我が国に稲作が伝わったのは、弥生時代だと言われてる。最近の研究ではもう少し少しさかのぼり、縄
文時代後期だと言う説もある。
それまで一万年に渡り狩猟採収の生活に明け暮れていた縄文人たちの暮らしが、一気に大地の恵みに支
えられ生きていく定住生活に大転換したのは、縄文人にとって驚き以外の何物でもなかったことは、想
像に難くない。想像するだけで楽しくなる。
遺跡などで見る竪穴式住居での囲炉裏を囲んでくつろぐ一家団欒の席、イラストなどでみる小さな田ん
ぼの田園風景等々、本質的に機械化が進んだとはいえ現代と何ら変わることのない。それらの風景は日
本の原風景であり、それらは我々の血や肉となり日本の伝統文化の根幹をなすものであり、なぜ
自分が日本人であるかを証明するための、アイデンティティ(概念)である。
そんな原風景の意識の中で我々日本人は、二千年過ごしてきたのであるが、それはまた格差社会を生み
それがもとで争いが生まれ、土地や米をめぐって互いに傷つけあうようになり、それがその後の戦の原
点になったと言う。
稲作が伝わりそれが一見平和への礎の要石になるかと思われたが、古代の人達の平和への希求は見事に
打ち砕かれ、その後二千年に渡る戦いの幕が開かれようとは、米とは全く食料でありながら争いの芽も
内蔵した、
米とは本来食糧でありながらそれ故に常に争いの芽を含んだ、作物なのであろう。
その当時中国では始皇帝が始めて全国統一を果たした秦帝国を、滅ぼした劉邦と項羽がその後の覇権を
めぐり、激しく戦っていた。
軍事の天才の誉れ高くその名も天下に響いていた項羽に対し、一方で侠客上りで愚将の汚名にまみれた
劉邦との戦いの行方は誰の目にも明らかだったが、以外に黄河の中流域の穀倉地帯である中原をいち早
く制し米蔵の上にどっかりと腰を下ろした劉邦に、項羽は完膚なきまでに叩き潰されたのである。
その後漢帝国の繁栄ぶりは言うまでもないが、当時劉邦が腹いっぱい飯を食えと言ったかどうかは定か
ではないが、とにかく食い物を手にしていると言うのは、何物にも代えがたい力となり人々はみなそれ
に従うようになるのであろう。
米とはそんな人心をも左右するほどの潜在的な力を内包しているものであり、かつ食い物であるが故に
それがまた争いの種でもあるという、運命めにある。
その後我が国も古墳時代から大和朝廷の誕生とな
り貴族社会が形成され、源頼朝の出現で武家社会が確立し、収奪するものとされる者との二極化という
社会構造が当たり前のようになり、極端に言えばそれが太平洋戦争末期まで続いたと言っても、過言で
はない。
昭和17年の五一五事件なども娘を身売りに出さなければならないほど困窮する、東北農民の追い詰めら
れた状況が、背景にあったと言う。
この間全人口の二割を占めた無駄飯食いの武士の存在があったにせよ、夜に陽を継いで働く百姓の体力
だけでは解決できない、課題があった。
需要と供給である。どの時代も需要に供給が追いついていないのである。その一番の問題が生産性の低
さである。当時反当一俵と言うから現在の七分の一である。金肥をいれ地力を揚げようとしていたみた
いだが、それもどれほどの効果があったかは不明である。
生産性の向上には根が深く地中まで伸びることが、重要である。そのためには深く田んぼを耕すことが
最も大事な、農作業である。そのためには木の鍬などではなく鉄鍬が最も求められるが、なぜ当時の支
配階級はそこに気づかなかったのだろう。
賢君の誉れ高い八代将軍吉宗公も暴走する米相場に右往左往するよりも、なまくら刀の一振り二振りを
鍬に鍛えなおして、百姓に下げ渡しておけば、更に名声は上がっただろうに、と思うがいかがか。