推理小説
ウルリヒ・ズーアバウム著/有内嘉宏訳
根本問題
易しさの難しさ:問題分野としての推理小説
推理小説は小説、映画あるいはテレビの形で表現されようと、ジャンル内で野心的なあるいは地味な部類に属していようとやさしい。
推理小説はわかりやすい。たしかに理解力は前提なしに、誰にでも最初から与えられるものではない。むしろ個々の作品を正しく受け入れることができるためには、ある程度ジャンルの専門知識を持ち合わせなければならない。少なくとも推理小説では何が問題であり、何に留意しなければならないかを知る必要があり、できれば推理小説では読者や観衆の受容過程を操作する、繰り返しあらわれる言葉や視覚的な信号にも習熟すべきだろう。このような予備知識はしかし、たいてい大人になればすでに身につけており、しかも意識的な習得や特殊な授業を受ける必要もない。その後ずっと推理小説はたやすく理解することができ、作品の妥当な、表出意図という意味で完全な受容能力がある。
推理小説は容易に同一視される。包括的で正確な定義がいかに見えようと―問題は推理小説を受け入れると決して現実には緊急にならない―だれも実地に推理小説と非推理小説の線引きに関して真剣な疑問を持たない。出版社は推理小説を一般に独自の順番で出版している。テレビでは推理小説がはっきりした輪郭のある番組欄に所属している。どの読者や観客も、推理小説を眼前にしているか否かを、まぎれもない直感でわかると思っている。
『ロジャー・アクロイド殺し』【アガサ・クリスティ作】は推理小説だが、『ハムレット』は、殺人と罪人の追跡が問題であるにもかかわらず、推理小説ではない。どの犯行現場のシリーズも、たとえ例外的にまったく犯罪が存在しないと明らかになっても、推理小説である。『ベ
ルリン・アレクサンダー広場』【アルフレート・デーブリーンの長編小説で1920年代のベルリンを舞台にした都市小説(1929
年刊)】は推理小説らしい特徴や事件にもかかわらず推理小説ではない。
一般の意見によれば、推理小説は要するに価値も軽い。どの評価でも、例外や境界例は別として、等級のたいしたことのない個所に位置づけられている。ほとんどすべての人が推理小説にはただ娯楽の価値だけを認める。尋ねられた人の多くはジャンルの業績と機能をもっぱら緊張の仲介にあるとさえみている。そのほか娯楽作品に少なくとも著者がジャンルの格と潜在力を強調する一方、ポーからコナン・ドイルを経てマイケル・イネス【英国
1906−1995】に至る推理小説の歴史の中で、ジャンルと自己自身の作品の価値について批判的に、あるいはそれどころか軽蔑的に意見を述べている、傑出した代表者の長い列がある。推理小説がいろいろな点で易しいことは、全世界に広がる計りしれない人気と、文学形式やジャンルの根源的で相変わらず中心的な刻印の別な媒体への転換ばかりか、学校や大学での推理小説に対する強まる興味に対しても主要な根拠である。犯罪物語は教材として ―英語の授業の購読として、あるいは文芸学演習の対象として―ますます人気が出てきている。理由は言語上問題がないからであり、既に存在する興味に結びつけられるからであり、とりわけ古典作家の購読が減少し、読むテキストの共通した基盤がなくなったあと、だれもが鑑賞すべき個々の作品を比較し、分類し、評価しつつ一連の似た作品を背景にして見ることができるほど、多くの経験を持つ唯一のジャンルだからである。
しかし、注目するに値するほどみずからの考察や結果の伝達に配慮していなかった、文芸学理論も、すでに約二十年前から推理小説に関心を示している。
この関心はまずジャンルとして推理小説(もしくは、比較的狭義に理解すれば、推理小説史)に向けられる。文芸学では近代にジャンルの範疇、すなわち共通の構造的特徴と歴史的体系的な関連を持つ作品群を列とし、中心的な機能を、以前は時代か個々の作者の全作品に満たされるような、中心概念として持っていた。推理小説は(サイエンス・フィクションに似た方法で)分析に特に利用しやすいジャンルと思われる。つまり資料は豊富だが一目でわかり、一世紀を超えて継続的に存在するから、歴史的発展が追跡可能でありながら、複雑な歴史の調査をしなくてもよいほど新鮮である。
