A.ぶらり天領榎井めぐり

日柳燕石くさなぎえんせきって誰だろう?

動乱の幕末を生き、長州の志士高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文らと交流し、勤王を貫き成就させた英雄であり、一方漢詩人としての名声も博し、勤王奇傑と言われた大人物の足跡をたどりながら「天領榎井」をぶらり歩いてみませんか? また、源氏物語の語り部として高名であり、戦後の女性の地位向上活動家として終生尽力された村山リウさんの生家跡から象頭山容を垣間見られます。伝統工芸士の桐箱工房、忍者屋敷にしつらえた燕石の住まいした「呑象楼」も一見にしかず・・・。 今年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」は1853年ペリー来航、黒船来たるに始まりましたが、日柳燕石はこの時36才、幕末の動乱期、戊辰戦争にいたるまで讃岐勤王党総裁とも言われ、滅私奉公一途に昇華させました。

料金には茶室での一服と、コトデンでの一駅分の乗車料金が含まれています。



1. ------ 興泉寺 ------

琴平から榎井へ、境を流れる川を越えた所にあるのが興泉寺です。興泉寺は真宗興正寺派、小松山と号します。本尊は阿弥陀如来です。古くは中世の本庄城のあった所とも言われております。 寺は元金毘羅新町にありましたが、元禄元年(1688)の大火で類焼後この地に移転しました。明治六年には西讃竹槍騒動で焼打ちに合い、鐘楼と経庫のみになってしまいました。残った鐘楼には元和6年(1620)生駒正俊建立の額があります。この鐘楼は、元々は金毘羅さんの旭社の近くにある賢木門の横に建立されたものでしたが、明治の廃仏毀釈の為ここに移設されたと思われます。詳しい資料は残念ながら不明です。
幕末の英傑日柳燕石が一時期住まいとして使用していた呑象楼は、この寺の住職の隠居部屋でした。 燕石の幼名が刻まれた井戸枠が残っています。

2. ------ 桐箱 道久 ------

法蔵寺門前の小路の中程西手に香川県伝統工芸士、道久常夫氏の作業所があります。県下には工芸士が高松に二人、琴平に一人の僅か三人しかいません。表札に「伝統工芸技術者 道久、厨子達磨 軸箱守箱」と彫られています。 一刀彫は、横瀬の野田、嵯峨山、東中の近藤、造田など、又、ヤリ屋とは、藩政時代、槍の柄を作っていたのでこの名があるといい、ロクロ屋とも言いました。

3. ------ 法蔵寺 ------

仏教・真言宗善通寺派。松寿山と号します。 本尊は阿弥陀如来です。明治6年興泉寺焼失後本堂が学校にあてられ、明治20年までこの寺は榎井の教育の本拠でした。多くの子弟がここから巣立って行きました。

4. ------ 村山リウ ------

明治35年(1902)榎井中ノ町で法蔵寺の東隣りの家(天理教岩倉宅と佐川宅の間、現在はガレージに転用)に生まれました。大正10年(1921)日本女子大学国文科卒業、のち新聞で女性の身の上相談を担当、女性からみた社会時評など、女性問題評論家として第一線にて活躍しました。その間、講演などで「源氏物語」について話しているうちに「村山源氏」という評価を得、大きな話題となりました。村山源氏は源氏物語の評釈にとどまらず、紫式部の恋愛感や、女性の地位人格の現代との対比などにより高い評価を得ました。
平成6年(1994)6月、兵庫県芦屋市にて死去、享年91才でした。

5. ------ 春日神社お旅所 ------

御旅所の直前には大鳥居が立っています。弘化4年(1847)、鳥居の右(北側)は、榎井大旦那13人衆が名を連ね、左(南側)には榎井大旦那12人衆の刻銘があります。扁額の裏には嘉永7年(1854)と刻まれています。

