| 「勤評闘争」五十周年の節を終えて 梅原憲作(民研前所長) |
二〇〇八年、勤評五〇周年の節目の年、記念行事も終え、まずは五〇周年の節目としては一区切りつきました。
記念行事当日配布された『六・二六 五〇周年 勤評闘争に学ぶ』(記念実行委員会編)には二一名の闘いの体験と九名の現職の方々の原稿が寄せられ、六月二八日記念行事当日の『六・二六記念行事トーク集』にはリレートーク八名(内現職二名)、フリートーク四名の皆さんの発言が後日文章化されました。また『こうたいきょう 第二九号』(高退協機関誌)も「特集 勤評闘争五〇周年記念」として体験者一五名の原稿三〇ページ(原稿用紙一〇〇枚余)を発行しました。
これらを一読して、「勤評闘争六・二六/五〇周年の記念行事は、ただ『想い出を語る』に留まるものではありません。その歴史、伝統、教訓を今に生かすことが真の目的だと確認」(前記『−学ぶ』編集後記)の通り、三つの冊子はこの意図に沿ってまとめられてます。今にどう生かすかについては現職の生々しい職場と生活の現状が述べられ、今の形を変えた権力の攻撃とその中での闘いが淡々とまとめられています。
「節」を終わった今、記念行事やまとめの三つの冊子から改めて勤評闘争を簡単に振り返り、今後につなぐ意味で二三の感想を述べてみます。
一つは、勤評闘争は二〇世紀、第二次大戦後、日本の教育をめぐる日米権力と民主勢力との壮大な闘いの一大叙事詩であることを再認識しました。
簡単にふりかえってみます。戦後六年目の朝鮮戦争、米ソ冷戦、日米首脳による再軍備のための池田・ロバートソン会談、五五年教育委員会法の改悪で、権力は一気に攻撃を強めてきました。これに抗して戦時中教え子を戦場に送った先輩教師から戦後教師が「再び教え子を戦場に送らない」体験と歴史を学びとりました。
この闘いの中から勤評が導入される前に、いち早く勤評の本質を「戦争への一里塚」と見抜くことができ、果敢に闘い抜きました。この闘いでは、行政・刑事処分、降格・不利益人事など、権力による傷だらけの処分を受けましたが、県民に大胆に訴え民主勢力のなかに戦線を拡大し、安保の闘いに引継ぎ教師の三つの任務を定式化しました。
この闘いの前進のなかで、六五年には県教組は勝利的和解を勝ちとりました。六九年、「土佐の夜明け」とまでいわれた山原健二郎氏を国会に送り、七〇年代、全国の革新自治体の先陣役を果たしました。氏は反共の嵐の中でも三〇年間議席を守り抜きました。これはまさに現在まで続く叙事詩です。もっと正確に、全体的に記述の必要があることを痛切に感じます。
二つ目は、五〇年後の今日、現職の先生方に「勤評の本質」が闘いのなかで継承・発展されていることです。その声を聞いてみます。
「『科学的、客観的に、教師の勤務評定することは不可能である。不可能なものを、ごり押しするのは、真の狙いがある』ということを見抜いたのが『勤評は戦争への一里塚』です。一〇文字で勤評の本質、真の狙いが的確に表現されています。現在の『査定制度』もおなじです。上位下達の教育界を作り、戦争のできる国づくりのためです。現場にはすでに影響が出始めています。…皆様方先輩の闘いから、本質を見抜く目の大切さと、たとえ制度が導入されたとしても、生徒、保護者と一緒に闘えば道は開かれるということを学びました。私たちの闘いはこれからです。」(『トーク集』井上圭介)と結んでいます。
三つ目は、勤評は「権力」がその正体を露骨にあらわした攻撃でした。権力を肌身でつかんだ二人の体験者を紹介します。
その一人、山川久三氏は、勤評闘争時中村高校に勤務、六年後、教職を辞して中国に渡り、大連の日本語専門学校で、純朴な中国人学生に日本語を教えていましたが、文化大革命により授業は中止、廃校になり、再び日本へ帰国、東京で医療関係の専門学校に勤め、退職しています。
氏が二つの権力との闘いに学んだものとして「勤評と文革―片や国家権力による教育統制への反撃、片や毛沢東一派による法無視の権力奪取の内乱―性格は異なるものの、これら争乱の核に見えているのは権力の無気味さでした」(『こうたいきょう』)と述べています。