研究対象として推理小説は規則性の観点からも魅力的である。理論的に方向づけられた文芸分析のほぼあらゆる有力な方向は、形式主義者達や構造主義の発端に基づく文芸学の系列も、言語学から由来する文芸学路線も、言語学に由来する記号学やテキスト言語学も、文学作品が形式的および内容的な種類の基本要素が超個人的な(ジャンルに特有か文学一般かの)規則どおりの手続きによって全体に組み立てられるというイメージで一致している。従ってそれに基づいて作品が生じる手順の体系が求められる。以前は叙情詩が文学の基準を示す文学の中心とみなされ、理論形成でも最も重要な役割を果たしていたが、つい先頃から特に叙事文学に向けられている。叙事論が文学論の中心分野として抒情理論と入れ替わったのである。
まさに推理小説では叙事の文法を求めることが理解できる。他のテキスト群には一定の手順による個々の作品の規則性や成立が、これほどはっきりと直視されることはない。他の種類のテキストでは個々のジャンルの規則や包括的な規則目録について作者と読者間ですでにこれほど長い内部の論議は存在しない。推理小説史の規則書を把握することができれば、ジャンルの特殊な取り扱い方法の認識だけではなく―推理小説は比較的に単純な叙事構造であることが許されるゆえ―一般的な叙事規則の洞察も得られるであろう。
結局、推理小説の分析はまた文学テキストとの現代的な取り組みの別な関心事、テキストと読者との関係把握に関連して、さまざまな成立条件に向けられていたが、今日では受容の側面に方向づけられている。テキストに関心があるのは特に大衆、経済次元への思想傾向である。文学史を成立の歴史から受容の歴史に書き換えたい。
推理小説も最初から作品内在的な考察を促すわけではない。紛れもなく目的に向けられており、読者に対する具体的に名づけられる効果狙い、たとえば何よりもまず緊張に向けられている。読者の視点という中心的な意義がないジャンル論はここでは全く考えられない。ジャンルの歴史もほぼ自然に受容史の路線をとる。ジャンルの発展は受容者による新たな上演形式の受容か拒絶かにかかっており、作者は伝来の手本を繰り返し変化させるので、新作も常に受容史の性格をもっているのである。
推理小説はわかりやすく、容易に同一視でき、軽いだけではなく、容易に分析でき、文芸学的にも把握できると証明されるだろうという、二十年ほど前にはまだ一般に広がっていた期待は実現しなかった。六十年間に一連の暫定的でおおよそのジャンル分析やジャンル論が比較的に短いエッセイの形で現れたあと、続いてジャンルの合意可能な体系的理解に達しないで、むしろ原則上の意見の多様性と、ジャンル特有の構造の記述と、ジャンルの一般的理論の構想が直面する、さまざまな困難が意識されるようになっている。
障害は定義で始まり、しかも特徴的な基本特性の呼称でも隣接現象との区切りでも、推理小説が閉ざされた、または「縛られた」ジャンルとみなされるのか、あるいはしかし開いた境界を持っているので、交差や越境が可能で正常なのだろうか。
定義の問題は、探偵物語(小説か短編小説として)が推理小説のまだ優勢でほぼ排他的に見いだされる種類であるかぎり、すなわち今世紀の半ばまでは問題がなかった。探偵物語はかなり正確で特徴に富む定義で把握できる。読者にとっても作中人物にとってもまず謎のような犯罪、たいては殺人の解明が問題である。筋書は密接に関連する三つの構造部分を持つ。すなわち殺人(正確には犯罪の前史と既知の事情)、捜査(未知の要因、特に犯人の捜索)、そして解明である。主要な人物は中心人物としての探偵(さらに正確には解明する人物、探偵、巡査、私的な市民であるかもしれない)、犠牲者と、結びで犯人が突きとめられる、被疑者のグループである。