6. ------ 呑象楼どんぞうろう ------

まず、日柳燕石の説明をします。
文化14年(1817)讃岐榎井村に生まれ、通称長次郎、号は燕石のほか幾つも持っていました。父は加島屋惣兵衛といい、豪商、幼少から気鋭く叔父の石崎近潔(青崗)に学び、長じて三井雪航、丸亀の岩村南里より詩文、奈良松荘に国学(儒学)歌学を学び、この恩師達の勤王思想が燕石の生涯に大きな影響を与えました。21才で父母に死別し、家督を相続し、33才頃まで遊興し、地元では博徒の親分として知られていました。反面、勤王の志し厚くすでに大和十津川義挙には参加すべく意を同じゅうする元気な若者を集めて待機し、腹心二人を送って状況調査をせしめ、大和義挙が不首尾に終った為に遂に出発は取りやめとなりました。
詩作にも専念し、河野鉄兜、森田節斎等と交遊しました。二人共勤皇家として知られた人物です。高杉晋作が幕吏に追われ榎井に燕石を頼って亡命したのをかくまい逃亡させたことから、燕石は高杉の身替りに4年間高松藩の獄舎に投獄され、慶応4年(1868)正月20日出獄、上洛して桂小五郎(木戸孝允)と行動を共にし、仁和寺宮大総督の下で、秘書日誌方としてこれからの活躍が期待されると言う時、不幸にして越後柏崎で病没しました。墓は新潟県柏崎市小学校西側の柏崎招魂所に建てられています。爪髪は旗岡北の先祖の墓所に日柳燕石士煥の墓として建てられています。
単なる勤皇家という事ではなく、讃岐榎井の生んだ奇傑として戦前は大いに喧伝され、映画にもなりました。

呑象楼は日柳燕石が12年間暮らした住居です。幕末、尊皇攘夷の戦雲急を告げる中、幕吏や刺客を擾乱して時間を稼ぐ為の仕掛けや造作が巧妙に配してあります。元々は興泉寺住職の隠居所として建てられたものです。この地には珍しく二階西に大窓を取り、象頭山を眺望出来る位置にありました。又、高松街道にも面し、街道を行く人々を監視するにも好都合な場所でした。

7. ------ 春日神社 ------

この地、昔榎の大樹あり、こんこんと湧く泉あり、水神を祭り、旧名を榎井大明神と言いました。社号も村名もこれより起こったと伝わっています。五条の大井、苗田の石井神社と同じく水神にかかり同系地下水脈にあたります。
春日神社は、大化改新以来、権力者となった藤原氏の祭神であり、藤原氏の荘園であった地方には多く祭られています。その時代に名称の変更が行われたと考えられます。祭神は「たけみかづちのみこと」、「ふつぬしのみこと」、「あめのこやねのみとこ」、「ひめがみ」の四神です。ちなみに、春日さまを祭る神社は全国で約3千社あります。社伝には、寛元2年(1244)再興、貞治元年(1362)細川氏の命によって本殿並びに拝殿建立、永禄2年(1559)石川将監により造営、正保四年(1647)石川喜太郎大願主屋根葺替え、寛政7年(1795)本殿再興、文化6年(1809)拝殿再営などと伝わって、現在の建物は明治26年(1893)再建、昭和48年大改修をしました。仁王門は寛政7年(1797)改築されました。全讃史等の書には大宝元年(701)云々の記録もあるようですが・・・。

  ------ 讃岐五景の碑 ------


春日神社の隅にひっそりと建っている讃岐五景の碑は、昭和2年10月10日付の香川新報(現在の四国新聞)発表の讃岐にある景観の覇権を争った結果を碑にしたものです。トップは、39、651票で綾歌郡国分寺。2位以下は渕崎八幡山、仏生山法然寺、安原最明寺、根香寺、庵治竹居観音、そして第7位34、620票で「仲多度榎井日柳燕石碑」と一段大の活字が飛び込みます。8位が一宮田村神社、9位が亀鶴公園、10位は塩江温泉と続き、金刀比羅宮は80番台の後半に読み取れます。驚きでありますが、これには当時の時勢や「燕石会」の影響にも増して、高松藩主の直系、かつ貴族院議員の松平ョ壽よりなが 公(1874〜1944)のバックアップが見えてくるようです。明治維新前夜、讃岐勤皇党の総帥日柳燕石翁によって、高松松平藩主が平和裡に官軍に禅譲したらしきことがその証左となっていると見るのが妥当ではあるまいかと考えられます。