他の一人、横田慧氏の文章から。慧さんと奥さんの三枝さんは勤評の年、新婚で室戸高校に赴任します。慧さんは五九年九月、懲戒処分となった高校長四名の一人宮本校長の条件評定の対象になり、解職されます。他方で三枝さんは、採用を希望しながら七年間臨時講師の職を求め続けます。
赴任先は意地悪く須崎高校でした。朝は5時に起き、後免駅から寝不足と過労から盲腸炎となり夏休みまで注射でちらして、頃良い時期に手術を受けました。「そのとき彼女が言った初めての弱音を忘れることが出来ません。『権力というものがどんなに力をもっているか思い知らされた。負けそう』と。その秋にもし任用になっていなかったら彼女も『転進組』に数えられたかもしれません。」と述べています。私の解釈では、『転進組』とは採用をあきらめて転職すること、あるいは高教組に加入しないで第二組合に入る誓いを実行することです。
ご主人・叶岡哲氏が懲戒免職処分を受けた叶岡淑子さんのその間の戦いも壮絶です。権力は処分の当事者のみならず、その家族に攻撃を集中しています(『トーク集』叶岡淑子)。
このあたりで筆を置きます。結びにあたって、この小論は大きく二つのことを述べました。一つは、今世界史は大きく「変革」の時代に入りました。ここで私たちの伝統的手法である「地域−日本−世界を串刺し」にするとき、日本にはとてもこの流れを先取りする変革の兆しが見えません。地域からその動きをつくるときです。地域からその壮大な叙事詩を謳いあげるときです。
二つ目には、権力のすさまじい攻撃に抗し、人間の尊厳を守り確立するたたかいを、職場や地域に繰り広げるたたかい、市民的自由を確立するたたかいです。
(「高知みんけんだより」NO.51、2009年3月発行、より) |
| 「虫の目 鳥の目」 梅原憲作(民研所長) |
今年2008年は、戦後高知県の教育運動の中で二つの節目を迎える年です。
一つは1958年の「6・26勤評闘争」の50周年、他の一つは1979年に「高知空襲展」(「戦争と平和を考える資料展」)を始めて30回目を迎えます。
前者は、全国に例を見ない教育基本法改正とのたたかいとも関連して、研究運動として大がかりな総括が必要です。多くの皆さん、なかんずくOBの皆さんの智恵と力をお借りしなければなりません。
後者は、最初から今日までこの展示と関連するピースウェイブ諸行事に関わってきた一人として一文を草します。
70年代は平和教育が全国規模で始まった時期です。全国教研に「平和教育」の分科会も創設されました。その中で、平和教育がヒロシマ・ナガサキに修学旅行に行くことのみにコンクール化、矮小化された傾向があり、70年代後半、高知の私たちは「ヒロシマに修学旅行に行かなければ平和教育はできないのか」と違和感、疑問や反発を感じました。そして、「地域にねざす平和教育とは」、「身近な平和教育とは何か」を求め、高校生たちとともに地域問題調査や憲法問題アンケート調査をし、手探りで平和問題に取り組み始めました。このような中で79年、高知空襲の掘り起こしと展示活動を始めたのです。
この30年を大きく眺めると二つの時期区分ができます。第一期は、この展示を始めた79年から89年の「平和資料館・草の家」の開館と、翌90年の高知市制百周年を期しての自由民権記念館開館までの、主として80年代の時期です。第二期は、その後の今日までの二つの資料館の開館後と展示活動の時期、つまり90年代と今世紀の現在までです。
第二期の現在は、いま活動が続いていますし、全国的に、また世界的にもネットワークがつくられ発信されております。この小論は第一期の特徴と意義について述べます。
ちょうど、『高知空襲43周年―高知空襲展10年の歩み』(高知・空襲と戦災を記録する会)と題し、まとめの冊子を編集しています。89年の時点で、当時の状況がコンパクトにまとめられていますので、引用します。
「空襲展を始めた七十年代末は、ソ連のアフガン侵攻、ヨーロッパへのSS20や核巡航ミサイル配備など核軍拡と核戦争の危機、国内では『日米ガイドライン』決定、有事立法化など、経済大国から軍事大国化へ危険な時期を迎えていました。
