泉蔵・梅野原太郎が来訪する
9.09 風牀上人・小野泉蔵・梅野原太郎と金粟園ど重陽に宴を張る
10.05 風牀上人・小野泉蔵が来訪する
1822(文政5年) 7.02 風牀上人が小西松塢を同伴し来訪する
10.22 但馬の温泉から帰った風牀上人が来訪し但馬土産を恵む
10.25 風牀上人が去る
1823(文政6年) 8.15 風牀上人・水田福洲・岡宗左衛門・鳥?又三郎が来訪する
8.18 風牀上人・水田福洲・岡宗左衛門・鳥?又三郎が去る
9.28 後藤漆谷が来訪する
10.02 後藤漆谷らと尾道に行く
1824(文政7年) 8. 牧棲碧上人が来訪する
8.20 片岡民部・吉田三郎が来訪する
9.09 風牀上人が来訪する
9.11 風牀上人が長崎に出立する
1825(文政8年) 3.03 牧東渚が来訪する
3.11 道光上人・牧東渚と桜見する
4.26 宥瑜(萬福院)が来訪する
6.27 菊壷茂雄が来訪する
1826(文政9年) 5.03 風牀上人が来訪する
5.07 風牀上人が去る
11.15 三谷堯民が来訪する
1827(文政10年) 2.13 後藤漆谷・風牀上人・中條東?が来訪し、一緒に丁谷に梅見する
2.14 後藤漆谷・風牀上人・中條東?と栄谷に梅見する
4.07 茶山八十賀宴が開かれ30余人が出席
8.13 茶山が没する
8.20 茶山が網付谷に葬られる

主な人物は下記の通りです。

後藤漆谷(1749〜1831) 83歳

名は苟簡、字は子易、又は田夫、通称は勘四郎、木齋と号し後に漆谷とした。寛永2年高松豪商の末子として生まれ、後藤芝山(1722−1782)に師事、特に書に優れ、温厚な人柄から多数の文人墨客がその周囲に参集しました。漆谷の書は王羲之の書を手本とし、見事の一言です。高松市歴史資料館で見る事が出来ます。
菅茶山とはほぼ同年代であり、共に長寿、肝胆相照らす仲であったらしく、茶山の年譜にも何度となく出てきます。 「菅家往問録」には漆谷60歳の時の記録があります。おそらくこの時が初対面であったろうと思われます。文政元年(1818)3月には、菅茶山の上京に合わせて旅し、京都では毎日のように茶山と交流しました。
頼山陽が讃岐に流れ着いて、高松まで足を延ばした先が漆谷の館です。書聖と称される王羲之の書を始め、漆谷が収集した貴重な資料を見たり、讃岐の文人墨客と交流した様子が伝えられております。
閑話休題、遺言も風変わりで、日柳燕石に影響を与えたとも言えます。

漆谷翁家世日蓮教を崇す。翁死に臨んで遺言して日く。
 我を祭るに題目を唱う勿れ。唯、仁義禮智孝悌忠信の八字を誦せ。
 則ち足る也。
 世、唯翁の風流を知る、而してその卓識、この如く有りを知らず。 


牧野黙庵(1795〜1849) 54歳

牧野黙庵の肖像画

名を古愚、字を直卿、号を信夫翁、後に黙庵とした。
苗田の人。文化8年7月廉塾に入った時は臼杵直江、通称直右衛門と言いました。文化11年(1814)菅茶山と江戸に行き、佐藤一齋、市河寛齋、門田朴斉など多くの文人と交わる機会を得ました。
後に高松藩の儒者に登用され、江戸藩邸で講義、金毘羅関係では「潮川神事場碑」の撰文をしました。

牧一門は金毘羅阿波町の醸造家であり、十日屋と言う屋号でした。醸造家でありながら、私塾を開いて教育に力を入れた一門です。牧一門と茶山との関係は深く、牧石潭、牧詩牛、牧東渚と三代の文人を出しました。


牧石潭 (1747〜1827) 80歳

通称久兵衛、国直、温夫、象頭山人ともいう。
和歌を好み、物産学に通ずる。文政8年3月廉塾来訪の記録があります。
又、翌月文政8年4月には万福院宥瑞が廉塾を訪れたと金刀比羅宮の記録にあります。