8. ------ 凱陣 ------

春日神社のすぐ北には、丸尾醸造の蔵があります。東主屋 1棟 、西主屋1棟、原料蔵及び作業所1棟 、西味噌蔵1棟が平成17年に登録文化財に指定されています。初代丸尾忠太(1855〜1918)は安政2年榎井に生まれ、明治12年頃長谷川佐太郎の酒屋「新吉」で働いていました。その後、明治18年(1885)30才の頃、佐太郎が満濃池改修のため、全財産を投げ出し無一文同然となったこともあって、醸造の施設、什器はもとより土地、屋敷、営業権等の全てを譲り受け、酒造、販売に勤しみ、佐太郎がなお、勤王の国事に奔走するのを物心ともに助けました。

9. ------ さらさや ------

さらさや(飲食店、平田食堂)は最近廃業したそうですが、街道筋に面した二階の戸袋を見上げると、家傳として薬効を列挙し「当所にあり」との事が書かれています。うどんや、食堂なのに何故薬まで売るのかよく理解できず平田さんに確かめると、たちまち謎は氷解しました。平田美保子さん(現81才)「私が嫁いできた昭和21年から(義父が他界)同27年頃までは、売っておりました。よく効くというので、うどんを食べてその薬を服用すると回復が早い、と近郷近在からの客足が伸び評判の粉薬でした…。」と つい最近まで営業していた「うどんや」です。

10. ------ 福野屋呉服店 ------

福野屋呉服店は玄関9間の大店です。既に廃業していますが、店内は廃業当時のままに保存され、頑丈な陳列台や様々なポスターなど、レトロな雰囲気を醸しだしています。二階を倉庫として使用した名残で、天井から品物を下ろすように造作してあります。大黒柱は八寸角、丈高く、ひょっとして剣山系の山並みから阿讃山地三頭トンネルを越え、搬送された銘木材ではないか、そんな疑問が頭を擡(もた)げてきます。

11. ------ 内海家 ------

日柳燕石の生家「加島屋」の建物の本体は既に撤去されましたが、当時の茶室が内海家に残っています。茶室の入口に続く庭もよく手入れされ、風情を感じずにはいられません。

12. ------ 真楽寺 ------

真宗大谷派。三井山と号します。昔は浄土宗でしたが、久しく廃絶していたのを室町時代の寛政年間再興して真宗に改めて現在に至っています。江戸時代の絵図にも大きく載っています。大きな桜の木があります。

13. ------ 旗岡神社 ------

旗岡神社は春日神社の末社です。旧高松街道の終点地の四辻にあります。正式には、竹冠に旗を下にした文字で「籏岡神社」と書きます。歌舞伎の名優中村福円の手水鉢があります。中村福円は本町出身の歌舞伎界の名優です。三代目中村福助の座に加わり、見込まれて世にでました。芸の実力は恩師を凌ぐものがあり、当代一流の役者と方を並べるほどでした。大正11年10月横浜で倒れ、57年の芸道一筋の生涯を閉じました。旧金毘羅大芝居(金丸座)でも幾たびか得意の芸を演じました。福円の碑が金丸座の前に建立された時には、福円の付き人をしていた関係で、俳優の長谷川和夫が除幕式に来られました。
毎年10月には例大祭が行われます。

14. ------ 旗岡の鳥居 ------

高松街道は常磐橋から始まります。現在の三越の辺りです。栗林から円座の横内、滝宮、岡田を通って 南西の方角へ進むと 土器川に出ます。この辺りを祓川はらいがわと呼び、史蹟が多く残っています。その川を渡り、高松藩の南端の四条村と天領だった榎井との境にこの鳥居は建っています。慶應3年、この年12月20日頃から笛、太鼓で囃子ながら踊りつつ、「ええじゃないか」と唱える金毘羅への参詣が引きも切らず、家を忘れ、我を忘れた狂態が続きました。この「ええじゃないか」の群集も出来たばかりのこの鳥居の下を潜ったものと思われます。「ええじゃないか」の騒動は、翌慶應4年正月官軍の高松藩追討を契機に次第に鎮静化して行きました。
日柳燕石が高松藩の獄から開放されたのは同20日、「ええじゃないか」の騒動が終わった後でした。燕石も得意絶頂でこの鳥居の下を潜ったものと思われます。