他方では、平和なムードと物の豊かさ、戦争を知らない世代が国民の六割を超えたなかで、『戦後生まれの教師がどんな平和教育ができるか』が問われました。このなかで子どもたちとともに戦争や空襲の体験を聞き、資料を掘りおこし、光をあて『資料をして語らしめる』空襲展は始められました。
七十九年七月四日、高知大空襲の日から五日間、県民から集められた資料六百余点、九千人の入場者で会場の市民図書館は熱気でむせ返りました。」
「この年八月十五日、『庶民の側から戦争をとらえなおし、戦争の正体を正しく認識し、平和をもとめる心を結びあわせていく運動』として『高知・空襲と戦災を記録する会』が結成され、常設資料館設置、犠牲者調査、傷害者の救済、平和教材の作成などの運動をはじめました。」
「十回展までの展示活動の特徴は、(一)戦争を地域と庶民の側から『被害』だけでなく『加害・抵抗』の視点でとらえる。(二)世界と日本の反核・平和運動の流れの中で今日的なテーマを追求し、(三)社会・学校・家庭の三教育分野に平和教育の問題提起したこと、(四)運動や行政の側にも『宣言』や『平和行政』など、課題・行動の提起をくり返してきた−などがあげられます。
展示・記録活動をハード面とするならば、七夕まつり、音楽、美術、映画、平和学校などの活動は、若者の感性と感覚にマッチしたソフトの面であり、楽しみながら平和を追求・創造しようとする活動です。」
(拙著「空襲展10年の歩みとこれからの課題」前掲書より)
さて、今一度、80年代の実践の意義を現代の課題と関連しながら整理してみます。
一つには、8・6や8・15でなく、毎年7月4日(高知大空襲の日)にこだわり続け、この日を中心に資料展、さらにこれを中心に平和の諸行事を創造したことです。
83年には「平和七夕祭り」、翌84年には「平和音楽祭」、「平和美術展」を始め、85年には「平和映画祭」をそれぞれ発足させ、87年には「高校生一日平和学校」を加えました。一部名称の変更がありますが、それぞれ実行委員会を作り、草の根市民の立場から今日までこれらの行事が継続・発展しています。
なかでも、地域にねざす平和教育を高校生が主体的に受けとめ発展させたものとして83年からの「高校生ゼミナール活動」があります。高校生が「青春の生き方を学ぶ」なかで、戦争中の特攻隊の生き様を学び比べながら自らの生き方を見つめました。戦後40年には、地域の被爆者調査から長崎とビキニの二重被爆の青年との出会いなどで、83年「幡多高校生ゼミナール」、85年「高知高校生ゼミナール」を結成しました。87年からは平和団体とともに本格的なビキニ調査に発展し、世界史を書きかえるまでにいたりました。
二つめは、展示の初期から公立の資料館の建設を求めつづけてきたことです。第一回展後、79年8月15日には実行委員会から恒常的な「高知・空襲と戦災を記録する会」を結成し、会自らが空襲と戦災の事実を掘り起こし、資料保存をしながら行政、特に高知市に「資料館の建設」を要求し続けました。
83年2月、高知市制百年に向けて自由民権記念館構想の実現可能性が高いと判断するや、「自由民権記念館建設期成会」を結成、幅広い市民運動とし、この構想の中で「平和の資料保存」を位置付けました。しかし、実現が危ないと見るや、85年5月には民立民営の「平和資料館・草の家をつくる会」を結成、二つの運動をネットワークしながら二つの館の完成を相次いで実現しました。
80年代の「館」づくり運動は県下に波及します。これまで地域にねざす教育運動を担ってきた教師たちが、活動の拠点として土地や財産を提供して協力者を組織しながらゼミナール館を建設しました。91年5月には「幡多地域文化ゼミナール館」(山下正寿館長)が完成、93年4月には「香長ゼミナール館」(窪田充治館長)が完成しました。
三つめは、子どもたちとそれをとりまく教育・文化条件の変化を定点観測し続けられたことです。膨大な資料が残されています。改めて整理の必要があります。
