トンビがくるりと輪をかきたくなるような青空のもと、休日ともなれば家族総出あるいは親類縁者まで総動員でみかんの採収にいそしんだ風
景は、どこへ行ったのであろうか。
以前と言うのか十数年前と言えばよいのか、十一月も残すところわずかであると言うのにみかん山は紅く色づくこともなくそのころとは違っ
たみかん畑の、なんとも侘しいみかん山の風景が、広がっている。
それには気温が高く昼夜の寒暖差がないことにもよるが、不作年で大玉(2Lサイズなど)が多く大玉は小玉果に比べれば色付きが悪くて紅くな
らず、それが更に畑の風景をわびしくしている。
今年は裏年である。更にカメムシ・狸・ハクビシン・イノシシ・ヒヨドリとあらゆる病害虫の被害が例年になくひどく、生産者にとっては目も
当てられないほどの、被害に襲われている。「オラアみかんつくりが嫌になった」という声が、十一月だと言うのに生暖かい風に乗って聞こ
えてくる。
この時期にしては山は静かである。例年ならばこの時期にはモノラック(モノレール式運搬機)の音がみかん山に響き、その音を聞くだけでも
忙しない気分にさせられるが、今年はそれも全く聞こえてこない。
果たして田舎暮らしは今後、その暮らしぶりを保っていけるのか。そんな愚問をつい掲げたくなるが、それは愚の骨頂というものであり連綿と
続いてきた田舎暮らしの神髄をここで途切れさせるわけにはいかず、それを子々孫々にまで受け継いでいくのは、我々の天命でもある。
そもそもミカン作りとは、何なのであろう。メールマガジンを発行当初みかん作りは、畑の格闘技だと書いたことがある。格闘技と言う中で
その最たるものは、草刈りであろう。もう少し言葉を進めれば草刈りとともに暮らしがあると言っても、言い過ぎではないような気がする。
当然ながら草刈りは昔のように鎌で刈ったり手で、引き抜いりはしない。誰が発明したのか知らないが今では草刈り機と言う、便利なものがあ
る。草刈り機の登場は火縄銃の伝来が戦の形をがらりと変えたように、みかん作りの形を効率という点でがらりと変えた。
今では草刈り機はみかん農家にとって箸や茶わん同様なくてはならないものであり、
大袈裟に言えばみかん農家にとって命の次に、大事なもの
かもしれない。
そして草刈りとなれば飛び散る草の切カスや小さな石ころを防ぐための防護マスクをつけ草刈り用のエプロンに身を固め愛機の草刈り機を手に
いざ鎌倉とまでいかないまでも、草に挑んでいくのである。
この草刈りでここだけの話だが、草刈り中跳ねた小石が男の一番弱いところに当たり、しばらく畑にうずくまっていたことがある。キンコン
カンと音がしたかどうかは分からないが、私の人生で味わった痛さの中で三本の指に入る、痛さであった。まさに格闘技である。
みかん作りは格闘技であると言う一方で、みかん作りにおいて草刈りと双璧をなすことに、みかん摘みがある。スポーツに例えるならマラソン
であろうか。
以前みかん採収の手伝いに来てくれていたおばちゃん達は、みかん摘みを喜び採りなどとはしゃいでいたが、何が喜びであろうか日に日に体に
残っていく疲れに、身も心もへとへとになり夢にまで出てくるみかん摘みにさいなまれ、みかん摘みがなかったらとどれほど、思ったことか。
そんな思いをしながら最後の一個を摘み取ったときの思いは、それまでの難儀から解き放たれる開放感に加えやり終えた充足感など様々な感情が
入り交じり、これはやったものにしか得ることのできない思いであろう。この最後の一個の摘み取り、これこそが本当の喜び採りであろう。
その喜び採りもみかん作りから撤収したことで、無縁となった。無縁となったことで二十数年の短いみかん作りだったとは言え、哀愁の念がほの
かに胸の内をながれた。
老兵は去るのみと言うことなのでしょう。