15. ------ 燕石墓地 ------

旗岡神社から北へ300メートルに道標あり、さらに東へ300メートルの所に日柳家の墓地があります。 日柳燕石は新潟県柏崎にて永眠しましたが、遺髪と爪は榎井に帰還しました。この墓地には「日柳士煥爪髪座麦号燕石柳東」とあり、あわせ父母、親族の墓碑、10数基があります。その域外最寄りには、初期「燕石会」を代表する篠原幸吉翁慰霊碑が建立されています。

16. ------ コトデン ------

琴平の町には、歩行者のための金毘羅街道と、交通網の発達による鉄道、電車が集中していました。現在ではJRとコトデンだけですが、琴参電車と琴平急行がありました。
ここでは幻の坂出行き急行電車―「コト急」―の話をします。 昭和5年4月開通し、第二次世界大戦の終盤、昭和19年1月24日に軍部によって不要不急路線との断が下り休止され、戦争終結後に廃止、現在ではその軌道はいうまでもなく跡形なく田畑に復元しています。線路等の鉄材は解体、接収され、レールの大部分は旧満州鉄道のレールとして使用されましたが、一部には南方のビルマ(現国名ミャンマー)戦線に向けて輸送される途次、敵襲を受け太平洋に沈没したと伝承されています。現琴平郵便局の所が始発駅でした。東進して現JRとの立体交差地点では、現コトデン高松行きの高架下の直ぐ北を走行し、県道丸亀貞光線の榎井と苗田の境目付近が榎井駅になります。終着駅は現JR坂出駅の南側に到着します。旧コトサンにコト急の三つの鉄路、駅が並列していました。全長約16キロメートル、所要時間30分でした。

17. ------ 高燈籠 ------

高燈籠については、「三水会」ホームページの「高燈籠附近明細」と「高燈籠ガイド」をご参照下さい。

18. ------ 並び燈籠 ------

嘉永3年(1850)江戸火消四十八組から寄進のことが決まり,近郷からも町内からも多人数が出て働きました。この年前後のものと思われる浪華牧野宗弥筆「象頭山之図」で見ると燈籠は道の西側だけにあって東側にはありません。工事に前後があったのでしょうか。また後々の図や写真で見ると、燈籠は幅の広い石垣の上に建っていますが、この図では地面に直接建っていて背後に玉垣が見えます。「古老伝」には「玉垣井に石燈籠数々相建申候儀云々」とあるので、この図が当時の様子を正確に伝えているのかも知れません。最終的に東西34基ずつ、計68基整然と並んで見事なものでした。当時は町内は言うまでもなく、近郷村々よりの見物客が毎日のように押し寄せたと書かれています。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が金毘羅まいりに来たのは明治27年(1894)です。その時の手紙に「あの石燈籠が両側にある道を下りました」と印象深く書かれています。 もともとは「横町」という町で、その後「富士見の馬場」と言われました。今よりも広い区画を占めていたのでしょう、燈籠の間に植えられた桜の下で弁当を広げ、ここで花見を楽しむ大勢の人の姿が見られたと言います。
終戦後、外地より引き揚げてきた人々の住宅を建てるため、この並び燈籠の大半が移転されました。今は西側に6基、東側に18基の24基が残っています。残ったすべてが重要民俗文化財に指定されています。
この燈籠の中で特に目につくのは「五代目市川鰕十郎」です。側面には「妻いと、倅猿之助」と家族の名前も見えます。鰕十郎は上方の歌舞伎役者で嘉永6年(1853)に金毘羅大芝居を興行しています。


−−− 「こんぴら山下ガイドの会」に戻る −−−