令和4年  ・・・・11/30日配信
左上・・
右上・・
左中・・
     右中・・
   
   
左下・・先月掲載できなかった西予市明浜町狩浜の段々畑です

田舎暮らし 晴れのち曇り

一途で頑固で仕事馬鹿の男だった。十一月七日午後静かに息を、ひきとった。一般に眠るようにとよく言われるが、まさにそのような逝き方だった。

彼とは本家と分家という間柄であり、家も隣りどおしてそして年齢も同い年であった。私たちが幼かった昭和三十年ころには家父長制度の名残りが残っていて、同い年であると言っても本家と分家のけじめの中で生きていて、世間の見る目も扱われ方も子供心にもなんとなくその違いが、感じられるようなところがあった。

彼とは特別親しかったわけでもなくまた中が悪かったわけでもなく、ただ本家と分家と言う間柄でほかの友達とはちょっと違った、関係であった。

その彼が逝って私の気持ちの中で何か抜け落ちたような気がするのは、やはり血のつながりがそうさせるのであろうか。

死の直前手を握り呼びかけると眼を見開いて、しきりと何かを訴えているように思えたが、声にならないので何を言いたかったか分からなかった。しかし私の推測だけど後のことは頼むと言っているように、思えてならなかった。

そんなことがあって梅雨空のようなさえない気持ちに覆われながら、今年初めてのみかん採収をした。

今年は夏から雨が少なく酸抜けが悪いだろうと思っていたが予想に反し、酸抜けのよさに驚いた。たとえばちゃはら早生という、早生みかんでありながら酸抜けの悪いみかんがある。たいてい十二月中頃にならないと酸が抜けないのだが、それがどうしたことか十一月中頃には酸が抜けていて、酸が抜けているばかりでなくこの数年のみかんの中では、最高の味になっているのである。これは初めての体験であり、私の食感では糖度が十五度はあると思うほどの、甘さである。

さらにそれほど昼夜の寒暖の差があったと言うほどでもないのに、着色がよいのである。昨年は着色不足の物は採らないように気を付けて採果したものの、一割程度が着色不足で販売を控えなければならないものが出た。それが今年は普通に採果してほぼ着色不足がない状態である。どうなっているのだろうか。

農産物の良しあしはお天気次第とよく言われるが、みかん作りをされてない方にはその違いの差はわかりにくいだろうが、こんなに違いが出るのはお天気だけの、せいだろうかと思う。私にとっては不思議極まりないこと、である。

人間社会の複雑さは言うに及ばずだが、植物の世界もまた複雑を極めているのであろうか、私のような胡乱な者にはとんと知恵の、及ばぬところである。

今年のみかんは総じて味じが良い。昨年肥料を鶏糞だけにしたことが、味の悪さに繋がってるのが、証明された格好である。今年は再び肥料を魚粉に戻して、その効果の高さに改めて魚粉のすばらしさに思いが、強くなっている次第である。

十一月上旬色もつき味ものってきたころ、イノシシがみかんを食い荒らし始めた。しかしいつものことながらなぜ獣たちは味がのってきたのが分かるのか、謎である。

おそらく五月の連休あたりに畑で目と目が合ったイノシシだろうと思ったが、私には手も足も出ない。そこで知り合いの猟友会のオッサンに獲ってくれと頼んでいたら、十日ほどして『獲ったぞ」と報告があり、大きさを聞くとそれから判断してやはり目と目の合った、イノシシだと思った。

イノシシと言えば冒頭で書いた今は亡き彼もまたイノシシ獲りの、名人であった。親子で年間三十頭くらい獲っているということで、先日も息子が家の前で、解体していた。

生前彼にはイノシシの肉を良くもらったものだが、それももうないかと思うと死ぬこととはこういうことなのだと、あらためて思わされる。

私も五十歳から六十歳までの十年間病気ばかりで入退院を繰り返し、世間ではもうすぐ死ぬなどと噂が立っていた、みたいである。私自身も七十歳まで持つかどうか自信がなかった。脳梗塞でもあと少し病院に行くのが遅ければ寝たきりになっていただろうし、大腸がんも手遅れになる一歩手前で見つかり、何とか命を拾った。

がんセンターでの最後のCT検査で冠動脈が狭くなっているのが見つかり、冠動脈にステントを入れることになったが、これもほっとけば今頃心筋梗塞で、なくなっていたかもしれない。

何が幸いしたのかいずれもすんでのところで、最悪の事態から救われているのである。何度も失いかけた命を私は拾って、彼はその命を掌から落としてしまった。生きること死ぬこととは、その人が持っている運次第なのであろう。

長生きは結構なことではあるが「まだ生きちょるんか」などと、言われたくないものである。




メールマガジン登録

メールアドレス:
メールマガジン解除
メールアドレス: