グッピーの観劇日記

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2001.7.1  17:00
無限蒸気社「鳳仙花之國」  松山市 総合福祉センター

ユーホールでの観劇から思っていたより早く帰ってくることができたので、急遽無限蒸気社の芝居を再び見に行く事に。客の入りは1回目より少なく6割程度。私同様2度目の客も結構いるようだった。中央やや後ろの席に座る。

2度目ではあるが、改めてすごい舞台だと実感した。音の面などで多少気になる部分もあったが、やはり無限はすごいと改めて実感した。次回作にも期待大。


2001.7.1   13:00
サイケデリックマンモス「ファム・ファタル」  土居町 ユーホール 90分

朝10:00に松山を出発。途中”ハタダ”で差し入れを買いつつ試食をしまくったがそんな事はどうでもよい。高速を降りて新居浜でオープンしたてのジャスコで昼食を調達をしつつ試食をしまくったがそんな事はどうでもよい。
開演少し前にユーホールに到着。800人くらいは入れそうなホールで、客の入りは7〜8割程度。夕方の部にも同じくらい入るとすれば1000人以上入るという事になるか。第二回公演ということだがかなりたくさんのお客さんを呼ぶ事のできる劇団のようだ。よい席がかなり埋まっていたが一番前の席だけ空いていたので、座ることにした。かなり舞台が近すぎたのだが、まあ、役者の細かい動きも見えるであろうという期待もしつつ。

緞帳が上がる。舞台上はいくつかの台とその上に置かれたパイプのオブジェというシンプルな作り。パイプは赤とグレーの2種類があり、赤の方はどことなく鳥居を象徴しているかに見えた。オープニング、話しは平安期と思われる時代からスタートした。どこかの貴族かなにかの姫(サクヤ)が、権力争いの影響で殺されるというシーンである。暗殺者と思われる男の服装がどことなく忍者のようであったのが少し気になったが。その後舞台は現代の考古学の研究所に変わり、つぼに封じられていたサクヤの怨念が解放される。サクヤは研究所に赴任してきた晴夫を操り、晴夫の娘、ちか子をいけにえに復活をもくろむ。ちか子の母(七枝)に助けを求められた払い師(陰陽師)の弓月は式神のタマコとともにサクヤと対決する。途中、操られた晴夫によりつぼに閉じ込められ、自らの過去に直面する弓月達だが、タマコの活躍(?)により脱出。最後はサクヤの念を払い、ハッピーエンドとなる。

コミカルさとシリアスさを織り交ぜながらの話の展開はなかなかよく出来ていたと思う。ただ、もう少しメリハリを付けた展開にすれば見ていて気持ちいいと思われる。シンプルな舞台ながら、紗幕を使用するなど演出的には面白かった。照明にもう一工夫あれば、見ごたえのある舞台になるだろう。
役者の演技は声はよく通っていたのだが、全体として舞台慣れしていない感じがした。台詞が一本調子になるものや、動きが固く手をもてあますもの、逆に大げさな動きになるものなどがあり、もう少し練習を積んで欲しい。
ただ、サクヤ役の演技はとてもよかった。個人的に前向きの芝居は好きではないのだが、彼女くらいの表現力があればとても違和感なく見ていられる。また、弓月役の役者もなかなかよい味を出していた。欲を言えばもう少し表情に力が欲しいが。タマコ役のコミカルな表現にも好感が持てた。個々を見れば力のある役者もいる。後は全体の演技の底上げと統一性があれば、よりよい舞台を構築できると思われる。9月の今治演劇祭に参加するという事なので今後の上達に期待したい。

内容とは関係ないのだが、少し気になった事があった。客層が広く、子どもが多かったという事もあったのだが、全体的にざわついた客席だった。ビニール袋の音や私語?など、舞台の世界に入る事を妨げていた。あと、上演中に車の移動のアナウンスが2度も流れた。これではどんなに良い舞台でも一気に現実世界に引き戻されてしまい興ざめである。こういったことは一つの劇団の責任ではなく、恐らく演劇を見るという文化が育っていないという現状に問題があるのであろう。


2001.6.30   18:30
 無限蒸気社「鳳仙花之國」 松山市 総合福祉センター  105分

1年半振りの松山公演ということで大きな期待を胸に椿神社の近くから片ペダルの自転車をこいで会場に向かった。

300人入るホールは開演前にほぼ満員となっていた。この調子なら3回の公演で合計800近い入場者になるのではないかと思われる。舞台上には正面奥一面に旧家の障子戸があり、舞台両端には桟敷のように座布団がしかれただけという凝っているがシンプルな舞台配置であった。両端の桟敷様の場所、一瞬そこにも客を座らせるのかとも考えてしまった(某医学部系の劇団ならきっと座らせるはずだ(笑))。一番前の席が空いていたので、そこに座る。今回の芝居は三部構成であるとのこと。パンフには代表古川さんの言葉に続き各部の説明が書いてあるようだが、とりあえずは読まずに観劇することにした。(とはいえ、2部には何やら家系図のようなものが書かれていて、個人的にかつて一緒の劇団で芝居をしていた三人が出演していたという事もあったのでついつい見てしまったが。)