牧詩牛 (1787〜1833) 46歳

牧石潭の長男。驥、松蔵、麻溪、栖碧山人と号した。
菅茶山、菊池五山に学び子弟を教育しました。多数の著書を残しています。

「詩牛鳴草」の見開き頁


牧東渚 (1785〜1833) 48歳

通称周蔵、晶、信蔵という。屏浦、百穀と号した。
21歳で菅茶山の門に入り、文化12年牧家の裏に広い塾舎を建て子弟を教えました。頼山陽が退塾した後の文化8年(1811)2月26日の手紙で菅茶山より講釈の依頼を受けた牧百穀とはこの人です。


三井雪航 (1797〜1852) 55歳

本姓は山野氏。字は士潔、雪航と号した。
諱は重清、諡は明恭先生。丸亀市田村の生まれ。文化5年(1808)琴平の医師三井家の養子となり、文化11年(1814)医学修行のため大坂へ上り、親戚の三井元孺に眼科を学び、後、備後神辺の廉塾に入塾、更に京都小石元瑞の元で医学、詩文等を研鑽、頼山陽にも又詩文を学び、交友が多くありました。文政元年(1818)国に帰り象頭山の医員となり、傍ら「正風館」と言う塾を開き子弟を教育しました。自家を「会輔堂」と称したが、これは小石元瑞の命名に依ります。雪航の詩稿は金刀比羅宮始め多数残っていますが、山陽に評正を受けたものがあります。この稿は詩数十首で、山陽は朱で

僕明日発靭西省老母理装紛々中了此巻鹵莽萬怒

更に山陽に呈する詩があり、山陽先生の近製を読み、謹んで高韻に和し呈する。

修史多年事論評 汗青堆裡寄斯生 些々七寸毛錐子 描出英雄相斫声

対して山陽は「些々」を「恠君」と添削しています。この詩稿は、その後藤沢南岳と黒木欽堂の二人によって箱書きされて残っています。


片岡琶溪 (1796〜1876) 80歳

象頭山多門院主。名は光範、又は章範、通称民部、又はa夫と称し、錦山、又は琶溪と号した。
金山院に属し修験道のことを司り、かはわら詩書、絵、俳諧を能し、近郷に盛名を発した人物です。頼山陽が金毘羅に来た文化12年(1815)4月の時には象頭山多門院の院主でした。文化12年(1815)4月頼山陽が琶溪に宛た尺牘を記載します。

其以後は御疎濶に打ち過し申し候・・・中略・・・帰京の途次西讃に舟泊まり数日、終に上陸し、平田、藤村諸子と昨夕当地日柳氏宅迄着きし候。象山は始めての義に御座候へば、何卒貴兄の御引き回しを願い申したく存じ奉り候・・・後略。敬具 4月28日 頼久太郎 片岡民部様貴下


奈良松荘 (1786〜1862) 77歳


奈良松荘の詳細は奈良松荘旧宅訪問に記載していますが、再掲します。名は広葉、字は洗心、翠岸、泡斎、笑叟などと称しています。
天明6年(1786)榎井の生まれ。琴平の人には三井雪航と共に日柳燕石の師として知られています。榎井興泉寺の僧から還俗して、詩学を金毘羅石淵の牧石潭(1747〜1827)に学んだ後京都に上り、和歌を小川萍流に学びます。その後、文化7年備後の菅茶山の門に入り、頼山陽が黄葉夕陽村舎の塾長の時には副塾長として研鑽します。義立は僧侶の時の名前で、黄葉夕陽村舎ではもっぱら義立と呼ばれていたようです。当時、頼山陽の「日本外史」が稿途中でありましたが、その影響を受け、尊皇の志が固くなります。勤皇家として知られる吉田松陰や佐久間象山とも親交がありました。頼山陽が廉塾を去るに及び、松荘も又榎井村に帰郷して私塾を開設、皇漢の歴史、和歌、詩学をもって子弟の教育に当たり、讃岐勤皇の魁として名を挙げます。多くの子弟のうち、日柳燕石、植田宗平(井上文郁)、美馬君田、長谷川佐太郎などが著名です。長谷川佐太郎は勤皇家というより、満濃池の修復事業で知られた篤志家ですが、松荘はその他の三人と共に象頭山麓における憂国の四士と讃えられています。諸藩より招かれますが、

