司馬遼太郎没後20年
司馬遼太郎というペンネームは、司馬遷には遼(はるかに)に及ばない男という意味で付けた名前という。多くの歴史小説を書いた本人の心中には、司馬遷がいたようだ。司馬遷の大著・史記が52万字強であるから、字数に於いては、司馬遼太郎の方が司馬遷を遼に凌駕しているであろう。泉下でどのように2千年前の司馬遷と対峙しているのであろう。
もっとも、司馬遷の「史記」を参照したと思われる中国が舞台の司馬遼太郎の小説で、私が読んだのは「項羽と劉邦」だけである。戦後、中国歴史小説の始まりは、井上靖の「敦煌」「楼蘭」や「青き狼」「風濤」などが司馬遼太郎に先んじており、司馬遼太郎に相前後して、宮城谷昌光、北方謙三や陳臣舜、塚本青史などが多くの中国歴史小説で続いている。
恥ずかしいことに、高知に生まれながら「竜馬がゆく」を読むまで、坂本竜馬のことを良く知らなかった。司馬遼太郎は、高知の歴史学者である平尾道雄や山本大などと坂本竜馬について意見交換をしているが、それを知って、「竜馬のすべて」(平尾道雄著)や「真説坂本竜馬」(山本大著)などを見つけて読んだ。両著ともに、手紙や日記などの原資料を駆使して、竜馬像と事績を浮き彫りにしており、それで竜馬のことをより詳しく知ることができたのであった。
山本大は各地に龍馬の足跡を訪ねたことが著書をものする端緒になったと記している。その約半世紀後に、高知市近郊で竜馬の足跡をたどったエッセイには、「訪ねて候」(渡辺瑠海著)がある。これは、足跡をたどる向きには、良い道しるべになる本である。新聞連載は挿絵がカラーであったが、単行本ではモノクロになっていた。
十余年前、桂浜の竜馬館に尺八の星田一山さんをご案内したとき、高知放送時代から旧知の小椋克己館長自ら竜馬の手紙の数々について、ご説明下さったことがあった。ご子息から満中陰のお返しに、同館長監修の図説「坂本竜馬」を頂戴した。年表・地図・写真に解説を付して、目から竜馬像に迫るカラー・グラビアの好著である。
司馬遼太郎は、来高して多くを取材し、「戦雲の夢」で長宗我部盛親、「功名が辻」では山内一豊、「夏草の賦」では私など名前も知らなかった安芸国虎や長曽我部元親を書き、「酔って候」で山内容堂と県出身作家が手を付けてない高知の歴史を世に広めた。
山内容堂は、竜馬の脱藩の罪を勝海舟の求めに応じて一度は赦免している。当時、脱藩は重罪であるから、後に勤王党の弾圧があったとき、竜馬は赦免されているにもかかわらず召還されている。召還命令に応じずに、勝海舟の家来として、海軍操練所で修行して事なきを得、後に長崎で再度赦免を受け、堂々活躍のが開いた。
山内容堂は、土佐の酒飲みの見本のように酒杯を離さない君主としてテレビドラマなどでは登場する。当初公武合体を唱え、後に大政奉還を建白した君主像とは異なるものである。この姿を彷彿とさせる容堂作の漢詩がNHKの漢詩講座などで紹介されている。真に容堂は粋人でもあった。
墨水竹枝 墨水竹枝(墨水は隅田川、竹枝は詩形)
水楼酒罷燭光微 水楼酒罷(や)んで燭光微(かすか)なり
一隊紅粧帯酔帰 一隊の紅粧酔を帯びて帰る
繊手煩張蛇眼傘 繊手張るを煩(わずら)わす蛇の眼傘
二洲橋畔雨霏霏 二洲橋畔雨霏霏(ひひ)たり
(訳・石川忠久著「日本人の漢詩」による。)
川辺の青楼で宴もやみ、灯火もかすかとなった。
ぞろぞろと綺麗どころが、ほろ酔いで帰っていく。
ほっそりした手に、張って開いたジャノメガサ。
両国橋のたもと、雨が降りしきる。