初回展だけに触れますと、高知市民図書館で行われた五日間の開催日程にも関わらず、戦後34年目、堰が切れたかのように県民からどっと六百余点の資料が届けられ、九千名の入場者を迎えました。
そのたくさんの感想文や記録・資料が残されています(『るねさんす』「高知空襲展特集」79年9月1日発行)。
最後に、この80年代の市民を中心にした学校教育・社会教育・家庭教育の三分野を総合した教育運動と平和運動は、これまで戦後平和・民主主義教育を担ってきた県教組をはじめとする大きなバックアップがあったことを抜きにしては語れません。趣旨に賛同・協賛する二十団体余によって実行委員会が組織され、財政規模は団体拠出金と県民カンパで百万円の規模になりました。
30年の展示活動で、私が印象に残り、今も耳の底にある言葉が一つあります。
一回展のむせかえる会場でした。一人の小学生が「鼻の頭に汗」をかきながら私に質問を寄せました。
「なぜ大人たちはこんな馬鹿げた戦争に反対しなかったの?」
一言では言えない、「戦争」と「抵抗」の本質の問題です。私も子どもに分かりやすく説明はしましたが、回りくどい大人の言い訳になりました。
「被害」や「加害」の事実に、どのように豊かな「抵抗」の事実を掘りおこし表現するのか。この「問い」は私の問題意識となり、今日まで続いています。戦後63年、日本の大人は、この子どもの「問い」への説明責任を果たしていません。
(「高知みんけんだより」NO.50、2008年2月発行、より) |
| 「メダカの学校」 梅原憲作(民研所長) |
現職の高校教師を退いて15年目、民研と平和教育・運動など「教育」以外に私の関わった分野がある。自らの高齢者問題である。
日本社会が世界のどの国よりも早いスピードで高齢化し、政府や地方自治体の「公助」が不十分で、自分の貯えとしての「私助」に頼らざるをえないのがこの国の現状である。「寝たきりにならない、しない!」、「元気な高齢者がもっと元気に!」を共通の目標とし「仕事おこし」、「生きがい」、「福祉」の三分野での「共助」が始まった。90年代半ばからの全国的な新しい協同組合運動である。
私も、97年以来高知でこの運動と組織の発起人の一人となり、生協法人・高知県高齢者福祉生協を立ち上げこの運動を担っている。8年目の現在、ゼロからの出発が1300名の組合員、5つの事業で1億円の事業高になった。
今この「運動」で課題となっている問題は、@高齢化にとどまらない少子化問題、A団塊世代の高齢化、B定年後の男性の社会参加、C唯一の「戦争の愚行」を体験した世代としての役割、などである。これらの課題への解決のマニュアルは世界と日本のどこにも一切ない。だが私には憲法と教育基本法の基で戦後の高知の民主教育で育てられ、教育運動を担ってきた経歴と自負がある。随分今の情況を切り拓くヒントや知恵を与えてくれる。
今私が、地域で取り組んでいる応用問題が表題の「メダカの学校」である。
「『スズメの学校』から『メダカの学校』へ子どもたちと一緒に『メダカを育てる会』」(高知県ふくし生協ニュース9月号)の呼びかけの記事を載せた。
「特定の先生に師事して奥義を極めることをめざす場合は別ですけれども、高齢協の趣味のサークル、生きがい活動は一般的に『だれがせいとかせんせいか…』のように少しその道の先輩がリーダーになり、みんなで会を運営する『メダカの学校』でいいんじゃないかと思います。文字通りメダカを育てながら小さな生物を育て楽しみ、環境問題なども考えるサークルを発足します。やりたいこと。
@メダカ探検隊―フィールドワーク、生態を学ぶ
Aメダカを飼う
B飼育や繁殖の方法の経験交流
Cこどもメダカ博士を育成する」
組合員の皆さんから賛同の声と土佐市の組合員Tさんから「私の淡水養殖池にはメダカがなんぼでもおるきに子どもを連れてとりにき〜や」のうれしい反響がよせられた。
