令和8年 3月...3月30日配信
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今年は花が満開ではありません。以前撮っていた物です

田舎暮らしのおすそ分け

野福峠

桜花爛漫世はまさに猫も杓子も、桜協奏曲の中で狂喜乱舞している。なぜこれほどまでに日本人は桜に恋い
焦がれるのであろうか。
それに加え最近では訪日外国人まで、わざわざ日本にまで来てビュティフルだとかワンダフルなどと。ほっ
といてくれ大きなお世話だと言いいたい。
日本人は桜を見て人をいたわしく思う心あわれみの気持ちを、すなわち惻隠の心をかき立てられるから、花
に思いを寄せよせるのである。
確かに鮮やかに咲き乱れ風に舞う花の美しさは、なにものにも勝るとも劣らぬ華やかである。しかしそれは
日本人の心の中にある桜への思いとは、多少次元の異なるものである。
桜はその花の美しさの影で、他の木にもましてよわさもある。細菌には、めっぽう弱いのである。。根元に
除草剤を10cc20ccc入れるだけで30年40年の大きな樹がまたたく間に、枯れていく。
桜伐る馬鹿とも言うが、その伐り口から細菌んが入り樹をからしてしまうのである。だから伐ったら必ず
切り口に、殺菌剤を塗布しておかねばならない。
それを知ってか知らずか花見客の中には枝を折り持ち帰る不心得者も、常時ではないものの見かける。それ
を見れば訪日客のルール破りに、文句を言える筋合いではないかもしれない。
全国各地にその地ならではの桜の名所があまたあるが、我が町明浜町にもそんな名所がある。全国的に知ら
れた名所と比べればそれはささやかなもので、それは驚くほどではないにしても、それでも愛媛八景の一つに
数えられ、海を背景としたそのその佇まいの爽やかさは、多くの県民の心に根付いていいる。
海の暮らし(明浜町)山の暮らし(宇和町)の二つの町を隔てるように、その間に野福の山並みが横たわる。
その山並みの山肌をおそらくツルハシ一つで切り開いたのであろうが、大正15年住民の願いが通じ野福峠が
開通した。
その野福峠を俯瞰してみれば足を投げ出し寝そべった馬の姿のようで、別名馬道とも呼ばれていた。その名
のとおり余りの急なカーブの多さに、設計した土木技師が首になったとまことしやかに、言われていたもの
である。
高校の修学旅行で箱根のいろは坂を通った時、ガイドが急なカーブをことさら強調していたが、野福峠にく
らべればこんなものカーブのうちには入らんぜよと、思ったものである。
開通後村の(豊海村)役場に臨時職員として勤めていた者が、奇特にもその俸給を投げ出し野福峠の麓から俵
津トンネル(野福峠の終点)までのおよそ八キロメートルにわたり桜の苗木千本を、植えたのである。
その桜が最盛期を迎えた昭和40年前ごろの景観は息をのむほどに、素晴らしいものであった。一般的に桜の
寿命は70年と言われるが、寿命が尽きて枯れる物や道路の拡張で失われる物やで一時衰退した時期もあった
が、桜保存会のみんなのお陰で徐々に復活してきている。
そんな桜も野福の山並みとどうように明浜町特に俵津地区の人にとっては、心身の一部であると言ってもい
い。幼いころから野福の山並みを見上げ山並みに囲まれ何かにつけ野福がと注意を払い、俵津の人達とは切
っても切れない縁で、結ばれているのである。
花の時期ともなれば野福の桜は咲いつろうかとあいさつ代わりに交わされるほど、人々の心に溶け込んで
いるのである。
峠にトンネルが抜け道が開通するまでは山並みの急な斜面に刻まれたとでも言えばいいのか、獣道を少し大
きくしたような小道がいくつもあり、それを使って隣町の宇和町まで行き来していたと、いう。
江戸時代にはこの小道を使って、伊予吉田藩の年貢米を馬の背に乗せ俵津の港まで、運んでいたらしい。そ
れを忍ぶかのように一本の小道のわきに馬頭観音が祀られているが、おそらく足を滑らせ谷に転げ落ちたも
のであろうが、年貢米の運搬も当時は命がけであったのであろうことを思わせる。
余談になるがこの吉田藩の殿様忠臣蔵でおなじみの赤穂の浅野内匠頭と勅使下向の饗応接待役に任ぜられて
いたが、うまく立ち回ったのかどうにか役目をやりこなしおとがめなしで、やり過ごしている。
その野福峠に今年も花の季節は訪れているが、開花は早かったもののその後の気温の低下が影響したか、今
日(3/29)時点で満開には程遠い状況である。
私もあと何回この花が見られるか、どうか分からない。この風景をしっかり網膜に焼き付け向こうに行きた
いものだが、かなわぬ夢かもしれない。







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