我れは天朝の直臣なり何ぞ藩主に仕えて陪臣なる事をなさん

と言って出仕しませんでした。文化文政年間には著作も多く、特に和歌に長じて、橘曙覧の再来とも言われ、現存する和歌は6000首に及んでいます。

ここでは奈良松荘と親しく交流していた北條霞亭の尺牘を記載します。霞亭の文の後には、菅茶山よりの追記があります。時期は不明ですが、松荘が廉塾を離れて帰郷し、霞亭が廉塾の都講となってからの文化10年(1813)以降の尺牘だと思われます。

御手教捧読仕候、如高諭秋涼相増所、愈御安健被成御入、奉欣賀候、小子無事罷在候、乍慮外御安意可被下候、然者、被為掛盛意、佳墨一丸御恵被下、○○御厚眷奉謝候、近来如何御起居被成候哉、御状況承度候、御書面、御高作御○示被下候様相見え候へ共、封中に無之候、御遺留に相成候哉、無覚束候、再信之節御示教奉希候、右御報旁御尋申上候、書餘期再信候、恐惶謹言。 北條譲四郎 拜復 松荘上人猊坐下


中秋うたなし、十六夜、或家の水亭にて、
よもすから、めてしきのふやつかれしと、月も心して雲にいさよふ。
我宿に、めていきのふの月よりも、水の檻、てりそまされる。

かかるわけなき事に、月のよひを過し申候、御憐察可被下候。 晋師 松荘様


松荘が菅茶山の70の賀によせた句です。文化14年(1817)が茶山の70の賀にあたります。

あすか川七瀬の淀によるなみのわかかへるへき君にそありける


松荘が北條霞亭の父の70賀に秋菊有佳色といふことを・・・。

いくあきも君かみきりの白菊はおいせぬいろにさきにほふらむ


嘉永安政以降は

国家多事なり、詩歌を楽しむ秋にあらざるなり

と称して、同郷志士の指導にあたります。文久2年(1862)正月歿、墓所は旧宅前から西へ続く真正面の真福寺の門前の左手にあります。墓誌は慶応2年(1866)に門人黒木重矩が撰しています。


岩村南里(1784〜1843) 59歳

字は大献、通称は半右衛門、南里又は辣庵と号す。
諱は秩。丸亀の人。南里は日柳燕石の師として知られています。「南里遺稿」中に自ら記すところによると、寛政8年より中井竹山の門に入り、屡々京師に学び、文化元年、2年と尾藤二洲の塾に寓す。その後父の訃報を聞き帰郷、丸亀藩の教授になったが、文化3年その職を辞し廉塾に寓す。廉塾には僅かの期間しか留まらず帰郷、その後は最後まで丸亀藩士として重きを成して活動しました。「黄葉夕陽村舎詩」巻8に、讃岐の人として岩子秩、高島百穀、牧千里、向文二の4人の名前があります。岩子秩が岩村南里のことです。文化3年、南里23歳です。南里の「日本外史」と「頼山陽」の論文を二つ、原文のまま紹介します。頼山陽は南里の4歳上です。南里が山陽の人となりをどう考えていたか頗る興味のあるところです。

論外史
見咨及外史前記後記之目僕未有以対及読上楽翁公書及得其説蓋鎌倉氏以降武人代管轄天下故必受征夷之宣於朝廷者而後乃得列正記所以正名分而一統記其意固美矣然新田氏未膺征夷之任特以専兵馬之権得列正記而織豊二家総軍国之重顧以旡征夷之拜置諸前記一興一奪自乱其例有未厭人意者然以大史之撰其例猶有牴牾者况此書曷用深推究

論頼山陽
僕平生酷愛頼山陽文字而不喜其為人以為山陽大節既虧入京以後宜痛自尅責以補前失乃 然不省方且自託賞交易書画器玩以弋奇 見人有書画器玩必貨視之乞之不舎或仮而不還此皆郷党自好者所不為而山陽公然為之猶且以豪傑名士自居気節忠孝著諸文字以自縁飾孟子所謂穿 之類也但以其文章工妙才名磅震撼一世故人莫得而斥之也
@の字はGTコード036233です。Aの字はGTコード055116です。Bの字はGTコード031442です。
「僕、平生は頼山陽の文字を酷く愛す。しかし、その人となりを喜ばず。」
南里の人生観が見えるようです。
燕石の師匠にあたる人物には共通点があるようです。石崎青崗、三井雪航、奈良松荘、吉田鶴仙、尾池松湾、そして岩村南里、皆浮華を喜ばず自分の人生を真っ直ぐ生きた人物ばかりです。