こうした構造の探偵物語は依然として推理小説の支配的なパターンである(捜査員の重要性がほとんどもはや中心人物とは呼べないほど低下している変種もいくつか展開していているが)。しかし同時にそうこうするうちに、犯人の謎ときが問題でない推理小説も十分に存在する― たとえば罪びとが読者に初めから知られており、犯行のいきさつが隠しだてなく描かれているからであり―また時にはまったく探偵(もしくは成功した探偵)が登場しないからである。
この種の物語には上述した定義はもはやどの点でも当てはまらない。筋書の構造も登場人物のアンサンブルもまるで違う。この種の推理小説に、同じく筋書と登場人物の構造に根ざす概念規定を求める人は、両タイプの作品間に深い定義上の溝を掘らなければならず、しかも本来より適切な知識に反していることに当惑する。なぜなら支配的な探偵像の有無や犯人の謎の有無で推理小説に重大な違いは生まれないことを、すべての読者やテレビの視聴者に経験が教えている。推理小説は推理小説であり、二種類のものが同じ叢書やテレビの連続放送番組内に現れても、だれも気にしない。
探偵らしくない推理小説の内容に関する定義はその他の点では、犯罪、殺人、罪と償いを扱う、かなり古い文学のありとあらゆる作品を自分のものにする不都合もあるが、もちろん、『オイディプス王』【古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人ソポクレスが紀元前427年ごろに書いた戯曲】や『白雪姫』も含まれる、推理小説の定義は完全に使えない。
探偵物語の慣習的な定義は鮮明さと正確さにもかかわらず推理小説の一般に本質的な要素をまだ把握していなかったこと、また私たちが探偵物語と非探偵的推理小説に直感的に認める根本的な共通性は、筋書や登場人物の領域よりも語りの構造にあることが推測される。いずれにせよ、客観的な理由がわからない、熟語の区別はしないように気をつけるべきであろう。殺人や犯罪を息詰まるような面白い方法で呈示する、あらゆる現代作品が所属する、推理小説という総括ジャンルがあるとの想定から、私たちは出発している。次に、「推理小説」という概念のもとで一般的な言語慣用ではこの種のあらゆる作品が、叙述形式であろうと劇化されて(フィルム、テレビ映画、戯曲として)提供されようと、捜査員を中心人物として持つか否かにかかわらず、一括して理解されている。
ジャンルの規則の存在と性質に関する問題で、もともと切り開かれた道のように見えていたものが袋小路であることが明らかになった。すなわち、作者と読者間の自由なゲームととらえられていた探偵小説が従わなければならないという、二十世紀初期にさかのぼって続く、規則に関する作家、専門家、愛好家たちの議論の存在である。ジャンルの法典を手に入れるために、まずここではただ継承し、ロナルド・A・ノックスの『推理小説十戒』(一九二九年)やヴァン・ダインの有名な『推理小説二十則』(一九二八年)のような規則集を補足して体系化する必要があるかのように思われた。
特にドイツとフランスの文芸批評における規則目録の長い論争の継続後、そうこうするうちに目録の大部分がすでに執筆者によって本気にされておらず、重要な小説家はそれらを認めていないか、意識してそれらに従っておらず、「古典的な」探偵小説、いわんや近年の継承形式の構成法と機能を十分に記述するには役立たないという認識が定着した。当時、推理小説の多くの分野にわたるジャンルに内在する規則の存在と、そのような規則の認識や公式化の可能性問題に、確かに性急すぎる諦めが支配している。なぜならば誤解を招く古い目録への接続なしに規則問題の論議がいまやっと始まったばかりであった。
ジャンル特有の受容法や推理小説の読者関係がまだ十分明らかになっていないこと、それ自体はほとんど驚くに足りない。十年以上前に未来の文芸学として宣伝された、全受容研究はその間に、大口をたたくプログラム宣言と些細な成果しかない分野であるとの評判になり、すでに再び流行遅れになる危機に瀕している。こうした受容研究の理論的業績を確かに正しく評価していない、現在の方向転換はとりわけ、経験に基づく読者研究が発展してきたカタツムリのように緩慢な速度と、具体的なジャンルまたは個別作品の受容観点の研究に対する実践的モデルの欠如への反作用である。
