令和5年  ・・・・3/30日配信

愛媛八景の一つの野福峠の桜です。大正年間に植えられたのが、始まりですが当時は1000本あったと言われています。
私の子供時代はかなりありましたが、道路の拡張などで失われその後捕植も行われましたが、当時の面影はありません。
お節句の時には重箱の弁当を下げて、えっちらおっちら行ったものです。

   
   
下・・

田舎暮らし 河内晩柑の話

先月号で出荷量の減少にデコポンの行く末が危惧されると書いたけれど、その後出荷量が以前ほどではないにしろ増えてきて、そんな思いも杞憂に過ぎなかったことで、まずは一安心である。

そのことに加えどん底から這いあがった柑橘として、知っているのは一つしかないとも書いたが、その柑橘とは河内晩柑と呼ばれるもので、唯一日本古来の在来種で縄文人も食べたかもしれないと思わせるような、歴史ある柑橘である。

名称の河内晩柑ですがこの呼び方が本来の呼び方であり、御荘柑、愛南ゴールド、宇和ゴールドなどは産地が勝手につけた名称であって、同じものである。それがどれも商標登録されていて、最近では自由に使うことができなくなっている。

河内晩柑の河内であるが、私が推測するのにどうも谷川を意味しているのではないかと思う。私の集落も現在新田と呼ばれているが、その昔は河内谷と呼ばれていたそうである。

この河内と呼ばれる集落は私どもの南予地方ではあちらこちらに存在し、それらはみな谷沿いを流れる川を挟んで、集落があり私の推測もあながち間違っているとも思えないのであるが、どうであろうか。

現在和製グレープフルーツなどともてはやされているが、河内晩柑の草創期にはなんだこの屁のようなみかんはと、思っていた。屁を食べたことはないが、そんな印象であった。

甘くもなければ酸っぱくもなく水気が多くて果肉はぐしゃとしていて、何のとりえもない柑橘の形だけしていると言った風の、みかんだった。

私の子供の頃(昭和30年代)家の近くにも河内晩柑の古木があったが、採って食べようなどとは思わなかった。まだ酸っぱい夏ミカンのほうが、良かった気がする。

話は横道にそれるが、この夏ミカンを一個丸々食べたあかつきには、歯の根が浮いてかんでもかんだと言う感覚がなくて、その後10分くらいは何も食べられないことが、あった。そんな夏ミカンは皮が硬くて剥きにくいが、それを子供ながらに工夫して、食べていた。頭と尻の部分を包丁で切り落とし実の中ほどに切れ目を入れて、実と皮の間に箸を差し入れ箸で実と皮をはがして、そして食べていた。夏みかん一個食べるのにもそんな苦労をした、時代であった。

このころやっと普通温州(南柑4号)がそろりと顔を見せ始めた時期で、芋畑がみかん畑に転換していく時期でも、あった。

その後温州ミカンはしばらく高値が続き、どこの家もみかん景気に酔いしれ我が世の春を、謳歌していたのである。

そんなみかん景気に沸いていたころに愛南町(旧城辺町・御荘町)あたりで河内晩柑が細々と栽培、され始めたようである。

みかんの大暴落でみかん農家が意気消沈していた昭和55年県内の生産量は、およそ1000トンであった。そのほとんどは愛南町産であってそれが現在では、5千トンほどになっている。

その頃の河内晩柑の市場での取引価格は1Kgあたり20円30円と言った大変安い価格で、大きなものでも1個10円とか20円であった。

とにかく人気のない柑橘であったのである。それがどうしたことかそれから数年後100円200円と驚くような値上がりが続き、私の知る限りでは1Kgあたり800円まで値上がりしたことがある。

安値に泣いていた愛南町の農家もそれにつれ生産額も上がり、売り上げ3000万円を超える俄かに大農家の出現が相次ぎ御荘柑ブームに沸きに沸いた、そうである。

なぜそんなことが起きたのか、誰も気づかなかっただけで簡単なことであった。それは販売時期を3週間ほど後にずらした、ことであった。

従来は3月中旬ころから出荷されていたのを4月中旬にずらしたのである。この3月中旬と言う時期は、今ではデコポンやせとかなどいろいろな柑橘がにあふれ賑やかであるが、当時(昭和50年代後半)はポンカンや伊予柑の出荷が終わり、市場は閑散としていた。当然その閑散とした市場を狙って出荷をしていたのであるが、河内晩柑はこの時期まだ酸っぱくて生食には不適格な、物なのである。安値だったのはそれが裏目に出ていたのだと思う。

わずかに販売時期をずらすことに気が付いたのは、愛南町の某青果農協であるが金メダルものである。

そんな高値販売に触発されたのであろう、現在愛媛産河内晩柑は当時から10倍を超える1万トンを、超えている。全国の生産量の7割を占め、ほぼ独占状態である。

しかし1万トンと言っても75万トンある柑橘全体の生産量から見れば、微々たるものである。全国には河内晩柑を知らない方が多数おられるのではないかと、思う。それをまだまだ販路が広がると言うことだと見れば、河内晩柑にとっては追い風になるではなかろうか。

この数年でJA南(旧宇和青果農協と宇和島農協が合併)管内に数万本の河内晩柑の苗木が、入っていると言う。それらがもう実をつけ顔を見せ始める時期になっているので、今年あたりからかなりの量が出回るのではないかと、思っている。

河内晩柑は生育の早さから、高齢者の農家あたりがあと何年畑に出られるのかということから逆算しそれを前提にして、植えるならこれしかないといった選択から選ばれている、理由もある。

河内晩柑は樹勢が強く普通のみかんに比べ成長は1.5倍ほど早い。なので1年剪定しないものなら枝同士が入り組んで。樹の中に体を入れることも難しくなる。かと言って立ち枝を煎徐し横枝を伸ばしたりすると、実の重さで枝が折れたりするので、気を付けなければならない。

実がなり色が付き始めて一月あまりたったころ、軸とへたの間に角質層が形成され、少ないときで1割多ければ2割ほどの実が、落ちてしまう。落下防止のマディックと言う薬剤もあるが、それほどの効果もない。散布して気が済んだと言う程度である。

河内晩柑は黒点病を除けば病害虫に強いのも、一つの特質である。黒点病とは果皮に黒い点々が現れるものであるが、ひどいものになると薄茶色の絵の具を果皮に流しかけたようになる物もある。それを流れ黒点と呼んでいる。

四月に入れば河内晩柑の旬到来である。美味しいものを選ぶには果肉が見えれば、果肉が赤みがかったものを、手に取ってみてしっとり感のあるものを、選ぶとよいでしょう。果皮の厚さはちょっと分かりにくいかもしれませんが、厚いものは若木のもの薄いものは古木の物で、どちらかと言えば古木のほうが、美味しいようです。

系統もの(JA共撰)には雪害にあったものはないと思いますが、個撰の場合はいくらか入っている可能性がありますので、気を付けてください。

ここで一口メモです。お盆のころまで河内晩柑は、出荷があります。




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