尾池松湾(1789〜1867) 78歳

名は世黄、字は玉民、通称は享平、松湾と号す。
始め菅茶山に学び、晩年篠崎小竹、中島棕隠らと交流がありました。中国清時代の詩人兪越の書「東瀛とうえい詞選」には江戸時代末までの日本人による漢詩5000首余が収められていますが、その中に松湾の句19首が選ばれて掲載されています。「丸亀の歴史散歩」から2首を再録します。
名前、「世黄」の黄は王+黄()、GTコード027140です。

年の暮れ城中に暫く泊まった時の句
寒威栗冽粟生膚 寒威栗冽膚粟を生ず 寒さ厳しく風も冷たく、肌に粟が出来るほどだ。
種火紅残煮茗炉 種火紅く残り茗炉を煮る 種火が紅く見えているのは、茶をたてている炉の火だ。
自笑閑人閑不得 自閑人を笑うに閑を得ず あわれなことに、私はこれという用事もないのに閑がない。
竹窓微雪製屠蘇 竹窓の微雪、屠蘇を製る 竹の窓の外は雪だが、内ではお屠蘇を作っているようだ。

葛原から広田へ行く途中の所見
橦花雪白稲雲黄 橦花、雪白にして稲雲黄なり 橦花は真白で稲は黄色の雲のようだ。
割拠田各檀場 割拠、田、檀場に各す あちこちにある肥えた田畑に、それぞれ花をつれたり稔ったりしている。
の字はGTコード038457です。
野菊不関人世事 野菊は人世の事に関せず 野菊は世の煩わしさに関係なく、
逢秋亦自弄幽妝 逢秋亦自ら幽妝を弄ぶ 秋になればきれいな花を静かにつける。


尾池桐陽(1765〜1835) 70歳

通称は始め左膳、後に桐陽と号した
「菅家往問録」に見える最初の讃岐の人は、文化3年の「尾池左膳名槃字寛翁」だと思われます。
丸亀藩医です。明和元年生まれ、中井竹山の門に入り経史を学び、文化3年に菅家を訪問したと思われます。松湾はこの桐陽の次男です。兄大隣と共に三人とも「東瀛詞選」に掲載されています。著書に「梅隠詩稿」などが残っています。
ちなみに桐陽は、高杉晋作が捕縛の危難に遭ったとき丸亀から燕石の元に緊急に知らせた村岡家の出です。村岡筝子の主人の兄にあたります。桐陽の碑文は岩村南里が撰しました。

最後に、廉塾で早世した三人の讃岐の人を紹介します。

合田伯鱗(1792〜1809) 17歳

名は秀、字は才治、伯鱗と号す。
和田浜の合田時蔵は茶山と親交があり、長男の伯鱗を僅か14歳の時より廉塾に学ばせた。研鑽の後一旦帰省したが、難病に罹り死去。翌文化7年に、才治の草稿詩集を茶山に送り刪正を乞うた。その跋文です。

合田才治年十四寓余塾才而勤学
一旦帰省不復来訃音
尋至頃乃翁時蔵君寄此巻乞刪遺詩百餘首
成於塾中者居多晴窓披閲當時琢句援筆之状宛然目下且泣且誦
不堪?如之感云


三谷尚玄(1786〜1809) 23歳

名は巽、字は子功、尚玄は幼名で、号はなし。
天明6年丸亀金倉の生まれ。若くして茶山の塾に入門したが、23歳で死去した。墓は廉塾の近くにあり、菅茶山の碑文が刻まれています。「黄葉夕陽村舎詩集」前編巻八には茶山の尚玄を讃える詩があります。