だが、たとえこうした状況を考慮しても、明らかに受容のために存在する、推理小説の特殊な受容過程について私たちが知らなさすぎるのは驚くべきことだ。エリザベス女王時代の観衆によるシェークスピア劇の受容について、推理小説の読書で起こることについてよりも、私たちは精通しているのである。
ジャンルに対していつもはきわめて信頼できる、標準的な推理小説の読者が早くも、わが身に何が起こっているかわからない。状況は魔術の観客に似ている。操作と幻想の事実は承知しているが、トリックを見破れないのである。
文芸批評の討論でもこの分野では多くの問題がまだ十分に解明されていない。それでたとえば、推理小説の読者はテキストに特別な関心を向けて積極的に共に考えている、という見解が、推理小説の読者は特にくつろいで純粋に受け身の態度をとっている、といった見解に並立する。探偵小説は読者にいつも、事件をテキストの中で提供された間接証拠によってみずから解決する、公明正大なチャンスを与えている、という確実に誤った見解さえ相変わらず時たま支持される。結局は推理小説についての発言も社会的な情報伝達として ―たとえば二十年代のイギリスの探偵小説は、物質的精神的に動揺した上位中産階級に健全な、それとも健全化できる世界を信じ込ませる機能をもっていたという命題―思弁の領域をいまだに乗り越えていない。
推理小説としての『マクベス』:ジャンルの規則、ジャンル特有の読み方、ジャンルの違い
ジェームズ・サーバーのすばらしい物語『マクベス殺人事件の謎』でシェークスピアの悲劇を探偵小説にした女性は、原作が本来は推理小説でないことをきわめて正確に知っていた。ホテルのロビーでペンギンブックを買うときカバーの色を気にかけていなかった―当時は古典と大衆の文学をまだ色で区別することができた―そうして寝床での読み物として手に汗にぎる「アガサ・クリスティかそのようなもの」でなく、生徒や学生向けの本であるシェークスピアを手に入れたことに気づき、がっかりするほかはなかった。
それにもかかわらずほかに何も持っていないので、彼女はその本を読み、しかも多大な成果をあげた。犯人を突きとめ(マクベスは最初おおいに嫌疑を受けるが、もちろん真犯人ではない)、真実の経過を再構成し、シェークスピア批評が何世代も取り組んでいた、一連の謎を解くことに成功する。
それは冗談であり、アメリカ式ユーモアの年鑑からサーバーの物語をシェークスピア受容の年鑑へ配列を変えるきっかけは存在しない。しかし『マクベス殺人ミステリー』はまさに虚構のとんでもない読書法の実現で、私たちに推理小説分析のいくつかの原則的な問題考究に範例として、特に推理小説やその他のジャンルにおける読者の役割とジャンル規則の存在や機能方法の問題にきわめて役に立つ。
私たちはふだん読者の役割や読者の態度の説明で受容者をたいていは仮説で組み立てねばならないが、ここでは読者がテキストに紛れもなく存在して、各操作を説明する。そうして私たちがいつもは時折、読者の積極的協力という理論上の確信を文学的伝達の過程において具体例で真実であることを証明するために時たま手を焼いているが、ここでは本当に作品を構成している読書過程を目前にする。原則にかかわること:あるテキストのジャンルの帰属とジャンル性は一定のジャンル特有の読み方の結果である。
この読み方はとりわけ、テキストに明確な規則、推理小説の一般的な規則が適用されることにある。現代の文芸学の場合とは違ってサーバー著『マクベス殺人事件の謎』の女性読者には、推理小説が構成され、読まれなければならない規則の存在と有用性に疑念がない。そこではジャンルの規則が明確に定義され首尾一貫して適用されている。
だからサーバーの女主人公によって提起される問題を一度調べてみる価値があるかもしれない。すなわち
―彼女の読書法と規則体系がどのような状態であり、どのように機能しているか
―ここで悲劇に例示されていることが、「真の」推理文学にも妥当するかどうか、そうして結局
―なぜシェークスピアの『マクベス』が、推理小説として読めるけれども、本来は推理小説でないのか、あるいは推理小説だけではないのかどうか、およそ区別があるとすれば、どこに本質的な区別が存在するのか。
