令和5年  ・・・・5/30日配信
左上・・・5月連休明けに出荷がありました。さまつ松茸です。隣りは真竹というタケノコです
右上・・・再設定の予備枝に芽が出ました
左中・・・徒長枝です赤線の所で摘芯します
右中・・・実が葉を持った有用果です。摘果します
左下・・・第一次生理落下が始まりました。例年より多いような気がします
右下・・・

田舎暮らし 過疎の波

西予市明浜町は愛媛県の西南部に位置し、伊方原発から南に30KMの所にある。原発で大事故でもあれば放射能に汚染されることは、まちがいはない。そんな環境にあることに一抹の不安を感じずにはいられないが、生まれ故郷は何物にも代えがたいものもので、その素晴らしさは誰にも侵されたくない、私だけの秘密である。

そんな明浜町は俵津・狩り江・高山・田之浜の、四つの集落から、なっている。それぞれが六十年位前まで豊海村・高山村と二大集落に分かれていたが、その後町村合併があって明浜町として、統合された。

その時統合記念として各家に湯呑が配られたが、その湯飲みがつい最近まで台所の隅に転がっていたがいつのまにか、無くなってしまっている。

合併当時人口は一万二千人くらいであった。今のように半数以上が高齢者が占めているような集落ではなく、一時も休まず子供の声が響いているといった、殷賑に包まれた集落であった。

当時四つの集落に小・中学校が設置されていて、俵津・狩江・高山・田之浜地区の各小・中学校には、合わせて二千五百名ほどの児童・生徒がいた。

当時は今ほど道路が整備されてなく、各地区半分孤立しているような生活、ぶりだった。特に田之浜地区は明浜町の最西端に位置し、ともすれば豊後水道に転げ落ちてしまいそうな所にあり、台風が来るたびに波で道がさらわれ、陸の孤島となることは、再々であった。教員などには僻地手当てが支給されていた。

その小中学校も現在では四地区が統合され俵津地区に小中一校ずつとなり、児童生徒の数も合わせて百名ほどと、あと何年学校が維持できるかと言ったような、状況である。しかし校舎だけは鉄筋コンクリートの近代的なもので、我々の時代の木造校舎のしかも傾いていた物とは、大変な変わりようである。こんなところに税金を使わなくてもと言う、気がしないわけでもない。

この数十年で何故これほどまでに過疎化が進みその勢いを止めるどころか、さらに勢いを増しているのか。この後三十年で俵津集落は三百人程度(現在八百人)に、なるという。

集落は寂しくなる一方であると言うのにむこん山(共同墓地で川向うにある)は、ますます賑わいを増している。昨年の暮れからこの数か月で三人の男女が、川の向こうへ行ってしまった。それも過疎化に拍車を、かけている。

余談だが死に際に立ち会っていると死とは、水道の蛇口をきゅっと締める事に似ている、とふと思った。水がとまり最後の一滴がぽつんと落ちてはじけたとき、何もかもが過去のものとなり、再びよみがえることはない。あっけないものである、と思った。

そんな思いの中で過疎を見つめてみると、過疎化とは人がまばらになっていくことによって集落の暮らし向きの基盤が損なわれ、通常の営みができなくなる事と、言えるかもしれない。だからと言って過疎化の波を押しとどめ現状を維持し活性化できるかと言うと、それは泥棒や詐欺師がいなくならないのと一緒で、到底できることではない。

ではどうすればよいのかと、これまで幾多の優秀な人たちが知恵を出し合い一歩でも前に進もうと努力を、重ねた来た。それでも村は "村おこし"のかけ声の呼びかけにも反応することもなく、起き上がることはなかった。

それは一重に企業誘致とか産業の育成だとかそんな経済面にばかり目がいって、村おこしの本質つまり田舎暮らしの素晴らしさ楽しさに目がいっていなかったことに、少なからず原因があったのではないか。

田舎とは言え職種を選ばなければ、仕事はある。ただ自分のやりたい仕事自分に合った仕事が、ないだけなのである。それに所得を考えれば多くの者が脱藩を試みるのは、当然と言えば当然である。

司馬遼太郎が著書関ケ原の中で「世の中は利で動く」と言った。水が高いところから低いところ流れるように、人も金も利の薄いところから利のあるところへ向かう、と言うのである。

江戸時代百姓で食えなくなったものが、すたれ百姓となって江戸に流れて行って、それなりに食っていけたように、都市と田舎の関係は基本的にその構図は、変わっていないのでょある。こんな地方と都市との構図はわが国だけではなく、世界各地で見られることである。

だからといって過疎化を甘んじて受け入れよと、言うのではない。どこのTV局の番組だったかポツンと一軒家と、いう番組がある。私はこの番組が好きでよく見るのだが、この番組に出演している人たちは究極の過疎の中で暮らしている人たちである。機会があればこの人たちに聞いてみたい。この人たちはその自分がおかれた環境を、過疎だと思っているのかどうかを、聞いてみたい気がする。

世間一般の不便だとか寂しくないか不自由ではないかと問えば、推測の域をでないが「あなた方は過密が良いのか」と言うような意味の言葉が返ってきそうな気がする。ようはこの人たちには過疎と言う言葉は、ないのである。そのように考えてみれば過疎とは人の頭数のことではないのでないかと、私は思うのである。

確かに人が少なくなれば集落の維持は、難しくなる。しかしそれで不幸だと思うならば、さっさと荷物をまとめてすたれ百姓同様に、出て行けばよいのである。

先日の日曜日黒点防除のため、消毒に行った。暑くなりそうなので朝ちょっと早めに家を出て消毒を済ませ昼食前に返ってきたのだが、そうすると女房と娘は買い物に行っておらず、夕方まで焼酎片手に相撲のTV観戦で、過ごした。この日人の顔を見たのは女房と娘の二人だけで、後は猫を見たくらいである。

これは私が特別なのではなく田舎暮らしとは概ねこんなもので、見方を変えれば悠遊自適の暮らしぶりである。これをどう見るかは人それぞれだろうが、私にはすこぶる心地よい暮らし、である。言いかえれば私にも過疎と言う言葉が、ないのかもしれない。

昨年十月老人会の肝いりで、演芸会が開催された。実質はカラオケ大会だったがその会に何と全村民の3分の1にあたる300人が、押し寄せた。言わずと知れたほとんどが高齢者であったことは、言うもでもない。

侮るなかれ高齢者とは言えその秘めたパワーは、本物の歌手をしのぐほどである。体力こそ衰えたとはいえその心は青春時代をかけて、いるである。

残された時間は少ないかもしれないが、暇とお金はたっぷりと持っていて、しかもそれを持て余しているのである。

過疎の波に押し流されるのではなく、それを利用して波乗りをするくらいでなければ、波に飲み込まれ川の向こうへ流されるのが、おちであろう。

それを回避し田舎暮らしをより楽しいものにするには、この高齢者パワーは願ってもないものである。

それが実現されたとき過疎と言う言葉が、消えてなくなるのである。   




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