叔父と漢詩・漢文
この夏、叔父が逝った。医師であったが、その本棚には、医学書に倍する文学書が並んでいた。学生のころ夏休みや春休みに帰省したときはその本棚から借り出して読んだものであった。私が読んだのは夏目漱石全集、森鴎外全集、斎藤茂吉全集、シュバイツアー全集からで、主な作品に目を通すことが出来たのは幸いであった。
今回、改めて叔父の本棚を覗いてみると、赤茶けた「唐詩選」(簡野道明校注)という本が目に付いた。裏表紙に、理1乙と印影がある。叔父は旧制高知高校の理科(から名大医学部)の卒業であるから、理科1年の乙組とでもいう意味であろうか。簡野道明の序文には、漢文の教科書として校注を加えたと記しており、本文には、句読点と返り点を付けて読みやすくし、若干の語句を頭注として漢文で説明を加えている。
唐詩選全詩を200頁ほどの小冊子にまとめているので、実に便利である。1年間の授業で読んだのは、五言古詩全14首と七言絶句168首中114首であったことが、叔父が書き込んだ詳細な授業メモから分かる。旧制高校の漢文はかなり高度で丁寧な授業であったと推察できるのである。これは、昭和14年の出版であるが、新版が現在でも出版されている。今日、唐詩選は、解説を加えたものは、大部のものにならざるをえないので、本文のみ全詩を手にしたい人には得難い一冊であるといえよう。
同じ簡野道明の選による「史記文粋」も教科書として、唐詩選と同じ体裁で昭和4年に初版が出版されている。この序文にもあるように、史記は余りにも膨大であるので、読者が一ときに読みやすい本ではないので、選次したとある。
私も、今から30数年前に、岩波文庫で訳本の「史記列伝」(小川環樹他訳出5分冊)を購入して読んだが、原文を目にしたことはなかった。今は原文を中国のサイトで見ることが出来るが、全くの白文で横書きであるから、これは読みにくい。この史記文粋は、本紀が1編、列伝14編を抜き出し、句読点と返り点を付けて、漢文ではあるが固有名詞などには頭注もあるので、辞書を片手に読めないことはない。
本紀は、「項羽本紀」のみである。「虞や虞や汝を如何せん」の項羽の詩は、京劇「覇王別姫」とともに、よく知られている。「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)もその昔読んだときはベストセラーだったと思うが、秦の滅亡と二人の争いが面白く、多分三国志に次いで知られた話であろう。原文も話が分かっているので読みやすい。二人があの広い支那の地を東西南北縦横に駆け回る話は、支那の地名に疎い我々には古地図が役に立つ。これを、辞書の付録に付いている、漢楚抗争地図と照らし合わせて読むと実によくわかるのである。歴史書というよりは、短編小説を読む面白さがある。
列伝の抜粋も比較的知られた人達である。列伝は70あるので、これからこの14を選んだ理由は、興味深い人物ということであろう。よく知られた孫子の話は、孫子の優れた兵統率のエピソードが面白い。故事として漢詩にも引かれ、水戸光圀が読んで教訓としたという伯夷・叔斉の話も、今の時代には一服の清涼剤である。忠臣蔵にも引用された股くぐりで有名な韓信(淮陰侯列伝)もある。もちろん、2千年以上前の外国語であるから、難読で分からない箇所があり、時間がかかる。思わぬ読み違いをすることも無いとは言えない。
私が知る天下三分の計は、諸葛孔明による劉備への進言であったが、淮陰侯列伝の中で、韓信に劉邦と項羽の三人で天下を三分するよう勧める蒯通の話がある。孔明が史記を読んでいたかどうか、興味は尽きない。