『マクベス』の二者択一的な読書の最も重要な手続きは、テキストの質問ゲームへの変換である。探偵小説の理論家、特にリチャード・アルウィンは、質問がこのジャンルで特別な役割を果たしている、と繰り返し強調した。サーバーの場合にはテキストが数多くの疑問文を含んでいる。その頻度は原作におけるよりも何倍も高い。これらの疑問文のほかにもまだ、主役の女性がテキストを読む際に発する、暗示的な質問がある。
主要問題は、古典的探偵小説を構成し、同小説にあだ名を与えている、あの問題―「だれがやったか」(whodunit)―である。犯人についての問いかけが有効に提起されるためには、まず、マクベスが犯人だったという想定が世の中から一掃されなければならず、このことを我が女性読者は自己体系の枠内でなるほどと思わせる理由づけで行っている。
主要問題と並んで犯人の謎に直接関係のない一連の数多くの質問がある。たとえば「でもあなたは第三の殺人者をどうするの」あるいは「でも宴会のシーンについてはどう思う」など。
テキストで示される虚構の現実を疑問視することは全体に及ぶ。原作で確実な事実として伝えられたものも―マクベスの犯罪行為や夫人の共同正犯のように―問題になる。特にすべての人物、シェークスピアの場合には明らかに善人たちも、とにかくまずは疑わしく潜在的に嫌疑がかかる。
「殺人推理小説は読者がただ疑問にばかりしなければならない」という第一の公理に、補足的規則として第二の公理:「殺人推理小説はすべての設問が明確に答えられる物語である」が欠かせない。
私たちの物語では三十を超える直接に提起され、あるいは暗示された質問が明確にはっきりと答えられる。物語は問答劇として、正確にいえばそれどころか二重の問答劇として作られている。真っ先にマクダフを真犯人だと突きとめた女主人公は、みずからに出して答えたさまざまな疑問について情報を与え、語り手の疑う反問にもはや矛盾が起こらなくなるまで答える。ストーリーの大詰めがきてもまだ、その間に『マクベス』を借り出して新たな目で読んだ語り手が、テキストの問いに答えを述べる―この語り手にはマクベス夫人の父親が犯人である―またそれから夫人の信じようとしない質問に、補足する返事で受け流し、ついには彼の解答も異論の余地がない状態になる。
ストーリーの山場の一部は、『マクベス』解釈の数世代前から議論されながら決められない幾つかの疑問がここで改めて提起され、ジャンルの一般に認められている規則に立ち戻って明白でもあり不条理でもある答えを見いだすことにある。たとえば、マクベスによってバンクォー暗殺のために雇われた二人に合流する、謎のような第三の殺人者とは何なのか。女性読者の答えは、それはもちろんマクダフであり、バンクォーの真の殺人者でもある。かつて第二の殺人がいつも第一の下手人と同じ者によっておこなわれていたからであり、次に犯行が二人のありふれた下手人によって行われるはずがない―「殺人者は常にだれかにとって重要でなければならない」
問い:なぜマクベス夫人はダンカン王を自分で刺殺しただろう、「もしも王が眠ったとき私の父親に似ていなかったら」と言うのか。今回は語り手の推理小説の異文から答え。つまり、王は実際に夫人の父親だったから、似て見えた。娘を王妃にしたいと思った、マクベス夫人の父親が王を殺害した。父親はだれかが来る足音を耳にするや、すばやく死体をベッドの下へ押し込み、自分自身がベッドに入った。
テキストに提示された現実の全体的な疑問視や問題視、それぞれの問いに対する全体的な答え、そして全体が読者の自己活動として―これらの原則がありさえすれば、そこから完全な芸術作品と読者の完全な想像力が結果として生まれ、原作の『マクベス』とその通常の受容法をはるかにしのぐにちがいなかろう。
公理によって設けられた枠内で、しかしながら、大ざっぱに限定規則と呼ぶことができる、一群の規則が適用される。それらは問答劇を導き、限定し、とりわけ読者の活動範囲を限定している。