私の住んでいる高知市鴨田地区は鏡川南岸の農地が半分残され、農村と住宅地の混合地域である。西部中学校の校区であり、鴨田小と神田小のマンモス校である。2年前から町づくりとして11月上旬「鏡川緑地公園イベントin鴨田」が始まり、今回で3回目、5日晴天に恵まれ、地区内外の2千人の人出でにぎわった。組合員でこの行事の実行委員長のHさん(女性)から「我が家のメダカを『メダカの学校』のPRに出品しないか」との相談があった。我が家には少し大きな池と水槽、古い火鉢、発泡スチロール箱など大小10個の水溜りがある。このそれぞれでフナ金とメダカがぼうふらの孵化発生の予防パトロールをしてくれている。願ってもないことで二つ返事でOK。緋メダカをはじめ、白、紫、黒と普通の天然に自生するメダカの親と今年の子メダカの生育別に水槽に入れ出品した。メダカの親子である。入学前、低学年、高学年別とグループ分けした。
食べ物中心の模擬店のなかで人気コーナーになり、趣旨に賛同する入校者には数匹づつ分け、来春までの飼育、管理など連絡をすることにした。
昔のガキ大将やおてんば娘が、地域で子どもと若い親の世代とメダカを通じて親しくなり地域から環境や教育のことを考える契機にしたい。小動物を育てるのは世代を超えて楽しい。心和む。
水草のかげに三つ四つ小さきいのちあかねの空にのぞみつなげて
(昨年9・11総選挙の落胆のあと)
*最近『協同組合入門』〔創森社、06年11月〕に拙著「手探りの『小さな一歩』からスタート」を掲載。
(「高知みんけんだより」NO.49、2007年2月発行、より) |
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| 「現実をつくりかえる創造力を」 梅原憲作(民研所長) |
日本の敗戦と第二次大戦の終結から、六〇年経ちました。その大戦の犠牲者は四千万人とも五千万人とも言われ、その反省から各国の憲法や国の基本法、また国連も「国際平和」を高らかに謳いあげました。だがこの六〇年の世界の歴史は、一九四八年のイスラエル建国をめぐる中東戦争(三回)から現在のイラク戦争まで世界五大陸のすべてで十三の大きな戦争を繰り返し、内戦や紛争に見舞われているのは現在までアフリカを中心に十五地域(国家)以上におよび、現にウガンダなどでは子どもが誘拐され戦場への二万人以上の子ども兵として駆り出されています。
他方、日本はこの惨禍から国連憲章よりもっと優れた一切の戦争を放棄した九条のある日本国憲法をもつ国としてスタートしました。六〇年の現実はアメリカの要請で国民の強い反対を押し切りイラクのサマワに自衛隊を派遣し、二年近くなります。さらに、いま世界の何処にでもアメリカの思うままに自衛隊を派遣できる「普通の国」に憲法改正を迫られています。
まてよ。もう一度イラクの現実に眼を戻すと、基地にこもった自衛隊員は一人のイラク人も殺さず自らの犠牲者も出していません。これは国民的な反対運動のなかでの派遣であり、九条があるからです。この現実を悲観するのか、楽観するのか。後者の立場に立ち、九条をもつ国の「国際貢献」のありかたを具体的に模索したいです。地球の温暖化を食い止める砂漠の緑化、途上国の井戸を掘り伝染病の根絶、前述の子ども兵を救うことなどその道は多様です。
高知民研(高知県国民教育研究所)は設立以来今日まで、平和と民主主義運動の地域研究を一つの柱として歩んできました。七〇年代末「地域にねざす平和教育」が意識的に追求されて以来、年次の記録、個別のテーマとしてはまとめられましたが、「時代の記録」や歴史的総括としては「戦後五〇年」にもミレニアムの節目にも残せず、戦後六〇年に戦争体験記録を残す最後のチャンスとの思いでやっと取り組み始めました。
一九七九年以来、二十六回の「空襲展」を主管してきた「高知・空襲と戦災を記録する会」から「戦争の還暦ノー。平和の里親に!」の「戦後六〇年特別企画」の二つの企画が提起されました。
その一つは、六〇年前の地域の戦争体験をリアルに追体験すること。他の一つとして地域から十五年戦争と戦後の「平和」を総括する単行本『高知・二〇世紀の戦争と平和』を出版し、普及することでした。