第1部 終の住処
子どもたちの声が響く中、車椅子に乗った男とそれを押す日傘の女性(母)が登場し会話が始まる。が、男のほうの声はどうやらそでから別の役者が出しているようだ。老女が障子の裏に消え舞台は暗くなる。そこに何人もの黒子たちが登場する。持ってきた箱から2体の人形を持ち、それを操りながら障子の裏へ。三人の黒子(声師)が平たい箱を手に桟敷に座る。そして、その黒子達が台詞をしゃべり始め、目隠しをされた男(夫)と女(母)二人がそれぞれ二人づつの黒子(人形師)に操られるように登場する。夫、妻、母の三人の声は基本的に声師たちが発する事になる。目隠しされた三人は限られた場面以外、言葉を発しない。人形師も声はほとんど出さない。ただし、途中、人形を操っているもの同士というかたちで、小声の会話がなされるシーンがある。このような一種変わった舞台の構成で、それでも表面上は自然な会話を用いて物語が進行する。

一人暮しをしていた母が今は息子夫婦だけが暮らしている生家に戻ってくる。食卓を中心にしてお互いの関係などが語られるが、そのうち、母の様子がおかしくなる。生家に戻った事がきっかけになったのか、長持の中に隠された手毬を探す幼い頃の記憶が幻のように重なり合う。結局息子夫婦は母を老人施設に入所させる事に。そして、母の記憶では息子と嫁であった役者達は共に入所している老人に代わり、それまで登場人物を操っていた人形師の黒子たちは施設に勤める介護者に代わる。介護者に手を取られた母は、老人(自分の夫)の声を聞き、記憶の中の手毬を求めて走る。その手毬を手にし、過去の記憶と共に物語は終了。最後には紙ふぶきが降ってきた。

全体の物語の作りがとても巧妙であった。特に、人形(役者)と黒子の関係が最後には老人と介護者に変わるあたり、明確には表現されない作者の意図を想像させる。そして、役者から一度声と動きの自由を奪う事により演劇という表現の未知の可能性が見えた気がした。役者も、この特殊な世界構築に耐えうるだけの演技力を有していたような気がする。方言を違和感なく使用していた点も面白い。

 

第2部 紅少女
舞台は祭りの準備が進むある家の風景。急遽巫女に選ばれた少女(琴)を中心に進む。1部で使われた長持や箱を使い徐々に祭壇が組まれていく。

琴とその親類や同級生、青年団や高校の教師などの複雑な人間関係が話しの展開と共に少しづつ明らかにされていく。しかし、あくまでも琴を中心とする一部の人間の目を通して語られる関係は全容を明らかにされることなく、かなりの部分は見るものの想像力にゆだねられる。琴と、はとこ(新一)、同級生のかなの関係。琴のいとこの春樹と親類たちの関係。琴のおじ仁志と高校教師(川村)の関係。舞台上にない奥の部屋で起きている出来事。すべてが間接的に表現されている。そして、あくまでも現実的な祭りの準備場面に途中から少しづつ不思議が入り込む。「神」であると思われる、仮面をつけた人物。普通の人間の目には見えないその「神」の出現、そして、その行動は舞台上では明らかにされない人間関係を象徴するかのように不可思議である。

見えないところで進行する出来事や明確にされない人間関係が多用されているため、すべてを把握しようとすると混乱するような舞台である。しかし、一つの部屋を舞台上に表現するという点において、とても自然な感じを受けた。情報の伝達に関しても、廊下を歩き去ったり、写真を使用したりととても計算されているように思われる。

役者には徹底した自然さが求められる舞台だった。一部の役者について違和感を感じたものの、おおむねその要求にこたえられる役者がそろっていた。とても個性的な演技をしながらそれでいて浮く事のない琴役の役者の演技力には圧倒させられるものがあった。

気になった点を上げるとしたら、祭りに対する登場人物達の態度であろうか。急ごしらえという事を強調したいのかあるいは意味形骸化した祭りという位置付けなのかもしれないが、準備があまりにも杜撰な感じがした。全体の緻密さを考えると少し違和感があった。とはいえ、それは全体の世界観を損なうものではなかった。

第3部 NEVER
舞台上は長持を中心にゴミ袋が散乱している。ゴミに混じって黒服を着た役者が佇み、あるいは白布をかぶって転がっている。照明は全体的に暗く、調査団の3人の持つライトで照らされている。
遺跡と化した夢の島?を調査する調査団の話。リーダらしき吉原、その助手にあたる位置の野中、三好の3人を中心に物語は展開する。

ゴミの山の中、棺おけに見たてられた長持から手毬を見つける吉原。その後、吉原の心象が、ホラー的な味付けによって、あるいは遺跡についての講義?や過去の記憶、登場人物の呟きなどの演出的同時多発会話によって表現されていく。

 

見終わった後、物語と空間の圧倒的な強さに頭が半分働かなかった。以前の公演(Ash)のときに受けた衝撃がさらに強くなって伝わってきた。1年半ぶりの松山公演は期待以上のものであった。

一つ残念な事は、上演中、前の入り口から2度も客が出た事である。全体的に暗いシーンであった事もあり、外から入ってきた光は劇の空間を台無しにしてしまっていた。


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