規則の二つは、読者に問い答える自由に影響を与える、作者の措置に関するものである。引き延ばしの規則は、読者が重要な問題、とりわけ下手人問題に遅滞なく答えを見いだすことが許されないことを意味する。捜索の楽しみは引き延ばされなければならない。「もしだれがしたかをすぐ解くことがでれば、すべてを台なしにするだろう」。このことと驚きの規則が結びついている。「彼らはあなたがたを驚き続けなければならない」。答えの発見過程は少なくとも大部分が読者の予想と期待の外に位置しなければならない。
推理小説の女性読者はこれらの規則が作者によってしっかりと、遅延と驚きの掟から一連の中心規則を導き出すことができるほど強固に守られていると想定する。読者は原則としてすべてを疑い、すべての人物に嫌疑をかけなければならないが、実際には一連の重要性と非重要性の規則によって導き出すことができる。
推理小説の女性読者もまず、マクベスとその夫人が殺人者であるかもしれないと考える。しかし、両者の犯行は遅延と驚きの規則に反するだろう。だからマクベスとマクベス夫人に対して直接に著しく疑わしい人物たちは無実という派生規則を適用する:「あなたは彼らに最も多く疑いをかける、当然だが、この者たちは決して罪を犯していない―あるいは罪を犯しているはずがない、とにかく」。(推論に付け加えて標準的な推理小説の読者問題の一つ、派生した二次的な規則の信頼性不足がほのめかされている)
女性読者の一番考えやすい主犯はバンクォーであり、彼がのちに第二の殺害犠牲者になると、意外性の法則の適用だと確認して満足する:「あなたが最初の謀殺を疑う人物は常に第二の犠牲者であるべきだ」。
あまりにも自然に思いつくことが答えとして問題にならないという基本法則は、彼らがたしかに作品で逃亡のために疑いをみずからにひきつける王の息子たちを考慮からはずせることを認識させるために役立つ:「あまりにも疑わしい。彼らは、逃げれば、決して罪を犯していない。あなたはそれを当てにすることができます」
私たちの場合には戯曲の読み方にとって推理小説としてもともと人物のモデルを越える問題設定にもかかわらず、語り手が自分の解釈でマクベス夫人の父親を正真正銘の犯人像に仕立て上げねばならぬほど、数多くの登場人物が真剣な考察にとって殺人者として問題にならない。答えが引き延ばしでやっと可能である規則が、犯人は重要人物に属していなければならず、おまけに取るに足りない規則によってそれらの人物の一部が容疑者たちの枠内から除外されて、互いに自由裁量の余地を狭めているように見える。
答えを探す際に原則的な開放性(誰もがそうだったかもしれず、だれも最初から善人仲間の一員ではない)が一連の規則によって再び狭められる、限定の現象はただ登場人物たちにだけ見いだされるものではない。
さまざまな問題はまったく似た状況にある。ただ外見上、問題は多数存在するように、多岐にわたる。実際は諸問題の厳密な序列で、犯人についての核心問題に関連するような問題だけが許されている。たとえば一般に第三の殺人者の意味については尋ねられず、ジャンル内で重要で許されている問題の枠内で、人物の役割について尋ねられるだけである。
結局は言語で表現されたものの変化も質問の資料に、質問対象に制限されている。ただ読者はテキスト全体を問題視し、疑問を投げかけなければならないかのように見える。実際には女性読者の探る注意は一様にテキスト全体を対象としていないし、ただマークした箇所だけを探している。彼女は自分にとって疑わしく答えを必要としているとはっきり示され、彼女にとって「気をつけ、追え」と目印をつけている、一連の節に取り組む。残余のテキストは彼女の読書法では意味のない埋め草なのである。
シェークスピア劇の場合には作者による疑問箇所の目印が明瞭に十分行われていないので、サーバーの女性読者は自発的にジャンル特有の発見方法を用いている。彼女の注意はある人物が標準からはずれる行動を白日のもとにさらす箇所に向けられる。つまり彼女の限定された体系では、無実の人の行動と難なく合致させられない行動が俎上に載せられる。疑わしい行動の判断では再びジャンルの規則が役に立つ。結果は有罪の心証でも免罪でもある可能性がある。