前者は高知市大空襲のあった一九四五年七月四日の時と場所と出来事を心に刻む方法を考えました。「時」」は空襲の始まった午前一時五十二分、『場所は炎の地獄』のなかで市民の命を救った鏡川のほとり、平和記念碑が出来た竜馬スタジアム前、出来事は四一三名のお名前の判明した犠牲者数、その数ロウソクを九条の文字で割り竹に形どりその上に灯し追悼し、その待ち時間には若者が中心のライブ行事を行うことでした。真夜中の行事にもかかわらず若者の関心が集まり。来年も引き継いでいこうと申し合わせになりました。
二つ目の単行本『戦争と平和』の編集・執筆には体験世代のジャーナリスト、研究者など二十六名のメンバーのネットワークで、全体の構成を「高知と戦争」、「二〇世紀の戦争と高知」、「戦後の平和と民主主義」、「二一世紀世代−課題と展望」の四章構成とし、四十項目で各自の得意とする分野を担当しました。留意した最大のことは、若い世代が活字離れの中、手にとり、「興味と関心をもち」読んでみようという気持ちになる本の編集と執筆に腐心し、写真もふんだんに使い二一世紀世代への「平和のバトンタッチ」事業としました。
八月十五日の発売予定を七月末には上梓でき、節目の夏に市内の書店の店頭で平積みにされ、県内のメディア、特に新聞は、高知新聞の「県民有志戦争体験を本に/『風化させたくない』『次世代にバトンを』平和の運動の歩みも収録」(八月十日付け)をはじめ各紙が四〜五段見出し写真入りで大きく報じてくれました。また、九月十九日高知新聞学芸欄「月曜随想」に高橋正/高知ペンクラブ会長が「『高知・二〇世紀の戦争と平和』を読んで」を寄稿され、「洛陽の紙価」を高めました。
この動きは六〇年の夏以後も爆発的ではないが、少しずつ雨水が地下水の流れになるように広がり、全国的にも六〇年の県レベルの出版は例がなかっただけに、今夏に向けて新たな広がりの兆しを見せています。
この出版意義を列記しますと、一つは体験世代の受け止め方と、その世代が若い世代間との交流を図ろうとする積極的な反応です。その感想の二、三を取り上げますと、「戦争を体験した高知の姿は、記憶の消えないうちに書き残さなければ、それは消えてしまう。…何を体験し、どう受け止めたか、人間という集団の苦悩と希望への過程が記憶されたことの意義は大きい」、「なんとなくしのびよるファシズムの気配を感じ、身震いを覚えます。戦争を知らない日本人が殆どになりつつあるこんにち、貴重な異議のあるお仕事…」、「…戦争に何の関心もないだろうと思っていた横浜から遊びに来ていた親戚の娘が、この本頂戴と持っていった時は“やったと”思ったことでした」などが寄せられ、まとめ買いが目立ちます。
二つ目は、同じくこの世代から新しい幾つかの体験や証言が寄せられ、今後の調査、研究へのてがかりです。「戦争が終わりに近い頃、行軍中の兵隊の列から一人連れ出されて叩かれ蹴られて、転がされ続け、お地蔵さんの足下で息絶えました。介良橋のたもとの出来事です。次に同じ場所で(将来の乗馬用の「著者注」)軍馬が倒れるとたくさんの兵隊が介抱し、農家の牛小屋を空けさせて生きかえらせました。私が十歳で目撃した生涯忘れられない出来事です」などの新証言が寄せられています。
三つめは、団塊の世代など現職世代を通り越して若い世代への直接バトンタッチがされ行動に移されています。十月は従軍慰安婦にさせられたパク・オクソンハルモニを招いての証言を聞く会、十一月には高遠菜穂子の講演会など、若い世代主体のイベントが一つ一つ全国に例を見ない質と量の成功をおさめ、四国四県への新たな広がりを見せています。
最後に、四つめの一番大きな課題は学校教育への広がりと発展を図ることです。教材や総合学習での位置づけ実践は今始まったばかりです。
今、憲法と教育基本法を守り抜く力を地域で持つには「現実をつくりかえる創造力」(大江健三郎)を「個」と「民主的集団」が発揮することではないでしょうか。
(「高知みんけんだより」NO.48、2006年3月発行、より) |
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| 「住民力と見えない建設」 梅原憲作(民研所長) |