國破れて道路在り
藤本さん(元、藤本塗料興業KK社長)とは2ヶ月に一度ぐらい、お茶を飲みながら、四方山の話をする。先般待ち合わせの間に、漢詩の字を替えてメモしたものをお見せすると、新聞に投書してみたらどうかと言うので、投書すると掲載された。「國破れて道路あり」というのは、いささか冗談めいた皮肉が込められていたから、新聞は採用しないだろうと思っていた。
活字になってみると、冗談皮肉というよりまるで真面目な嘆きの詩になっているから、原作者・杜甫の面目躍如たるものがある。掲載されたままの文章を再録して保存しておくものである。
国会は、来年度予算の審議中である。一般に関心の深いガソリン税と道路問題が争点になっている。中国の詩聖・杜甫は、世相や庶民のことをよく詩に詠んでいる。彼なら現状をどのように詠んだであろうか。以下は有名な「春望」に例えたものである。
國破道路在(國破れて道路あり)
道春草木浅(道春にして草木浅し)
感道花濺涙(道に感じては花にも涙をそそぎ)
恨道鳥驚心(道を恨んでは鳥にも心を驚かす)
国会連五月(国会は五月に連なり)
課税抵万金(課税万金にあたる)
白頭掻更短(白頭かけば更に短く)
揮欲不勝道(すべて道にたえざらんと欲す)
この大意は、
國の財政は破綻したが道路だけは残った。道路に春がきたが環境は荒れて草木は育たない。道路のことを思うと花を見ても涙があふれ、道路ことを思って沈んでいると、鳥が飛んでもびっくりする。国会は五月まで開かれて審議しているが、税金は重く過せられたままである。年金暮らしの白髪頭を掻いても髪はますます少なくなり、もはや何を望んでも、道路には勝てないと思い知ったのである。
中国には、こうした替え詩ともいうべきものがあるようで、かつて台湾に遊んだとき知り合った人から教えてもらったものがある。その時、中国語で読むと原詩と同じような発音であると言われた。その点は少し違うようにも感じるが、記録しておきたい。春暁(孟浩然)である。
春眠不覚暁(春眠暁を覚えず)
処処聞啼鳥(処々啼鳥を聞く)
夜来風雨声(夜来風雨の声)
花落知多少(花落ちること知る多少)
これを替えて、
春眠不覚暁
処処蚊子咬(処々蚊子が咬む)
夜来巴掌声(夜来巴掌の声)
不知死多少(死の多少を知らず)
としている。
その大意は、「春は朝を知らないほど眠い。あちこちを小さな蚊が刺すので、一晩中蚊を叩く手の音がする。果たしてどれほどの蚊を殺したかわからない」というものである。
これを見せられたときは笑ったことであった。