このような問題箇所はたとえば、マクベスが夢遊シーンでバンクォーの亡霊とマクベス夫人の出現時に、両者の罪を示す発言をする場面にある。問題の解明に際して―両者はパートナーの嫌疑をそらすために自分に罪があるふりをする―女性読者は夫婦が推理小説では、相手を犯人とみなす時、常にこのように振舞うという規則をより所にしている:「マクベスは[マクベス夫人を]かばっていた。夫は妻が疑われると常にそうする。[---]夫人はマクベスをかばうために罪を犯したように振る舞っていた」
問題事例も最初から殺人の発見である。たとえば、だれが最初に死体を発見するかを注意しなければならない。サーバーの女主人公にとって言語行動によって実際に自分自身が殺人者であることを暴くのはマクダフである。彼は「おお神よ、あの上に死体が横たわっている」と言わずに、明らかに覚え込んだ言葉を発する:『「混乱が神にささげられたこめかみを開いた」、そうして「神を恐れない殺人者は傑作をつくった」、またこのようなことを延々と』
つまり『マクベス』がサーバーの場合に読み取られているジャンルは、とりわけ読者との関連によって特徴づけられる、テキストの種類として呈示される。それは一定の読書法のために書かれ、読者が知って用いる明確な規則に支配されている。規則集の核は、あらかじめ設定された質問パターンかテキスト内の目印によって明白に限定された問いと、限定された問いの枠内で―ただその中で―完全かつ明確な答えである。読者は文学的情報伝達過程で異常に積極的な共演をするように励まされるが、読者の問題視と解答追求も著しく限定的な条件下にある。
このようなテキストに合わせた読み方は、確かにシェークスピア劇に適用可能だが、きわめて不適切なため、その不釣り合いが滑稽な効果を生む。サーバーが登場人物に受容方法をいっそう大幅に、一段と真剣に上演させても、本質的には変わらないことは明らかである。シェークスピアの『マクベス』を構成している最大の要素は、この読み方では把握されない。それはシステムにおいて取るに足りない。唯一考えられる機能は重要な情報に対する隠れたデータの機能である。
把握されたあとの残りは変換され変性される。変形の種類は最も鮮明に性格にあらわれ ―始めはドラマでまだ描写されていなかった人物の進行上の展開として、あるいは新たな経験の影響による真の変化として―いかなる「標準的な」考察法でも本質的な役割を演じる。サーバーの推理小説の女性読者の視点でも登場人物に関して発展過程、それどころか非常に強烈で転回に富んでさえいるが、こうした変化はただ受容者に質問ゲームの観点でしか起きない。登場人物はまさしくいかに疑わしいか疑わしくないかの事情次第で、体格と関心が増減する。マクベスはたとえばこの意味で変化する人物である:罪のない、非常にうさんくさい、熟慮のあとで嫌疑が晴れ、自身の関与で再び疑わしく、再び嫌疑が晴れ、最終的に疑わしくない。こうした過程を除くと、すべての人物は静的で変わらない。
このような『マクベス』の推理小説的読書法の不合理な主要原因は、まず夫人が、次に語り手が私立探偵として事件にいわばカタパルトで射出され、存在しない犯人問題を提起し、そうして間違った下手人を突きとめることにあることは明白である。間違った推理小説の範疇が適用され、周知の犯人が登場する犯罪小説が探偵小説とみなされている。
したがって『マクベス』は、物語のなかとは別種のものを仮定しても、推理小説であるかもしれない。だが、私たちがこれまでに見てきたすべてのことによれば、こうしたうわべだけのグロテスクな誤りだけが解釈を不十分にするのではなく、一方ではシェークスピア作品の制作法と影響の仕方、他方ではそもそも現代的な推理小説の公理学や読書法との深層に横たわる矛盾が―推理小説、探偵小説、あるいは何であろうと―存在するという推測は容易にできる。
この推測を跡づけるために、私たちは『マクベス』を仮定の推理小説『マクベス』だけではなく、本物の現代推理小説文学と比較するのもよいだろう。
おわり。