即事三谷子功諸子
寒夜衰翁梦易驚
愁心空伴一燈明
書寮頼有君曹寓
喜聴伊吾徹暁聲


森岡綱太 (1806〜1821) 16歳

名は維寅、字は士直、綱太は幼名で、号はなし。
文化3年金毘羅の生まれ。父は讃州松尾の人と墓碑銘にあるので、金毘羅さんにゆかりの人かもしれません。文化14年(1817)僅か12歳で茶山の塾に入門、16歳で死去した。茶山に、「森岡神童を悼む」と「森岡綱太の大祥忌に詩を賦し以って旧を思うの意を寓す」の二編の詩があり、「森岡綱太墓碑銘」も残っている。 「森岡神童を悼む」の詩は五言古詩、50行の長い詩で、12歳で入門して16歳で死去するまでの、才気煥発で皆に可愛がられた様子が窺える茶山の愛情溢れるものです。是非機会があれば紹介したいと思いますが、ここでは「森岡綱太墓碑銘」を紹介します。

綱太は年初めて12、海に杭して来り、余の塾に寓す。 白皙繊痩はくせきせんそう、羅綺に勝えざるが如し。 詩を賦し書を作り、略ぼ已に緒に就く。 而して人と応接すること、老成人の如し。 人は皆な愛慕す焉。 春秋を以て帰省し、未だ月を経ずして復た来る。 率ね年両三、他の嬉戯無く、但だ読書を好む、時に塾童の為に小学・蒙求等の書を説く。 弁説音吐並びに佳し。 年15、周礼を読む。 余之に謂いて曰く、「唯だ文義に通暁せよ。夫の詳審推考の若きは、再読を待ちて可なり」と。 已にして匝月そうげつ、一も問う所無し。 余之を詰れば、則ち曰く、「深義を求めず、何ぞ質問をもちいん」と。 余は其の穎悟えいごに服す。 たまたま余は室町志を修む。 諸生をして題を分かちて当時の人物を論ぜしむ。 綱太は上杉憲実を得たり。 文先ず成り、而して其の言は肯綮こうけいを得たり。 綱太は夫だ国史を読まず。 談次の聞く所を以て、構造する而已のみ。 年16、病んで家に没す。 文政4年未巳4月11日也。 五三昧に葬る。前日暫く帰り、乃父だいふの誕宴に侍す。留まること月余、来期の近きに在るを伝語す。而して訃至る。挙塾驚き怪しみ、相い視て言わざること少頃しばらくす。婢僕も亦た泣く。余年将に80ならんとするに、未だ嘗て童年の才調、綱太の如き者を見ず焉。名は維寅いいん、字は士直、綱太は其の乳名なり。姓は森岡氏、讃州松尾の人。父は保治やすはると曰い、母は某氏。銘に曰く、「嗚呼、之の子、わずかにきっして、萎する耶。世に菽麦しゅくばくを弁ずる能わずして、力の熊羆ゆうひの如き者あり。未だ堯舜有るを知らずして、年の耆期ききいたる者あり、天の予奪、終に知る可からざる耶。噫


8. 菅茶山の象頭山の詩

「象頭山中の人、嘗かって詩を索もとめる、未了いまだ賦ふを償かえさず、而しこうして寄よす。」 象頭山中の人とは、文政8年(1825)4月廉塾を訪れた万福院宥瑞の事だと思われます。或いは片岡琶溪のことかも知れません。制作年も不詳です。

秋半陰蒸気漸平 秋半、陰蒸、気漸やく平
天容海色転澄清 天容、海色、澄清に転ず
遥看象首山頭月 遥かに看る象首、山頭の月
長在浮雲雲外明 長く在す、浮雲、雲の外の明



参考文献
町史ことひら4平成9年琴平町
菅茶山と頼山陽昭和46年富士川英郎著 東洋文庫
菅茶山とその世界平成7年広島県立歴史博物館
讃岐史談 第四巻第一号昭和14年讃岐史談会
讃岐郷土読本昭和9年讃岐郷土研究会
日本の風俗第二巻七号昭和14年 
日柳燕石研究 草薙金四郎著
後藤漆谷の書跡とその周辺平成17年高松市歴史資料館
奈良広葉家集昭和13年奈良角三郎著
讃岐人名辞書昭和3年梶原竹軒監修
菅茶山・六如平成2年岩波書店
随筆讃岐の文人昭和17年草薙金四郎著
続讃岐の文人昭和28年草薙金四郎著
丸亀の歴史散歩昭和63年直井武久著
牧野黙庵の詩と生涯平成17年濱久雄著
菅茶山略年譜(草稿)平成10年菅茶山記念館・神辺町教育委員会

ホームページへ戻る

文責:橘 正範