快天山古墳(かいてんやまこふん)(国指定史跡:平成16年9月30日指定)
時代
4世紀中頃
形態
前方後円墳
規模
全長98.8m,後円部63.5~68m 後円部高さ10.55m
主体部
刳抜式割竹形石棺3基
概要
古墳時代前期に築かれた前方後円墳。全長98.8mと築造当時には四国最大規模を誇る。現在は、香川県下第2位である。昭和25年に主体部の発掘調査が行なわれ、3基の埋葬施設が確認された。
それぞれ刳抜式割竹形石棺が用いられており、第2号石棺は国内最古の刳抜式石棺である。第1号石棺は盗掘にあっており、棺内には何も残されていなかったが、棺外から多くの副葬品が出土している。
中でも後漢時代の中国製の青銅鏡は貴重なものである。墳丘は、3段以上の段築構造で、斜面部には葺石が施され、テラス部と頂上部には3~4m間隔で円筒埴輪が立て並べられていた。
この古墳の被葬者は、畿内政権と深く結ばれた権力者であったものと考えられている。
栗隈城跡(くりくまじょうせき)(湯船城跡:ゆぶねじょうせき)(市指定史跡:平成16年9月27日指定)
概要
栗隈城は、大高見峰から派生する尾根先端付近の標高160~205mにかけての稜線上に位置する中世山城である。
この場所には「湯船」という地名があり、別名湯船城とも呼ばれる。この城は西長尾城の支城で、星濡城(およぼし)田村城、城ノ岡城、大流城を束ねる中心の城であった。
初代城主は、西長尾城主を務めた長尾大隅守元高の四男田村上野介親光(こうずけのすけちかみつ)で、その後を六男上野介が継いだ。その後、天正10年(1582)の長宗我部元親による攻撃により落城した。
城跡は尾根の稜線上に連郭式曲輪列が配置されており、総延長500mを測る。本丸は南に位置しており、その南北はそれぞれ三重の堀切で守られる。
その北側には延長約50mの曲輪が配置されており、北端部の北面と東西に大型の切岸が設けられている。それぞれの切岸の先には、さらに連郭式曲輪列が続く。本城は、全国的に見ても各遺構の残存状況が極めて良好である。
宇閇神社古墳(うのいじんじゃこふん)(市指定史跡:平成16年9月27日指定)
概要
綾歌町南部の大高見峰から北西に派生する尾根の先端付近には、弥生時代末期から古墳時代に築かれた墳丘墓や古墳が多く分布する。
この内、栗熊西の宮ノ浦から畦田・平尾地区付近の緩やかな丘陵上には、古墳時代後期に築造された横穴式石室を有する円墳が点在する。宇閇神社古墳は、これらの一つで宇閇神社の境内に位置する。
古墳南面は後の盛り土によりその姿を隠しているが、調査により墳丘は直径16~17m、高さ約4mの規模であることが確認された。石室開口部東に面しており、羨道部へと続く。羨道は一部消失しているが、玄室は良好に残存する。
玄室は1~2mの石を組み上げて構築されている両袖式で、奥行き4.9m,高さ2m、天井幅1.85mを測り市内最大規模である。
奥壁中央には三角形の鏡石と呼ばれる大型の石がはめ込まれている。玄室内は盗掘を受けており、棺や副葬品などは残されていない。羨道の先には小さな平野が開けており、関連する集落があったものと考えられる。
平尾墳墓群(ひらおふんぼぐん)
時代
1~4世紀
形態
墳丘墓
規模
②号墓全長28m ③号墓全長28.8m ④号墓全長18m ⑤号墓径10m
主体部
竪穴式石室、箱式石棺
概要
綾歌町南部の丘陵地に位置する。これまで4基の発掘調査が実施されており、弥生時代中期から古墳時代前期にかけて次々と築かれていったものと確認されている。
3号⇒2号⇒4号⇒5号の順で築かれており、高所から低所へ移行していったという特徴がみられる。4号以外は多くの埋葬施設が作られおり、特に2号には17基もの主体部が確認されている。
古墳文化の確立する前に築かれた墳墓群として貴重なものである。現在、2号は現地で保存されている。(見学不可)3号、5号の箱式石棺が、湯船道に移転復元されている。
定連池東丘1号墳(じょうれんいけひがしおか)
時代
4世紀末頃
形態
方墳
規模
一辺9m高さ1.5m
主体部
竪穴式石室2基
概要
本墳は、一辺9mの方墳である。各辺共に二段の列石があり、段築構造になっている。現在の高さは1.5mであるが、本来はまだ高さがあったものと思われる。古墳中央には、南北軸の竪穴式石室が2基完全な状態で残存する。市内に残存する数少ない方墳のひとつであり、特に貴重なものである。
石塚山古墳群(いしづかやまこふんぐん)(消滅)
時代
3世紀
形態
1号墳 前方後方墳 2号墳 円墳 3号墳 前方後円墳 4号墳 方墳
概要
昭和61年12月から翌年3月にかけて綾歌町教育委員会は、中大束川東岸の丘陵部に位置する石塚山古墳群の発掘調査を行いました。
この結果、これまで五基の円墳で形成されていると思われていた古墳群は、一基の前方後円墳と一基の前方後方墳、そして一基の円墳と方墳あるいは方形台状墓一基の合わせて四基で構成されていることが確認されました。
しかし、石塚山古墳群の調査は難航しました。出土した遺物があまりにも少なかったのです。遺物は、文字のない時代を調査する際の最も有力な決めてなのです。
一号墳から出土した遺物は、墳丘上の盛土から出た弥生時代のかけらだけでした。このために時期の決定は不可能とされましたが、割竹形木棺を使用していることなどから、二号墳より後の時期であろうと推定しています。
この古墳群中、最も保存状態がよかったのが三号墳でした。当初は円墳であろうと思われましたが、調査の結果、前方後円墳であることが確認されたのです。
弥生時代前期のものと思われる土器片が出土したことなどから、二号墳と同時期かその後につくられたと思われます。注目されたのは、二号墳で発見された石積み墓壙でした。
二号墳内部の竪穴式石室は、安山岩の板石を小口積みした当時の一般的な築造技術が用いられています。問題になったのは、その石室を包むような形で石垣状の石積み壁が築かれていたことです。
石垣状墓壙は、メスリ山古墳(奈良県)や森将軍塚古墳(長野県)、萩原一号墓(徳島県)などに見られる程度で、県内に確実な例がなく、出自などを想定することが難しいのです。
しかし、この石垣状墓壙が例外ではないとすると、県内の各地に分布している積石塚にも、同様の施設が構築されている可能性が高くなります。
他の積石塚にも石垣状墓壙が備えてあったとすれば、石塚山二号墳は、阿波・讃岐地域を中心とした「積石塚文化圏」の影響のもとに成立したと考えられます。